表沙汰になりにくいが、男児の性被害は決して少なくない。石丸素介さん(39)も被害者の一人だ。現在でも後遺症に悩まされているという石丸さんが、同様の被害を受けている人たち、そして自分自身のために、「実名・顔出し告発」を決めた。性暴力の実情を長年取材するジャーナリストの秋山千佳氏が徹底取材した。
【画像】小学校時代の石丸素介さんと加害者で担任だった奥田(ネクタイ姿)◆◆◆飲む薬は8種類30錠 その家には日が差さない。 木造アパートの1Kは、南に向いた唯一の窓を隣の建物が塞いでいる。薄暗い室内にベッドを置いて残ったわずかな床は、衣類や弁当の空容器が乱雑に覆っている。
石丸素介が一人で暮らす家だ。現在無職の39歳は早朝に目を覚ますと、6畳の部屋でテレビやスマホを見て過ごす。寝るまでに飲む薬は8種類30錠ほど。今は週1回の通院日以外、部屋の外に出ることはほとんどない。したくてもできない、と言った方が正しい。「PTSDと診断されています。うつ病も併発して、治療が難航するうちに気分の波ができるようになって今は双極性障害になりました」 石丸には、21歳になった2004年の夏に、今の主治医の初診で打ち明けるまで誰にも言えずに抱えてきた“過去”があった。当時のカルテにも記録されている。 それは、小学校時代の男性担任教師による継続的なわいせつ行為だった。 2016年、その元担任が男児へのわいせつ事案で逮捕された。 報道を目にした石丸は、刑事では時効の20年前の自身の性被害について、民事で裁判所へ訴える決意をした。しかし、元担任は石丸へのわいせつ行為を全面的に否認。調停は不成立に終わり、一審は証拠不十分で石丸が敗訴した。 しかし現在進行中の二審では、証人が見つかったことなどから、元担任のこれまでの証言の信憑性が揺らいできている。 石丸は裁判の過程で、こうして戦える自分はまだ恵まれているのではないかと考えた。「日本では、男性の性被害は日の目を見てこなかった。数の割にはカミングアウトできていない人が多いと思います。そういう人たちのために僕の経験を伝えたいし、僕自身も語ることをきっかけに、かつての自分を取り戻したい」 石丸は実名・顔出しで性被害の実情を告発することにした。それが主に記事の前編にあたる。元担任が否定している内容も含まれるが、それについては記事の後編で裁判の経過を追いながら検証していきたい。写真はイメーシ。本文とは関係ありません iStockズボンの隙間から手を 当時の素ちゃんの印象は、利発でハキハキした活発な子、勉強もよくできそうな様子で、運動神経も抜群でした。顔立ちも端正で、きっと、将来は進学校に進学し、その後は立派な社会人になるんだろうなと思っていました(石丸の小学校同級生の保護者による事実聴取報告書より) 杉並区立小学校に通っていた石丸は、入学時からサッカーを続け、同級生と仲良く過ごす少年だった。学校生活が暗転しはじめたのは、3年生の時、他校から教員の奥田達也(仮名)が転任してきてからだ。 当時41歳の奥田に対して、石丸の第一印象は「変わった先生」だった。学校で石丸の所属していたサッカー部の指導に加わったが、過去の勤務校での実績を吹聴するわりに、小学生の目にも競技の知識がないように映った。奥田は指導をめぐる人間関係で揉めて1年ほどの間に部を離れることになるが、その間に石丸にとって一つの事件があった。 石丸が休み時間に同級生と廊下ではしゃいでいた時のことだった。奥田がやってきて、なぜか石丸にだけ騒いだ罰として、相撲の決まり手である「鯖折り」をしたのだ。上からのしかかるように相手の腰を砕く技だ。その危険性から、小中学生の相撲大会では反則技となることが珍しくない。 9歳の石丸は技をかけられて呼吸ができず、後には強烈な苦しさと痛みの記憶が残った。「圧倒的な力の差で、大人の力にはかなわないんだぞと見せつけられたように感じました。最初に暴力によって逆らえないようにされてしまったんです」 石丸は恐怖から、奥田に従順になった。結果、奥田のお気に入りになったようだった。サッカー部で補欠からレギュラーへの昇格が言い渡されたのだ。石丸は後に、実力による評価というより、奥田が立場を利用して力関係を示すためだったのではと考えるようになる。 さほど接触機会があったわけではないサッカー部での1年間だったが、「今思えば、もうコントロールが始まっていたんだと思います」と石丸は振り返る。 