おそるべきノルマ、宗教グループよろしくな狂気の決起集会、女性社会特有のセクハラ発言に男性上司からの高圧パワハラ……。洗練された大人な女性保険外交員に憧れ、保険会社に就職した女性が目にした保険業界の実態とは。
【写真】この記事の写真を見る(2枚) ここでは、忍足みかん氏の著書『気がつけば生保レディで地獄みた。』(古書みつけ)の一部を抜粋。営業先で経験した、信じられない男性の言動を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

AFLO◆◆◆きびしいノルマに耐えかね100均で買った皿を毎朝割ってから出勤する日々 1円にもならないサービス残業を終えて家に帰るが、常にマスター(編集部注:新人育成係)や職場の誰かがいる気がする。いるはずなんてないとはわかっているのに。鳴っていないのにインターホンが鳴った気がして、「マスターだったらどうしよう」と怯えつつインターホンを覗く。 眠れないけれど、気づいたら眠りに落ちていて、目が覚めると、「どうして目が覚めてしまったんだ」と嘆く。前は特撮ソングを聴けば、気持ちをふるい起こせたのに、今はもうそれさえ無理で。それどころか、何百回と聴いて覚えているはずの歌詞が何を言っているかわからない。 何か壊したい衝動に駆られて、100円ショップで皿を買い、必ず出勤前に1枚台所の流しで割った。そんなことにお金を使いたくなかったけれど、割らないとどうにかなってしまいそうだった。慣れてくると、破片を拾うのも面倒くさくなり、コンビニのビニール袋に入れた状態で割るようになった。大きな音で震える鼓膜と荒い呼吸。仕事に行きたくない気持ち、ノルマへの恐怖をそうやって消化させていた。「大丈夫、千鶴さん」 朝礼中に東雲ファミリー(編集部注:母、娘、息子、息子の嫁と一家総出で生保業界で働くスーパー保険家族)の娘・千鶴さんが過呼吸を起こして倒れた。それもそのはずだと思った。今月の成績、兄嫁のみなみさんに倍以上の差をつけられていて、「母親の後継者は息子の嫁のほうだ」なんて噂されている。かく言う私は、今月は1件契約を上げているものの、これ以上は増やせそうにない。だが、なぜか焦ってはいない。と言うかもう、脳が感情や感覚を失っている。「同行しない? 三上」 ぼんやりする頭で、かけまちがいばかりのテレアポをしている、うっかり息をしている死体のような状態の私に声をかけてきたのは、まさかの緒方さんだった。彼女は一匹狼で、マスターから新人の同行を頼まれても「面倒だ」と断っているのを何度も目にしてきたから、一瞬耳を疑った。「来るの? 来ないの?」 と、有無を言わさぬ圧に、「い、行きます!」と答えた。オフィス中が、「あの緒方さんが……新人をつれて……同行……」と、物珍しそうな眼を向けている。正直ビビッていた。きっと、オフィスでは言いづらいようなお説教を食らうんだと思った。だから、緒方さんの軽自動車の助手席に腰を下ろしたときには、もう張り裂けそうな、心臓……。「そんな固くなんないで」「あ、いえでも」「今日は、ただの契約のお礼だから。あんたはなんにもしなくていいから」 車の中は、ところどころにアニメ柄の文房具や手提げといった、お子さんの物が散らばっていて、家で子どもに向ける母親としての一面があるんだなぁと思うと不思議だった。エンジンがかけられ、車が動き出す。何も話すことはない。ボリュームマックスのLUNA SEAの「ROSIER」が流れているだけだ。着いたのは郊外にある小さな団地だった。胸の谷間をのぞかせ媚びた声で「これ契約のお礼のバスタオル。あとこれは、わ・た・し・か・ら」「なんにもしなくていいよ」 そう一言残して車を降りる緒方さんのあとを追い、団地の階段を4階まで上る。「おお~、緒方ちゃぁん。今日もベッピンさんだなぁ」 インターホンを押した部屋から出てきたのは、酔っ払いおじさん。