今どき、運動会や飲み会がある会社は少ないが、京セラでは大事な文化とされてきた。これはもちろん創業者、稲盛和夫氏の哲学に基づくものだ。稲盛氏は、そうした行事で社員とどのような交流を図ってきたのか。
20年以上稲盛氏の秘書を務めた片岡登紀子氏が見てきた稲盛氏の意外な一面を、稲盛氏の情熱の思想と関係者の証言が綴られた新刊『熱くなれ 稲盛和夫 魂の瞬間』から紹介する。
実は、入社したとき(1984年)、これは3ヵ月で辞めることになるんやないか、と思いました。軍隊式の朝礼とか、当番制のトイレ掃除とかがあり、ものの使い方ひとつとっても、なかなか細かくて厳しいわけです。
人はものすごくあったかくて、いい人ばかりだな、と思ったんですが、私にはこの社風はしんどいな、と感じていました。ところが3ヵ月を乗り越えると次の1年が乗り越えられ、1年乗り越えると3年、10年と乗り越えられていって。
担当している仕事が次々に目の前にやってきて、それをなんとかクリアしようとしていたら、あっという間に月日が経っていました。
入社後、抵抗があったものの一つに、運動会がありました。休むなんてありえない感じでした。しかも、チーム対抗でやるんですが、もう真剣そのものなんです。応援合戦まであって。
それこそ高校の文化祭とか体育祭なみに、事前に練習をするんです。応援合戦も、何ヵ月も前から毎晩、練習をする。仕事が終わってからです。疲れて早く帰りたいのに、練習も出ないといけない。日曜日にリレーのバトン渡しの練習まであったりしました。最初は、とんでもないな、と思いましたね。
でも、準備をしていたときは抵抗があったんですが、実際に当日を迎えると、ものすごく盛り上がるんです。本当に高校時代みたいに。それこそちゃんと練習をしているから、それなりにレベルも高い。だから、みんなとても楽しんでいて。
稲盛氏のお得意は「うどんの早食い競争」年1回でしたけど、どうして運動会が開かれたのか、その意味はよくわかります。それは、心を一つにするためだったのだと思います。練習はきついなぁ、休みの日なのになぁ、と最初は思っていても、当日を迎えると大きな一体感が生まれるんです。私が入社する前は、稲盛名誉会長も競技には実際に出られていたそうです。うどんの早食い競争がお得意だという話も、諸先輩方からよく聞かされました。実際、お昼をご一緒したりしても、麺類を食べるのは、ものすごく早かった。昔から鍛えておられたのかもしれないです(笑)。私が運動会の名誉会長を覚えているのは、審査席にいらっしゃる姿です。でも、お昼になるとそこから出てきて、あちこちと回られる。みんながご飯を食べているところで一緒に食べたり、一緒に写真を撮ったり。応援にも参加したりして、すごく楽しまれている様子でした。もう一つ、運動会は本社だったり、全国の工場だったり事業所だったりで、それぞれ開かれていたんですが、例えば本社でも、総務にいたら、他の部署の人とはなかなか話をする機会はないんですね。営業の人との接点はそれほどないわけです。しかし、運動会もそうですし、いろいろな行事があれば、いつも一緒に仕事をしている人たち以外の部署の人たちとも仲よくなれる機会にもなります。そうすると、やっぱり仕事はやりやすくなるんです。これも魅力でしたね。慰安旅行では誰よりも早く浜へ慰安旅行は一度、鹿児島に2泊で行ったことを覚えています。ちょうど夏でしたが、名誉会長は水泳がお好きで海水浴にも行きました。磯庭園と呼ばれている有名な島津家別邸の仙巌園(せんがくえん)の前に浜があって、そこで泳いだんですが、みんなが着替えて出ていくと、名誉会長は一番に着替え終えて浜に出ているんです。しかも、よく見ると顔が白い。日焼け止めを塗ってはるんですけど、ちゃんと伸ばしていなかったんです(笑)。このときは、地元の若い人から借りてウインドサーフィンにもチャレンジされていました。そして夜はコンパで、みんなで一緒にご飯を食べて盛り上がる。一部の何人かは、名誉会長のお部屋に行って、また飲んだりする。