「ムツゴロウさん」として親しまれた作家の畑正憲さんが4月5日、心筋梗塞で亡くなった。87歳だった。
【写真】ムツゴロウさんが生前に描いていた馬のイラスト 畑さんは1935年4月17日生まれ、福岡県出身。医師だった父親に連れられて、幼少期は満州国で暮らした。中学・高校時代を大分県で過ごした後、東京大学理学部で動物学を学んだ。『われら動物みな兄弟』や『ムツゴロウの青春記』、『ムツゴロウの動物交際術』など多数の著作を残したほか、1980年にフジテレビ系で『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』が放送開始され、タレントとしても活躍した。

妻の純子さんとは中学2年生のときに交際を始め、実に70年以上の付き合いになる。教師に交際を反対されても純愛を貫いた。畑さんの知人が語る。「2人は中学の同級生。別々のクラスだったけど、お互いクラス委員ということで話す機会が多く、自然と付き合うようになったと聞きました。 でも当時は不純異性交遊なんて言葉があった時代でしょう。教師から『退学覚悟で付き合いなさい』と釘を差されたこともあり、学校帰りに外でちょっと話すような清い交際をしていたそうです」 同じ高校を卒業後、畑さんは上京し、純子さんは地元で就職。遠距離恋愛を続けるなか、畑さんが大学2年生のときに思わぬ出来事が2人を襲った。純子さんが結核にかかり、サナトリウムに入ることになったのだ。かつて畑さんは『週刊ポスト』(2011年7月22・29日号)で、このように回想していた。〈当時、結核は不治の病といわれていましたが、絶対に治ると僕は信じ、待ち続けました。その間、一度も会えませんでしたが、「僕が愛を送るよ。それが薬だよ。元気になってね」と手紙で愛を語り続けましたね〉 熱心な励ましのかいがあって約2年半後に純子さんは回復し、2人は初めて結ばれた。〈2年半後、彼女は病気が治り、1か月間、僕と過ごすために上京してくることになりました。僕は2人で住むための小さな三畳一間のアパートを池袋に用意しました。初体験はその最初の晩のことです。僕はそれを予定していましたし、彼女もそれはわかっていて、受け入れるつもりでした。だから、自然に小さな布団に2人で入り、キスをし、抱き合い、そして繋がりました。~(中略)~いよいよ、これから一緒に生きていくんだなという感慨は強くありましたね〉 畑さんが23歳のときに結婚し、25歳で長女が生まれた。父親となっても破天荒な畑さんの生き様を純子さんは大らかに受け止めてきた。1971年、夫婦は東京を離れ、北海道の無人島に移住することになる。「ムツゴロウさんが突如、動物との共棲を目指して移住することを決めたときも、純子さんは『地の果てでもついていく』と一切反対しなかった。ある意味ではムツゴロウさんに負けず劣らず豪快な人かもしれません。 夫がライオンに指を食べられたときは『私が落とし前をつけに行く』なんて息巻いていたほどです。長い夫婦生活のなか、動物王国の建設などで借金を背負うなど、大変なこともいろいろありましたが、ケンカらしいケンカをしたことがないそうです。それでも、ちょっと叱られるようなときはムツゴロウさんが辛抱する感じでしたね。 晩年、純子さんは夫のことを『この世で一番大事な人』と話していて、ムツゴロウさんも『お互いに相手のことが必要で、一緒になったんだと思う』と言っていました」 畑さんの隣には、いつも純子さんがいた。最愛の妻に看取られて、天国へと旅立ったのだろう。
畑さんは1935年4月17日生まれ、福岡県出身。医師だった父親に連れられて、幼少期は満州国で暮らした。中学・高校時代を大分県で過ごした後、東京大学理学部で動物学を学んだ。『われら動物みな兄弟』や『ムツゴロウの青春記』、『ムツゴロウの動物交際術』など多数の著作を残したほか、1980年にフジテレビ系で『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』が放送開始され、タレントとしても活躍した。
妻の純子さんとは中学2年生のときに交際を始め、実に70年以上の付き合いになる。教師に交際を反対されても純愛を貫いた。畑さんの知人が語る。
「2人は中学の同級生。別々のクラスだったけど、お互いクラス委員ということで話す機会が多く、自然と付き合うようになったと聞きました。
でも当時は不純異性交遊なんて言葉があった時代でしょう。教師から『退学覚悟で付き合いなさい』と釘を差されたこともあり、学校帰りに外でちょっと話すような清い交際をしていたそうです」
同じ高校を卒業後、畑さんは上京し、純子さんは地元で就職。遠距離恋愛を続けるなか、畑さんが大学2年生のときに思わぬ出来事が2人を襲った。純子さんが結核にかかり、サナトリウムに入ることになったのだ。かつて畑さんは『週刊ポスト』(2011年7月22・29日号)で、このように回想していた。
〈当時、結核は不治の病といわれていましたが、絶対に治ると僕は信じ、待ち続けました。その間、一度も会えませんでしたが、「僕が愛を送るよ。それが薬だよ。元気になってね」と手紙で愛を語り続けましたね〉
熱心な励ましのかいがあって約2年半後に純子さんは回復し、2人は初めて結ばれた。
〈2年半後、彼女は病気が治り、1か月間、僕と過ごすために上京してくることになりました。僕は2人で住むための小さな三畳一間のアパートを池袋に用意しました。初体験はその最初の晩のことです。僕はそれを予定していましたし、彼女もそれはわかっていて、受け入れるつもりでした。だから、自然に小さな布団に2人で入り、キスをし、抱き合い、そして繋がりました。~(中略)~いよいよ、これから一緒に生きていくんだなという感慨は強くありましたね〉
畑さんが23歳のときに結婚し、25歳で長女が生まれた。父親となっても破天荒な畑さんの生き様を純子さんは大らかに受け止めてきた。1971年、夫婦は東京を離れ、北海道の無人島に移住することになる。
「ムツゴロウさんが突如、動物との共棲を目指して移住することを決めたときも、純子さんは『地の果てでもついていく』と一切反対しなかった。ある意味ではムツゴロウさんに負けず劣らず豪快な人かもしれません。
夫がライオンに指を食べられたときは『私が落とし前をつけに行く』なんて息巻いていたほどです。長い夫婦生活のなか、動物王国の建設などで借金を背負うなど、大変なこともいろいろありましたが、ケンカらしいケンカをしたことがないそうです。それでも、ちょっと叱られるようなときはムツゴロウさんが辛抱する感じでしたね。
晩年、純子さんは夫のことを『この世で一番大事な人』と話していて、ムツゴロウさんも『お互いに相手のことが必要で、一緒になったんだと思う』と言っていました」
畑さんの隣には、いつも純子さんがいた。最愛の妻に看取られて、天国へと旅立ったのだろう。