世界的に増加している「カスハラ」(カスタマーハラスメント。顧客による理不尽なクレームや言動を指す)の実態をお届け。海外に比べて、カスハラ対策に遅れをとる日本の状況とは……?
【マンガ】「お客様は神様などではありません」 犯罪心理学者として長年カスハラにかかわってきた桐生正幸氏の新刊『カスハラの犯罪心理学』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)なぜ従業員を傷つける「カスハラ」が日本では放置されるのか? 写真はイメージ getty
◆◆◆「熱中症になったらどうするんだ!?」 Aさん(40代)は、地方で展開する中型スーパーマーケットでパートとして勤務している。5年目ともあって周囲の同僚からも頼られ、この日も店内の商品チェックや接客を任されていた。 当時、Aさんの店舗は本社からの指示で新型コロナウイルス感染症対策を求められるようになっていた。従業員全員の手洗いやアルコール消毒の順守、マスクの着用。そして、来店するお客にも、入店時のアルコール消毒・マスクの着用をお願いすることになっていた。 その日は猛暑日で、店内の客足も普段より少なかった。正午前、60代と思われる常連の男性が来店してきたが、マスクをしていない。店長からの目配せのサインを受け、Aさんはその男性に声をかけた。「お客様、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。それで、大変申し訳ないのですが、マスクをつけていただけますでしょうか」 すると、その男性は不快そうに「なんで?」と彼女を睨んだ。「いま、新型コロナウイルス感染症の予防のため、皆さんにはマスクの着用をお願いしているのですが」とAさんが答えると、男性は突然声を荒らげ、「俺がコロナだって言うのか、この店は客をコロナ扱いするのか!?」と暴れ出した。 驚いた店長が「すみません、どうしましたか」と駆け寄ると、男性は「こんな暑い日に『マスクをしろ』と強要するつもりか! 厚生労働省は『暑いときはマスクを外せ』とちゃんと言ってるぞ!」などと大声で喚きだす。このままでは、他のお客にも迷惑がかかってしまう。「わかりました、わかりました! では、ちょっと外の方に来ていただけますか」 店長がそう言って2人で男性を店外に連れ出すと、男性はますます怒り狂い、唾を飛ばしてまくしたてる。「お前たち! こんなところで熱中症になったらどうするんだ!? 責任を取るのか? 責任を取ると一筆書け!」「マスクしてもいいが、その間はうちわであおぎつづけろ!」 感染症対策どころではなくなってしまった。男性は無理を言うばかりで取りつく島もなく、結局、Aさんと店長はその後30分も店外で怒鳴りつづけられたのだった。 実は、このような事例は、いまでも日本中で発生しつづけている。 たとえば、コロナが蔓延しはじめた時期に、店舗営業を続けていたとあるドラックストアが不特定多数の人から「営業するな」との電話を受けている。また、ある野菜の産地で感染者が増えているというニュースが報道されれば、「その産地の野菜を買うとコロナに感染する」と常連客から返品されたという風評被害の事例などもある[桐生 2020]。 例を挙げればキリがないほど、コロナ禍によって理不尽なカスハラが全国各地で急増しているのだ。クレームとカスハラの違い Aさんの事例を読み、あなたはどう思っただろうか?「クレーム対応の仕方が悪いよね。外に連れ出さなくてもよかったはず。誠意を尽くさないからお客さんも怒る。もっとうまく対応できれば大事にはならなかったはず」 もしそんなふうに思った方は、「そもそもクレームとはなにか」を知る必要があるだろう。 クレームとは本来「問題解決を求めている場合の要求・主張」のことをいう[田中ほか 2014]。今回の場合、マスクの着用を店側が頼んだことに対し、男性が要求した内容は問題解決には至らない、簡単に言えば「言いがかり」だ。その後の男性の態度や言動を見ても、このクレームの悪質性が窺い知れる。「はじめに」で「悪質なクレーム」を、「商品やサービス、性能、補償などに関し、消費者が不満足を表明したもののうち、その消費者が必要以上に攻撃的であったり、感情的な言動をとったりしたもの、または悪意が感じられる過度な金品や謝罪を求める行為」と定義した。 店長とAさんにマスク着用を求められた男性客は、その対応に不満を漏らした。「知らなかったのでマスクを持っていない」と言えば済むところを、喚き散らして暴れるといった常軌を逸する行動に出たのだ。