2002年3月に発覚した「北九州監禁連続殺人事件」。起訴された案件だけで7人が死亡しているこの事件では、主犯の松永太(逮捕時40)と緒方純子(同40)が、緒方の親族らへの殺人罪(うち1件は傷害致死)に問われ、松永の死刑と緒方の無期懲役刑がそれぞれ確定している。
【写真】亡くなった末松祥子さん(当時32)と莉緒ちゃん(2) すでに司法上の決着がついた同事件だが、そのなかには、事件化されずに“謎の死”との扱いを受けたものもある。

次の“金づる”にされたのは元交際相手 松永と緒方が最初に関わったとされる殺人事件は、彼らに監禁致傷の被害を受けた少女・広田清美さん(仮名、以下同)の父である広田由紀夫さん(死亡時34)が、福岡県北九州市内のマンションで、通電などの虐待を受け続けたことによって、1996年2月に衰弱死したもの。 だがそれよりも前の、93年10月から94年3月にかけて、松永と緒方、彼らの子供と同居していた福岡県筑後地方出身の母子2人が、連続して死亡するという出来事が起きているのだ。 女性の名前は末松祥子さん(死亡時32)。娘の名前は莉緒ちゃん(死亡時2)という。 祥子さんは20歳の頃に松永と交際していたが、88年に筑後地方の役所に勤務する男性と結婚。91年10月に莉緒ちゃんを含む女の子ばかりの三つ子を生んでいた。 松永と緒方は、松永が福岡県柳川市で営んでいた布団訪問販売会社「ワールド」が破綻したことや、詐欺事件と暴力行為等処罰に関する法律違反事件で指名手配されたことを受け、同市から逃走。同県北九州市で人目を避けて暮らしていた。 当時の彼らは、逃走に同行させたワールドの元従業員・山形康介さんに、彼の母親から多額の送金をさせるなどして、生活資金としていたのだが、松永の暴力に耐えかねた山形さんが、93年1月中旬に共同生活から逃げ出してしまう。そこで、次なる“金づる”を求めた松永が、祥子さんに甘言を弄して接近したのだった。結婚をエサに寄生され、娘は不審死、本人は自殺に追い込まれた この際の状況について、松永と緒方の福岡地裁小倉支部における公判での、検察による論告書には以下のようにある。〈被告人両名(松永と緒方)は、山形に代わる金づるとして、松永がかつて交際していた末松に着目し、緒方が子供を抱えて窮乏しているなどと申し向けてその同情を誘い、これに付け込み、平成5年(93年)1月19日から同年4月2日までの間、前後4回にわたって、末松から、(松永と緒方の)長男の出産・育児費用等の名目で、現金合計240万円を受領した〉 緒方が長男を生んだのは93年1月下旬のことだ。論告書は続ける。〈また、被告人両名は、同月ころ、末松をして北九州市小倉北区東篠崎×丁目「東篠崎マンション」(仮名)30×号室を契約させ、同室を新たな隠れ家とした。他方で、松永は、末松をその三つ子と共に家出させ、同月下旬ころ、これも同女名義で契約させた同市小倉南区内の「横代マンション」(仮名)60×号室に入居させた。末松は、同年7月×日には当時の夫と離婚し、その後、被告人両名も同室に移り住み、末松との共同生活が始まった〉 そこで松永は祥子さんに対して、自身との結婚をちらつかせながら、子供の養育費等の名目で彼女の実父や前夫にカネの無心をさせた。結果として、これまでに彼女が渡した240万円とは別に、93年6月10日頃から94年3月9日までの間に1141万円を出させている。その渦中に悲劇が起きた。以下、論告書から。〈平成5年10月29日、末松の三つ子の1人であった末松莉緒(当時2歳)が、頭部打撲による急性硬膜下血腫により死亡したため、被告人両名は、その直後に、隠れ家を前記「横代マンション」60×号室から、末松の実父名義で借りていた北九州市小倉北区の「三郎丸ビル」(仮名)40×号室に変更した〉 この莉緒ちゃんの死亡については、自宅での出来事であることから、当然ながら警察による聴取も行われており、当時は事故であるとの結論が出されていた。後の松永らの裁判での論告書は、この時期に祥子さんが実父や前夫から受けた送金額を月別に挙げている。そこでは莉緒ちゃんが死亡した直後から急激に送金額が増え、93年11月から94年1月までの3カ月間は計約630万円とある。 この点について論告書は、〈この時期、被告人両名が、莉緒の死亡を受けて、更なる逃亡の必要に備えていたことがうかがわれる〉と説明。しかし、94年2月になると祥子さんへの送金額が47万円に減り、同3月も、9日に71万円を送ってもらったが、それ以降は送金が止まっていることで、同論告書は〈末松の金づるとしての利用価値も失われつつあったことが認められる〉と指摘する。 そして祥子さんは、94年3月31日に、大分県別府市の海岸で水死するのだ。この案件についても警察による捜査が行われ、自殺であり事件性はないとの結論が出されている。祥子さんの左手に包帯、頬には痣が… とはいえ、02年に松永と緒方が逮捕された際、家宅捜索によって押収された写真類があり、それによって生存時の祥子さんが虐待を受けていたことが判明する。以下のことを論告書が明かす。〈平成5年(93年)夏ころに撮影されたと思われる写真(写真番号は省略、以下同)では、末松の左手に包帯が巻かれており、さらに、同年12月10日ころ撮影された写真には、末松の頬に痣らしきものが見え、同月24日に撮影された写真では、末松は、ホテルの洋室の床に正座させられている様子である。(中略) そして、同年(94年)2月23日ころに撮影された写真では、乱雑に切りそろえられた髪型をし、化粧気もない生気を欠いた表情で正座する末松が写されている。 以上の末松の写真を見れば、少なくとも、末松が、苦境にある被告人両名のために多額の現金を提供してくれた人間として丁重に扱われていた痕跡は皆無であり、むしろ、その身体の負傷状況や、ろくに美容院等にも行かせてもらえずにいた様子などからは、被告人両名が、種々の生活制限や虐待を通じ、末松を支配していたことが認められるのである〉 私は02年6月に、筑後地方に住む祥子さんの父・末松行雄さんから話を聞いている。