この仕事をしていると、もれなくセクハラ親父の客に出くわす。働き始めて1、2か月はどこに行くのもマスターがついて来てくれたけれど、今はもう契約を頂くような重要なアポ以外は、一人で行くことも多い。 しかし、独身の一人暮らしの男性の家に行くときは、やはり少し身構える。すべてがすべてヤバい人ではないけれど、以前、50代独身のゴミ屋敷に住む一人暮らしの男性に、「ねぇ、枕営業ってあるの」と聞かれたときには、鳥肌が立ったし、怖かった。そのときは定期点検だけおこなってすぐ出てきた。保険屋の女性が、お客様宅で性被害を受けたなんてニュースも聞く。 私たちの足元は原則ヒールと決まっているから、もし危険な事態に陥っても全速力で逃げられない。 クールな緒方さんはこういうお客さんをどうかわすのだろう。「んもう! 相変わらずうまいんだからぁ。なんにも出ないわよう」 と、オフィスでは絶対に出さないような……媚びた声を上げた。え? これってあのクールな緒方さん? よく見ると、ブラウスのボタンが大胆に3つも空いて、胸の谷間が覗いている。 巨乳、だ。ホルスタイン……という単語が思わず浮かぶ。モウ。「これ契約のお礼のバスタオル。あとこれは、わ・た・し・か・ら」 ねっとりとした声色で、ハピ郎が描かれた大きな箱と、三越の小さな紙袋を手渡すと、男は鼻の下を伸ばして、顔を赤らめた。目線はもちろん……言わずもがな。「俺のことドキドキさせて、ぽっくり逝かす気だなぁ」「やぁだ。そんなことしないわよ。だって、私が死亡保険金の受取人ってわけじゃないんだし」「それもそうだなぁ。じゃあ、ちがう意味でイカせてくれたりしてなぁ。ガハハ」「もう、なに言ってんのよう」 まるでスナックやキャバクラ。どちらも行ったことはないけれど、なんとなくイメージ。全面的に男性をいい気分にさせることだけに、女性が心を殺して煽てる空間。「あれ、その子は? 娘ちゃん?」「ううん。オフィスの新人さん。お勉強で一緒に回ってるの」「へぇ、ふぅん。若いねぇ。いいねぇ」 ねっとりとした品定めの目を頭の先から足先まで向けられる。いまだに「生保レディ」と呼ばれる私たち 私が女であることにまちがいはないし、マサ(編集部注:筆者の小学校の同級生。戸籍はまだ女性だが心は男性)のように心と肉体の性別にズレがあるわけではないけれど。でも、こうして女であることを生々しく見られる場面は、営業という仕事をしていると多々あり、特に年配の男性と接するときに、「女性」として品定めされることは避けては通れない。営業だから当然身なりは整える。自分らしさよりも、女性らしさが求められる。そのたびに女であることが嫌になる、別に男性になりたいわけではないけれど。 性別というフィルターを外して、人間として見てもらえないのが不愉快だ、屈辱的でもある。「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」に、性別による呼称の呪縛が解かれつつあるのに、いまだに「生保レディ」と呼ばれる私たち。 上条マスターとお客様を回るとき、男性のお客様はマスターの美貌に鼻の下を伸ばす。女性であることを最大限利用して営業する人も少なからずいるだろう。「優しくしてくれたのがうれしくて」と本気で先輩社員に惚れてしまった独身男性のお客様が、毎週のようにオフィスにお花やブランド物バッグや香水を送ってきていて、オフィス長も頭を抱えている。「生保レディ」なんて呼ばれ方をしている限り、私たちはいつまでたっても性別のフィルターを外した一人の人間として見てもらえないかもしれない。「こんなピチピチの子に来られたら、俺もう1つ保険に入っちゃおうかな」 固まってしまう私。けれど緒方さんは、「やぁだ、私もピチピチよ」と笑ってみせた。零れんばかりの大振りな2つの乳房がタユンとまるで音を立てるように揺れる。