初の小説『疼くひと』で70代の性愛を描いた松井久子さん。本の刊行から半年もたたぬうち、自身に「奇跡」と思える予期せぬ出会いがあり、2022年夏に思想史家の子安宣邦さんと婚姻届を提出しました。初対面から1年を経ずしての決断。その理由は──。(構成=丸山あかね 撮影=大河内禎)
【写真】手をつないで散歩を楽しむ* * * * * * *「天からのご褒美」に感謝して2022年7月、フェイスブックに「89歳と76歳、結婚しました」と投稿したら、コメント欄に祝福の言葉を800件以上もいただきました。反響の大きさにびっくり。もちろん嬉しかったのだけれど、「へぇ~」と思ったのも事実です。「結婚」という言葉の影響力は絶大。世間に認知されるというのはこういうことかと痛感しました。

その2ヵ月前、「子安先生と京都嵐山に来ています」とツーショットを投稿した時には、「いいところですね」といったコメントが25件ほど。きっと多くの方が、すでに性別を超越した後期高齢者の二人が歴史を訪ねる旅を楽しんでいると受け止めたのでしょう。私たちが恋愛関係であることを知っていた友人も、静観してくれていたようです。とはいえ、私は世間の人に二人の関係を認めてほしいと望んでいたわけではありません。大切なのは二人が信頼で結ばれ、パートナーとして認め合うこと。先生とも、結婚にこだわることはないと意見が一致していました。それがいま、妻だけ姓が変わるなんて不平等で腹が立つと思いながら、法的な手続きに追われています。ではなぜ、あえて婚姻届を提出したのかといえば、私たちの将来を考えて。たとえば病気になった際、手術の同意書にサインができるのは家族だけだからです。同世代の女友達のなかには、親に続き夫の介護に直面して大きな試練だと受け止めている人もいます。そうした人からすれば、一人で気ままに生きてきた私が、なぜ今さら一回り以上も年上の男性と結婚して、介護を買って出るような真似をするのかと、理解に苦しむかもしれませんね。でも、私の中には自然と「先生の力になりたい」という気持ちが生まれていました。私には親の介護をきょうだいに任せてしまったという負い目があって、人としてやり残していることがあるような気がしていた。それも真実なのだけれど、彼と出会えたことは奇跡としかいいようがない。「天からのご褒美」だと感謝しています。仕事も恋愛もと望むのは欲張りだと思っていた自他ともに認める仕事人間として生きてきました。大学卒業後すぐに結婚し、家計を助けるためにフリーランスのライターとして働き始めます。結婚3年目には息子を出産。ですが、私の収入が増えるのと比例して夫婦関係が悪化してしまい……。夫のDVに耐えきれず、離婚したのは33歳の時でした。やがて俳優のマネジメント・プロダクションを立ち上げ、39歳の時にテレビドラマの制作会社を起業。50歳を目前に、映画を製作したいという長年の夢に着手し、監督として5本の映画作品を世に送り出すことができました。息子を抱え馬車馬のように働いて、再婚を考える余裕など、精神的にも時間的にもなかった。仕事も恋愛もと望むのは欲張りだと思っていました。そんな私にも、老いは刻々と迫ってきます。まだまだと思っていても、仕事の依頼は激減し、女として見られることもなくなった。社会からの「外され感」に苛まれるようになっていきました。そんな最中、74歳で初めて挑んだ小説『疼くひと』は、70代の女性が期せずして50代の男性と出会い、性愛の喜びを取り戻していく物語。セクシュアリティが封印されている世代だからこそ、「生」の根源にある「性」というテーマに向き合い、世間体や社会通念から解放されて自分を開く女性の姿を描きたかったのです。でも、私自身は小説を発表した後も、孤独でした。コロナ下の自粛生活も重なり、自分は人恋しさを抱えたまま暮らして、後は死ぬだけなのかと考えると虚しさを覚えたことも。淡々と暮らしていた21年の夏、久しぶりに会った男友達が「子安宣邦という思想史家の市民講座が楽しみなんだ」と言うのを聞いて、何かを感じました。それまでカルチャーセンターで行われる文学講座などに誘われても乗り気にならなかったのにと不思議でしたが、今にして思えば、すでに運命の歯車が回り始めていたのかもしれません。