4年生になると、奥田が担任になった。大型連休が明けた頃には、毎日のように、学校生活の中で奥田からこう呼び寄せられるようになった。「素介、ちょっとこっち来い」 休み時間、授業中、体育の着替え前後……奥田の手が空く数分間に、その声は降ってきた。 わいせつ行為の始まりだった。 教室の前方中央の教員用机は、相対する児童の席からは足元が見えないようになっている。机で隠れている回転椅子に座る奥田は、石丸を呼び寄せると、背後から抱えるように膝に乗せた。 そして、大腿部から半ズボンの隙間、パンツの下へと手を滑らせ、陰部を触るのだ。 石丸は混乱や恐怖で、無言で体をこわばらせることしかできなかった。 対照的に奥田は、他の児童が同じ空間にいるのに平然としていた。石丸の陰部を触っている間も、他の児童に「宿題やってきたか?」などと声をかけることがあった。石丸は言う。「下半身が見えていない他の子からしたら、おかしなスキンシップには見えなかったかもしれません。石丸は先生と仲がいいな、くらいに捉えられていただろうと思います。仲がいいというか、まあ、先生のペットみたいなものだと」 石丸が抵抗できないのを見て取った奥田は、次第に声かけさえすることなく、無言で腕を引いて教員用机の向こうへ連れていくことが増えていった。 4年生の間に、さらなるわいせつ行為が加わった。「今も毛深い人を見ると鳥肌が立ちます」 奥田は終業までにこう言ってくる日があった。「今日はお前の家まで送っていくよ。サッカーが終わったら教室に来なさい」 サッカー部の練習は夏なら午後6時、冬は5時頃までだった。練習を終えて教室へ行くと、教員用机の周りだけ電気をつけて奥田が待っていた。他には誰もいない。他の教職員が通りかかることもなかった。 奥田は「成長はどうなっているかな」と言いながら、石丸の服を脱がせた。最初は下着を残して、後には全裸にされたこともあった。 最初にこうされた時、石丸は手を振りほどこうとした。必死の抵抗だった。しかし腕を強く掴まれると、恐怖と諦めからそれ以上力が入らなくなってしまった。 奥田は服を脱がせると石丸を抱きしめ、「素介はいい子だ。素直に言うことを聞くいい子だ」と言いながら陰部をまさぐった。 時間にして10分から数十分ほど一方的に弄ぶと、奥田は小学校から700メートル先の石丸の自宅まで車で送っていった。 こうした呼び出しは、週に数回のこともあれば、数カ月間空くこともあった。回数を重ねるにつれ、奥田は大胆になり、自身も全裸になることがあった。裸になった奥田は、椅子に座り、服を脱がせた石丸を相対する形で膝に乗せて抱きしめた。そして体中を撫で回した。「奥田はとても毛深くて、肌が触れると歯ブラシかたわしのようでした。その記憶のせいで今も毛深い人を見ると鳥肌が立ちます。そして、勃起したものが当たってゴツゴツする感触も。なぜその時抵抗できなかったのかなと今でも思いますけど……」 4年生の石丸は、勃起が興奮による現象であることは知っていたが、こうした行為の意味はよくわからなかった。ただ本能的に「イヤだ」と感じていた。 なぜその時抵抗できなかったか、という自問に、石丸は二つの理由を思い浮かべる。 一つは、担任としての奥田の威圧的言動だ。 奥田は、遅刻したり教科書を忘れたりした男子には「もみじ」と称する罰を与えた。児童の背中をさらけ出させて、手のひらの跡が紅葉のようにつくほど強く叩くものだ。石丸はこれをされたことがなかったが、他の男子はパチンと大きな音が響くほど強打されていた。時には顔面を平手打ちにされる男子もいた。 こうした体罰を日常的に目の当たりにすることが、石丸を萎縮させていた。 さらに奥田の意に沿わない男子には、言葉による嫌がらせがあった。 もみじを何度も受けていた一人が、教育委員会に言うぞと反抗したことがあった。しかし奥田は「言えるなら言ってみろ。言っても無駄だぞ」と見くびったように返した。その後も「お前はなんでそんなバカなことを思いつくんだ」などと皆の前で執拗に責めた。 普段から体罰の対象になっていた別の男子がホームルーム中におもらしをした時には、奥田が「おちょねんパンパース」というあだ名を付けた。 今の石丸はこう分析する。