「祥子は(93年)4月に家出したとですけど、その前に、あの子が毎晩出かけるいうことを婿さんから聞いて、私が問い質したんです。そうしたら、『緒方さんという知り合いに、もうすぐ子供が産まれるとやけど、旦那さんが助からんごとある(助からない)病気で、ものすご大変なんよ』と言うんです」 松永は祥子さんに対して、緒方はワールドの事務員だと説明しており、それを信じた祥子さんは、緒方の出産費用などで約240万円を振り込んでいる。行雄さんは続ける。「私が注意しても、夜に出歩くのを止めないため、それについて咎めると、涙を流しながら、『緒方さんはかわいそうな人なの。貧乏で子供のミルク代もなかけん、米のとぎ汁やら飲ませようとよ』と言うのです」 松永は自分との結婚をちらつかせて、子供を連れて自分のもとに家出してこないかと持ちかけた。そして祥子さんは3人の子供を連れて家を出てしまう。祥子さんが聞かされていた緒方の話は、あくまでも松永が作った、彼女の同情を誘うための“設定”である。だが、松永に対する恋慕が、そうした嘘を見抜けなくさせてしまっていた。父親は娘を不審に思いつつも金を送り続けた「家出の前に1回、祥子に頼まれて20万円を振り込んだことがあったとです。でも、そのときは理由を言わず、ちょっと貸してほしいみたいな感じで、なにも疑いませんでした」 祥子さんの家出については、夫からではなく、本人からの連絡で知ったようだ。「5月初めごろに本人から『いま家出して別府(大分県)におる』っちゅう電話があったとですよ」 そこで彼女が子どもを連れて家を出たことを初めて知り、娘を叱っている。「それはもう、なんしよっとかって。3人も子どもがおって生活できっとか(できるのか)ってね……」 実際のところ、この時期の祥子さんは別府ではなく北九州市にいた。だが、連れ戻しに来られないようにするため、別府だと嘘をついていたのだ。松永という男の存在についても、02年に彼らの事件が発覚して、初めて警察から聞いたことだと話す。「最後に50万円(実際は71万円)送ってから、10日くらいで亡くなったのかな。こっちはそれまでに、もっといっぱい送っとったとやけど、おカネがなくなっとるでしょ。(警察からは)『なんに遣ったかわからん』って言われたね。俺もバカやけん、送ってくれ言われたら、送りよったけん……」 行雄さんはキャッシュカードを持っていないと説明する祥子さんに、別府市内にある郵便局留めで送金をしていた。しかし、彼女は父親や前夫からの送金以外にも、カネの工面を行っていた。その一つが消費者金融での借金である。「祥子が死んでからわかったことやけど、(消費者金融からの借金は)250万から300万近くやなかでしょうか。50万ずつとかで、何軒かに借りとりました」 地名以外の具体的な居場所を明かさない祥子さんは、頼み事があるときにだけ、実家に電話をかけてきたそうだ。「2、3日に1回のこともあれば、間が空くこともあり、平均したら1週間に1回くらいやったですかねえ」 その際に行雄さんは、離婚の原因についても尋ねている。「まあ、訳わからんこと言いよったね。おとなしか婿さんなのに、婿さんから暴力を振るわれたやらね。もう明らかに嘘ってわかることを言いよると。あと、家出から1、2カ月経ってから警察に捜索願を出したら、本人がそれを取り消したり……警察からね、『本人が取り消してくれち言いよるから、取り消した』っち連絡を受けたとですよ」自殺直前の会話は「死んだ孫の保険金はどうなったか」 93年10月に莉緒ちゃんが“事故死”をしたということは、電話ではなく、手紙で知らされたが、理由についてはなにも書いていなかった。祥子さんはその後、残り2人の娘を元夫のもとに戻している。「(祥子さんから)連絡があって、『久留米の託児所に預けたけん』て。それで引き取りに行ったとです。ただ、その子らを祥子が連れてきたかどうかは、当時聞いてなかったもんで、わからんとです」 さらに亡くなった莉緒ちゃんの遺骨は別の方法で届けられた。「こっちが(遺骨を)送れ送れって言いよったとですよ。そしたら、『鳥栖(佐賀県)の駅前のコインロッカーに入れた』ち、ロッカーの鍵が送られてきたとです」 その時期にはすでに、祥子さんの口調はかつて知る彼女のものではなく、別人のようになっていたと語る。「孫が亡くなったあとで、こっちが何度も帰って来いと迫ると、そのうち、弁護士の名前と電話番号を挙げて、そこに電話して話してくれやら言うようになったとです。あとで警察の人が言うには、そりゃ本物の弁護士やなくて、松永のことやろうって……。弁護士について、昔はメモば残しとったとですけど、祥子が死んでから捨ててしもうて……」 行雄さんが祥子さんと最後に話したのは、彼女が“自殺”する2日前のことだ。「死んだ孫の保険金はどうなったかという話でした。『それは婿さんの方に行っとるはずやろうもん』と言うと、納得したようで、電話ば切ったんが最後でした」 その後、大分県警からの連絡で、行雄さんは娘の“自殺”を知らされることになる。「自分から飛び込んだかもしれんばってん、祥子の遺体ば引き取りに行ったときに、あの子は家を出たときと同じ服装でした。(保険金を合わせて)1300万円近い金額を送ってもらっとるとにもかかわらず、預金口座には3000円しか残されとらんかったとです」 その話を行雄さんから聞いてから20年が経った。あれからなにか新しい話は出てきたのだろうか。私は現在の状況を取材することにした。“金づる”になった後に…不審死した32歳女性と2歳の娘は「北九州監禁連続殺人事件」の8、9人目の犠牲者だったのか へ続く(小野 一光)
すでに司法上の決着がついた同事件だが、そのなかには、事件化されずに“謎の死”との扱いを受けたものもある。