まずは先生の著書を読むことから始めました。最初は難解に感じたものの、読むほどに大切なことを学ばせてもらったという感慨を覚えるようになり、講座に参加してみたいと行動開始。初めての受講は2021年の10月でした。帰りの電車の中で、素晴らしい講義だった、88歳になっても現役で自分の仕事を続けている子安先生って素敵だな、と思ったのを覚えています。触れた手の温かさに心動いて2度目に講座へ出向いた時には、前回欠席していた友人が先生を紹介してくれました。私の顔を見るなり「あなたでしたか」と言って満面の笑みを向けてくれたのが印象的。後で知ったところによれば、私が講座を受けていることを友人が先生に伝えていたのです。なんと『疼くひと』を読んでくれていて、「あの作品には人間の生の本質が描かれていましたね」と感想を述べてくれました。女性の「性」をテーマにした小説をこんなに真摯に受け止めてくれる男性が日本にもいたのかと嬉しかった。その後、懇親会に招かれ、「喜んで!」と返した私の声は弾んでいたと思います。でもその時点では、2017年に他界された奥様、著名なドイツ文学者だった子安美知子さんとの結婚生活がどのようなものであったのかについて尋ねたいという取材者の気持ちが強かった。実際に私は懇親会の席で夫婦に関する不躾な質問を投げかけたのですが、先生は「わが家の女王様だった人のことね」と言いながら、デジタルカメラを取り出して美知子さんの写真を見せてくれました。私は先生の優しい一面を見た気がして、微笑ましく受け止めました。懇親会の帰り際、彼が「もっとお話ししましょう。今度はわが家へいらっしゃい」と誘ってくれました。駅まで送ってくれた彼に私から握手を求めたのは、今考えると大胆な行為でしたが、すべてが自然な流れでした。その時私は、コロナ禍以降、久しぶりに触れた手の温かさに感動を覚え、心が思わぬほうへと動くのを感じていたのです。その日のうちにお礼のメールを送り、「ぜひ先生のお宅へ伺って、いろいろなお話を伺いたいです」と伝えると、すぐに「日程を決めましょう」と連絡がありました。そうして先生のお宅に伺い、語り合って最高に楽しい時間を過ごすことができたのです。<後編につづく>
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2022年7月、フェイスブックに「89歳と76歳、結婚しました」と投稿したら、コメント欄に祝福の言葉を800件以上もいただきました。反響の大きさにびっくり。もちろん嬉しかったのだけれど、「へぇ~」と思ったのも事実です。「結婚」という言葉の影響力は絶大。世間に認知されるというのはこういうことかと痛感しました。
その2ヵ月前、「子安先生と京都嵐山に来ています」とツーショットを投稿した時には、「いいところですね」といったコメントが25件ほど。きっと多くの方が、すでに性別を超越した後期高齢者の二人が歴史を訪ねる旅を楽しんでいると受け止めたのでしょう。私たちが恋愛関係であることを知っていた友人も、静観してくれていたようです。
とはいえ、私は世間の人に二人の関係を認めてほしいと望んでいたわけではありません。大切なのは二人が信頼で結ばれ、パートナーとして認め合うこと。先生とも、結婚にこだわることはないと意見が一致していました。
それがいま、妻だけ姓が変わるなんて不平等で腹が立つと思いながら、法的な手続きに追われています。ではなぜ、あえて婚姻届を提出したのかといえば、私たちの将来を考えて。たとえば病気になった際、手術の同意書にサインができるのは家族だけだからです。
同世代の女友達のなかには、親に続き夫の介護に直面して大きな試練だと受け止めている人もいます。そうした人からすれば、一人で気ままに生きてきた私が、なぜ今さら一回り以上も年上の男性と結婚して、介護を買って出るような真似をするのかと、理解に苦しむかもしれませんね。でも、私の中には自然と「先生の力になりたい」という気持ちが生まれていました。
私には親の介護をきょうだいに任せてしまったという負い目があって、人としてやり残していることがあるような気がしていた。それも真実なのだけれど、彼と出会えたことは奇跡としかいいようがない。「天からのご褒美」だと感謝しています。
