これほど評価が定まらない宗教指導者も珍しいだろう。11月15日に95歳で亡くなった創価学会名誉会長の池田大作氏を巡っては、死後2週間以上が経過した現在も数多くの記事が配信され続けている。だが、生前の池田氏は学会関連以外のメディアにほとんど登場しなかったため、その“素顔”を伝える報道は極めて少ない。そんな池田氏と幼少期から何度となく対面してきたのが、元創価学会本部職員で『宗教二世サバイバルガイド』の著書がある正木伸城氏(42)だ。彼が目にした、等身大の「池田大作」とは。
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【写真】池田氏の“素顔”を明かした正木氏(42) 祖父の代からの学会員家庭に生まれた正木氏。創価学会元理事長の正木正明氏を父に持ち、自身の名付け親が池田大作氏という筋金入りの“ロイヤルファミリー”に育った。正木氏は2017年に創価学会と距離を置くまで、実に250回以上もナマの池田氏を目にしてきたという。その記憶に残る最も古い“師匠”の姿は、35年前にさかのぼる。創価学会を“巨大宗教組織”に育て上げた池田大作氏「私が覚えている池田氏との最初の思い出は、私が6歳くらいだった頃のものです。学会の幹部とその家族が何世帯か集まって池田氏と食事会をしていたんですが、思い出すのはとにかく“面白いおじさんだった”ということばかり。仕事の話はもちろん、小難しい教義の話なども一切なくて、おもちゃをくれたり、いたずらっぽく冗談を言って笑わせたり。そこにいたのは少なくとも“不世出のカリスマ指導者”などではなく、子どもの相手が上手な“親戚のおじさん”でした」 子どもを喜ばせるのが得意なおじさん――。この印象は正木氏が中学から高校までを過ごした「創価学園」においても変わることはなかった。 池田氏は自らが創立者となった創価学園にたびたび姿を現し、学園生らと交流していたことで知られるが、そこで見せる姿も“雲の上の人”とは程遠い印象だったという。寮にこもっている生徒を“突撃訪問”「池田さんが学園に来るのは、生徒たちへの“激励”が目的。要は“勉強頑張れよ”とか“今、何しているんだい?”とか、生徒に声をかけるためということが多かったようです。中学生、高校生ぐらいまでは子どもの側も無邪気ですから、学園を訪れた池田氏に声をかけられても“いや、今ちょうど勉強しようと思ってました!”と気軽に言葉を返す。池田氏もそれに“嘘つけ!今、遊んでたろ!”とツッコんだりして。それから、創価学園でもグレて不良っぽくなってしまう子がときどきいるのですが、池田氏がそういう子に直接話をしに行くこともあったと聞いています。学校に行かず、寮の部屋にこもっている生徒のところへ突撃訪問して、“勉強とかそういうのは必ずしも今頑張る必要はないかもしれない。でも、何か志をもって生きることは大事なことだぞ”“今はそのままで良いけど、将来はお父さんお母さんを泣かせないようにな”とやるんです」 学園ドラマに登場する教師さながらの熱血指導。いかにも生徒から好かれそうな教師を地でいく印象だったが、正木氏自身も、こうした“池田節”の洗礼を受けたことがあったという。「創価高校を卒業して、創価大学に進学した私が、3年生か4年生だった頃のことです。たまたま大学を訪れていた池田氏から“君は結婚とかすんの?”と声をかけられたことがありました。僕が答えに窮していると、池田氏は僕の隣にいた女子学生と僕を見比べて、突然、“なんか、二人付き合ってんの?”と。僕が“いや、付き合ってないです!”と必死になって否定するものだから、池田氏は面白くなったのか、いたずらっぽく“怪しいナァ”と言いながら“二人は結婚しちゃいなよ”なんて笑っているんです」「君、イケメンだねぇ!」 一見すれば、どこにでもいるような教師と生徒のたわいもない雑談。ところが、池田氏といえば創価学会員にとっては「人生の師匠」なのである。少年たちにとって「面白い冗談」に過ぎなかった池田氏の発言も、大学生ともなれば捉え方が変わってくる。「今でこそ池田氏を師と仰ぐ気持ちはありませんが、当時の私は聖教新聞を毎朝穴が開くほど読み込み、『法戦』と位置付けられた公明党の選挙運動にものめり込んでいた熱心な一会員でした。そのころの私にとって、池田氏の言葉は重みが違います。すぐさま父親に電話をして“なんか池田先生から結婚しなさいって言われたんだけど、これ、結婚しなきゃいけないの? やばいんだけど”と慌てて相談したんです。すると父親は“いやいや、池田先生はそういうことをよく言う人だから気にするな”と。冷静に考えれば、池田氏だってまさか本気で結婚させようなんて思っているはずもないし、別に若者をからかっている風でもない。それは、一般の会員に向けた講演などでも時折みられる姿で、巷で“イケメン”という言葉が流行っていた頃は、開口一番、前列の男性を指さして“君、イケメンだねぇ!”“最近、イケメンって言葉が流行ってるんだろう?”