松永と緒方が最初に関わったとされる殺人事件は、彼らに監禁致傷の被害を受けた少女・広田清美さん(仮名、以下同)の父である広田由紀夫さん(死亡時34)が、福岡県北九州市内のマンションで、通電などの虐待を受け続けたことによって、1996年2月に衰弱死したもの。
だがそれよりも前の、93年10月から94年3月にかけて、松永と緒方、彼らの子供と同居していた福岡県筑後地方出身の母子2人が、連続して死亡するという出来事が起きているのだ。
女性の名前は末松祥子さん(死亡時32)。娘の名前は莉緒ちゃん(死亡時2)という。
祥子さんは20歳の頃に松永と交際していたが、88年に筑後地方の役所に勤務する男性と結婚。91年10月に莉緒ちゃんを含む女の子ばかりの三つ子を生んでいた。 松永と緒方は、松永が福岡県柳川市で営んでいた布団訪問販売会社「ワールド」が破綻したことや、詐欺事件と暴力行為等処罰に関する法律違反事件で指名手配されたことを受け、同市から逃走。同県北九州市で人目を避けて暮らしていた。 当時の彼らは、逃走に同行させたワールドの元従業員・山形康介さんに、彼の母親から多額の送金をさせるなどして、生活資金としていたのだが、松永の暴力に耐えかねた山形さんが、93年1月中旬に共同生活から逃げ出してしまう。そこで、次なる“金づる”を求めた松永が、祥子さんに甘言を弄して接近したのだった。結婚をエサに寄生され、娘は不審死、本人は自殺に追い込まれた この際の状況について、松永と緒方の福岡地裁小倉支部における公判での、検察による論告書には以下のようにある。〈被告人両名(松永と緒方)は、山形に代わる金づるとして、松永がかつて交際していた末松に着目し、緒方が子供を抱えて窮乏しているなどと申し向けてその同情を誘い、これに付け込み、平成5年(93年)1月19日から同年4月2日までの間、前後4回にわたって、末松から、(松永と緒方の)長男の出産・育児費用等の名目で、現金合計240万円を受領した〉 緒方が長男を生んだのは93年1月下旬のことだ。論告書は続ける。〈また、被告人両名は、同月ころ、末松をして北九州市小倉北区東篠崎×丁目「東篠崎マンション」(仮名)30×号室を契約させ、同室を新たな隠れ家とした。他方で、松永は、末松をその三つ子と共に家出させ、同月下旬ころ、これも同女名義で契約させた同市小倉南区内の「横代マンション」(仮名)60×号室に入居させた。末松は、同年7月×日には当時の夫と離婚し、その後、被告人両名も同室に移り住み、末松との共同生活が始まった〉 そこで松永は祥子さんに対して、自身との結婚をちらつかせながら、子供の養育費等の名目で彼女の実父や前夫にカネの無心をさせた。結果として、これまでに彼女が渡した240万円とは別に、93年6月10日頃から94年3月9日までの間に1141万円を出させている。その渦中に悲劇が起きた。以下、論告書から。〈平成5年10月29日、末松の三つ子の1人であった末松莉緒(当時2歳)が、頭部打撲による急性硬膜下血腫により死亡したため、被告人両名は、その直後に、隠れ家を前記「横代マンション」60×号室から、末松の実父名義で借りていた北九州市小倉北区の「三郎丸ビル」(仮名)40×号室に変更した〉 この莉緒ちゃんの死亡については、自宅での出来事であることから、当然ながら警察による聴取も行われており、当時は事故であるとの結論が出されていた。後の松永らの裁判での論告書は、この時期に祥子さんが実父や前夫から受けた送金額を月別に挙げている。そこでは莉緒ちゃんが死亡した直後から急激に送金額が増え、93年11月から94年1月までの3カ月間は計約630万円とある。 この点について論告書は、〈この時期、被告人両名が、莉緒の死亡を受けて、更なる逃亡の必要に備えていたことがうかがわれる〉と説明。しかし、94年2月になると祥子さんへの送金額が47万円に減り、同3月も、9日に71万円を送ってもらったが、それ以降は送金が止まっていることで、同論告書は〈末松の金づるとしての利用価値も失われつつあったことが認められる〉と指摘する。 そして祥子さんは、94年3月31日に、大分県別府市の海岸で水死するのだ。この案件についても警察による捜査が行われ、自殺であり事件性はないとの結論が出されている。祥子さんの左手に包帯、頬には痣が… とはいえ、02年に松永と緒方が逮捕された際、家宅捜索によって押収された写真類があり、それによって生存時の祥子さんが虐待を受けていたことが判明する。以下のことを論告書が明かす。〈平成5年(93年)夏ころに撮影されたと思われる写真(写真番号は省略、以下同)では、末松の左手に包帯が巻かれており、さらに、同年12月10日ころ撮影された写真には、末松の頬に痣らしきものが見え、同月24日に撮影された写真では、末松は、ホテルの洋室の床に正座させられている様子である。(中略) そして、同年(94年)2月23日ころに撮影された写真では、乱雑に切りそろえられた髪型をし、化粧気もない生気を欠いた表情で正座する末松が写されている。 以上の末松の写真を見れば、少なくとも、末松が、苦境にある被告人両名のために多額の現金を提供してくれた人間として丁重に扱われていた痕跡は皆無であり、むしろ、その身体の負傷状況や、ろくに美容院等にも行かせてもらえずにいた様子などからは、被告人両名が、種々の生活制限や虐待を通じ、末松を支配していたことが認められるのである〉 私は02年6月に、筑後地方に住む祥子さんの父・末松行雄さんから話を聞いている。「祥子は(93年)4月に家出したとですけど、その前に、あの子が毎晩出かけるいうことを婿さんから聞いて、私が問い質したんです。そうしたら、『緒方さんという知り合いに、もうすぐ子供が産まれるとやけど、旦那さんが助からんごとある(助からない)病気で、ものすご大変なんよ』と言うんです」 松永は祥子さんに対して、緒方はワールドの事務員だと説明しており、それを信じた祥子さんは、緒方の出産費用などで約240万円を振り込んでいる。