「えこひいきが激しくて、ちょっとでも奥田に反抗の色を見せる子や好きじゃない子には体罰や悪口が待っていました。子どもながらに自分を持っている子に対してきつかった気がしますね。僕は早々に自我を折られた“いい子”だったから、手を上げる必要もなかったのでしょう。何でも聞くロボットみたいになっちゃって、やりたい放題させてしまった」 後年、石丸のこの人格を主治医は「空っぽの優等生」と表現することになる。 そして石丸が奥田に抵抗できなかったもう一つの理由に、家庭環境の問題がある。「うるさくない親だから」 3年生の頃、父親のギャンブル依存症によって家庭の経済状況が悪化し、専業主婦だった母親の厚子が働きに出るようになっていた。4~6年生にかけて、両親とも常にイライラして子どもに関心を向ける余裕がない状態が続いた。 石丸はわいせつ行為を受け始めた直後から、厚子にたびたび「学校に行きたくない」と伝えていた。ただ、理由を問われるとうまく説明できなかった。忙しい厚子はそれ以上掘り下げて聞くことはなかった。「僕が奥田に狙われた理由も、うるさくない親だから、ということにあったと思います」 親にも言えず、教育委員会に言っても無駄だと刷り込まれた石丸は、自力で被害を回避する方法を模索した。サッカーの練習や試合では、わざと捻挫などのケガをした。病院へ行くために学校を休んだり、膝の上に乗せられる時に「痛い」と言ったりするためだった。実際に痛がったことで奥田の手が止まったこともあったのだ。そのため、石丸は絶えずケガをするようにし、奥田から「ケガ丸」というあだ名を付けられたほどだった。 半ズボンでなくハーフパンツをはくことで防御を試みたこともあった。しかしこれは失敗に終わった。奥田が怒り、クラスの皆の前で「石丸がはいているようなハーフパンツはダサい。ステテコパンツだ」と罵ったのだ。「いじめのターゲットになったような気分でした。これで逆らえなくされちゃうんです」 厚子は、当時の素介が「先生に半ズボンをはいてくるように言われた」と語ったことを覚えている。厚子はその言葉に引っかかりを覚えたものの、不審とまでは思わなかった。 奥田は男子に威圧的な面がある一方で、アメとムチを使い分けるようなところがあった。しばしば休日に男子数人を自宅に招き、昼食を振る舞い、そのままドライブに連れていくことがあったのだ。石丸も何度か他の男子とともに呼ばれたが、こうした機会にわいせつ行為を振るわれたことはなかった。「あくまで児童と仲良くするのが目的だったんじゃないかとは思います。ただその一部に僕のようなわいせつの対象がいて、他の子がカモフラージュになっていた。狡猾ですよね」 石丸は4年生の5月頃、最初に奥田の自宅へ行った時のことが最も印象に残っているという。 その日、もう一人のサッカー部の男子とともに招かれた石丸は、奥田の自宅で焼き肉を食べた。一人暮らしだという奥田が用意していたものだ。帰り道、自宅まで送られる車中で、石丸は吐いた。迎えに出た厚子が奥田に頭を下げる様子をぼんやり眺める石丸には、車酔いとは違うという感覚があった。「ちょうどわいせつ行為が始まった時期だったんです。その頃からです。食欲がなくなって、しょっちゅう吐き気が起こり、無理に食べると吐いてしまうようになったのは」 性被害によって石丸の身に最初に生じた異変が、この“嘔吐”だった。学校では授業を受けていても吐き気に気を取られるようになり、給食にはほとんど手を付けなかった。奥田が近くにいて精神的圧迫を感じる時に顕著だったが、安全なはずの自宅での食事でも流し込むような食べ方になった。そしてよく吐いた。この症状は後々まで続くことになる。◆本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。(ジャーナリスト・秋山千佳氏による連載「ルポ男児の性被害」第1回)(秋山 千佳/文藝春秋 電子版オリジナル)
◆◆◆
その家には日が差さない。
木造アパートの1Kは、南に向いた唯一の窓を隣の建物が塞いでいる。薄暗い室内にベッドを置いて残ったわずかな床は、衣類や弁当の空容器が乱雑に覆っている。
石丸素介が一人で暮らす家だ。現在無職の39歳は早朝に目を覚ますと、6畳の部屋でテレビやスマホを見て過ごす。寝るまでに飲む薬は8種類30錠ほど。今は週1回の通院日以外、部屋の外に出ることはほとんどない。したくてもできない、と言った方が正しい。