などとやる。それで会員たちの緊張は一気にほぐれ会場は大きく沸くのです。池田氏は、目の前の相手が緊張していたり、その場の空気が張り詰めたりしていても、それを敏感に感じ取り、言葉や態度に“緩”“急”をつけて一気に相手を取り込んでしまう。しかもそこに“戦略”や“あざとさ”は感じさせず、本当に自分が楽しんでいる風なのです。私に“結婚しちゃいなよ”と言ったのも、私がよほど緊張していたのが池田氏に伝わっていたのでしょう」 一方、創価大学を卒業後、学会本部に職員として就職した正木氏は、そこで池田氏のもう一つの顔を目にすることになる。何気ない一言を弟子が過剰に解釈「当たり前のことですが、学会本部で職員たちを前にする池田氏は、決して楽しいだけのおじさんではなかった。どちらかというと、厳しくて、時には怒ったりすることもあったと記憶しています。ただ、独裁者のように当たり散らすわけではなく、“傲慢になるな”“会員たちのおかげで自分たちの今の生活があるかを絶対に忘れるな”ということを徹底していた。厳しい中にもスジは通っていたのです。晩年の池田氏もとにかく“それで会員たちが付いて行けるのか”“悲しむ会員が出ないのか”ということを気にし続けていたと聞きますから」 確かに我欲にまみれるだけの指導者であれば、創価学会をここまで巨大な教団に成長させることはできなかったかもしれない。しかし、光あるところに陰あり、である。正木氏の目には池田氏の“負の側面”も映っていた。「学会では、幹部を集めた講演などで池田氏が何かを発言するたびに全員が挙手をしながら“ハイッ!”と返事をする習慣があったんです。まるでナチスドイツの“ハイル・ヒトラー!”のようで、私はこれが本当に苦手でした。幹部たちが池田氏に忖度した結果、生まれた行動なのかもしれませんが、少なくとも私が幼少期から見てきた気さくな池田氏との乖離に、失望すら感じたのをよく覚えています。実は、学会にはこの手の“忖度”が多々あって、何気ない池田氏の一言を弟子が過剰に解釈し、新たな“伝統”が作り出されてしまう。例えば、多くの女性幹部が重要な集会などで着用するパステルカラーのスーツもそう。遠くから見るとお花畑のように見えるこの“ドレスコード”は、かつて池田氏が“女性の服装が地味だ”と指摘したことがきっかけだったといいます。池田氏は“そんなに肩ひじ張った服装じゃなくても”くらいの気持ちだったかもしれませんが、それを聞いた弟子たちは一気にパステルカラーに振り切り、そうすることが正しい伝統かのように錯覚してしまう。このエピソードが象徴するように、彼の“カリスマ”も多分に周囲が作り上げた部分が大きいように思うのです。池田氏にも、自身をカリスマ視しようとする風潮に乗っかってしまった面はあるのでしょう。でも、彼の内実はあくまで“笑いを取るのが上手な、気さくなおじさん”に過ぎなかったのではないでしょうか」デイリー新潮編集部
祖父の代からの学会員家庭に生まれた正木氏。創価学会元理事長の正木正明氏を父に持ち、自身の名付け親が池田大作氏という筋金入りの“ロイヤルファミリー”に育った。正木氏は2017年に創価学会と距離を置くまで、実に250回以上もナマの池田氏を目にしてきたという。その記憶に残る最も古い“師匠”の姿は、35年前にさかのぼる。
「私が覚えている池田氏との最初の思い出は、私が6歳くらいだった頃のものです。学会の幹部とその家族が何世帯か集まって池田氏と食事会をしていたんですが、思い出すのはとにかく“面白いおじさんだった”ということばかり。仕事の話はもちろん、小難しい教義の話なども一切なくて、おもちゃをくれたり、いたずらっぽく冗談を言って笑わせたり。そこにいたのは少なくとも“不世出のカリスマ指導者”などではなく、子どもの相手が上手な“親戚のおじさん”でした」
子どもを喜ばせるのが得意なおじさん――。この印象は正木氏が中学から高校までを過ごした「創価学園」においても変わることはなかった。
池田氏は自らが創立者となった創価学園にたびたび姿を現し、学園生らと交流していたことで知られるが、そこで見せる姿も“雲の上の人”とは程遠い印象だったという。
「池田さんが学園に来るのは、生徒たちへの“激励”が目的。要は“勉強頑張れよ”とか“今、何しているんだい?”とか、生徒に声をかけるためということが多かったようです。中学生、高校生ぐらいまでは子どもの側も無邪気ですから、学園を訪れた池田氏に声をかけられても“いや、今ちょうど勉強しようと思ってました!”と気軽に言葉を返す。池田氏もそれに“嘘つけ!今、遊んでたろ!”とツッコんだりして。それから、創価学園でもグレて不良っぽくなってしまう子がときどきいるのですが、池田氏がそういう子に直接話をしに行くこともあったと聞いています。学校に行かず、寮の部屋にこもっている生徒のところへ突撃訪問して、“勉強とかそういうのは必ずしも今頑張る必要はないかもしれない。でも、何か志をもって生きることは大事なことだぞ”“今はそのままで良いけど、将来はお父さんお母さんを泣かせないようにな”とやるんです」
