茨城県つくば市で訪問診察を続ける『ホームオン・クリニック』院長・平野国美氏は、この地で20年間、「人生の最期は自宅で迎えたい」という様々な末期患者の終末医療を行ってきた。患者の願いに寄り添ったその姿は、大竹しのぶ主演でドラマ化もされている。
6000人以上の患者とその家族に出会い、2700人以上の最期に立ち会った“看取りの医者”が、人生の最期を迎える人たちを取り巻く、令和のリアルをリポートする――。
看取りの現場は時代とともに変わっていく。令和にはいり、私は介護と不倫という言葉同士に相関性を感じる事が多くなってきた。関係のパターンは様々だが、病気の女性の元に遠方から男性が通ってくるケースが目立っている。男性の中には、50キロ以上も離れた場所から、電車やバスを乗り継いてくるケースもあった。
1年ほど前の事である――。
平成初期に売り出された住宅街の一角。最寄り駅からでもタクシーで20分はかかる戸建て住宅に、川口香子さん(仮名・80歳)が今日、退院して戻ってきた。彼女は5年前に胃癌の手術を行ったが、昨年再発が見られた。抗がん剤による化学療法が選択されたが、その後の効果が薄く、緩和ケアとなり、3か月ぶりに自宅に戻ったのだ。私は病院からの依頼で、彼女の訪問診療を担当する事になっている。
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彼女の胃癌は終末期に突入している。自宅で平穏な生活を送るためには、介護のキーパーソンが必要不可欠であるが、彼女には身寄りこそないものの、内縁の夫がいるという情報を事前に得ていた。
初診時、家のチャイムを鳴らすと、内縁の夫と思われた山田茂さん(仮名)が、丁寧に出迎えてくれた。大人しく、優しそうな男性だった。聞けば、今日は朝早くから香子さんに付き添っているという。年齢を尋ねると、今年で82歳になると言われた。内縁関係に年齢制限はないが、ずいぶん高齢層まで浸透してきたものだ。
介護ベッドで横になっている香子さんに「お気分はどうですか?」と声をかけると、彼女は瞼を開けて、小さく頷いた。わずか30分ほどの介護タクシーでの移動であったが、疲れている様子だった。
聴診器を当てて、一通りの診察を行った。すでに内服でモルヒネが使用されている。「痛いですか?」と尋ねながら腹部に手を当てたが、痛みは無さそうであった。茂さんは、傍らでそっと見守っている。
疲れが出ている事だし、今日は、あれこれを聞かずに、そっと帰ることにした。茂さんに目配せをして別室に移動する。できれば茂さんに、香子さんの自宅療養を支えるキーパーソン役を担って頂きたいが、内縁関係だけに、もしかしたら彼女に聞かせたくない内容もあるかと思い、部屋を移したわけである。
「状態は決して良くありませんが、取りあえず退院までできたのはよかったです。病院から訪問診療に移ろうとしても、あまりに病気の経過が早いと、病院で最期を迎えてしまう方も多いのですよ」と伝え、「ところで、お二人の御関係は?」と、2人の関係性を確認した。
茂さんは、少しだけ恥ずかしそうに「友人のようなものです」と答えて、毛筆の書体で<山本 茂>と名前だけが書かれた名刺を私に差し出してきた。裏には、手書きで携帯の電話番号が書かれている。緊急時にはこの番号に電話を掛けてもいいという事なのだろうか。
「香子さんの介護のキーパーソンとして考えて、よろしいですか?」
茂さんは神妙な顔つきになった。
「この人の親は他界しているし、元々兄妹もいないのでね。私が引き受けるしかないと思っております」
私は少しほっとした。
経験上の見立てでは、最期の時まで1か月前後ではないかと感じていた。自宅に帰ってきたばかりであるが、茂さんが香子さんの自宅に寝泊まりを含むサポートをしていかなければ、最終最後で病院に戻るか、施設に移動するしかない。彼女が自宅で最期を迎えられるか否かは、茂さんが握っているのだ。私は優しそうな茂さんならきっと泊まって面倒をみてくれるのではないかと期待して切り出した。
「香子さんが過ごす最後の場所を、この住み慣れた家にするか、あるいは施設や病院を選択するのか、今のうちに決めておいた方がよろしいかと思います。いざという時になってからでは、考える事が難しいので、今から覚悟はして頂きたいのですが、どう、お考えですか?」
「うーん、難しいですね。やっぱり病院なのかな?」
私は、予想と違う言葉に慌てた。「香子さんは、どう話していましたか?」
「彼女はこの家を気に入っているから最後は、ここでと言っていましたけどね。うーん…。でも…、私も年だし役に立つのかな…」
たしかに、82歳が介護をするのは難しいかもしれない。しかし、彼女のそばにいてくれるだけでも、香子さんは心強いはずだ。是非とも寝泊まりを含むサポートを受け入れて欲しかった。
「茂さんのお住まいはどちらですか?」
「町田市なんですよ」
100キロ近く離れている。電車とバスを乗り継いでも3時間はかかる距離だった。しかし、その距離も、泊まってしまえば問題は無いかも知れない。私は、もう少し提案をした。
「ヘルパーをいれて、介護サービスを増やせば、茂さんの負担を少なくする事も可能です。あなたが、ここにいて彼女の心の支えになって頂けるだけで御の字です。入院や施設では、コロナのせいで面会もできずに別れがやってくるかも知れません。私たちもサポートしますので、一緒にできる限りで頑張ってみませんか?」
茂さんは下を向いて、ずいぶんと考え込んだ。そして、やっと出て来た言葉は、
「私ね、毎日、家に帰らなきゃいけないんです」
「ペットでも飼っていらっしゃるのですか?」
「いや、そこに女房がいるんですよ」
意外な答えだった。
「失礼な質問ですが、香子さんとは、内縁ではなく不倫ということでしょうか?」
「不倫? いやいや、とんでもない…。いや…そうか…。確かに不倫だな。そんなつもりはないんだけど…。そうか…私は結婚したから不倫になるのか…」
奇妙な戸惑い方だった。悪気も後ろめたさも感じない。
「今後の介護計画をたてるためにも、念のために聞きますが、香子さんも、あなたに妻がいる事を知っているのですか?」
「もちろんです。私達は都内の同じ会社に勤めていたんです。一時はお互いに結婚も考えた間柄でしたけど、彼女はひとりっ子で、いつか親元に帰らなくてはいけないと言われて、諦めたのです」と、恥ずかしそうに下を向いた。
予想せぬ展開であった。内縁関係と、不倫関係では状況がずいぶん違ってくる。不倫と認めたときの彼の態度が妙だったが、彼をキーパーソンにして、自宅での緩和ケアを行うという私の計画は、初日に崩れたのだった。
肉親でなくても大切な人を看取る事は可能だ。しかし不倫関係の場合は、介護こそ出来ても、泊まり込めない事情によって、人生の最終最後で病院か施設に委ねるしかできなくなる場合も多い。引き続き後編『看取り医が絶句。若い頃に結婚を考えていた男性に看取らせた、余命1カ月の女性の思惑【現役医師がリポート】』では、看取りの現場で起きている令和のリアルをリポートする。