「PTSDと診断されています。うつ病も併発して、治療が難航するうちに気分の波ができるようになって今は双極性障害になりました」
石丸には、21歳になった2004年の夏に、今の主治医の初診で打ち明けるまで誰にも言えずに抱えてきた“過去”があった。当時のカルテにも記録されている。
それは、小学校時代の男性担任教師による継続的なわいせつ行為だった。
2016年、その元担任が男児へのわいせつ事案で逮捕された。
報道を目にした石丸は、刑事では時効の20年前の自身の性被害について、民事で裁判所へ訴える決意をした。しかし、元担任は石丸へのわいせつ行為を全面的に否認。調停は不成立に終わり、一審は証拠不十分で石丸が敗訴した。
しかし現在進行中の二審では、証人が見つかったことなどから、元担任のこれまでの証言の信憑性が揺らいできている。
石丸は裁判の過程で、こうして戦える自分はまだ恵まれているのではないかと考えた。
「日本では、男性の性被害は日の目を見てこなかった。数の割にはカミングアウトできていない人が多いと思います。そういう人たちのために僕の経験を伝えたいし、僕自身も語ることをきっかけに、かつての自分を取り戻したい」
石丸は実名・顔出しで性被害の実情を告発することにした。それが主に記事の前編にあたる。元担任が否定している内容も含まれるが、それについては記事の後編で裁判の経過を追いながら検証していきたい。
写真はイメーシ。本文とは関係ありません iStock
当時の素ちゃんの印象は、利発でハキハキした活発な子、勉強もよくできそうな様子で、運動神経も抜群でした。顔立ちも端正で、きっと、将来は進学校に進学し、その後は立派な社会人になるんだろうなと思っていました(石丸の小学校同級生の保護者による事実聴取報告書より)
杉並区立小学校に通っていた石丸は、入学時からサッカーを続け、同級生と仲良く過ごす少年だった。学校生活が暗転しはじめたのは、3年生の時、他校から教員の奥田達也(仮名)が転任してきてからだ。
当時41歳の奥田に対して、石丸の第一印象は「変わった先生」だった。学校で石丸の所属していたサッカー部の指導に加わったが、過去の勤務校での実績を吹聴するわりに、小学生の目にも競技の知識がないように映った。奥田は指導をめぐる人間関係で揉めて1年ほどの間に部を離れることになるが、その間に石丸にとって一つの事件があった。
石丸が休み時間に同級生と廊下ではしゃいでいた時のことだった。奥田がやってきて、なぜか石丸にだけ騒いだ罰として、相撲の決まり手である「鯖折り」をしたのだ。上からのしかかるように相手の腰を砕く技だ。その危険性から、小中学生の相撲大会では反則技となることが珍しくない。
9歳の石丸は技をかけられて呼吸ができず、後には強烈な苦しさと痛みの記憶が残った。
「圧倒的な力の差で、大人の力にはかなわないんだぞと見せつけられたように感じました。最初に暴力によって逆らえないようにされてしまったんです」
石丸は恐怖から、奥田に従順になった。結果、奥田のお気に入りになったようだった。サッカー部で補欠からレギュラーへの昇格が言い渡されたのだ。石丸は後に、実力による評価というより、奥田が立場を利用して力関係を示すためだったのではと考えるようになる。
さほど接触機会があったわけではないサッカー部での1年間だったが、「今思えば、もうコントロールが始まっていたんだと思います」と石丸は振り返る。
4年生になると、奥田が担任になった。大型連休が明けた頃には、毎日のように、学校生活の中で奥田からこう呼び寄せられるようになった。
「素介、ちょっとこっち来い」
休み時間、授業中、体育の着替え前後……奥田の手が空く数分間に、その声は降ってきた。
わいせつ行為の始まりだった。
教室の前方中央の教員用机は、相対する児童の席からは足元が見えないようになっている。机で隠れている回転椅子に座る奥田は、石丸を呼び寄せると、背後から抱えるように膝に乗せた。
そして、大腿部から半ズボンの隙間、パンツの下へと手を滑らせ、陰部を触るのだ。
石丸は混乱や恐怖で、無言で体をこわばらせることしかできなかった。
対照的に奥田は、他の児童が同じ空間にいるのに平然としていた。石丸の陰部を触っている間も、他の児童に「宿題やってきたか?」などと声をかけることがあった。石丸は言う。