年齢を重ねているせいか、子どもを産んだからなのか、弾力があるように見えてどこかしんなりとしていた。営業帰りに先輩から言われたのは…「言っとくけど枕とかはしてないから」 帰りの車に乗り込むと、開口一番そう言われた。聞き慣れたハスキーボイスで。「ただ、いい顔して煽てて気分よくさせてるだけだから」「そうなんですね」「でさ、三上はいつ辞めるの」「……え?」「いつ辞めるの?」 遠回しに目障りだから辞めてくれという意味なのだろうか……。これを告げたいけれど、オフィスでは告げられないから私を同行に誘ったんだろうか。「辞めない……です」「嘘。じゃあ5年、10年、15年、この仕事したい?」 長くいたら、いた分だけ心臓に毛が生えてフサフサになるか、壊れるかの二択だ。まだ1年も勤務していない私だけれどそれはわかる。有村さん(編集部注:筆者と同じ保険会社に勤務して2年目の新人)の叫び声、ルミさん(編集部注:筆者と同じ保険会社に勤務するオフィスのムードメーカー)の9000円の給与明細、今はまだ他人事だけれど、すぐに自分事になる。わかっている。「辞めるなら早いほうがいいよ。やり直しが利く、いくらでも」「でも私、せめて3年は」「ここでやっていけるのは生活のために自分を殺せる人間か、この仕事を楽しいと思える化物だけ。あんたどっちでもないじゃない。自分でもわかってるでしょ」 私は営業に向いていない。グイグイ行くよりも、「あんまり営業したら迷惑になっちゃうかな」と、どうしても引いてしまう。ほかの先輩のように、熱があっても、台風が来ようとも、身を削ってアポに行くようなガッツもない。でも3年以内は辞めてはいけない。三年神話は絶対だ。……転職をいずれするにしても、3年経たずに辞めたらどこの会社にも採用してもらえないかもしれない。不採用続きの就活のことを思い出す。だからせめて3年は、心臓に育毛剤をぶちまけてここで働くしかない。それにお客様への責任もある。いつも定期訪問に伺うと、「また保険屋さん変わったの? コロコロ変わってわけわかんない」と言われる。「お客様の人生に寄り添う」を謳っているのに、コロコロ担当が変わっては申し訳ない気がした。「もう少しここでがんばります」「ふぅん、そう。三上って想像以上にバカなんだね」「こんな地獄にしがみつかなくても生きていく道がいくらでもあるんじゃないの?」「……お、緒方さんは辞めたいって思うことあるんですか」「そんなの毎日」「毎日?」「24時間365日」 チラリと胸元を見る。ブラウスのボタンはきちんと留められていた。「でも定年までは、やる。もしかしたら東雲千恵子みたいに定年すぎても居座るかもしんない」「辞めたいのに……どうしてですか」「私シングルマザーだし、子ども、障がいがあんの。大学も出てないし、正社員でいい会社は、高卒と大卒なら大卒を選ぶから雇ってもらえない。夜職やると子どもとの時間がとれない。風俗なんてやりたくない。だからここにしがみつくしかないの、自分を殺してでもね。ノルマ達成して、できるだけ多くの金を稼いで生きていくしか道がない。子どもに不自由はさせたくないし」 信号待ちで緒方さんは煙草に火をつける。「ちなみに旦那はいないよ。妊娠したってわかったらいなくなった。男なんてそんなもん。自分が一滴出して気持ちよくなることしか考えてない。その場限りの生き物……ってガキにゃ、刺激が強すぎるか」 ふぅと煙を吐く。信号が変わりハンドルを握る。「私は子どもに苦労させたくないし、産んだことも後悔したくないから、ここで死に物狂いでやっていくけど、あんたはちがうでしょう。まだ若くて、大学も出ていて、未婚で子どもがいるわけでもない。こんな地獄にしがみつかなくても生きていく道がいくらでもあるんじゃないの?」「それは……」「ほら、オフィス着いたよ。次のアポあるから、あんただけ降りて」 オフィスのルールであるガソリン代の200円も受け取らず、「私があんたに話があっただけだから」と車を走らせて行った。辞めるのを促すために同行に誘ってくれたんだ。私、そんなに辛そうにしているだろうか? 辞めたい? 今一度自分に聞く。確かに成績もノルマも怖いけれど、辞めることも恐怖。緒方さんは辞めるべきだと諭してくれたけれど、私はおそらく辞められない。〈告白〉「契約取れなきゃ3年目には給与9000円って人も…」厳しすぎるノルマに追いやれられた保険外交員がとった“衝撃の行動” へ続く(忍足みかん/Webオリジナル(外部転載))