高圧的な態度で従業員を攻撃し、過度な謝罪とサービスを求める行為は、相手を傷つける加害=カスハラにあたる。 では、こうした悪質なクレームを容認すれば、店の商品やサービス、性能や補償が果たして向上するだろうか? むしろ悪化の一途をたどることは容易に想像がつく。理不尽な要求に対応していては、業務効率も下がり、周りの客からも不審に思われるだろう。そして、悪質なクレームを受ける従業員の心身の被害を疎かにしていては、次々に辞めていってしまうだろう。 悪質なクレームを容認していると、客の質も店の質も下がるばかりの悪循環が待ち受けているのだ。ナッツリターン事件 ここで、海外へと目を向けてみよう。他国におけるカスハラはどのような状況だろうか? 海外でのクレーマーによる事件と聞いて、2014年に起きた「大韓航空ナッツリターン事件」と呼ばれる出来事を思い出す人も多いだろう。メディア報道により世界的に有名になった悪質クレーマー事件の一つだ。 これは、大韓航空機に搭乗していた当時の同社副社長のクレームにより、滑走路を進んでいた同機が搭乗ゲートへ引き返し、機内サービス責任者が降ろされたという騒動だ。その原因は、なんとCAがナッツを袋のまま手渡ししてきたこと。この対応に腹を立てた副社長は、他の乗客の前で喚き散らした。この過剰な反応と越権行為は批判され、副社長は逮捕された。 韓国は、日本と同じ年上を敬う儒教的な価値観に加えて、徴兵制によってもタテ社会が強化されている側面があり、経済格差も顕著だ。そうした社会で、接客に対応する従業員たちは客の攻撃的な言動に耐え忍び、自分の気持ちを押し殺して働かねばならない感情労働(業務中に感情のコントロールや表現が求められること)が強いられてきたという。 ナッツリターン事件に関しては、カスハラ加害者が同社の経営層でもあった点は特異だが、数年前に韓国との共同セミナーで私が日本のカスハラの調査結果を報告した際には、韓国の研究者が一様に「韓国もそうだ」と言って幾度も頷いていた。日本と同じく、韓国でもカスハラは多発していることがよくわかる。 こうした感情労働とカスハラが韓国で社会問題となった結果、2016年にソウル市条例の制定により感情労働従事者の権利が定められた。さらに、国も立法化に動き出し、2018年には産業安全保健法の改正が決定された。国全体で見れば、まだまだ企業側の管理・監督の不十分さへの批判もある。コロナ禍による影響は韓国も同様で、その被害は増加しているという。 しかし、いち早く条例を定めたソウル市では、企業の個別マニュアルや実施方法をサポートし、被害を受けた従業員には一対一の心理相談や集団治癒プログラムをおこなうなどし、一定の成果をあげている。並行して実態調査やソウル市全体へのカスハラの啓蒙活動も広くおこなったことが功を奏したようだ。国際社会でもカスハラは問題に 韓国のような一連の動きは、国際社会でも見られた。国連の専門機関である国際労働機関(ILO)によって、ハラスメント行為を禁じる初めての国際労働機関条約「仕事の世界における暴力及びハラスメントの撤廃に関する条約」が2019年に採択され、2021年に発効された。 従業員やフリーランス、求職活動者に対する「身体的、心理的、性的又は経済的損害を目的とし、又はこれらの損害をもたらし、若しくはもたらすおそれのある一定の容認することができない行動及び慣行又はこれらの脅威」を法的に禁じる条約だ。 一方で、韓国でもコロナ禍でカスハラ被害が増加したように、そのほかの国々でも以前よりも悪質クレーマーの問題行動は深刻化している。海外の消費者行動に関する学会誌には、先述したAさんと同様の状況が知れる論文が散見された。 たとえば、アメリカでは次のような事例が起きている。飲食店内での出来事だ。食事が運ばれてくるまでマスクを着用するよう店員がお願いすると、女性客は「コロナはでっちあげだ!」と怒鳴ってマスク着用を拒否した。また、ある別の男性客は「権利の侵害だ!」と叫び、マスクを着用するよう促した他の客にも怒鳴りつけた、など。この論文では、新型コロナウイルスのパンデミックが、顧客の不正行為を悪化させ、最前線にいる従業員のストレスを増加させたことが指摘されている[Northington et al. 2021]。 Aさんのケースとよく似た出来事がアメリカでも起きていたことがわかるが、一方で日本との違いもある。悪質なクレームに対する企業や店の態度が欧米では明確だという点だ。店側と客との間にトラブルが発生したときには、店側は警察官を呼ぶ。不当だと思う客は訴訟を起こす。