「下半身が見えていない他の子からしたら、おかしなスキンシップには見えなかったかもしれません。石丸は先生と仲がいいな、くらいに捉えられていただろうと思います。仲がいいというか、まあ、先生のペットみたいなものだと」
石丸が抵抗できないのを見て取った奥田は、次第に声かけさえすることなく、無言で腕を引いて教員用机の向こうへ連れていくことが増えていった。
4年生の間に、さらなるわいせつ行為が加わった。
「今も毛深い人を見ると鳥肌が立ちます」 奥田は終業までにこう言ってくる日があった。「今日はお前の家まで送っていくよ。サッカーが終わったら教室に来なさい」 サッカー部の練習は夏なら午後6時、冬は5時頃までだった。練習を終えて教室へ行くと、教員用机の周りだけ電気をつけて奥田が待っていた。他には誰もいない。他の教職員が通りかかることもなかった。 奥田は「成長はどうなっているかな」と言いながら、石丸の服を脱がせた。最初は下着を残して、後には全裸にされたこともあった。 最初にこうされた時、石丸は手を振りほどこうとした。必死の抵抗だった。しかし腕を強く掴まれると、恐怖と諦めからそれ以上力が入らなくなってしまった。 奥田は服を脱がせると石丸を抱きしめ、「素介はいい子だ。素直に言うことを聞くいい子だ」と言いながら陰部をまさぐった。 時間にして10分から数十分ほど一方的に弄ぶと、奥田は小学校から700メートル先の石丸の自宅まで車で送っていった。 こうした呼び出しは、週に数回のこともあれば、数カ月間空くこともあった。回数を重ねるにつれ、奥田は大胆になり、自身も全裸になることがあった。裸になった奥田は、椅子に座り、服を脱がせた石丸を相対する形で膝に乗せて抱きしめた。そして体中を撫で回した。「奥田はとても毛深くて、肌が触れると歯ブラシかたわしのようでした。その記憶のせいで今も毛深い人を見ると鳥肌が立ちます。そして、勃起したものが当たってゴツゴツする感触も。なぜその時抵抗できなかったのかなと今でも思いますけど……」 4年生の石丸は、勃起が興奮による現象であることは知っていたが、こうした行為の意味はよくわからなかった。ただ本能的に「イヤだ」と感じていた。 なぜその時抵抗できなかったか、という自問に、石丸は二つの理由を思い浮かべる。 一つは、担任としての奥田の威圧的言動だ。 奥田は、遅刻したり教科書を忘れたりした男子には「もみじ」と称する罰を与えた。児童の背中をさらけ出させて、手のひらの跡が紅葉のようにつくほど強く叩くものだ。石丸はこれをされたことがなかったが、他の男子はパチンと大きな音が響くほど強打されていた。時には顔面を平手打ちにされる男子もいた。 こうした体罰を日常的に目の当たりにすることが、石丸を萎縮させていた。 さらに奥田の意に沿わない男子には、言葉による嫌がらせがあった。 もみじを何度も受けていた一人が、教育委員会に言うぞと反抗したことがあった。しかし奥田は「言えるなら言ってみろ。言っても無駄だぞ」と見くびったように返した。その後も「お前はなんでそんなバカなことを思いつくんだ」などと皆の前で執拗に責めた。 普段から体罰の対象になっていた別の男子がホームルーム中におもらしをした時には、奥田が「おちょねんパンパース」というあだ名を付けた。 今の石丸はこう分析する。「えこひいきが激しくて、ちょっとでも奥田に反抗の色を見せる子や好きじゃない子には体罰や悪口が待っていました。子どもながらに自分を持っている子に対してきつかった気がしますね。僕は早々に自我を折られた“いい子”だったから、手を上げる必要もなかったのでしょう。何でも聞くロボットみたいになっちゃって、やりたい放題させてしまった」 後年、石丸のこの人格を主治医は「空っぽの優等生」と表現することになる。 そして石丸が奥田に抵抗できなかったもう一つの理由に、家庭環境の問題がある。「うるさくない親だから」 3年生の頃、父親のギャンブル依存症によって家庭の経済状況が悪化し、専業主婦だった母親の厚子が働きに出るようになっていた。4~6年生にかけて、両親とも常にイライラして子どもに関心を向ける余裕がない状態が続いた。 石丸はわいせつ行為を受け始めた直後から、厚子にたびたび「学校に行きたくない」と伝えていた。ただ、理由を問われるとうまく説明できなかった。