全国の暴力団構成員は近年、減少傾向が続いている。暴力団対策法が1992年3月に施行されたことに加え、2011年10月までに全国で整備された暴力団排除条例によって活動が厳しく規制されている実態があるためだ。さらに、暴力団などを反社会的勢力と位置づけて経済活動から排除する共通認識が社会に広く浸透してきた影響も大きい。
警察当局がまとめた最新データとなる2022年末時点での暴力団構成員は、約1万1400人だったことが確認され、過去最少となった。暴対法が施行された1992年末時点の暴力団構成員は約5万6600人だったため、約2割にまで減少した。
「前編」では、暴力団が勢力を拡大したバブル景気の時代でもある暴対法施行前夜からの30年余りの間の警察と暴力団の攻防を振り返る。
「経済ヤクザ」が台頭した時代1989年12月29日、大納会を迎えた東京証券取引所の平均株価の終値は3万8915円87銭を記録し、過去最高値となった。株価だけでなく地価なども高騰を続け、「財テク」という名のもと、投資というよりは投機に近いマネーゲームがもてはやされ、日本経済はバブル景気のピークを迎え沸いていた。 表経済の活況は当時、「闇社会」「裏社会」と称されていた暴力団業界にもバブルの恩恵がもたらされ、1980年代後半から1990年代前半の暴力団構成員は6万人台後半で7万人に迫る勢いだった。暴力団幹部たちは地上げで得た資金を株式で運用するなどでさらにふくらませていた。一部の暴力団幹部たちは「経済ヤクザ」と呼ばれた。当時、経済ヤクザとして稲川会の2代目会長だった石井進の名が広く知られていた。だが、東急電鉄株の買い占めを進めていたことが発覚し問題視された。証券市場へと手引きしていたのは「ガリバー」と呼ばれた業界最大手の野村証券だったことが判明し、「証券業界のドン」とされた同社会長、田淵節也が辞任に追い込まれ大きな非難を浴びた経緯もあった。石井のほかに1990年代、5代目時代の山口組のナンバー2、若頭を務めていた宅見勝も地上げなどで巨額の資金を動かしていたことで知られていた。宅見は常々、周囲に「日経新聞を読んでいればシノギ(資金源)のヒントが見つかる」と口癖のように語っていたという。首都圏で活動している指定暴力団の古参幹部が当時を懐かしげに語る。「当時は毎月のように地上げの仕事が入り数千万円単位のカネが次々と入ってきた。そのほかに縄張り内の繁華街の飲食店からのみかじめ料(用心棒代)なども継続的に集めていた。バブルで景気がよかったころはカネの使い道に困ったほどだった」関西地方に拠点を構える別の指定暴力団の幹部は、「バブルの好景気のころ自分はまだまだ若手だったが、それでもバブル前には触ったことがないような億単位のカネが手に入った。車はリンカーンやベンツなど値の張る外車に乗っていた」と振り返る。 「厄介なことになったな」1980年代に入ったころは6万人台前半だった全国の暴力団構成員は、好調な表経済に歩を合わせるように80年代後半に向けて増加し、バブルのピークの1989年には約6万6700人が確認された。翌1990年は約6万8700人へとさらに増加し、引き続き繁栄を謳歌するかに見えた。だが、バブルは崩壊。各方面で資金がショートし始めると暴力団業界でもシノギと呼ばれる資金獲得活動で対立が目立つようになり、大都市の繁華街での発砲事件などに批判の声が上がり始めた。こうした情勢に対応するため、法律で暴力団の活動を規制する原点とされる暴対法が1992年3月に施行された。繁華街でのみかじめ料の徴収を禁じるなど、暴力団の基本的な収入を遮断することになる。違反した場合には中止命令が出され、従わなければ再発防止命令となり、悪質な場合は逮捕されることとなった。前出の古参幹部が、「暴対法が出来るとなった時はやっかいなことになったなと思った」と振り返り、次のように当時の実態を明かした。「暴対法施行前までは、縄張内の飲食店からみかじめ料(用心棒代)などを集めても何も問題はなかった。応じない店には、大型ダンプをバックで突っ込ませてメチャメチャに壊したこともあった。店が再開すると素直に応じた。しかし、みかじめ料が禁じられると、公然と拒否する店もあった。みかじめ料がシノギのメインだった者たちはカネを徴収できずに辞めていった」こうした一部の暴力団の苦境は警察当局の統計にも記録されている。暴対法施行の前年となる1991年の暴力団構成員は約6万3800人だったが、暴対法が施行された1992年には約5万6600人へと急激に減少した。この年を境に右肩下がりとなり94年には5万人を切って約4万8000人、以降は毎年のように一方的に減少し2001年には約4万3100人となった。困難を極めたこと中止命令を出すには暴対法に基づいて指定暴力団として指定された組織の構成員であることが前提となる。