行雄さんは続ける。「私が注意しても、夜に出歩くのを止めないため、それについて咎めると、涙を流しながら、『緒方さんはかわいそうな人なの。貧乏で子供のミルク代もなかけん、米のとぎ汁やら飲ませようとよ』と言うのです」 松永は自分との結婚をちらつかせて、子供を連れて自分のもとに家出してこないかと持ちかけた。そして祥子さんは3人の子供を連れて家を出てしまう。祥子さんが聞かされていた緒方の話は、あくまでも松永が作った、彼女の同情を誘うための“設定”である。だが、松永に対する恋慕が、そうした嘘を見抜けなくさせてしまっていた。父親は娘を不審に思いつつも金を送り続けた「家出の前に1回、祥子に頼まれて20万円を振り込んだことがあったとです。でも、そのときは理由を言わず、ちょっと貸してほしいみたいな感じで、なにも疑いませんでした」 祥子さんの家出については、夫からではなく、本人からの連絡で知ったようだ。「5月初めごろに本人から『いま家出して別府(大分県)におる』っちゅう電話があったとですよ」 そこで彼女が子どもを連れて家を出たことを初めて知り、娘を叱っている。「それはもう、なんしよっとかって。3人も子どもがおって生活できっとか(できるのか)ってね……」 実際のところ、この時期の祥子さんは別府ではなく北九州市にいた。だが、連れ戻しに来られないようにするため、別府だと嘘をついていたのだ。松永という男の存在についても、02年に彼らの事件が発覚して、初めて警察から聞いたことだと話す。「最後に50万円(実際は71万円)送ってから、10日くらいで亡くなったのかな。こっちはそれまでに、もっといっぱい送っとったとやけど、おカネがなくなっとるでしょ。(警察からは)『なんに遣ったかわからん』って言われたね。俺もバカやけん、送ってくれ言われたら、送りよったけん……」 行雄さんはキャッシュカードを持っていないと説明する祥子さんに、別府市内にある郵便局留めで送金をしていた。しかし、彼女は父親や前夫からの送金以外にも、カネの工面を行っていた。その一つが消費者金融での借金である。「祥子が死んでからわかったことやけど、(消費者金融からの借金は)250万から300万近くやなかでしょうか。50万ずつとかで、何軒かに借りとりました」 地名以外の具体的な居場所を明かさない祥子さんは、頼み事があるときにだけ、実家に電話をかけてきたそうだ。「2、3日に1回のこともあれば、間が空くこともあり、平均したら1週間に1回くらいやったですかねえ」 その際に行雄さんは、離婚の原因についても尋ねている。「まあ、訳わからんこと言いよったね。おとなしか婿さんなのに、婿さんから暴力を振るわれたやらね。もう明らかに嘘ってわかることを言いよると。あと、家出から1、2カ月経ってから警察に捜索願を出したら、本人がそれを取り消したり……警察からね、『本人が取り消してくれち言いよるから、取り消した』っち連絡を受けたとですよ」自殺直前の会話は「死んだ孫の保険金はどうなったか」 93年10月に莉緒ちゃんが“事故死”をしたということは、電話ではなく、手紙で知らされたが、理由についてはなにも書いていなかった。祥子さんはその後、残り2人の娘を元夫のもとに戻している。「(祥子さんから)連絡があって、『久留米の託児所に預けたけん』て。それで引き取りに行ったとです。ただ、その子らを祥子が連れてきたかどうかは、当時聞いてなかったもんで、わからんとです」 さらに亡くなった莉緒ちゃんの遺骨は別の方法で届けられた。「こっちが(遺骨を)送れ送れって言いよったとですよ。そしたら、『鳥栖(佐賀県)の駅前のコインロッカーに入れた』ち、ロッカーの鍵が送られてきたとです」 その時期にはすでに、祥子さんの口調はかつて知る彼女のものではなく、別人のようになっていたと語る。「孫が亡くなったあとで、こっちが何度も帰って来いと迫ると、そのうち、弁護士の名前と電話番号を挙げて、そこに電話して話してくれやら言うようになったとです。あとで警察の人が言うには、そりゃ本物の弁護士やなくて、松永のことやろうって……。弁護士について、昔はメモば残しとったとですけど、祥子が死んでから捨ててしもうて……」 行雄さんが祥子さんと最後に話したのは、彼女が“自殺”する2日前のことだ。「死んだ孫の保険金はどうなったかという話でした。『それは婿さんの方に行っとるはずやろうもん』と言うと、納得したようで、電話ば切ったんが最後でした」 その後、大分県警からの連絡で、行雄さんは娘の“自殺”を知らされることになる。「自分から飛び込んだかもしれんばってん、祥子の遺体ば引き取りに行ったときに、あの子は家を出たときと同じ服装でした。(保険金を合わせて)1300万円近い金額を送ってもらっとるとにもかかわらず、預金口座には3000円しか残されとらんかったとです」 その話を行雄さんから聞いてから20年が経った。あれからなにか新しい話は出てきたのだろうか。私は現在の状況を取材することにした。“金づる”になった後に…不審死した32歳女性と2歳の娘は「北九州監禁連続殺人事件」の8、9人目の犠牲者だったのか へ続く(小野 一光)
祥子さんは20歳の頃に松永と交際していたが、88年に筑後地方の役所に勤務する男性と結婚。91年10月に莉緒ちゃんを含む女の子ばかりの三つ子を生んでいた。
松永と緒方は、松永が福岡県柳川市で営んでいた布団訪問販売会社「ワールド」が破綻したことや、詐欺事件と暴力行為等処罰に関する法律違反事件で指名手配されたことを受け、同市から逃走。同県北九州市で人目を避けて暮らしていた。