名誉会長には慰労の気持ちもあったのかもしれませんが、やっぱり旅行も心を一つにすることができる場だったと思います。私は行っていませんが、鹿児島以外でも、黒部ダムに行ったり、若狭に海水浴に行ったり。白樺湖に行ったときには、名誉会長が自ら車を出して運転したという話も聞きました。一体感をつくるのに、名誉会長は慰安旅行をとても大切にされていたんです。 忘年会のゲームで思い切り叩かれたあと行事で印象深いのは、慰労会、特に忘年会です。名誉会長は昔は工場はもちろん、営業のコンパにもすべて出られていたと聞いています。私が印象深い忘年会は、秘書室や稲盛財団など名誉会長のすぐそばで仕事をしている70名ほどの会でした。これが、単に飲んでいるだけではなくて、何か余興を必ず入れるんですね。紙飛行機を折って飛ばして滞空時間を競うとか。こういうものを必ず先頭に立って楽しんでいたのが、名誉会長でした。忘れられないのは、ジャンケンをして勝ったほうが新聞紙を丸めたもので叩く、負けたほうはざぶとんでガードする、というゲームでした。叩いてかぶってジャンケンポンと呼ばれていましたが、これで名誉会長がジャンケンに負けて、ガードできなかった名誉会長を思い切り叩いた社員がいたんです。バーンと思い切り叩かれたわけですが、名誉会長が怒ったりすることはありませんでした。それどころか、「ああ、負けた」と笑いながら思い切り悔しがっている。とにかく楽しむんです。「君たちで楽しみなさい」という感じではない。自分も参加して、積極的に楽しむんです。みんなで集まって盛り上がって一体感を持つのが、そもそもお好きなんだと思います。歴代の秘書が囲む会に1時間早くやってきた忘年会もJALの会長に就任されてからは、なかなか難しくなりました。そしてJALでたいへんな苦労があったのではと、かつて名誉会長の秘書を務めた女性たちが実は心配していました。テレビで見ても、心労が伝わってきたというんですね。ぜひもう一度、お目にかかりたい、名誉会長を囲みたい、と。それでJALから戻って少し経ったときに、お願いをしたことがあったんです。ぜひ一度、かつての秘書が名誉会長を囲む会をさせてほしい、と。そうしたら、快く「いいよ」と言ってもらえて。かつての秘書の皆さんは、職場が変わっていたり、また大半が退職されていたりしたのですが、声をかけると30名ほどが集まりました。それで京都市内のホテルに会場を設けて、囲む会を開くことにしたんです。名誉会長はちょうど仕事の日でしたので、お昼12時に始めようとしていたんですが、名誉会長、もう11時には来てしまわれたんです。秘書に聞くと、「もう行こうと言われた」ということでしたが、私たちはまだ着いていません。部屋に行くと、正面にもう座られていて、「やあやあ」「写真を撮ろう」と声をかけられて。秘書の皆さんが名誉会長をお迎えするつもりだったのに、逆になってしまった。自分がホストになって、先頭に立って秘書の皆さんをもてなしてくださったんです。集まった秘書の皆さんは、本当に感激されていました。神崎順一氏提供 仕事の大小に関係なく、常に真剣長く近くで仕事をしていて強く感じたのは、誰に対しても何に対しても、等しく公平で同じように正面から向き合っていく姿勢でした。もちろん大きな事業の始まりや、合併のような大事な仕事もあるわけですが、日常で私たちが関わるようなちょっとした仕事についても、とにかく真剣に向き合う。細かなところまで、気を配る。必要なら自ら確認するし、指示を出す。仕事の重要性とか取引の金額の大きい小さいとか、取引があるかないかとか、そういうことは関係がないんです。また、自分で「たしかに、そうやな」と思ったら、そこはきちんと対応していただける。実は昔、写真撮影がお好きではありませんでした。カメラマンが1、2枚撮ると、「もう、ええやろ」と言って帰ろうとする。ところが私が撮影の担当になったとき、雰囲気を変えようと撮影場所を手配したり、奥さまとネクタイを相談したり、服のシワに注意したり、あれこれと動いていたら、そのうちに様子が変わりました。撮影で笑顔が出てくるようになったんです。こいつも一生懸命頑張ってんねんから、相手をしないかんな、と思われたのかもしれません。とてもありがたいことでした。多くの社員に、私と同じように自分だけの名誉会長とのエピソードがたくさんあると思います。インタビュー/上阪 徹