暴力団であればどの組織も指定されるわけではなく、次のような要件が必要となっている。 1.暴力団としての組織の威力を用いて資金獲得活動を行っている。2.構成員に一定比率以上に犯歴所有者がいる。3.組長をトップに組織がピラミッド型の階層を形成している。上記の3つの要件を満たした場合、都道府県の公安委員会によって指定される。現在、6代目山口組や住吉会、稲川会など指定暴力団は25組織となっている。指定暴力団となると、繁華街の飲食店などからのみかじめ料の徴収だけでなく、不当な債権回収なども禁じられる。対立抗争状態となった場合には事務所の使用が制限されるなど規制は多岐にわたる。指定するにあたって最も煩雑な作業は構成員を認定することだった。暴対法施行前夜、準備にあたった警察当局の捜査幹部OBが振り返る。「暴対法が施行される前は、資料集めが大変で忙しかった。これまでの調書のコピーを集めるなど認定資料を大量に作成した。身上調書といって、本籍、住所、氏名、生年月日などの基本的な事項から、いつごろヤクザになったか、組織内での階級、役職、親分は誰か、下にいる配下の若い衆はだれかなどを調書にして署名させた。ヤクザの名刺や写真なども添付した。『この者はヤクザで間違いない』とする資料を作成し構成員として認定していった」「ヤクザに負けるわけにはいかない」山口組を指定暴力団として指定するにあたっては、兵庫県公安委員会が1992年4月に開いた聴聞会に、5代目組長の渡辺芳則の代理として若頭の宅見が出席して反論したことがあった。「法の下の平等に反し、ヤクザという社会的身分で差別するなど憲法違反」と語気を強めて主張。武闘派であるとともに経済ヤクザとしても名を馳せていた宅見は、この場面では法律論で論客ぶりを見せつけた。 警察当局が資料作成に慎重を期していたのは、こうした暴力団側からの反論や訴訟への対策という意味合いもあった。後に取り下げたが、実際に山口組は1992年11月、指定暴力団としての指定の取り消しを求めた行政訴訟を神戸地裁に起こした。山口組が起こした訴訟に限らず、警察当局の幹部は、「このような訴訟でヤクザに負けるわけにはいかない」と述べている。攻勢を強めようと暴対法施行にあたり警察庁から当時、全国の警察本部に対して、「(容疑は)何でもいいからヤクザを逮捕しろ」との大号令が下った。前出の捜査幹部OBは、「傷害や恐喝などの本格的な事件だけでなく、組長がペットで飼っている犬が予防接種をしていなかったとして狂犬病予防法違反容疑で、ささいな密漁をしていたら漁業法違反容疑などで逮捕した」とも述べる。「つながりはいつまでも続く」しかし、警察の取り締まり強化などに対して手を尽くして組織の生き残りを図ってきたのが暴力団だった。暴対法施行以降、一方的に減少を続けてきた暴力団構成員だったが、2001年に約4万3100人が確認されてから、ここで底を打ち、その後は2010年ごろまで4万4000人前後で一進一退の攻防となる。捜査幹部OBは、「やはりヤクザの資金源の基本はみかじめ料、用心棒代だ。スナックなどからヤクザの事務所に『酔った客がカネを払わないぞと騒いでいる』などと連絡が入ると、ヤクザはすぐさま駆け付ける。ほかの客の迷惑にならないように裏口から入り、問題の客の襟首をつかんで外に連れ出して懲らしめる。短時間で片付けてくれる。だからヤクザとのつながりはいつまでも続く」とも内情を明かす。前出の指定暴力団の古参幹部は、「当初は中止命令が出されても従っていればそれでよかった。恐喝で逮捕されるよりはよほどマシだったと受け止めていた」とも述べた。 暴力団側は水面下で、一部の店舗からみかじめ料の徴収を続けていたほか、闇金融や闇カジノ、建設工事現場への介入、ご法度とされてきた覚醒剤の密売への回帰など、さまざまな手で組織の維持を図ってきたとみられる。近年は特殊詐欺に乗り出すなど新たな資金源を開拓してきた。だが、その後に全国で整備された暴排条例によって暴力団は追い詰められることになる。後編『暴力団は減ったが、半グレは急増…「暴排条例VS暴力団」壮絶30年にわたる攻防が日本にもたらした大変化 』では、暴排条例をめぐる攻防にスポットライトを当てる。(文中敬称略、肩書などは当時)
1989年12月29日、大納会を迎えた東京証券取引所の平均株価の終値は3万8915円87銭を記録し、過去最高値となった。株価だけでなく地価なども高騰を続け、「財テク」という名のもと、投資というよりは投機に近いマネーゲームがもてはやされ、日本経済はバブル景気のピークを迎え沸いていた。