当時の彼らは、逃走に同行させたワールドの元従業員・山形康介さんに、彼の母親から多額の送金をさせるなどして、生活資金としていたのだが、松永の暴力に耐えかねた山形さんが、93年1月中旬に共同生活から逃げ出してしまう。そこで、次なる“金づる”を求めた松永が、祥子さんに甘言を弄して接近したのだった。
この際の状況について、松永と緒方の福岡地裁小倉支部における公判での、検察による論告書には以下のようにある。
〈被告人両名(松永と緒方)は、山形に代わる金づるとして、松永がかつて交際していた末松に着目し、緒方が子供を抱えて窮乏しているなどと申し向けてその同情を誘い、これに付け込み、平成5年(93年)1月19日から同年4月2日までの間、前後4回にわたって、末松から、(松永と緒方の)長男の出産・育児費用等の名目で、現金合計240万円を受領した〉
緒方が長男を生んだのは93年1月下旬のことだ。論告書は続ける。
〈また、被告人両名は、同月ころ、末松をして北九州市小倉北区東篠崎×丁目「東篠崎マンション」(仮名)30×号室を契約させ、同室を新たな隠れ家とした。他方で、松永は、末松をその三つ子と共に家出させ、同月下旬ころ、これも同女名義で契約させた同市小倉南区内の「横代マンション」(仮名)60×号室に入居させた。末松は、同年7月×日には当時の夫と離婚し、その後、被告人両名も同室に移り住み、末松との共同生活が始まった〉
そこで松永は祥子さんに対して、自身との結婚をちらつかせながら、子供の養育費等の名目で彼女の実父や前夫にカネの無心をさせた。結果として、これまでに彼女が渡した240万円とは別に、93年6月10日頃から94年3月9日までの間に1141万円を出させている。その渦中に悲劇が起きた。以下、論告書から。
〈平成5年10月29日、末松の三つ子の1人であった末松莉緒(当時2歳)が、頭部打撲による急性硬膜下血腫により死亡したため、被告人両名は、その直後に、隠れ家を前記「横代マンション」60×号室から、末松の実父名義で借りていた北九州市小倉北区の「三郎丸ビル」(仮名)40×号室に変更した〉
この莉緒ちゃんの死亡については、自宅での出来事であることから、当然ながら警察による聴取も行われており、当時は事故であるとの結論が出されていた。後の松永らの裁判での論告書は、この時期に祥子さんが実父や前夫から受けた送金額を月別に挙げている。そこでは莉緒ちゃんが死亡した直後から急激に送金額が増え、93年11月から94年1月までの3カ月間は計約630万円とある。 この点について論告書は、〈この時期、被告人両名が、莉緒の死亡を受けて、更なる逃亡の必要に備えていたことがうかがわれる〉と説明。しかし、94年2月になると祥子さんへの送金額が47万円に減り、同3月も、9日に71万円を送ってもらったが、それ以降は送金が止まっていることで、同論告書は〈末松の金づるとしての利用価値も失われつつあったことが認められる〉と指摘する。 そして祥子さんは、94年3月31日に、大分県別府市の海岸で水死するのだ。この案件についても警察による捜査が行われ、自殺であり事件性はないとの結論が出されている。祥子さんの左手に包帯、頬には痣が… とはいえ、02年に松永と緒方が逮捕された際、家宅捜索によって押収された写真類があり、それによって生存時の祥子さんが虐待を受けていたことが判明する。以下のことを論告書が明かす。〈平成5年(93年)夏ころに撮影されたと思われる写真(写真番号は省略、以下同)では、末松の左手に包帯が巻かれており、さらに、同年12月10日ころ撮影された写真には、末松の頬に痣らしきものが見え、同月24日に撮影された写真では、末松は、ホテルの洋室の床に正座させられている様子である。(中略) そして、同年(94年)2月23日ころに撮影された写真では、乱雑に切りそろえられた髪型をし、化粧気もない生気を欠いた表情で正座する末松が写されている。 以上の末松の写真を見れば、少なくとも、末松が、苦境にある被告人両名のために多額の現金を提供してくれた人間として丁重に扱われていた痕跡は皆無であり、むしろ、その身体の負傷状況や、ろくに美容院等にも行かせてもらえずにいた様子などからは、被告人両名が、種々の生活制限や虐待を通じ、末松を支配していたことが認められるのである〉 私は02年6月に、筑後地方に住む祥子さんの父・末松行雄さんから話を聞いている。「祥子は(93年)4月に家出したとですけど、その前に、あの子が毎晩出かけるいうことを婿さんから聞いて、私が問い質したんです。そうしたら、『緒方さんという知り合いに、もうすぐ子供が産まれるとやけど、旦那さんが助からんごとある(助からない)病気で、ものすご大変なんよ』と言うんです」 松永は祥子さんに対して、緒方はワールドの事務員だと説明しており、それを信じた祥子さんは、緒方の出産費用などで約240万円を振り込んでいる。行雄さんは続ける。「私が注意しても、夜に出歩くのを止めないため、それについて咎めると、涙を流しながら、『緒方さんはかわいそうな人なの。貧乏で子供のミルク代もなかけん、米のとぎ汁やら飲ませようとよ』と言うのです」 松永は自分との結婚をちらつかせて、子供を連れて自分のもとに家出してこないかと持ちかけた。そして祥子さんは3人の子供を連れて家を出てしまう。祥子さんが聞かされていた緒方の話は、あくまでも松永が作った、彼女の同情を誘うための“設定”である。だが、松永に対する恋慕が、そうした嘘を見抜けなくさせてしまっていた。父親は娘を不審に思いつつも金を送り続けた「家出の前に1回、祥子に頼まれて20万円を振り込んだことがあったとです。でも、そのときは理由を言わず、ちょっと貸してほしいみたいな感じで、なにも疑いませんでした」 祥子さんの家出については、夫からではなく、本人からの連絡で知ったようだ。「5月初めごろに本人から『いま家出して別府(大分県)におる』っちゅう電話があったとですよ」 そこで彼女が子どもを連れて家を出たことを初めて知り、娘を叱っている。