製品やサービスに満足できなかった場合も、企業側が問題点を解決しなければその企業から離れて別の企業に移り、解決すればその店をさらに好きになるという傾向もある。 アメリカの消費者社会がさっぱりした関係性で成り立っているのは、文化的背景の違いがあるからだ。多様な文化や社会システムを持つ移民国家のアメリカでは、日本のような「忖度」や「暗黙のルール」は通じにくい。「良い/悪い」「好き/嫌い」「快/不快」と、はっきり伝えなければ生活できない社会だからこそ、店も顧客も対等な立場で振る舞うのだ。世界に後れをとる日本 ハラスメント行為を禁じる国際労働機関条約が発効された2021年、日本ではどのような動きが見られたのだろうか? 結論から言えば、日本政府は条約の採択に賛成しつつも、批准には後ろ向きだった。 法をつくると、企業側にとっては損害賠償などの訴訟が増える可能性もある。そうなれば、顧客第一主義を謳う企業には受け入れられにくい……。そんな忖度の結果、ハラスメント規制法(改正労働施策総合推進法、正式名称・労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律)が施行されても、禁止規定がなく抑止力が欠けた状態のままだ。現行法では被害範囲が狭いためにグレーな部分が広く、被害を防止できていない。 日本における悪質なクレームは、コロナ禍以前から従業員の心身に悪影響を与えてきた。欧米とは対照的に忖度し合う文化的背景と企業風土の特質は、カスハラを生み出す悪しき要因となっている。消費者による他社とのいきすぎたサービス比較やネットでの風評被害など、そうした消費者の過剰さに企業側も過敏に反応してきたことが、悪質なクレーム行動を悪化させている。 皮肉にも、企業が自らカスハラに加担するようなシステムが、日本には形成されていたのだ。そしてコロナ禍が、この悪しき土壌をますます活性化させてきた。 こうした消費者行動は、国の文化や社会システムの違いのほかにも、購買行動の意識の違い、移民の割合といった要因が関わると考えられている。先ほども挙げたように、移民国家であるアメリカでは、コミュニケーションの仕方が日本とは異なるという文化的背景の違いがある。それに加えてクレームに関しても、個人的な思想や価値観より、客観的判断に基づいて対応される[北村ほか 2020]。 そのため、クレームに関する研究や対策も、こうした文化的・社会的背景に基づいている。 海外の研究では、消費者苦情行動(Consumer complaint behavior 〈CCB〉)に関するモデルの提案や、企業側の適切な対応に関するものなど、経営やマーケティングに関連した心理学的研究が主流となっている。 当然ながら、国の成り立ちも文化も大きく異なる日本では、こうした海外の知見をそのまま当てはめることはできない。曖昧なコミュニケーションを重んじる文化のもと、曖昧でグレーなクレームに曖昧に対応する。そんな日本で悪質クレーマー対策を講じるには、日本国内でのカスハラ研究を積み重ねていく必要があるのだ。(続きを読む)【出典】・桐生正幸 2020「悪質クレーム対策(迷惑行為)アンケート調査 分析結果:迷惑行為被害によるストレス対処及び悪質クレーム行為の明確化について」・田中泰恵、西川千登世、澤口右京、渋谷昌三 2014「クレーム行動経験と個人特性の関係」『目白大学 総合科学研究』10, 55-61・Northington, William Magnus, Gillison, S. T., Beatty, S. E. & Vivek, S. (2021) I Don’t Want to be a Rule Enforcer During the COVID-19 Pandemic: Frontline Employees’ Plight,”Journal of Retalling and Consumer Services, 63(august), 102723.・北村英哉 桐生正幸 山田一成 編著、安藤清志 大島尚 監修 2020『心理学から見た社会 実証研究の可能性と課題』誠信書房「土下座せえへんかったら、店のもん壊す」ついには店員の頭を蹴るヤカラも…日本をむしばむ「モンスター客」の壮絶実態 へ続く(桐生 正幸/Webオリジナル(外部転載))
犯罪心理学者として長年カスハラにかかわってきた桐生正幸氏の新刊『カスハラの犯罪心理学』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
なぜ従業員を傷つける「カスハラ」が日本では放置されるのか? 写真はイメージ getty
◆◆◆