ここでは、忍足みかん氏の著書『気がつけば生保レディで地獄みた。』(古書みつけ)の一部を抜粋。営業先で経験した、信じられない男性の言動を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
AFLO
◆◆◆
1円にもならないサービス残業を終えて家に帰るが、常にマスター(編集部注:新人育成係)や職場の誰かがいる気がする。いるはずなんてないとはわかっているのに。鳴っていないのにインターホンが鳴った気がして、「マスターだったらどうしよう」と怯えつつインターホンを覗く。
眠れないけれど、気づいたら眠りに落ちていて、目が覚めると、「どうして目が覚めてしまったんだ」と嘆く。前は特撮ソングを聴けば、気持ちをふるい起こせたのに、今はもうそれさえ無理で。それどころか、何百回と聴いて覚えているはずの歌詞が何を言っているかわからない。
何か壊したい衝動に駆られて、100円ショップで皿を買い、必ず出勤前に1枚台所の流しで割った。そんなことにお金を使いたくなかったけれど、割らないとどうにかなってしまいそうだった。慣れてくると、破片を拾うのも面倒くさくなり、コンビニのビニール袋に入れた状態で割るようになった。大きな音で震える鼓膜と荒い呼吸。仕事に行きたくない気持ち、ノルマへの恐怖をそうやって消化させていた。
「大丈夫、千鶴さん」
朝礼中に東雲ファミリー(編集部注:母、娘、息子、息子の嫁と一家総出で生保業界で働くスーパー保険家族)の娘・千鶴さんが過呼吸を起こして倒れた。それもそのはずだと思った。今月の成績、兄嫁のみなみさんに倍以上の差をつけられていて、「母親の後継者は息子の嫁のほうだ」なんて噂されている。かく言う私は、今月は1件契約を上げているものの、これ以上は増やせそうにない。だが、なぜか焦ってはいない。と言うかもう、脳が感情や感覚を失っている。
「同行しない? 三上」
ぼんやりする頭で、かけまちがいばかりのテレアポをしている、うっかり息をしている死体のような状態の私に声をかけてきたのは、まさかの緒方さんだった。彼女は一匹狼で、マスターから新人の同行を頼まれても「面倒だ」と断っているのを何度も目にしてきたから、一瞬耳を疑った。
「来るの? 来ないの?」
と、有無を言わさぬ圧に、「い、行きます!」と答えた。オフィス中が、「あの緒方さんが……新人をつれて……同行……」と、物珍しそうな眼を向けている。正直ビビッていた。きっと、オフィスでは言いづらいようなお説教を食らうんだと思った。だから、緒方さんの軽自動車の助手席に腰を下ろしたときには、もう張り裂けそうな、心臓……。
「そんな固くなんないで」
「あ、いえでも」
「今日は、ただの契約のお礼だから。あんたはなんにもしなくていいから」
車の中は、ところどころにアニメ柄の文房具や手提げといった、お子さんの物が散らばっていて、家で子どもに向ける母親としての一面があるんだなぁと思うと不思議だった。エンジンがかけられ、車が動き出す。何も話すことはない。ボリュームマックスのLUNA SEAの「ROSIER」が流れているだけだ。着いたのは郊外にある小さな団地だった。
「なんにもしなくていいよ」
そう一言残して車を降りる緒方さんのあとを追い、団地の階段を4階まで上る。