表経済の活況は当時、「闇社会」「裏社会」と称されていた暴力団業界にもバブルの恩恵がもたらされ、1980年代後半から1990年代前半の暴力団構成員は6万人台後半で7万人に迫る勢いだった。暴力団幹部たちは地上げで得た資金を株式で運用するなどでさらにふくらませていた。一部の暴力団幹部たちは「経済ヤクザ」と呼ばれた。当時、経済ヤクザとして稲川会の2代目会長だった石井進の名が広く知られていた。だが、東急電鉄株の買い占めを進めていたことが発覚し問題視された。証券市場へと手引きしていたのは「ガリバー」と呼ばれた業界最大手の野村証券だったことが判明し、「証券業界のドン」とされた同社会長、田淵節也が辞任に追い込まれ大きな非難を浴びた経緯もあった。石井のほかに1990年代、5代目時代の山口組のナンバー2、若頭を務めていた宅見勝も地上げなどで巨額の資金を動かしていたことで知られていた。宅見は常々、周囲に「日経新聞を読んでいればシノギ(資金源)のヒントが見つかる」と口癖のように語っていたという。首都圏で活動している指定暴力団の古参幹部が当時を懐かしげに語る。「当時は毎月のように地上げの仕事が入り数千万円単位のカネが次々と入ってきた。そのほかに縄張り内の繁華街の飲食店からのみかじめ料(用心棒代)なども継続的に集めていた。バブルで景気がよかったころはカネの使い道に困ったほどだった」関西地方に拠点を構える別の指定暴力団の幹部は、「バブルの好景気のころ自分はまだまだ若手だったが、それでもバブル前には触ったことがないような億単位のカネが手に入った。車はリンカーンやベンツなど値の張る外車に乗っていた」と振り返る。 「厄介なことになったな」1980年代に入ったころは6万人台前半だった全国の暴力団構成員は、好調な表経済に歩を合わせるように80年代後半に向けて増加し、バブルのピークの1989年には約6万6700人が確認された。翌1990年は約6万8700人へとさらに増加し、引き続き繁栄を謳歌するかに見えた。だが、バブルは崩壊。各方面で資金がショートし始めると暴力団業界でもシノギと呼ばれる資金獲得活動で対立が目立つようになり、大都市の繁華街での発砲事件などに批判の声が上がり始めた。こうした情勢に対応するため、法律で暴力団の活動を規制する原点とされる暴対法が1992年3月に施行された。繁華街でのみかじめ料の徴収を禁じるなど、暴力団の基本的な収入を遮断することになる。違反した場合には中止命令が出され、従わなければ再発防止命令となり、悪質な場合は逮捕されることとなった。前出の古参幹部が、「暴対法が出来るとなった時はやっかいなことになったなと思った」と振り返り、次のように当時の実態を明かした。「暴対法施行前までは、縄張内の飲食店からみかじめ料(用心棒代)などを集めても何も問題はなかった。応じない店には、大型ダンプをバックで突っ込ませてメチャメチャに壊したこともあった。店が再開すると素直に応じた。しかし、みかじめ料が禁じられると、公然と拒否する店もあった。みかじめ料がシノギのメインだった者たちはカネを徴収できずに辞めていった」こうした一部の暴力団の苦境は警察当局の統計にも記録されている。暴対法施行の前年となる1991年の暴力団構成員は約6万3800人だったが、暴対法が施行された1992年には約5万6600人へと急激に減少した。この年を境に右肩下がりとなり94年には5万人を切って約4万8000人、以降は毎年のように一方的に減少し2001年には約4万3100人となった。困難を極めたこと中止命令を出すには暴対法に基づいて指定暴力団として指定された組織の構成員であることが前提となる。暴力団であればどの組織も指定されるわけではなく、次のような要件が必要となっている。 1.暴力団としての組織の威力を用いて資金獲得活動を行っている。2.構成員に一定比率以上に犯歴所有者がいる。3.組長をトップに組織がピラミッド型の階層を形成している。上記の3つの要件を満たした場合、都道府県の公安委員会によって指定される。現在、6代目山口組や住吉会、稲川会など指定暴力団は25組織となっている。指定暴力団となると、繁華街の飲食店などからのみかじめ料の徴収だけでなく、不当な債権回収なども禁じられる。対立抗争状態となった場合には事務所の使用が制限されるなど規制は多岐にわたる。指定するにあたって最も煩雑な作業は構成員を認定することだった。暴対法施行前夜、準備にあたった警察当局の捜査幹部OBが振り返る。「暴対法が施行される前は、資料集めが大変で忙しかった。これまでの調書のコピーを集めるなど認定資料を大量に作成した。身上調書といって、本籍、住所、氏名、生年月日などの基本的な事項から、いつごろヤクザになったか、組織内での階級、役職、親分は誰か、下にいる配下の若い衆はだれかなどを調書にして署名させた。ヤクザの名刺や写真なども添付した。『この者はヤクザで間違いない』とする資料を作成し構成員として認定していった」「ヤクザに負けるわけにはいかない」山口組を指定暴力団として指定するにあたっては、兵庫県公安委員会が1992年4月に開いた聴聞会に、5代目組長の渡辺芳則の代理として若頭の宅見が出席して反論したことがあった。