コロナ禍により進んだ「テレワーク」だったが、最近では方針転換する企業も多く、オフィス回帰の動きが強まっている。従業員の管理がしやすいなどの理由でオフィス勤務に戻したい企業と、ワークライフバランスの充実などの理由でテレワークを続けたい従業員のせめぎ合いがしばらく続きそうだ。
ある日突然テレワーク終了を通達された会社員の事例をもとに、社会保険労務士の木村政美氏が解説する。
「えっ、そんなバカな!」
8月上旬月曜日の朝。自宅でパソコンを開いたA上さん(40歳・総務課長、仮名=以下同)は、全社員向けに社長名で発信されたメールを読み驚いた。その理由は、メール添付されていた文書に「9月1日をもってテレワークを終了し、9月3日から全社員オフィス勤務に切り替える」と記されていたからだ。
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甲社(卸売業・従業員数200名)は新型コロナの感染拡大を防止する目的で、2021年1月から内勤者に対して原則完全テレワークを導入し、総務課(メンバー数10名)もその対象になった。A上さんは都内の会社から電車で20分の場所にある自分の実家で、両親と妻、小学生の子供1人の5人家族で暮らしていたが、妻と両親の折り合いが悪く、A上さん自身もゆくゆくは実家を離れ、郊外の自然豊かな場所で暮らしたいと考えていた。
そしてテレワークが軌道に乗った2021年4月、知人の紹介で会社から片道3時間の場所にある一軒家を購入。近くには山や川があり、自然に囲まれた環境で一家3人がのびのびと生活を謳歌していた。
文書を読んだA上さんは、すぐにB下専務(50歳・人事・労務管理の責任者)に電話で訴えた。
「9月からテレワークを止めるそうですが、今までそんな話聞いてないし、急に言われても困ります。何とかテレワークを続けることはできないでしょうか?」
A上さんの切羽詰まった声を聞いたB下専務は不思議そうに尋ねた。
「A上課長、オフィス勤務に戻したら何か困ることでもあるのかな?」「実は2年ちょっと前、自宅を購入し引っ越したんですが、会社までは片道3時間かかるので通勤できません」
A上さんは更に言葉を畳みかけた。
「総務課の業務はテレワークでも上手く回っているのに、今更オフィスに戻さなくてもいいと思いますが……」
しかし、B下専務は意外なことを口にした。
「テレワークがいいと思っているのは君だけで、君の部下たちは全員出社希望だよ」
B下専務の話によると、部下たちは、テレワーク導入後かなり不便さを感じていたようなのだ。その原因は、日々他部署や取引先など外部からの問い合わせに応じる件数が多いので、メンバー間での協力が必要だが、テレワークではとっさのヘルプが難しいことと、上司であるA上さんにチャット等で問い合わせをしても返答が遅いなど業務が滞ることが多いので、効率が悪いからだという。
理由を聞かされたA上さんは、確かにチャットでの質問が立て続けに来ると、返答が遅れがちだったのは認めたが、それで業務に穴があいたとは思えなかった。部下たちはA上さんに度々仕事がやりにくいとこぼしていたが、A上さんはテレワーク環境に満足していたのでほとんど取り合わなかった。
「君が部下たちの面倒をみないから、不満が私のところに来たってわけ。おまけに他部署や取引先からも『総務の仕事が遅い』と苦情が来ているので困るよ」「しかし……」「君はテレワークが継続されると勝手に解釈して通勤不可能な場所に自宅を購入したみたいだね。家庭事情はよくわかったが一人だけ特別扱いはできない。これは業務命令だから9月3日から出勤よろしく頼むよ」
その日の夜、A上さんは妻に業務命令で9月からオフィス勤務に戻ることを話した。妻は驚き、尋ねた。
「ここから会社までは片道3時間かかるのに、どうやって通勤するつもり?」「通勤は無理だよ。この家は手放して通勤できる場所に引っ越すしかない」「子供は毎日学校に楽しく通ってるし、また転校させるのはかわいそう。私もここの生活が気に入ってるし困ったわ」「じゃあ、俺が単身赴任して家族がバラバラになってもいいのか!」「そんなこと言ってない。でも家がすぐに売れるとは思えない。それまで家のローンと新しく家を借りるお金の両方を工面するのは、今のウチの家計では無理」「家が売れるまで一旦実家に戻ろう。そうすれば賃貸の家賃はタダで済む」「冗談じゃない!あなたの両親とまた一緒に暮らすなんてまっぴらゴメンだわ。実家で暮らすならあなた一人で戻って。私と子供はここに残ります」
翌日、A上さんは再びB下専務に、部下や他部署、取引先に迷惑をかけないようにするので、テレワークを継続できるよう電話で懇願したが、B下専務は「無理だ」と突っぱね、更に続けた。
「もともとウチの社員はオフィスで仕事をするのが基本だよ。テレワーク契約の社員は1人もいない。テレワークは新型コロナの感染を防ぐために、一時的に行ったことで継続するつもりはない。就業規則にも「状況が戻ればテレワークは終了する」って書いてあるでしょ?」
それでもA上さんが食い下がるので、
「業務命令を拒否するのなら、懲戒処分もやむをえない」
とB下専務は言い放った。懲戒処分と聞いたA上さんは頭を抱えた。
* * *
A上さんにとってテレワーク廃止は気の毒だが、もともとは新型コロナ感染を防止する目的で会社が発した業務命令によるものであること、就業規則に「状況によりテレワークを中止する」旨の記載があることなどを考えると、出社の必要性や合理性があると判断できる。
会社がテレワークを続けるだろうという希望的観測のもとで生活環境を変えるのには注意が必要だろう。
後編記事〈いきなりテレワーク終了と言われても…「オフィスに戻したい会社」「戻りたくない社員」それぞれの思惑〉では、現在のテレワークの実施状況や、どのような場合に企業が従業員にテレワークを終了し出社するよう業務命令を下せるのか、A上さんのその後などをお伝えする。