「おお~、緒方ちゃぁん。今日もベッピンさんだなぁ」
インターホンを押した部屋から出てきたのは、酔っ払いおじさん。この仕事をしていると、もれなくセクハラ親父の客に出くわす。働き始めて1、2か月はどこに行くのもマスターがついて来てくれたけれど、今はもう契約を頂くような重要なアポ以外は、一人で行くことも多い。
しかし、独身の一人暮らしの男性の家に行くときは、やはり少し身構える。すべてがすべてヤバい人ではないけれど、以前、50代独身のゴミ屋敷に住む一人暮らしの男性に、「ねぇ、枕営業ってあるの」と聞かれたときには、鳥肌が立ったし、怖かった。そのときは定期点検だけおこなってすぐ出てきた。保険屋の女性が、お客様宅で性被害を受けたなんてニュースも聞く。
私たちの足元は原則ヒールと決まっているから、もし危険な事態に陥っても全速力で逃げられない。
クールな緒方さんはこういうお客さんをどうかわすのだろう。
「んもう! 相変わらずうまいんだからぁ。なんにも出ないわよう」
と、オフィスでは絶対に出さないような……媚びた声を上げた。え? これってあのクールな緒方さん? よく見ると、ブラウスのボタンが大胆に3つも空いて、胸の谷間が覗いている。
巨乳、だ。ホルスタイン……という単語が思わず浮かぶ。モウ。
「これ契約のお礼のバスタオル。あとこれは、わ・た・し・か・ら」
ねっとりとした声色で、ハピ郎が描かれた大きな箱と、三越の小さな紙袋を手渡すと、男は鼻の下を伸ばして、顔を赤らめた。目線はもちろん……言わずもがな。
「俺のことドキドキさせて、ぽっくり逝かす気だなぁ」
「やぁだ。そんなことしないわよ。だって、私が死亡保険金の受取人ってわけじゃないんだし」
「それもそうだなぁ。じゃあ、ちがう意味でイカせてくれたりしてなぁ。ガハハ」
「もう、なに言ってんのよう」
まるでスナックやキャバクラ。どちらも行ったことはないけれど、なんとなくイメージ。全面的に男性をいい気分にさせることだけに、女性が心を殺して煽てる空間。
「あれ、その子は? 娘ちゃん?」
「ううん。オフィスの新人さん。お勉強で一緒に回ってるの」
「へぇ、ふぅん。若いねぇ。いいねぇ」
ねっとりとした品定めの目を頭の先から足先まで向けられる。
私が女であることにまちがいはないし、マサ(編集部注:筆者の小学校の同級生。戸籍はまだ女性だが心は男性)のように心と肉体の性別にズレがあるわけではないけれど。でも、こうして女であることを生々しく見られる場面は、営業という仕事をしていると多々あり、特に年配の男性と接するときに、「女性」として品定めされることは避けては通れない。営業だから当然身なりは整える。自分らしさよりも、女性らしさが求められる。そのたびに女であることが嫌になる、別に男性になりたいわけではないけれど。
性別というフィルターを外して、人間として見てもらえないのが不愉快だ、屈辱的でもある。
「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」に、性別による呼称の呪縛が解かれつつあるのに、いまだに「生保レディ」と呼ばれる私たち。
上条マスターとお客様を回るとき、男性のお客様はマスターの美貌に鼻の下を伸ばす。女性であることを最大限利用して営業する人も少なからずいるだろう。「優しくしてくれたのがうれしくて」と本気で先輩社員に惚れてしまった独身男性のお客様が、毎週のようにオフィスにお花やブランド物バッグや香水を送ってきていて、オフィス長も頭を抱えている。「生保レディ」なんて呼ばれ方をしている限り、私たちはいつまでたっても性別のフィルターを外した一人の人間として見てもらえないかもしれない。
「こんなピチピチの子に来られたら、俺もう1つ保険に入っちゃおうかな」