年1回でしたけど、どうして運動会が開かれたのか、その意味はよくわかります。それは、心を一つにするためだったのだと思います。練習はきついなぁ、休みの日なのになぁ、と最初は思っていても、当日を迎えると大きな一体感が生まれるんです。
私が入社する前は、稲盛名誉会長も競技には実際に出られていたそうです。うどんの早食い競争がお得意だという話も、諸先輩方からよく聞かされました。実際、お昼をご一緒したりしても、麺類を食べるのは、ものすごく早かった。昔から鍛えておられたのかもしれないです(笑)。
私が運動会の名誉会長を覚えているのは、審査席にいらっしゃる姿です。でも、お昼になるとそこから出てきて、あちこちと回られる。みんながご飯を食べているところで一緒に食べたり、一緒に写真を撮ったり。応援にも参加したりして、すごく楽しまれている様子でした。
もう一つ、運動会は本社だったり、全国の工場だったり事業所だったりで、それぞれ開かれていたんですが、例えば本社でも、総務にいたら、他の部署の人とはなかなか話をする機会はないんですね。営業の人との接点はそれほどないわけです。
しかし、運動会もそうですし、いろいろな行事があれば、いつも一緒に仕事をしている人たち以外の部署の人たちとも仲よくなれる機会にもなります。そうすると、やっぱり仕事はやりやすくなるんです。これも魅力でしたね。
慰安旅行は一度、鹿児島に2泊で行ったことを覚えています。ちょうど夏でしたが、名誉会長は水泳がお好きで海水浴にも行きました。磯庭園と呼ばれている有名な島津家別邸の仙巌園(せんがくえん)の前に浜があって、そこで泳いだんですが、みんなが着替えて出ていくと、名誉会長は一番に着替え終えて浜に出ているんです。
しかも、よく見ると顔が白い。日焼け止めを塗ってはるんですけど、ちゃんと伸ばしていなかったんです(笑)。このときは、地元の若い人から借りてウインドサーフィンにもチャレンジされていました。
そして夜はコンパで、みんなで一緒にご飯を食べて盛り上がる。一部の何人かは、名誉会長のお部屋に行って、また飲んだりする。名誉会長には慰労の気持ちもあったのかもしれませんが、やっぱり旅行も心を一つにすることができる場だったと思います。
私は行っていませんが、鹿児島以外でも、黒部ダムに行ったり、若狭に海水浴に行ったり。白樺湖に行ったときには、名誉会長が自ら車を出して運転したという話も聞きました。一体感をつくるのに、名誉会長は慰安旅行をとても大切にされていたんです。
忘年会のゲームで思い切り叩かれたあと行事で印象深いのは、慰労会、特に忘年会です。名誉会長は昔は工場はもちろん、営業のコンパにもすべて出られていたと聞いています。私が印象深い忘年会は、秘書室や稲盛財団など名誉会長のすぐそばで仕事をしている70名ほどの会でした。これが、単に飲んでいるだけではなくて、何か余興を必ず入れるんですね。紙飛行機を折って飛ばして滞空時間を競うとか。こういうものを必ず先頭に立って楽しんでいたのが、名誉会長でした。忘れられないのは、ジャンケンをして勝ったほうが新聞紙を丸めたもので叩く、負けたほうはざぶとんでガードする、というゲームでした。叩いてかぶってジャンケンポンと呼ばれていましたが、これで名誉会長がジャンケンに負けて、ガードできなかった名誉会長を思い切り叩いた社員がいたんです。バーンと思い切り叩かれたわけですが、名誉会長が怒ったりすることはありませんでした。それどころか、「ああ、負けた」と笑いながら思い切り悔しがっている。とにかく楽しむんです。「君たちで楽しみなさい」という感じではない。自分も参加して、積極的に楽しむんです。