「法の下の平等に反し、ヤクザという社会的身分で差別するなど憲法違反」と語気を強めて主張。武闘派であるとともに経済ヤクザとしても名を馳せていた宅見は、この場面では法律論で論客ぶりを見せつけた。 警察当局が資料作成に慎重を期していたのは、こうした暴力団側からの反論や訴訟への対策という意味合いもあった。後に取り下げたが、実際に山口組は1992年11月、指定暴力団としての指定の取り消しを求めた行政訴訟を神戸地裁に起こした。山口組が起こした訴訟に限らず、警察当局の幹部は、「このような訴訟でヤクザに負けるわけにはいかない」と述べている。攻勢を強めようと暴対法施行にあたり警察庁から当時、全国の警察本部に対して、「(容疑は)何でもいいからヤクザを逮捕しろ」との大号令が下った。前出の捜査幹部OBは、「傷害や恐喝などの本格的な事件だけでなく、組長がペットで飼っている犬が予防接種をしていなかったとして狂犬病予防法違反容疑で、ささいな密漁をしていたら漁業法違反容疑などで逮捕した」とも述べる。「つながりはいつまでも続く」しかし、警察の取り締まり強化などに対して手を尽くして組織の生き残りを図ってきたのが暴力団だった。暴対法施行以降、一方的に減少を続けてきた暴力団構成員だったが、2001年に約4万3100人が確認されてから、ここで底を打ち、その後は2010年ごろまで4万4000人前後で一進一退の攻防となる。捜査幹部OBは、「やはりヤクザの資金源の基本はみかじめ料、用心棒代だ。スナックなどからヤクザの事務所に『酔った客がカネを払わないぞと騒いでいる』などと連絡が入ると、ヤクザはすぐさま駆け付ける。ほかの客の迷惑にならないように裏口から入り、問題の客の襟首をつかんで外に連れ出して懲らしめる。短時間で片付けてくれる。だからヤクザとのつながりはいつまでも続く」とも内情を明かす。前出の指定暴力団の古参幹部は、「当初は中止命令が出されても従っていればそれでよかった。恐喝で逮捕されるよりはよほどマシだったと受け止めていた」とも述べた。 暴力団側は水面下で、一部の店舗からみかじめ料の徴収を続けていたほか、闇金融や闇カジノ、建設工事現場への介入、ご法度とされてきた覚醒剤の密売への回帰など、さまざまな手で組織の維持を図ってきたとみられる。近年は特殊詐欺に乗り出すなど新たな資金源を開拓してきた。だが、その後に全国で整備された暴排条例によって暴力団は追い詰められることになる。後編『暴力団は減ったが、半グレは急増…「暴排条例VS暴力団」壮絶30年にわたる攻防が日本にもたらした大変化 』では、暴排条例をめぐる攻防にスポットライトを当てる。(文中敬称略、肩書などは当時)
表経済の活況は当時、「闇社会」「裏社会」と称されていた暴力団業界にもバブルの恩恵がもたらされ、1980年代後半から1990年代前半の暴力団構成員は6万人台後半で7万人に迫る勢いだった。暴力団幹部たちは地上げで得た資金を株式で運用するなどでさらにふくらませていた。一部の暴力団幹部たちは「経済ヤクザ」と呼ばれた。
当時、経済ヤクザとして稲川会の2代目会長だった石井進の名が広く知られていた。だが、東急電鉄株の買い占めを進めていたことが発覚し問題視された。証券市場へと手引きしていたのは「ガリバー」と呼ばれた業界最大手の野村証券だったことが判明し、「証券業界のドン」とされた同社会長、田淵節也が辞任に追い込まれ大きな非難を浴びた経緯もあった。
石井のほかに1990年代、5代目時代の山口組のナンバー2、若頭を務めていた宅見勝も地上げなどで巨額の資金を動かしていたことで知られていた。宅見は常々、周囲に「日経新聞を読んでいればシノギ(資金源)のヒントが見つかる」と口癖のように語っていたという。
首都圏で活動している指定暴力団の古参幹部が当時を懐かしげに語る。
「当時は毎月のように地上げの仕事が入り数千万円単位のカネが次々と入ってきた。そのほかに縄張り内の繁華街の飲食店からのみかじめ料(用心棒代)なども継続的に集めていた。バブルで景気がよかったころはカネの使い道に困ったほどだった」
関西地方に拠点を構える別の指定暴力団の幹部は、「バブルの好景気のころ自分はまだまだ若手だったが、それでもバブル前には触ったことがないような億単位のカネが手に入った。車はリンカーンやベンツなど値の張る外車に乗っていた」と振り返る。