「それはもう、なんしよっとかって。3人も子どもがおって生活できっとか(できるのか)ってね……」 実際のところ、この時期の祥子さんは別府ではなく北九州市にいた。だが、連れ戻しに来られないようにするため、別府だと嘘をついていたのだ。松永という男の存在についても、02年に彼らの事件が発覚して、初めて警察から聞いたことだと話す。「最後に50万円(実際は71万円)送ってから、10日くらいで亡くなったのかな。こっちはそれまでに、もっといっぱい送っとったとやけど、おカネがなくなっとるでしょ。(警察からは)『なんに遣ったかわからん』って言われたね。俺もバカやけん、送ってくれ言われたら、送りよったけん……」 行雄さんはキャッシュカードを持っていないと説明する祥子さんに、別府市内にある郵便局留めで送金をしていた。しかし、彼女は父親や前夫からの送金以外にも、カネの工面を行っていた。その一つが消費者金融での借金である。「祥子が死んでからわかったことやけど、(消費者金融からの借金は)250万から300万近くやなかでしょうか。50万ずつとかで、何軒かに借りとりました」 地名以外の具体的な居場所を明かさない祥子さんは、頼み事があるときにだけ、実家に電話をかけてきたそうだ。「2、3日に1回のこともあれば、間が空くこともあり、平均したら1週間に1回くらいやったですかねえ」 その際に行雄さんは、離婚の原因についても尋ねている。「まあ、訳わからんこと言いよったね。おとなしか婿さんなのに、婿さんから暴力を振るわれたやらね。もう明らかに嘘ってわかることを言いよると。あと、家出から1、2カ月経ってから警察に捜索願を出したら、本人がそれを取り消したり……警察からね、『本人が取り消してくれち言いよるから、取り消した』っち連絡を受けたとですよ」自殺直前の会話は「死んだ孫の保険金はどうなったか」 93年10月に莉緒ちゃんが“事故死”をしたということは、電話ではなく、手紙で知らされたが、理由についてはなにも書いていなかった。祥子さんはその後、残り2人の娘を元夫のもとに戻している。「(祥子さんから)連絡があって、『久留米の託児所に預けたけん』て。それで引き取りに行ったとです。ただ、その子らを祥子が連れてきたかどうかは、当時聞いてなかったもんで、わからんとです」 さらに亡くなった莉緒ちゃんの遺骨は別の方法で届けられた。「こっちが(遺骨を)送れ送れって言いよったとですよ。そしたら、『鳥栖(佐賀県)の駅前のコインロッカーに入れた』ち、ロッカーの鍵が送られてきたとです」 その時期にはすでに、祥子さんの口調はかつて知る彼女のものではなく、別人のようになっていたと語る。「孫が亡くなったあとで、こっちが何度も帰って来いと迫ると、そのうち、弁護士の名前と電話番号を挙げて、そこに電話して話してくれやら言うようになったとです。あとで警察の人が言うには、そりゃ本物の弁護士やなくて、松永のことやろうって……。弁護士について、昔はメモば残しとったとですけど、祥子が死んでから捨ててしもうて……」 行雄さんが祥子さんと最後に話したのは、彼女が“自殺”する2日前のことだ。「死んだ孫の保険金はどうなったかという話でした。『それは婿さんの方に行っとるはずやろうもん』と言うと、納得したようで、電話ば切ったんが最後でした」 その後、大分県警からの連絡で、行雄さんは娘の“自殺”を知らされることになる。「自分から飛び込んだかもしれんばってん、祥子の遺体ば引き取りに行ったときに、あの子は家を出たときと同じ服装でした。(保険金を合わせて)1300万円近い金額を送ってもらっとるとにもかかわらず、預金口座には3000円しか残されとらんかったとです」 その話を行雄さんから聞いてから20年が経った。あれからなにか新しい話は出てきたのだろうか。私は現在の状況を取材することにした。“金づる”になった後に…不審死した32歳女性と2歳の娘は「北九州監禁連続殺人事件」の8、9人目の犠牲者だったのか へ続く(小野 一光)
この莉緒ちゃんの死亡については、自宅での出来事であることから、当然ながら警察による聴取も行われており、当時は事故であるとの結論が出されていた。後の松永らの裁判での論告書は、この時期に祥子さんが実父や前夫から受けた送金額を月別に挙げている。そこでは莉緒ちゃんが死亡した直後から急激に送金額が増え、93年11月から94年1月までの3カ月間は計約630万円とある。
この点について論告書は、〈この時期、被告人両名が、莉緒の死亡を受けて、更なる逃亡の必要に備えていたことがうかがわれる〉と説明。しかし、94年2月になると祥子さんへの送金額が47万円に減り、同3月も、9日に71万円を送ってもらったが、それ以降は送金が止まっていることで、同論告書は〈末松の金づるとしての利用価値も失われつつあったことが認められる〉と指摘する。
そして祥子さんは、94年3月31日に、大分県別府市の海岸で水死するのだ。この案件についても警察による捜査が行われ、自殺であり事件性はないとの結論が出されている。
とはいえ、02年に松永と緒方が逮捕された際、家宅捜索によって押収された写真類があり、それによって生存時の祥子さんが虐待を受けていたことが判明する。以下のことを論告書が明かす。
〈平成5年(93年)夏ころに撮影されたと思われる写真(写真番号は省略、以下同)では、末松の左手に包帯が巻かれており、さらに、同年12月10日ころ撮影された写真には、末松の頬に痣らしきものが見え、同月24日に撮影された写真では、末松は、ホテルの洋室の床に正座させられている様子である。(中略)
そして、同年(94年)2月23日ころに撮影された写真では、乱雑に切りそろえられた髪型をし、化粧気もない生気を欠いた表情で正座する末松が写されている。