固まってしまう私。けれど緒方さんは、「やぁだ、私もピチピチよ」と笑ってみせた。零れんばかりの大振りな2つの乳房がタユンとまるで音を立てるように揺れる。年齢を重ねているせいか、子どもを産んだからなのか、弾力があるように見えてどこかしんなりとしていた。
「言っとくけど枕とかはしてないから」
帰りの車に乗り込むと、開口一番そう言われた。聞き慣れたハスキーボイスで。
「ただ、いい顔して煽てて気分よくさせてるだけだから」
「そうなんですね」
「でさ、三上はいつ辞めるの」
「……え?」
「いつ辞めるの?」
遠回しに目障りだから辞めてくれという意味なのだろうか……。これを告げたいけれど、オフィスでは告げられないから私を同行に誘ったんだろうか。
「辞めない……です」
「嘘。じゃあ5年、10年、15年、この仕事したい?」
長くいたら、いた分だけ心臓に毛が生えてフサフサになるか、壊れるかの二択だ。まだ1年も勤務していない私だけれどそれはわかる。有村さん(編集部注:筆者と同じ保険会社に勤務して2年目の新人)の叫び声、ルミさん(編集部注:筆者と同じ保険会社に勤務するオフィスのムードメーカー)の9000円の給与明細、今はまだ他人事だけれど、すぐに自分事になる。わかっている。
「辞めるなら早いほうがいいよ。やり直しが利く、いくらでも」
「でも私、せめて3年は」「ここでやっていけるのは生活のために自分を殺せる人間か、この仕事を楽しいと思える化物だけ。あんたどっちでもないじゃない。自分でもわかってるでしょ」 私は営業に向いていない。グイグイ行くよりも、「あんまり営業したら迷惑になっちゃうかな」と、どうしても引いてしまう。ほかの先輩のように、熱があっても、台風が来ようとも、身を削ってアポに行くようなガッツもない。でも3年以内は辞めてはいけない。三年神話は絶対だ。……転職をいずれするにしても、3年経たずに辞めたらどこの会社にも採用してもらえないかもしれない。不採用続きの就活のことを思い出す。だからせめて3年は、心臓に育毛剤をぶちまけてここで働くしかない。それにお客様への責任もある。いつも定期訪問に伺うと、「また保険屋さん変わったの? コロコロ変わってわけわかんない」と言われる。「お客様の人生に寄り添う」を謳っているのに、コロコロ担当が変わっては申し訳ない気がした。「もう少しここでがんばります」「ふぅん、そう。三上って想像以上にバカなんだね」「こんな地獄にしがみつかなくても生きていく道がいくらでもあるんじゃないの?」「……お、緒方さんは辞めたいって思うことあるんですか」「そんなの毎日」「毎日?」「24時間365日」 チラリと胸元を見る。ブラウスのボタンはきちんと留められていた。「でも定年までは、やる。もしかしたら東雲千恵子みたいに定年すぎても居座るかもしんない」「辞めたいのに……どうしてですか」「私シングルマザーだし、子ども、障がいがあんの。大学も出てないし、正社員でいい会社は、高卒と大卒なら大卒を選ぶから雇ってもらえない。夜職やると子どもとの時間がとれない。風俗なんてやりたくない。だからここにしがみつくしかないの、自分を殺してでもね。ノルマ達成して、できるだけ多くの金を稼いで生きていくしか道がない。子どもに不自由はさせたくないし」 信号待ちで緒方さんは煙草に火をつける。「ちなみに旦那はいないよ。妊娠したってわかったらいなくなった。男なんてそんなもん。自分が一滴出して気持ちよくなることしか考えてない。その場限りの生き物……ってガキにゃ、刺激が強すぎるか」 ふぅと煙を吐く。信号が変わりハンドルを握る。「私は子どもに苦労させたくないし、産んだことも後悔したくないから、ここで死に物狂いでやっていくけど、あんたはちがうでしょう。まだ若くて、大学も出ていて、未婚で子どもがいるわけでもない。こんな地獄にしがみつかなくても生きていく道がいくらでもあるんじゃないの?」「それは……」「ほら、オフィス着いたよ。