Aさん(40代)は、地方で展開する中型スーパーマーケットでパートとして勤務している。5年目ともあって周囲の同僚からも頼られ、この日も店内の商品チェックや接客を任されていた。
当時、Aさんの店舗は本社からの指示で新型コロナウイルス感染症対策を求められるようになっていた。従業員全員の手洗いやアルコール消毒の順守、マスクの着用。そして、来店するお客にも、入店時のアルコール消毒・マスクの着用をお願いすることになっていた。
その日は猛暑日で、店内の客足も普段より少なかった。正午前、60代と思われる常連の男性が来店してきたが、マスクをしていない。店長からの目配せのサインを受け、Aさんはその男性に声をかけた。
「お客様、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。それで、大変申し訳ないのですが、マスクをつけていただけますでしょうか」
すると、その男性は不快そうに「なんで?」と彼女を睨んだ。
「いま、新型コロナウイルス感染症の予防のため、皆さんにはマスクの着用をお願いしているのですが」とAさんが答えると、男性は突然声を荒らげ、「俺がコロナだって言うのか、この店は客をコロナ扱いするのか!?」と暴れ出した。
驚いた店長が「すみません、どうしましたか」と駆け寄ると、男性は「こんな暑い日に『マスクをしろ』と強要するつもりか! 厚生労働省は『暑いときはマスクを外せ』とちゃんと言ってるぞ!」などと大声で喚きだす。このままでは、他のお客にも迷惑がかかってしまう。
「わかりました、わかりました! では、ちょっと外の方に来ていただけますか」
店長がそう言って2人で男性を店外に連れ出すと、男性はますます怒り狂い、唾を飛ばしてまくしたてる。
「お前たち! こんなところで熱中症になったらどうするんだ!? 責任を取るのか? 責任を取ると一筆書け!」
「マスクしてもいいが、その間はうちわであおぎつづけろ!」
感染症対策どころではなくなってしまった。男性は無理を言うばかりで取りつく島もなく、結局、Aさんと店長はその後30分も店外で怒鳴りつづけられたのだった。
実は、このような事例は、いまでも日本中で発生しつづけている。
たとえば、コロナが蔓延しはじめた時期に、店舗営業を続けていたとあるドラックストアが不特定多数の人から「営業するな」との電話を受けている。また、ある野菜の産地で感染者が増えているというニュースが報道されれば、「その産地の野菜を買うとコロナに感染する」と常連客から返品されたという風評被害の事例などもある[桐生 2020]。
例を挙げればキリがないほど、コロナ禍によって理不尽なカスハラが全国各地で急増しているのだ。
Aさんの事例を読み、あなたはどう思っただろうか?
「クレーム対応の仕方が悪いよね。外に連れ出さなくてもよかったはず。誠意を尽くさないからお客さんも怒る。もっとうまく対応できれば大事にはならなかったはず」
もしそんなふうに思った方は、「そもそもクレームとはなにか」を知る必要があるだろう。
クレームとは本来「問題解決を求めている場合の要求・主張」のことをいう[田中ほか 2014]。今回の場合、マスクの着用を店側が頼んだことに対し、男性が要求した内容は問題解決には至らない、簡単に言えば「言いがかり」だ。その後の男性の態度や言動を見ても、このクレームの悪質性が窺い知れる。
「はじめに」で「悪質なクレーム」を、「商品やサービス、性能、補償などに関し、消費者が不満足を表明したもののうち、その消費者が必要以上に攻撃的であったり、感情的な言動をとったりしたもの、または悪意が感じられる過度な金品や謝罪を求める行為」と定義した。
店長とAさんにマスク着用を求められた男性客は、その対応に不満を漏らした。「知らなかったのでマスクを持っていない」と言えば済むところを、喚き散らして暴れるといった常軌を逸する行動に出たのだ。高圧的な態度で従業員を攻撃し、過度な謝罪とサービスを求める行為は、相手を傷つける加害=カスハラにあたる。
では、こうした悪質なクレームを容認すれば、店の商品やサービス、性能や補償が果たして向上するだろうか? むしろ悪化の一途をたどることは容易に想像がつく。理不尽な要求に対応していては、業務効率も下がり、周りの客からも不審に思われるだろう。そして、悪質なクレームを受ける従業員の心身の被害を疎かにしていては、次々に辞めていってしまうだろう。
悪質なクレームを容認していると、客の質も店の質も下がるばかりの悪循環が待ち受けているのだ。
ここで、海外へと目を向けてみよう。他国におけるカスハラはどのような状況だろうか?