自他ともに認める仕事人間として生きてきました。大学卒業後すぐに結婚し、家計を助けるためにフリーランスのライターとして働き始めます。結婚3年目には息子を出産。ですが、私の収入が増えるのと比例して夫婦関係が悪化してしまい……。夫のDVに耐えきれず、離婚したのは33歳の時でした。
やがて俳優のマネジメント・プロダクションを立ち上げ、39歳の時にテレビドラマの制作会社を起業。50歳を目前に、映画を製作したいという長年の夢に着手し、監督として5本の映画作品を世に送り出すことができました。
息子を抱え馬車馬のように働いて、再婚を考える余裕など、精神的にも時間的にもなかった。仕事も恋愛もと望むのは欲張りだと思っていました。
そんな私にも、老いは刻々と迫ってきます。まだまだと思っていても、仕事の依頼は激減し、女として見られることもなくなった。社会からの「外され感」に苛まれるようになっていきました。
そんな最中、74歳で初めて挑んだ小説『疼くひと』は、70代の女性が期せずして50代の男性と出会い、性愛の喜びを取り戻していく物語。
セクシュアリティが封印されている世代だからこそ、「生」の根源にある「性」というテーマに向き合い、世間体や社会通念から解放されて自分を開く女性の姿を描きたかったのです。
でも、私自身は小説を発表した後も、孤独でした。コロナ下の自粛生活も重なり、自分は人恋しさを抱えたまま暮らして、後は死ぬだけなのかと考えると虚しさを覚えたことも。
淡々と暮らしていた21年の夏、久しぶりに会った男友達が「子安宣邦という思想史家の市民講座が楽しみなんだ」と言うのを聞いて、何かを感じました。それまでカルチャーセンターで行われる文学講座などに誘われても乗り気にならなかったのにと不思議でしたが、今にして思えば、すでに運命の歯車が回り始めていたのかもしれません。
まずは先生の著書を読むことから始めました。最初は難解に感じたものの、読むほどに大切なことを学ばせてもらったという感慨を覚えるようになり、講座に参加してみたいと行動開始。初めての受講は2021年の10月でした。
帰りの電車の中で、素晴らしい講義だった、88歳になっても現役で自分の仕事を続けている子安先生って素敵だな、と思ったのを覚えています。
2度目に講座へ出向いた時には、前回欠席していた友人が先生を紹介してくれました。私の顔を見るなり「あなたでしたか」と言って満面の笑みを向けてくれたのが印象的。
後で知ったところによれば、私が講座を受けていることを友人が先生に伝えていたのです。なんと『疼くひと』を読んでくれていて、「あの作品には人間の生の本質が描かれていましたね」と感想を述べてくれました。
女性の「性」をテーマにした小説をこんなに真摯に受け止めてくれる男性が日本にもいたのかと嬉しかった。その後、懇親会に招かれ、「喜んで!」と返した私の声は弾んでいたと思います。
でもその時点では、2017年に他界された奥様、著名なドイツ文学者だった子安美知子さんとの結婚生活がどのようなものであったのかについて尋ねたいという取材者の気持ちが強かった。
実際に私は懇親会の席で夫婦に関する不躾な質問を投げかけたのですが、先生は「わが家の女王様だった人のことね」と言いながら、デジタルカメラを取り出して美知子さんの写真を見せてくれました。私は先生の優しい一面を見た気がして、微笑ましく受け止めました。
懇親会の帰り際、彼が「もっとお話ししましょう。今度はわが家へいらっしゃい」と誘ってくれました。駅まで送ってくれた彼に私から握手を求めたのは、今考えると大胆な行為でしたが、すべてが自然な流れでした。その時私は、コロナ禍以降、久しぶりに触れた手の温かさに感動を覚え、心が思わぬほうへと動くのを感じていたのです。
その日のうちにお礼のメールを送り、「ぜひ先生のお宅へ伺って、いろいろなお話を伺いたいです」と伝えると、すぐに「日程を決めましょう」と連絡がありました。そうして先生のお宅に伺い、語り合って最高に楽しい時間を過ごすことができたのです。
<後編につづく>