次のアポあるから、あんただけ降りて」 オフィスのルールであるガソリン代の200円も受け取らず、「私があんたに話があっただけだから」と車を走らせて行った。辞めるのを促すために同行に誘ってくれたんだ。私、そんなに辛そうにしているだろうか? 辞めたい? 今一度自分に聞く。確かに成績もノルマも怖いけれど、辞めることも恐怖。緒方さんは辞めるべきだと諭してくれたけれど、私はおそらく辞められない。〈告白〉「契約取れなきゃ3年目には給与9000円って人も…」厳しすぎるノルマに追いやれられた保険外交員がとった“衝撃の行動” へ続く(忍足みかん/Webオリジナル(外部転載))
「でも私、せめて3年は」
「ここでやっていけるのは生活のために自分を殺せる人間か、この仕事を楽しいと思える化物だけ。あんたどっちでもないじゃない。自分でもわかってるでしょ」
私は営業に向いていない。グイグイ行くよりも、「あんまり営業したら迷惑になっちゃうかな」と、どうしても引いてしまう。ほかの先輩のように、熱があっても、台風が来ようとも、身を削ってアポに行くようなガッツもない。でも3年以内は辞めてはいけない。三年神話は絶対だ。……転職をいずれするにしても、3年経たずに辞めたらどこの会社にも採用してもらえないかもしれない。不採用続きの就活のことを思い出す。だからせめて3年は、心臓に育毛剤をぶちまけてここで働くしかない。それにお客様への責任もある。いつも定期訪問に伺うと、「また保険屋さん変わったの? コロコロ変わってわけわかんない」と言われる。「お客様の人生に寄り添う」を謳っているのに、コロコロ担当が変わっては申し訳ない気がした。
「もう少しここでがんばります」
「ふぅん、そう。三上って想像以上にバカなんだね」
「……お、緒方さんは辞めたいって思うことあるんですか」
「そんなの毎日」
「毎日?」
「24時間365日」
チラリと胸元を見る。ブラウスのボタンはきちんと留められていた。
「でも定年までは、やる。もしかしたら東雲千恵子みたいに定年すぎても居座るかもしんない」
「辞めたいのに……どうしてですか」
「私シングルマザーだし、子ども、障がいがあんの。大学も出てないし、正社員でいい会社は、高卒と大卒なら大卒を選ぶから雇ってもらえない。夜職やると子どもとの時間がとれない。風俗なんてやりたくない。だからここにしがみつくしかないの、自分を殺してでもね。ノルマ達成して、できるだけ多くの金を稼いで生きていくしか道がない。子どもに不自由はさせたくないし」
信号待ちで緒方さんは煙草に火をつける。
「ちなみに旦那はいないよ。妊娠したってわかったらいなくなった。男なんてそんなもん。自分が一滴出して気持ちよくなることしか考えてない。その場限りの生き物……ってガキにゃ、刺激が強すぎるか」
ふぅと煙を吐く。信号が変わりハンドルを握る。
「私は子どもに苦労させたくないし、産んだことも後悔したくないから、ここで死に物狂いでやっていくけど、あんたはちがうでしょう。まだ若くて、大学も出ていて、未婚で子どもがいるわけでもない。こんな地獄にしがみつかなくても生きていく道がいくらでもあるんじゃないの?」
「それは……」
「ほら、オフィス着いたよ。次のアポあるから、あんただけ降りて」
オフィスのルールであるガソリン代の200円も受け取らず、「私があんたに話があっただけだから」と車を走らせて行った。辞めるのを促すために同行に誘ってくれたんだ。私、そんなに辛そうにしているだろうか? 辞めたい? 今一度自分に聞く。確かに成績もノルマも怖いけれど、辞めることも恐怖。緒方さんは辞めるべきだと諭してくれたけれど、私はおそらく辞められない。
〈告白〉「契約取れなきゃ3年目には給与9000円って人も…」厳しすぎるノルマに追いやれられた保険外交員がとった“衝撃の行動” へ続く
(忍足みかん/Webオリジナル(外部転載))