忙しい厚子はそれ以上掘り下げて聞くことはなかった。「僕が奥田に狙われた理由も、うるさくない親だから、ということにあったと思います」 親にも言えず、教育委員会に言っても無駄だと刷り込まれた石丸は、自力で被害を回避する方法を模索した。サッカーの練習や試合では、わざと捻挫などのケガをした。病院へ行くために学校を休んだり、膝の上に乗せられる時に「痛い」と言ったりするためだった。実際に痛がったことで奥田の手が止まったこともあったのだ。そのため、石丸は絶えずケガをするようにし、奥田から「ケガ丸」というあだ名を付けられたほどだった。 半ズボンでなくハーフパンツをはくことで防御を試みたこともあった。しかしこれは失敗に終わった。奥田が怒り、クラスの皆の前で「石丸がはいているようなハーフパンツはダサい。ステテコパンツだ」と罵ったのだ。「いじめのターゲットになったような気分でした。これで逆らえなくされちゃうんです」 厚子は、当時の素介が「先生に半ズボンをはいてくるように言われた」と語ったことを覚えている。厚子はその言葉に引っかかりを覚えたものの、不審とまでは思わなかった。 奥田は男子に威圧的な面がある一方で、アメとムチを使い分けるようなところがあった。しばしば休日に男子数人を自宅に招き、昼食を振る舞い、そのままドライブに連れていくことがあったのだ。石丸も何度か他の男子とともに呼ばれたが、こうした機会にわいせつ行為を振るわれたことはなかった。「あくまで児童と仲良くするのが目的だったんじゃないかとは思います。ただその一部に僕のようなわいせつの対象がいて、他の子がカモフラージュになっていた。狡猾ですよね」 石丸は4年生の5月頃、最初に奥田の自宅へ行った時のことが最も印象に残っているという。 その日、もう一人のサッカー部の男子とともに招かれた石丸は、奥田の自宅で焼き肉を食べた。一人暮らしだという奥田が用意していたものだ。帰り道、自宅まで送られる車中で、石丸は吐いた。迎えに出た厚子が奥田に頭を下げる様子をぼんやり眺める石丸には、車酔いとは違うという感覚があった。「ちょうどわいせつ行為が始まった時期だったんです。その頃からです。食欲がなくなって、しょっちゅう吐き気が起こり、無理に食べると吐いてしまうようになったのは」 性被害によって石丸の身に最初に生じた異変が、この“嘔吐”だった。学校では授業を受けていても吐き気に気を取られるようになり、給食にはほとんど手を付けなかった。奥田が近くにいて精神的圧迫を感じる時に顕著だったが、安全なはずの自宅での食事でも流し込むような食べ方になった。そしてよく吐いた。この症状は後々まで続くことになる。◆本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。(ジャーナリスト・秋山千佳氏による連載「ルポ男児の性被害」第1回)(秋山 千佳/文藝春秋 電子版オリジナル)
奥田は終業までにこう言ってくる日があった。
「今日はお前の家まで送っていくよ。サッカーが終わったら教室に来なさい」
サッカー部の練習は夏なら午後6時、冬は5時頃までだった。練習を終えて教室へ行くと、教員用机の周りだけ電気をつけて奥田が待っていた。他には誰もいない。他の教職員が通りかかることもなかった。
奥田は「成長はどうなっているかな」と言いながら、石丸の服を脱がせた。最初は下着を残して、後には全裸にされたこともあった。
最初にこうされた時、石丸は手を振りほどこうとした。必死の抵抗だった。しかし腕を強く掴まれると、恐怖と諦めからそれ以上力が入らなくなってしまった。
奥田は服を脱がせると石丸を抱きしめ、「素介はいい子だ。素直に言うことを聞くいい子だ」と言いながら陰部をまさぐった。
時間にして10分から数十分ほど一方的に弄ぶと、奥田は小学校から700メートル先の石丸の自宅まで車で送っていった。
こうした呼び出しは、週に数回のこともあれば、数カ月間空くこともあった。回数を重ねるにつれ、奥田は大胆になり、自身も全裸になることがあった。裸になった奥田は、椅子に座り、服を脱がせた石丸を相対する形で膝に乗せて抱きしめた。そして体中を撫で回した。
「奥田はとても毛深くて、肌が触れると歯ブラシかたわしのようでした。その記憶のせいで今も毛深い人を見ると鳥肌が立ちます。そして、勃起したものが当たってゴツゴツする感触も。なぜその時抵抗できなかったのかなと今でも思いますけど……」