「厄介なことになったな」1980年代に入ったころは6万人台前半だった全国の暴力団構成員は、好調な表経済に歩を合わせるように80年代後半に向けて増加し、バブルのピークの1989年には約6万6700人が確認された。翌1990年は約6万8700人へとさらに増加し、引き続き繁栄を謳歌するかに見えた。だが、バブルは崩壊。各方面で資金がショートし始めると暴力団業界でもシノギと呼ばれる資金獲得活動で対立が目立つようになり、大都市の繁華街での発砲事件などに批判の声が上がり始めた。こうした情勢に対応するため、法律で暴力団の活動を規制する原点とされる暴対法が1992年3月に施行された。繁華街でのみかじめ料の徴収を禁じるなど、暴力団の基本的な収入を遮断することになる。違反した場合には中止命令が出され、従わなければ再発防止命令となり、悪質な場合は逮捕されることとなった。前出の古参幹部が、「暴対法が出来るとなった時はやっかいなことになったなと思った」と振り返り、次のように当時の実態を明かした。「暴対法施行前までは、縄張内の飲食店からみかじめ料(用心棒代)などを集めても何も問題はなかった。応じない店には、大型ダンプをバックで突っ込ませてメチャメチャに壊したこともあった。店が再開すると素直に応じた。しかし、みかじめ料が禁じられると、公然と拒否する店もあった。みかじめ料がシノギのメインだった者たちはカネを徴収できずに辞めていった」こうした一部の暴力団の苦境は警察当局の統計にも記録されている。暴対法施行の前年となる1991年の暴力団構成員は約6万3800人だったが、暴対法が施行された1992年には約5万6600人へと急激に減少した。この年を境に右肩下がりとなり94年には5万人を切って約4万8000人、以降は毎年のように一方的に減少し2001年には約4万3100人となった。困難を極めたこと中止命令を出すには暴対法に基づいて指定暴力団として指定された組織の構成員であることが前提となる。暴力団であればどの組織も指定されるわけではなく、次のような要件が必要となっている。 1.暴力団としての組織の威力を用いて資金獲得活動を行っている。2.構成員に一定比率以上に犯歴所有者がいる。3.組長をトップに組織がピラミッド型の階層を形成している。上記の3つの要件を満たした場合、都道府県の公安委員会によって指定される。現在、6代目山口組や住吉会、稲川会など指定暴力団は25組織となっている。指定暴力団となると、繁華街の飲食店などからのみかじめ料の徴収だけでなく、不当な債権回収なども禁じられる。対立抗争状態となった場合には事務所の使用が制限されるなど規制は多岐にわたる。指定するにあたって最も煩雑な作業は構成員を認定することだった。暴対法施行前夜、準備にあたった警察当局の捜査幹部OBが振り返る。「暴対法が施行される前は、資料集めが大変で忙しかった。これまでの調書のコピーを集めるなど認定資料を大量に作成した。身上調書といって、本籍、住所、氏名、生年月日などの基本的な事項から、いつごろヤクザになったか、組織内での階級、役職、親分は誰か、下にいる配下の若い衆はだれかなどを調書にして署名させた。ヤクザの名刺や写真なども添付した。『この者はヤクザで間違いない』とする資料を作成し構成員として認定していった」「ヤクザに負けるわけにはいかない」山口組を指定暴力団として指定するにあたっては、兵庫県公安委員会が1992年4月に開いた聴聞会に、5代目組長の渡辺芳則の代理として若頭の宅見が出席して反論したことがあった。「法の下の平等に反し、ヤクザという社会的身分で差別するなど憲法違反」と語気を強めて主張。武闘派であるとともに経済ヤクザとしても名を馳せていた宅見は、この場面では法律論で論客ぶりを見せつけた。 警察当局が資料作成に慎重を期していたのは、こうした暴力団側からの反論や訴訟への対策という意味合いもあった。後に取り下げたが、実際に山口組は1992年11月、指定暴力団としての指定の取り消しを求めた行政訴訟を神戸地裁に起こした。山口組が起こした訴訟に限らず、警察当局の幹部は、「このような訴訟でヤクザに負けるわけにはいかない」と述べている。攻勢を強めようと暴対法施行にあたり警察庁から当時、全国の警察本部に対して、「(容疑は)何でもいいからヤクザを逮捕しろ」との大号令が下った。前出の捜査幹部OBは、「傷害や恐喝などの本格的な事件だけでなく、組長がペットで飼っている犬が予防接種をしていなかったとして狂犬病予防法違反容疑で、ささいな密漁をしていたら漁業法違反容疑などで逮捕した」とも述べる。「つながりはいつまでも続く」しかし、警察の取り締まり強化などに対して手を尽くして組織の生き残りを図ってきたのが暴力団だった。暴対法施行以降、一方的に減少を続けてきた暴力団構成員だったが、2001年に約4万3100人が確認されてから、ここで底を打ち、その後は2010年ごろまで4万4000人前後で一進一退の攻防となる。捜査幹部OBは、「やはりヤクザの資金源の基本はみかじめ料、用心棒代だ。スナックなどからヤクザの事務所に『酔った客がカネを払わないぞと騒いでいる』などと連絡が入ると、ヤクザはすぐさま駆け付ける。