学園ドラマに登場する教師さながらの熱血指導。いかにも生徒から好かれそうな教師を地でいく印象だったが、正木氏自身も、こうした“池田節”の洗礼を受けたことがあったという。
「創価高校を卒業して、創価大学に進学した私が、3年生か4年生だった頃のことです。たまたま大学を訪れていた池田氏から“君は結婚とかすんの?”と声をかけられたことがありました。僕が答えに窮していると、池田氏は僕の隣にいた女子学生と僕を見比べて、突然、“なんか、二人付き合ってんの?”と。僕が“いや、付き合ってないです!”と必死になって否定するものだから、池田氏は面白くなったのか、いたずらっぽく“怪しいナァ”と言いながら“二人は結婚しちゃいなよ”なんて笑っているんです」
一見すれば、どこにでもいるような教師と生徒のたわいもない雑談。ところが、池田氏といえば創価学会員にとっては「人生の師匠」なのである。少年たちにとって「面白い冗談」に過ぎなかった池田氏の発言も、大学生ともなれば捉え方が変わってくる。
「今でこそ池田氏を師と仰ぐ気持ちはありませんが、当時の私は聖教新聞を毎朝穴が開くほど読み込み、『法戦』と位置付けられた公明党の選挙運動にものめり込んでいた熱心な一会員でした。そのころの私にとって、池田氏の言葉は重みが違います。すぐさま父親に電話をして“なんか池田先生から結婚しなさいって言われたんだけど、これ、結婚しなきゃいけないの? やばいんだけど”と慌てて相談したんです。すると父親は“いやいや、池田先生はそういうことをよく言う人だから気にするな”と。冷静に考えれば、池田氏だってまさか本気で結婚させようなんて思っているはずもないし、別に若者をからかっている風でもない。それは、一般の会員に向けた講演などでも時折みられる姿で、巷で“イケメン”という言葉が流行っていた頃は、開口一番、前列の男性を指さして“君、イケメンだねぇ!”“最近、イケメンって言葉が流行ってるんだろう?”などとやる。それで会員たちの緊張は一気にほぐれ会場は大きく沸くのです。池田氏は、目の前の相手が緊張していたり、その場の空気が張り詰めたりしていても、それを敏感に感じ取り、言葉や態度に“緩”“急”をつけて一気に相手を取り込んでしまう。しかもそこに“戦略”や“あざとさ”は感じさせず、本当に自分が楽しんでいる風なのです。私に“結婚しちゃいなよ”と言ったのも、私がよほど緊張していたのが池田氏に伝わっていたのでしょう」
一方、創価大学を卒業後、学会本部に職員として就職した正木氏は、そこで池田氏のもう一つの顔を目にすることになる。
「当たり前のことですが、学会本部で職員たちを前にする池田氏は、決して楽しいだけのおじさんではなかった。どちらかというと、厳しくて、時には怒ったりすることもあったと記憶しています。ただ、独裁者のように当たり散らすわけではなく、“傲慢になるな”“会員たちのおかげで自分たちの今の生活があるかを絶対に忘れるな”ということを徹底していた。厳しい中にもスジは通っていたのです。晩年の池田氏もとにかく“それで会員たちが付いて行けるのか”“悲しむ会員が出ないのか”ということを気にし続けていたと聞きますから」
確かに我欲にまみれるだけの指導者であれば、創価学会をここまで巨大な教団に成長させることはできなかったかもしれない。しかし、光あるところに陰あり、である。正木氏の目には池田氏の“負の側面”も映っていた。
「学会では、幹部を集めた講演などで池田氏が何かを発言するたびに全員が挙手をしながら“ハイッ!”と返事をする習慣があったんです。まるでナチスドイツの“ハイル・ヒトラー!”のようで、私はこれが本当に苦手でした。幹部たちが池田氏に忖度した結果、生まれた行動なのかもしれませんが、少なくとも私が幼少期から見てきた気さくな池田氏との乖離に、失望すら感じたのをよく覚えています。実は、学会にはこの手の“忖度”が多々あって、何気ない池田氏の一言を弟子が過剰に解釈し、新たな“伝統”が作り出されてしまう。例えば、多くの女性幹部が重要な集会などで着用するパステルカラーのスーツもそう。遠くから見るとお花畑のように見えるこの“ドレスコード”は、かつて池田氏が“女性の服装が地味だ”と指摘したことがきっかけだったといいます。池田氏は“そんなに肩ひじ張った服装じゃなくても”くらいの気持ちだったかもしれませんが、それを聞いた弟子たちは一気にパステルカラーに振り切り、そうすることが正しい伝統かのように錯覚してしまう。このエピソードが象徴するように、彼の“カリスマ”も多分に周囲が作り上げた部分が大きいように思うのです。池田氏にも、自身をカリスマ視しようとする風潮に乗っかってしまった面はあるのでしょう。でも、彼の内実はあくまで“笑いを取るのが上手な、気さくなおじさん”に過ぎなかったのではないでしょうか」
デイリー新潮編集部