4年生の石丸は、勃起が興奮による現象であることは知っていたが、こうした行為の意味はよくわからなかった。ただ本能的に「イヤだ」と感じていた。
なぜその時抵抗できなかったか、という自問に、石丸は二つの理由を思い浮かべる。
一つは、担任としての奥田の威圧的言動だ。
奥田は、遅刻したり教科書を忘れたりした男子には「もみじ」と称する罰を与えた。児童の背中をさらけ出させて、手のひらの跡が紅葉のようにつくほど強く叩くものだ。石丸はこれをされたことがなかったが、他の男子はパチンと大きな音が響くほど強打されていた。時には顔面を平手打ちにされる男子もいた。
こうした体罰を日常的に目の当たりにすることが、石丸を萎縮させていた。
さらに奥田の意に沿わない男子には、言葉による嫌がらせがあった。
もみじを何度も受けていた一人が、教育委員会に言うぞと反抗したことがあった。しかし奥田は「言えるなら言ってみろ。言っても無駄だぞ」と見くびったように返した。その後も「お前はなんでそんなバカなことを思いつくんだ」などと皆の前で執拗に責めた。
普段から体罰の対象になっていた別の男子がホームルーム中におもらしをした時には、奥田が「おちょねんパンパース」というあだ名を付けた。
今の石丸はこう分析する。
「えこひいきが激しくて、ちょっとでも奥田に反抗の色を見せる子や好きじゃない子には体罰や悪口が待っていました。子どもながらに自分を持っている子に対してきつかった気がしますね。僕は早々に自我を折られた“いい子”だったから、手を上げる必要もなかったのでしょう。何でも聞くロボットみたいになっちゃって、やりたい放題させてしまった」
後年、石丸のこの人格を主治医は「空っぽの優等生」と表現することになる。
そして石丸が奥田に抵抗できなかったもう一つの理由に、家庭環境の問題がある。
「うるさくない親だから」 3年生の頃、父親のギャンブル依存症によって家庭の経済状況が悪化し、専業主婦だった母親の厚子が働きに出るようになっていた。4~6年生にかけて、両親とも常にイライラして子どもに関心を向ける余裕がない状態が続いた。 石丸はわいせつ行為を受け始めた直後から、厚子にたびたび「学校に行きたくない」と伝えていた。ただ、理由を問われるとうまく説明できなかった。忙しい厚子はそれ以上掘り下げて聞くことはなかった。「僕が奥田に狙われた理由も、うるさくない親だから、ということにあったと思います」 親にも言えず、教育委員会に言っても無駄だと刷り込まれた石丸は、自力で被害を回避する方法を模索した。サッカーの練習や試合では、わざと捻挫などのケガをした。病院へ行くために学校を休んだり、膝の上に乗せられる時に「痛い」と言ったりするためだった。実際に痛がったことで奥田の手が止まったこともあったのだ。そのため、石丸は絶えずケガをするようにし、奥田から「ケガ丸」というあだ名を付けられたほどだった。 半ズボンでなくハーフパンツをはくことで防御を試みたこともあった。しかしこれは失敗に終わった。奥田が怒り、クラスの皆の前で「石丸がはいているようなハーフパンツはダサい。ステテコパンツだ」と罵ったのだ。「いじめのターゲットになったような気分でした。これで逆らえなくされちゃうんです」 厚子は、当時の素介が「先生に半ズボンをはいてくるように言われた」と語ったことを覚えている。厚子はその言葉に引っかかりを覚えたものの、不審とまでは思わなかった。 奥田は男子に威圧的な面がある一方で、アメとムチを使い分けるようなところがあった。しばしば休日に男子数人を自宅に招き、昼食を振る舞い、そのままドライブに連れていくことがあったのだ。石丸も何度か他の男子とともに呼ばれたが、こうした機会にわいせつ行為を振るわれたことはなかった。「あくまで児童と仲良くするのが目的だったんじゃないかとは思います。ただその一部に僕のようなわいせつの対象がいて、他の子がカモフラージュになっていた。狡猾ですよね」 石丸は4年生の5月頃、最初に奥田の自宅へ行った時のことが最も印象に残っているという。 その日、もう一人のサッカー部の男子とともに招かれた石丸は、奥田の自宅で焼き肉を食べた。一人暮らしだという奥田が用意していたものだ。