ほかの客の迷惑にならないように裏口から入り、問題の客の襟首をつかんで外に連れ出して懲らしめる。短時間で片付けてくれる。だからヤクザとのつながりはいつまでも続く」とも内情を明かす。前出の指定暴力団の古参幹部は、「当初は中止命令が出されても従っていればそれでよかった。恐喝で逮捕されるよりはよほどマシだったと受け止めていた」とも述べた。 暴力団側は水面下で、一部の店舗からみかじめ料の徴収を続けていたほか、闇金融や闇カジノ、建設工事現場への介入、ご法度とされてきた覚醒剤の密売への回帰など、さまざまな手で組織の維持を図ってきたとみられる。近年は特殊詐欺に乗り出すなど新たな資金源を開拓してきた。だが、その後に全国で整備された暴排条例によって暴力団は追い詰められることになる。後編『暴力団は減ったが、半グレは急増…「暴排条例VS暴力団」壮絶30年にわたる攻防が日本にもたらした大変化 』では、暴排条例をめぐる攻防にスポットライトを当てる。(文中敬称略、肩書などは当時)
1980年代に入ったころは6万人台前半だった全国の暴力団構成員は、好調な表経済に歩を合わせるように80年代後半に向けて増加し、バブルのピークの1989年には約6万6700人が確認された。翌1990年は約6万8700人へとさらに増加し、引き続き繁栄を謳歌するかに見えた。
だが、バブルは崩壊。各方面で資金がショートし始めると暴力団業界でもシノギと呼ばれる資金獲得活動で対立が目立つようになり、大都市の繁華街での発砲事件などに批判の声が上がり始めた。
こうした情勢に対応するため、法律で暴力団の活動を規制する原点とされる暴対法が1992年3月に施行された。繁華街でのみかじめ料の徴収を禁じるなど、暴力団の基本的な収入を遮断することになる。違反した場合には中止命令が出され、従わなければ再発防止命令となり、悪質な場合は逮捕されることとなった。
前出の古参幹部が、「暴対法が出来るとなった時はやっかいなことになったなと思った」と振り返り、次のように当時の実態を明かした。
「暴対法施行前までは、縄張内の飲食店からみかじめ料(用心棒代)などを集めても何も問題はなかった。応じない店には、大型ダンプをバックで突っ込ませてメチャメチャに壊したこともあった。店が再開すると素直に応じた。しかし、みかじめ料が禁じられると、公然と拒否する店もあった。みかじめ料がシノギのメインだった者たちはカネを徴収できずに辞めていった」
こうした一部の暴力団の苦境は警察当局の統計にも記録されている。暴対法施行の前年となる1991年の暴力団構成員は約6万3800人だったが、暴対法が施行された1992年には約5万6600人へと急激に減少した。この年を境に右肩下がりとなり94年には5万人を切って約4万8000人、以降は毎年のように一方的に減少し2001年には約4万3100人となった。
中止命令を出すには暴対法に基づいて指定暴力団として指定された組織の構成員であることが前提となる。暴力団であればどの組織も指定されるわけではなく、次のような要件が必要となっている。
1.暴力団としての組織の威力を用いて資金獲得活動を行っている。2.構成員に一定比率以上に犯歴所有者がいる。3.組長をトップに組織がピラミッド型の階層を形成している。上記の3つの要件を満たした場合、都道府県の公安委員会によって指定される。現在、6代目山口組や住吉会、稲川会など指定暴力団は25組織となっている。指定暴力団となると、繁華街の飲食店などからのみかじめ料の徴収だけでなく、不当な債権回収なども禁じられる。対立抗争状態となった場合には事務所の使用が制限されるなど規制は多岐にわたる。指定するにあたって最も煩雑な作業は構成員を認定することだった。暴対法施行前夜、準備にあたった警察当局の捜査幹部OBが振り返る。「暴対法が施行される前は、資料集めが大変で忙しかった。これまでの調書のコピーを集めるなど認定資料を大量に作成した。身上調書といって、本籍、住所、氏名、生年月日などの基本的な事項から、いつごろヤクザになったか、組織内での階級、役職、親分は誰か、下にいる配下の若い衆はだれかなどを調書にして署名させた。ヤクザの名刺や写真なども添付した。『この者はヤクザで間違いない』とする資料を作成し構成員として認定していった」「ヤクザに負けるわけにはいかない」山口組を指定暴力団として指定するにあたっては、兵庫県公安委員会が1992年4月に開いた聴聞会に、5代目組長の渡辺芳則の代理として若頭の宅見が出席して反論したことがあった。「法の下の平等に反し、ヤクザという社会的身分で差別するなど憲法違反」と語気を強めて主張。武闘派であるとともに経済ヤクザとしても名を馳せていた宅見は、この場面では法律論で論客ぶりを見せつけた。 