みんなで集まって盛り上がって一体感を持つのが、そもそもお好きなんだと思います。歴代の秘書が囲む会に1時間早くやってきた忘年会もJALの会長に就任されてからは、なかなか難しくなりました。そしてJALでたいへんな苦労があったのではと、かつて名誉会長の秘書を務めた女性たちが実は心配していました。テレビで見ても、心労が伝わってきたというんですね。ぜひもう一度、お目にかかりたい、名誉会長を囲みたい、と。それでJALから戻って少し経ったときに、お願いをしたことがあったんです。ぜひ一度、かつての秘書が名誉会長を囲む会をさせてほしい、と。そうしたら、快く「いいよ」と言ってもらえて。かつての秘書の皆さんは、職場が変わっていたり、また大半が退職されていたりしたのですが、声をかけると30名ほどが集まりました。それで京都市内のホテルに会場を設けて、囲む会を開くことにしたんです。名誉会長はちょうど仕事の日でしたので、お昼12時に始めようとしていたんですが、名誉会長、もう11時には来てしまわれたんです。秘書に聞くと、「もう行こうと言われた」ということでしたが、私たちはまだ着いていません。部屋に行くと、正面にもう座られていて、「やあやあ」「写真を撮ろう」と声をかけられて。秘書の皆さんが名誉会長をお迎えするつもりだったのに、逆になってしまった。自分がホストになって、先頭に立って秘書の皆さんをもてなしてくださったんです。集まった秘書の皆さんは、本当に感激されていました。神崎順一氏提供 仕事の大小に関係なく、常に真剣長く近くで仕事をしていて強く感じたのは、誰に対しても何に対しても、等しく公平で同じように正面から向き合っていく姿勢でした。もちろん大きな事業の始まりや、合併のような大事な仕事もあるわけですが、日常で私たちが関わるようなちょっとした仕事についても、とにかく真剣に向き合う。細かなところまで、気を配る。必要なら自ら確認するし、指示を出す。仕事の重要性とか取引の金額の大きい小さいとか、取引があるかないかとか、そういうことは関係がないんです。また、自分で「たしかに、そうやな」と思ったら、そこはきちんと対応していただける。実は昔、写真撮影がお好きではありませんでした。カメラマンが1、2枚撮ると、「もう、ええやろ」と言って帰ろうとする。ところが私が撮影の担当になったとき、雰囲気を変えようと撮影場所を手配したり、奥さまとネクタイを相談したり、服のシワに注意したり、あれこれと動いていたら、そのうちに様子が変わりました。撮影で笑顔が出てくるようになったんです。こいつも一生懸命頑張ってんねんから、相手をしないかんな、と思われたのかもしれません。とてもありがたいことでした。多くの社員に、私と同じように自分だけの名誉会長とのエピソードがたくさんあると思います。インタビュー/上阪 徹
あと行事で印象深いのは、慰労会、特に忘年会です。名誉会長は昔は工場はもちろん、営業のコンパにもすべて出られていたと聞いています。私が印象深い忘年会は、秘書室や稲盛財団など名誉会長のすぐそばで仕事をしている70名ほどの会でした。
これが、単に飲んでいるだけではなくて、何か余興を必ず入れるんですね。紙飛行機を折って飛ばして滞空時間を競うとか。こういうものを必ず先頭に立って楽しんでいたのが、名誉会長でした。
忘れられないのは、ジャンケンをして勝ったほうが新聞紙を丸めたもので叩く、負けたほうはざぶとんでガードする、というゲームでした。叩いてかぶってジャンケンポンと呼ばれていましたが、これで名誉会長がジャンケンに負けて、ガードできなかった名誉会長を思い切り叩いた社員がいたんです。
バーンと思い切り叩かれたわけですが、名誉会長が怒ったりすることはありませんでした。それどころか、「ああ、負けた」と笑いながら思い切り悔しがっている。とにかく楽しむんです。「君たちで楽しみなさい」という感じではない。自分も参加して、積極的に楽しむんです。
みんなで集まって盛り上がって一体感を持つのが、そもそもお好きなんだと思います。