以上の末松の写真を見れば、少なくとも、末松が、苦境にある被告人両名のために多額の現金を提供してくれた人間として丁重に扱われていた痕跡は皆無であり、むしろ、その身体の負傷状況や、ろくに美容院等にも行かせてもらえずにいた様子などからは、被告人両名が、種々の生活制限や虐待を通じ、末松を支配していたことが認められるのである〉
私は02年6月に、筑後地方に住む祥子さんの父・末松行雄さんから話を聞いている。
「祥子は(93年)4月に家出したとですけど、その前に、あの子が毎晩出かけるいうことを婿さんから聞いて、私が問い質したんです。そうしたら、『緒方さんという知り合いに、もうすぐ子供が産まれるとやけど、旦那さんが助からんごとある(助からない)病気で、ものすご大変なんよ』と言うんです」
松永は祥子さんに対して、緒方はワールドの事務員だと説明しており、それを信じた祥子さんは、緒方の出産費用などで約240万円を振り込んでいる。行雄さんは続ける。「私が注意しても、夜に出歩くのを止めないため、それについて咎めると、涙を流しながら、『緒方さんはかわいそうな人なの。貧乏で子供のミルク代もなかけん、米のとぎ汁やら飲ませようとよ』と言うのです」 松永は自分との結婚をちらつかせて、子供を連れて自分のもとに家出してこないかと持ちかけた。そして祥子さんは3人の子供を連れて家を出てしまう。祥子さんが聞かされていた緒方の話は、あくまでも松永が作った、彼女の同情を誘うための“設定”である。だが、松永に対する恋慕が、そうした嘘を見抜けなくさせてしまっていた。父親は娘を不審に思いつつも金を送り続けた「家出の前に1回、祥子に頼まれて20万円を振り込んだことがあったとです。でも、そのときは理由を言わず、ちょっと貸してほしいみたいな感じで、なにも疑いませんでした」 祥子さんの家出については、夫からではなく、本人からの連絡で知ったようだ。「5月初めごろに本人から『いま家出して別府(大分県)におる』っちゅう電話があったとですよ」 そこで彼女が子どもを連れて家を出たことを初めて知り、娘を叱っている。「それはもう、なんしよっとかって。3人も子どもがおって生活できっとか(できるのか)ってね……」 実際のところ、この時期の祥子さんは別府ではなく北九州市にいた。だが、連れ戻しに来られないようにするため、別府だと嘘をついていたのだ。松永という男の存在についても、02年に彼らの事件が発覚して、初めて警察から聞いたことだと話す。「最後に50万円(実際は71万円)送ってから、10日くらいで亡くなったのかな。こっちはそれまでに、もっといっぱい送っとったとやけど、おカネがなくなっとるでしょ。(警察からは)『なんに遣ったかわからん』って言われたね。俺もバカやけん、送ってくれ言われたら、送りよったけん……」 行雄さんはキャッシュカードを持っていないと説明する祥子さんに、別府市内にある郵便局留めで送金をしていた。しかし、彼女は父親や前夫からの送金以外にも、カネの工面を行っていた。その一つが消費者金融での借金である。「祥子が死んでからわかったことやけど、(消費者金融からの借金は)250万から300万近くやなかでしょうか。50万ずつとかで、何軒かに借りとりました」 地名以外の具体的な居場所を明かさない祥子さんは、頼み事があるときにだけ、実家に電話をかけてきたそうだ。「2、3日に1回のこともあれば、間が空くこともあり、平均したら1週間に1回くらいやったですかねえ」 その際に行雄さんは、離婚の原因についても尋ねている。「まあ、訳わからんこと言いよったね。おとなしか婿さんなのに、婿さんから暴力を振るわれたやらね。もう明らかに嘘ってわかることを言いよると。あと、家出から1、2カ月経ってから警察に捜索願を出したら、本人がそれを取り消したり……警察からね、『本人が取り消してくれち言いよるから、取り消した』っち連絡を受けたとですよ」自殺直前の会話は「死んだ孫の保険金はどうなったか」 93年10月に莉緒ちゃんが“事故死”をしたということは、電話ではなく、手紙で知らされたが、理由についてはなにも書いていなかった。祥子さんはその後、残り2人の娘を元夫のもとに戻している。「(祥子さんから)連絡があって、『久留米の託児所に預けたけん』て。それで引き取りに行ったとです。ただ、その子らを祥子が連れてきたかどうかは、当時聞いてなかったもんで、わからんとです」 さらに亡くなった莉緒ちゃんの遺骨は別の方法で届けられた。「こっちが(遺骨を)送れ送れって言いよったとですよ。そしたら、『鳥栖(佐賀県)の駅前のコインロッカーに入れた』ち、ロッカーの鍵が送られてきたとです」 その時期にはすでに、祥子さんの口調はかつて知る彼女のものではなく、別人のようになっていたと語る。「孫が亡くなったあとで、こっちが何度も帰って来いと迫ると、そのうち、弁護士の名前と電話番号を挙げて、そこに電話して話してくれやら言うようになったとです。あとで警察の人が言うには、そりゃ本物の弁護士やなくて、松永のことやろうって……。弁護士について、昔はメモば残しとったとですけど、祥子が死んでから捨ててしもうて……」 行雄さんが祥子さんと最後に話したのは、彼女が“自殺”する2日前のことだ。「死んだ孫の保険金はどうなったかという話でした。『それは婿さんの方に行っとるはずやろうもん』と言うと、納得したようで、電話ば切ったんが最後でした」 その後、大分県警からの連絡で、行雄さんは娘の“自殺”を知らされることになる。「自分から飛び込んだかもしれんばってん、祥子の遺体ば引き取りに行ったときに、あの子は家を出たときと同じ服装でした。(保険金を合わせて)1300万円近い金額を送ってもらっとるとにもかかわらず、預金口座には3000円しか残されとらんかったとです」 その話を行雄さんから聞いてから20年が経った。あれからなにか新しい話は出てきたのだろうか。私は現在の状況を取材することにした。“金づる”になった後に…不審死した32歳女性と2歳の娘は「北九州監禁連続殺人事件」の8、9人目の犠牲者だったのか へ続く(小野 一光)