警察当局が資料作成に慎重を期していたのは、こうした暴力団側からの反論や訴訟への対策という意味合いもあった。後に取り下げたが、実際に山口組は1992年11月、指定暴力団としての指定の取り消しを求めた行政訴訟を神戸地裁に起こした。山口組が起こした訴訟に限らず、警察当局の幹部は、「このような訴訟でヤクザに負けるわけにはいかない」と述べている。攻勢を強めようと暴対法施行にあたり警察庁から当時、全国の警察本部に対して、「(容疑は)何でもいいからヤクザを逮捕しろ」との大号令が下った。前出の捜査幹部OBは、「傷害や恐喝などの本格的な事件だけでなく、組長がペットで飼っている犬が予防接種をしていなかったとして狂犬病予防法違反容疑で、ささいな密漁をしていたら漁業法違反容疑などで逮捕した」とも述べる。「つながりはいつまでも続く」しかし、警察の取り締まり強化などに対して手を尽くして組織の生き残りを図ってきたのが暴力団だった。暴対法施行以降、一方的に減少を続けてきた暴力団構成員だったが、2001年に約4万3100人が確認されてから、ここで底を打ち、その後は2010年ごろまで4万4000人前後で一進一退の攻防となる。捜査幹部OBは、「やはりヤクザの資金源の基本はみかじめ料、用心棒代だ。スナックなどからヤクザの事務所に『酔った客がカネを払わないぞと騒いでいる』などと連絡が入ると、ヤクザはすぐさま駆け付ける。ほかの客の迷惑にならないように裏口から入り、問題の客の襟首をつかんで外に連れ出して懲らしめる。短時間で片付けてくれる。だからヤクザとのつながりはいつまでも続く」とも内情を明かす。前出の指定暴力団の古参幹部は、「当初は中止命令が出されても従っていればそれでよかった。恐喝で逮捕されるよりはよほどマシだったと受け止めていた」とも述べた。 暴力団側は水面下で、一部の店舗からみかじめ料の徴収を続けていたほか、闇金融や闇カジノ、建設工事現場への介入、ご法度とされてきた覚醒剤の密売への回帰など、さまざまな手で組織の維持を図ってきたとみられる。近年は特殊詐欺に乗り出すなど新たな資金源を開拓してきた。だが、その後に全国で整備された暴排条例によって暴力団は追い詰められることになる。後編『暴力団は減ったが、半グレは急増…「暴排条例VS暴力団」壮絶30年にわたる攻防が日本にもたらした大変化 』では、暴排条例をめぐる攻防にスポットライトを当てる。(文中敬称略、肩書などは当時)
1.暴力団としての組織の威力を用いて資金獲得活動を行っている。
2.構成員に一定比率以上に犯歴所有者がいる。
3.組長をトップに組織がピラミッド型の階層を形成している。
上記の3つの要件を満たした場合、都道府県の公安委員会によって指定される。現在、6代目山口組や住吉会、稲川会など指定暴力団は25組織となっている。
指定暴力団となると、繁華街の飲食店などからのみかじめ料の徴収だけでなく、不当な債権回収なども禁じられる。対立抗争状態となった場合には事務所の使用が制限されるなど規制は多岐にわたる。
指定するにあたって最も煩雑な作業は構成員を認定することだった。暴対法施行前夜、準備にあたった警察当局の捜査幹部OBが振り返る。
「暴対法が施行される前は、資料集めが大変で忙しかった。これまでの調書のコピーを集めるなど認定資料を大量に作成した。身上調書といって、本籍、住所、氏名、生年月日などの基本的な事項から、いつごろヤクザになったか、組織内での階級、役職、親分は誰か、下にいる配下の若い衆はだれかなどを調書にして署名させた。ヤクザの名刺や写真なども添付した。『この者はヤクザで間違いない』とする資料を作成し構成員として認定していった」
山口組を指定暴力団として指定するにあたっては、兵庫県公安委員会が1992年4月に開いた聴聞会に、5代目組長の渡辺芳則の代理として若頭の宅見が出席して反論したことがあった。「法の下の平等に反し、ヤクザという社会的身分で差別するなど憲法違反」と語気を強めて主張。武闘派であるとともに経済ヤクザとしても名を馳せていた宅見は、この場面では法律論で論客ぶりを見せつけた。