帰り道、自宅まで送られる車中で、石丸は吐いた。迎えに出た厚子が奥田に頭を下げる様子をぼんやり眺める石丸には、車酔いとは違うという感覚があった。「ちょうどわいせつ行為が始まった時期だったんです。その頃からです。食欲がなくなって、しょっちゅう吐き気が起こり、無理に食べると吐いてしまうようになったのは」 性被害によって石丸の身に最初に生じた異変が、この“嘔吐”だった。学校では授業を受けていても吐き気に気を取られるようになり、給食にはほとんど手を付けなかった。奥田が近くにいて精神的圧迫を感じる時に顕著だったが、安全なはずの自宅での食事でも流し込むような食べ方になった。そしてよく吐いた。この症状は後々まで続くことになる。◆本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。(ジャーナリスト・秋山千佳氏による連載「ルポ男児の性被害」第1回)(秋山 千佳/文藝春秋 電子版オリジナル)
3年生の頃、父親のギャンブル依存症によって家庭の経済状況が悪化し、専業主婦だった母親の厚子が働きに出るようになっていた。4~6年生にかけて、両親とも常にイライラして子どもに関心を向ける余裕がない状態が続いた。
石丸はわいせつ行為を受け始めた直後から、厚子にたびたび「学校に行きたくない」と伝えていた。ただ、理由を問われるとうまく説明できなかった。忙しい厚子はそれ以上掘り下げて聞くことはなかった。
「僕が奥田に狙われた理由も、うるさくない親だから、ということにあったと思います」
親にも言えず、教育委員会に言っても無駄だと刷り込まれた石丸は、自力で被害を回避する方法を模索した。サッカーの練習や試合では、わざと捻挫などのケガをした。病院へ行くために学校を休んだり、膝の上に乗せられる時に「痛い」と言ったりするためだった。実際に痛がったことで奥田の手が止まったこともあったのだ。そのため、石丸は絶えずケガをするようにし、奥田から「ケガ丸」というあだ名を付けられたほどだった。
半ズボンでなくハーフパンツをはくことで防御を試みたこともあった。しかしこれは失敗に終わった。奥田が怒り、クラスの皆の前で「石丸がはいているようなハーフパンツはダサい。ステテコパンツだ」と罵ったのだ。
「いじめのターゲットになったような気分でした。これで逆らえなくされちゃうんです」
厚子は、当時の素介が「先生に半ズボンをはいてくるように言われた」と語ったことを覚えている。厚子はその言葉に引っかかりを覚えたものの、不審とまでは思わなかった。
奥田は男子に威圧的な面がある一方で、アメとムチを使い分けるようなところがあった。しばしば休日に男子数人を自宅に招き、昼食を振る舞い、そのままドライブに連れていくことがあったのだ。石丸も何度か他の男子とともに呼ばれたが、こうした機会にわいせつ行為を振るわれたことはなかった。
「あくまで児童と仲良くするのが目的だったんじゃないかとは思います。ただその一部に僕のようなわいせつの対象がいて、他の子がカモフラージュになっていた。狡猾ですよね」
石丸は4年生の5月頃、最初に奥田の自宅へ行った時のことが最も印象に残っているという。
その日、もう一人のサッカー部の男子とともに招かれた石丸は、奥田の自宅で焼き肉を食べた。一人暮らしだという奥田が用意していたものだ。帰り道、自宅まで送られる車中で、石丸は吐いた。迎えに出た厚子が奥田に頭を下げる様子をぼんやり眺める石丸には、車酔いとは違うという感覚があった。
「ちょうどわいせつ行為が始まった時期だったんです。その頃からです。食欲がなくなって、しょっちゅう吐き気が起こり、無理に食べると吐いてしまうようになったのは」
性被害によって石丸の身に最初に生じた異変が、この“嘔吐”だった。学校では授業を受けていても吐き気に気を取られるようになり、給食にはほとんど手を付けなかった。奥田が近くにいて精神的圧迫を感じる時に顕著だったが、安全なはずの自宅での食事でも流し込むような食べ方になった。そしてよく吐いた。この症状は後々まで続くことになる。
◆
本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。(ジャーナリスト・秋山千佳氏による連載「ルポ男児の性被害」第1回)
(秋山 千佳/文藝春秋 電子版オリジナル)