松永は祥子さんに対して、緒方はワールドの事務員だと説明しており、それを信じた祥子さんは、緒方の出産費用などで約240万円を振り込んでいる。行雄さんは続ける。
「私が注意しても、夜に出歩くのを止めないため、それについて咎めると、涙を流しながら、『緒方さんはかわいそうな人なの。貧乏で子供のミルク代もなかけん、米のとぎ汁やら飲ませようとよ』と言うのです」
松永は自分との結婚をちらつかせて、子供を連れて自分のもとに家出してこないかと持ちかけた。そして祥子さんは3人の子供を連れて家を出てしまう。祥子さんが聞かされていた緒方の話は、あくまでも松永が作った、彼女の同情を誘うための“設定”である。だが、松永に対する恋慕が、そうした嘘を見抜けなくさせてしまっていた。
「家出の前に1回、祥子に頼まれて20万円を振り込んだことがあったとです。でも、そのときは理由を言わず、ちょっと貸してほしいみたいな感じで、なにも疑いませんでした」
祥子さんの家出については、夫からではなく、本人からの連絡で知ったようだ。
「5月初めごろに本人から『いま家出して別府(大分県)におる』っちゅう電話があったとですよ」
そこで彼女が子どもを連れて家を出たことを初めて知り、娘を叱っている。
「それはもう、なんしよっとかって。3人も子どもがおって生活できっとか(できるのか)ってね……」
実際のところ、この時期の祥子さんは別府ではなく北九州市にいた。だが、連れ戻しに来られないようにするため、別府だと嘘をついていたのだ。松永という男の存在についても、02年に彼らの事件が発覚して、初めて警察から聞いたことだと話す。
「最後に50万円(実際は71万円)送ってから、10日くらいで亡くなったのかな。こっちはそれまでに、もっといっぱい送っとったとやけど、おカネがなくなっとるでしょ。(警察からは)『なんに遣ったかわからん』って言われたね。俺もバカやけん、送ってくれ言われたら、送りよったけん……」
行雄さんはキャッシュカードを持っていないと説明する祥子さんに、別府市内にある郵便局留めで送金をしていた。しかし、彼女は父親や前夫からの送金以外にも、カネの工面を行っていた。その一つが消費者金融での借金である。
「祥子が死んでからわかったことやけど、(消費者金融からの借金は)250万から300万近くやなかでしょうか。50万ずつとかで、何軒かに借りとりました」
地名以外の具体的な居場所を明かさない祥子さんは、頼み事があるときにだけ、実家に電話をかけてきたそうだ。
「2、3日に1回のこともあれば、間が空くこともあり、平均したら1週間に1回くらいやったですかねえ」
その際に行雄さんは、離婚の原因についても尋ねている。
「まあ、訳わからんこと言いよったね。おとなしか婿さんなのに、婿さんから暴力を振るわれたやらね。もう明らかに嘘ってわかることを言いよると。あと、家出から1、2カ月経ってから警察に捜索願を出したら、本人がそれを取り消したり……警察からね、『本人が取り消してくれち言いよるから、取り消した』っち連絡を受けたとですよ」
93年10月に莉緒ちゃんが“事故死”をしたということは、電話ではなく、手紙で知らされたが、理由についてはなにも書いていなかった。祥子さんはその後、残り2人の娘を元夫のもとに戻している。
「(祥子さんから)連絡があって、『久留米の託児所に預けたけん』て。それで引き取りに行ったとです。ただ、その子らを祥子が連れてきたかどうかは、当時聞いてなかったもんで、わからんとです」
さらに亡くなった莉緒ちゃんの遺骨は別の方法で届けられた。
「こっちが(遺骨を)送れ送れって言いよったとですよ。そしたら、『鳥栖(佐賀県)の駅前のコインロッカーに入れた』ち、ロッカーの鍵が送られてきたとです」
その時期にはすでに、祥子さんの口調はかつて知る彼女のものではなく、別人のようになっていたと語る。
「孫が亡くなったあとで、こっちが何度も帰って来いと迫ると、そのうち、弁護士の名前と電話番号を挙げて、そこに電話して話してくれやら言うようになったとです。あとで警察の人が言うには、そりゃ本物の弁護士やなくて、松永のことやろうって……。弁護士について、昔はメモば残しとったとですけど、祥子が死んでから捨ててしもうて……」
行雄さんが祥子さんと最後に話したのは、彼女が“自殺”する2日前のことだ。
「死んだ孫の保険金はどうなったかという話でした。『それは婿さんの方に行っとるはずやろうもん』と言うと、納得したようで、電話ば切ったんが最後でした」
その後、大分県警からの連絡で、行雄さんは娘の“自殺”を知らされることになる。
「自分から飛び込んだかもしれんばってん、祥子の遺体ば引き取りに行ったときに、あの子は家を出たときと同じ服装でした。(保険金を合わせて)1300万円近い金額を送ってもらっとるとにもかかわらず、預金口座には3000円しか残されとらんかったとです」 その話を行雄さんから聞いてから20年が経った。あれからなにか新しい話は出てきたのだろうか。私は現在の状況を取材することにした。“金づる”になった後に…不審死した32歳女性と2歳の娘は「北九州監禁連続殺人事件」の8、9人目の犠牲者だったのか へ続く(小野 一光)
「自分から飛び込んだかもしれんばってん、祥子の遺体ば引き取りに行ったときに、あの子は家を出たときと同じ服装でした。(保険金を合わせて)1300万円近い金額を送ってもらっとるとにもかかわらず、預金口座には3000円しか残されとらんかったとです」
その話を行雄さんから聞いてから20年が経った。あれからなにか新しい話は出てきたのだろうか。私は現在の状況を取材することにした。
“金づる”になった後に…不審死した32歳女性と2歳の娘は「北九州監禁連続殺人事件」の8、9人目の犠牲者だったのか へ続く
(小野 一光)