警察当局が資料作成に慎重を期していたのは、こうした暴力団側からの反論や訴訟への対策という意味合いもあった。後に取り下げたが、実際に山口組は1992年11月、指定暴力団としての指定の取り消しを求めた行政訴訟を神戸地裁に起こした。山口組が起こした訴訟に限らず、警察当局の幹部は、「このような訴訟でヤクザに負けるわけにはいかない」と述べている。攻勢を強めようと暴対法施行にあたり警察庁から当時、全国の警察本部に対して、「(容疑は)何でもいいからヤクザを逮捕しろ」との大号令が下った。前出の捜査幹部OBは、「傷害や恐喝などの本格的な事件だけでなく、組長がペットで飼っている犬が予防接種をしていなかったとして狂犬病予防法違反容疑で、ささいな密漁をしていたら漁業法違反容疑などで逮捕した」とも述べる。「つながりはいつまでも続く」しかし、警察の取り締まり強化などに対して手を尽くして組織の生き残りを図ってきたのが暴力団だった。暴対法施行以降、一方的に減少を続けてきた暴力団構成員だったが、2001年に約4万3100人が確認されてから、ここで底を打ち、その後は2010年ごろまで4万4000人前後で一進一退の攻防となる。捜査幹部OBは、「やはりヤクザの資金源の基本はみかじめ料、用心棒代だ。スナックなどからヤクザの事務所に『酔った客がカネを払わないぞと騒いでいる』などと連絡が入ると、ヤクザはすぐさま駆け付ける。ほかの客の迷惑にならないように裏口から入り、問題の客の襟首をつかんで外に連れ出して懲らしめる。短時間で片付けてくれる。だからヤクザとのつながりはいつまでも続く」とも内情を明かす。前出の指定暴力団の古参幹部は、「当初は中止命令が出されても従っていればそれでよかった。恐喝で逮捕されるよりはよほどマシだったと受け止めていた」とも述べた。 暴力団側は水面下で、一部の店舗からみかじめ料の徴収を続けていたほか、闇金融や闇カジノ、建設工事現場への介入、ご法度とされてきた覚醒剤の密売への回帰など、さまざまな手で組織の維持を図ってきたとみられる。近年は特殊詐欺に乗り出すなど新たな資金源を開拓してきた。だが、その後に全国で整備された暴排条例によって暴力団は追い詰められることになる。後編『暴力団は減ったが、半グレは急増…「暴排条例VS暴力団」壮絶30年にわたる攻防が日本にもたらした大変化 』では、暴排条例をめぐる攻防にスポットライトを当てる。(文中敬称略、肩書などは当時)
警察当局が資料作成に慎重を期していたのは、こうした暴力団側からの反論や訴訟への対策という意味合いもあった。後に取り下げたが、実際に山口組は1992年11月、指定暴力団としての指定の取り消しを求めた行政訴訟を神戸地裁に起こした。山口組が起こした訴訟に限らず、警察当局の幹部は、「このような訴訟でヤクザに負けるわけにはいかない」と述べている。
攻勢を強めようと暴対法施行にあたり警察庁から当時、全国の警察本部に対して、「(容疑は)何でもいいからヤクザを逮捕しろ」との大号令が下った。前出の捜査幹部OBは、「傷害や恐喝などの本格的な事件だけでなく、組長がペットで飼っている犬が予防接種をしていなかったとして狂犬病予防法違反容疑で、ささいな密漁をしていたら漁業法違反容疑などで逮捕した」とも述べる。
しかし、警察の取り締まり強化などに対して手を尽くして組織の生き残りを図ってきたのが暴力団だった。暴対法施行以降、一方的に減少を続けてきた暴力団構成員だったが、2001年に約4万3100人が確認されてから、ここで底を打ち、その後は2010年ごろまで4万4000人前後で一進一退の攻防となる。
捜査幹部OBは、「やはりヤクザの資金源の基本はみかじめ料、用心棒代だ。スナックなどからヤクザの事務所に『酔った客がカネを払わないぞと騒いでいる』などと連絡が入ると、ヤクザはすぐさま駆け付ける。ほかの客の迷惑にならないように裏口から入り、問題の客の襟首をつかんで外に連れ出して懲らしめる。短時間で片付けてくれる。だからヤクザとのつながりはいつまでも続く」とも内情を明かす。
前出の指定暴力団の古参幹部は、「当初は中止命令が出されても従っていればそれでよかった。恐喝で逮捕されるよりはよほどマシだったと受け止めていた」とも述べた。
暴力団側は水面下で、一部の店舗からみかじめ料の徴収を続けていたほか、闇金融や闇カジノ、建設工事現場への介入、ご法度とされてきた覚醒剤の密売への回帰など、さまざまな手で組織の維持を図ってきたとみられる。近年は特殊詐欺に乗り出すなど新たな資金源を開拓してきた。だが、その後に全国で整備された暴排条例によって暴力団は追い詰められることになる。後編『暴力団は減ったが、半グレは急増…「暴排条例VS暴力団」壮絶30年にわたる攻防が日本にもたらした大変化 』では、暴排条例をめぐる攻防にスポットライトを当てる。(文中敬称略、肩書などは当時)
暴力団側は水面下で、一部の店舗からみかじめ料の徴収を続けていたほか、闇金融や闇カジノ、建設工事現場への介入、ご法度とされてきた覚醒剤の密売への回帰など、さまざまな手で組織の維持を図ってきたとみられる。近年は特殊詐欺に乗り出すなど新たな資金源を開拓してきた。
だが、その後に全国で整備された暴排条例によって暴力団は追い詰められることになる。
後編『暴力団は減ったが、半グレは急増…「暴排条例VS暴力団」壮絶30年にわたる攻防が日本にもたらした大変化 』では、暴排条例をめぐる攻防にスポットライトを当てる。(文中敬称略、肩書などは当時)