忘年会もJALの会長に就任されてからは、なかなか難しくなりました。そしてJALでたいへんな苦労があったのではと、かつて名誉会長の秘書を務めた女性たちが実は心配していました。
テレビで見ても、心労が伝わってきたというんですね。ぜひもう一度、お目にかかりたい、名誉会長を囲みたい、と。
それでJALから戻って少し経ったときに、お願いをしたことがあったんです。ぜひ一度、かつての秘書が名誉会長を囲む会をさせてほしい、と。そうしたら、快く「いいよ」と言ってもらえて。
かつての秘書の皆さんは、職場が変わっていたり、また大半が退職されていたりしたのですが、声をかけると30名ほどが集まりました。それで京都市内のホテルに会場を設けて、囲む会を開くことにしたんです。
名誉会長はちょうど仕事の日でしたので、お昼12時に始めようとしていたんですが、名誉会長、もう11時には来てしまわれたんです。秘書に聞くと、「もう行こうと言われた」ということでしたが、私たちはまだ着いていません。
部屋に行くと、正面にもう座られていて、「やあやあ」「写真を撮ろう」と声をかけられて。秘書の皆さんが名誉会長をお迎えするつもりだったのに、逆になってしまった。自分がホストになって、先頭に立って秘書の皆さんをもてなしてくださったんです。集まった秘書の皆さんは、本当に感激されていました。
神崎順一氏提供
仕事の大小に関係なく、常に真剣長く近くで仕事をしていて強く感じたのは、誰に対しても何に対しても、等しく公平で同じように正面から向き合っていく姿勢でした。もちろん大きな事業の始まりや、合併のような大事な仕事もあるわけですが、日常で私たちが関わるようなちょっとした仕事についても、とにかく真剣に向き合う。細かなところまで、気を配る。必要なら自ら確認するし、指示を出す。仕事の重要性とか取引の金額の大きい小さいとか、取引があるかないかとか、そういうことは関係がないんです。また、自分で「たしかに、そうやな」と思ったら、そこはきちんと対応していただける。実は昔、写真撮影がお好きではありませんでした。カメラマンが1、2枚撮ると、「もう、ええやろ」と言って帰ろうとする。ところが私が撮影の担当になったとき、雰囲気を変えようと撮影場所を手配したり、奥さまとネクタイを相談したり、服のシワに注意したり、あれこれと動いていたら、そのうちに様子が変わりました。撮影で笑顔が出てくるようになったんです。こいつも一生懸命頑張ってんねんから、相手をしないかんな、と思われたのかもしれません。とてもありがたいことでした。多くの社員に、私と同じように自分だけの名誉会長とのエピソードがたくさんあると思います。インタビュー/上阪 徹
長く近くで仕事をしていて強く感じたのは、誰に対しても何に対しても、等しく公平で同じように正面から向き合っていく姿勢でした。
もちろん大きな事業の始まりや、合併のような大事な仕事もあるわけですが、日常で私たちが関わるようなちょっとした仕事についても、とにかく真剣に向き合う。細かなところまで、気を配る。必要なら自ら確認するし、指示を出す。
仕事の重要性とか取引の金額の大きい小さいとか、取引があるかないかとか、そういうことは関係がないんです。
また、自分で「たしかに、そうやな」と思ったら、そこはきちんと対応していただける。実は昔、写真撮影がお好きではありませんでした。カメラマンが1、2枚撮ると、「もう、ええやろ」と言って帰ろうとする。
ところが私が撮影の担当になったとき、雰囲気を変えようと撮影場所を手配したり、奥さまとネクタイを相談したり、服のシワに注意したり、あれこれと動いていたら、そのうちに様子が変わりました。撮影で笑顔が出てくるようになったんです。
こいつも一生懸命頑張ってんねんから、相手をしないかんな、と思われたのかもしれません。とてもありがたいことでした。多くの社員に、私と同じように自分だけの名誉会長とのエピソードがたくさんあると思います。
インタビュー/上阪 徹