竹下登元首相(1924~2000年)と弟の亘元衆議院議員(1946~2021年)の生家である島根県雲南市掛合(かけや)町の酒蔵「竹下本店」が昨年、150年以上続けた酒造事業から撤退した。
後継者の不在が理由で、事業は県内外で山林事業などを展開する「田部グループ」に譲渡され、今後、竹下本店は解散する。登氏が命名した銘柄「出雲誉」も販売を終了した。しかし、今後は登氏が提唱した「ふるさと創生」の意を継ぎ、町を酒やしょうゆ、みそなどを堪能できる麹の街として活性化を目指すという。
田部家にお返しする
松江市から車で1時間余り。山間に位置する掛合町の中心部で竹下本店は造り酒屋を続けてきた。
もともと地域の庄屋だった竹下家は、慶応2(1866)年に地元の大地主、田部家から日本酒造りの権利を譲り受けた。
登氏と亘氏の弟である社長の三郎さん(74)は「令和3年の中ごろから、造り酒屋をどうするか親族などで話し合ってきた。コロナ禍と後継者がいないことから、田部家にお返ししようかということになった」と話す。
当時、がんで闘病中だった亘氏も納得し、田部家も快く引き受けてくれた。田部グループは子会社「田部竹下酒造」を設立し、昨年11月1日までに、同社に醸造設備や酒造免許、酒類の販売免許などは譲渡された。
現在は竹下本店で使っていた設備を活用し、グループが呼び寄せた杜氏(とうじ)らが新しい銘柄を開発中。数年内に、近くの敷地に新たな酒蔵も建設する計画だ。
政治が最優先の家
兄たちが政治家としての道を進む一方、三郎さんは昭和51年に竹下本店を継いだ。「家業である酒造と選挙は関係ないので誤解してほしくない」としながら、「竹下家は政治が最優先の家だった」と振り返り、「酒を1本売るより、票を1票取ってこいというのが家訓のようなものだった」と笑う。
大正時代から「出雲大衆」の銘柄で知られてきたが、時代とともにお祝いや贈答品に「大衆」という響きが似つかわしくなくなり、昭和50年代に登氏が「出雲誉」と名付けた商品を主力とした。
登氏が忙しい合間を縫って帰省すると、三郎さんに「酒はどげんなっちょーかいのお? 悪かったのー」とねぎらってくれた。三郎さんは「長男として家業を継ぐ務めを果たせなかったことを気にしていたのでしょう」という。
そのためか、登氏が5年間務めた大蔵相時代は、年末の予算編成作業で残業する職員への陣中見舞いとして出雲誉を差し入れ、その姿がニュースに取り上げられるのが風物詩だった。三郎さんは、出雲誉のラベルが見えるように渡してくれと、登氏にこっそり頼んでいたという。
また、昭和62年の首相就任時には全国から出雲誉を求める電話が1週間ほど鳴りやまなかった。「悲鳴があがるほどだった。初めて注文を断らざるを得なかった」
今、ふるさと創生を
ただ、時は流れ、亘氏が亡くなった時期と家業の後継者問題が重なった。
「家業を終えるのは、親族会議の中でも葛藤があった。また、政治家としての後継者をどうするのかも何度も話し合った。竹下家の中で政治に意欲のある人がいれば、という話だったが、結果的に継ぐ人はいなかった」
登さんの孫でタレントのDAIGOさんも有力後継候補の一人だった。DAIGOさんの顔をあしらったラベルの日本酒も竹下本店の人気商品だっただけに、期待はあったがかなわなかった。
三郎さんは「総理大臣まで出させていただいた家として、みなさんにお世話になった。いまだにプレッシャーはあるが、このあたりで静かにさせていただこうと決断した」という。
しかし、三郎さんには楽しみもある。今後は、田部グループの一員として、掛合町と田部家の本拠地、雲南市吉田町周辺を全国から人を呼べる観光地にしようというのだ。「新しい酒蔵を見てもらい、地元のそばなどを食べられる飲食店もつくる。しょうゆやみそなどを扱う麹菌のショップもつくる構想を田部家と練っている」という。
掛合町の人口は、三郎さんが社長になったころから半減している。商売はたたんでも、街の活性化には貢献したいという。「登兄さんが提唱したふるさと創生の精神に合う。うまく軌道に乗れば、兄さんも『よくやった』といってくれるのでは」(藤原由梨)