海外でのクレーマーによる事件と聞いて、2014年に起きた「大韓航空ナッツリターン事件」と呼ばれる出来事を思い出す人も多いだろう。メディア報道により世界的に有名になった悪質クレーマー事件の一つだ。
これは、大韓航空機に搭乗していた当時の同社副社長のクレームにより、滑走路を進んでいた同機が搭乗ゲートへ引き返し、機内サービス責任者が降ろされたという騒動だ。その原因は、なんとCAがナッツを袋のまま手渡ししてきたこと。この対応に腹を立てた副社長は、他の乗客の前で喚き散らした。この過剰な反応と越権行為は批判され、副社長は逮捕された。
韓国は、日本と同じ年上を敬う儒教的な価値観に加えて、徴兵制によってもタテ社会が強化されている側面があり、経済格差も顕著だ。そうした社会で、接客に対応する従業員たちは客の攻撃的な言動に耐え忍び、自分の気持ちを押し殺して働かねばならない感情労働(業務中に感情のコントロールや表現が求められること)が強いられてきたという。 ナッツリターン事件に関しては、カスハラ加害者が同社の経営層でもあった点は特異だが、数年前に韓国との共同セミナーで私が日本のカスハラの調査結果を報告した際には、韓国の研究者が一様に「韓国もそうだ」と言って幾度も頷いていた。日本と同じく、韓国でもカスハラは多発していることがよくわかる。 こうした感情労働とカスハラが韓国で社会問題となった結果、2016年にソウル市条例の制定により感情労働従事者の権利が定められた。さらに、国も立法化に動き出し、2018年には産業安全保健法の改正が決定された。国全体で見れば、まだまだ企業側の管理・監督の不十分さへの批判もある。コロナ禍による影響は韓国も同様で、その被害は増加しているという。 しかし、いち早く条例を定めたソウル市では、企業の個別マニュアルや実施方法をサポートし、被害を受けた従業員には一対一の心理相談や集団治癒プログラムをおこなうなどし、一定の成果をあげている。並行して実態調査やソウル市全体へのカスハラの啓蒙活動も広くおこなったことが功を奏したようだ。国際社会でもカスハラは問題に 韓国のような一連の動きは、国際社会でも見られた。国連の専門機関である国際労働機関(ILO)によって、ハラスメント行為を禁じる初めての国際労働機関条約「仕事の世界における暴力及びハラスメントの撤廃に関する条約」が2019年に採択され、2021年に発効された。 従業員やフリーランス、求職活動者に対する「身体的、心理的、性的又は経済的損害を目的とし、又はこれらの損害をもたらし、若しくはもたらすおそれのある一定の容認することができない行動及び慣行又はこれらの脅威」を法的に禁じる条約だ。 一方で、韓国でもコロナ禍でカスハラ被害が増加したように、そのほかの国々でも以前よりも悪質クレーマーの問題行動は深刻化している。海外の消費者行動に関する学会誌には、先述したAさんと同様の状況が知れる論文が散見された。 たとえば、アメリカでは次のような事例が起きている。飲食店内での出来事だ。食事が運ばれてくるまでマスクを着用するよう店員がお願いすると、女性客は「コロナはでっちあげだ!」と怒鳴ってマスク着用を拒否した。また、ある別の男性客は「権利の侵害だ!」と叫び、マスクを着用するよう促した他の客にも怒鳴りつけた、など。この論文では、新型コロナウイルスのパンデミックが、顧客の不正行為を悪化させ、最前線にいる従業員のストレスを増加させたことが指摘されている[Northington et al. 2021]。 Aさんのケースとよく似た出来事がアメリカでも起きていたことがわかるが、一方で日本との違いもある。悪質なクレームに対する企業や店の態度が欧米では明確だという点だ。店側と客との間にトラブルが発生したときには、店側は警察官を呼ぶ。不当だと思う客は訴訟を起こす。製品やサービスに満足できなかった場合も、企業側が問題点を解決しなければその企業から離れて別の企業に移り、解決すればその店をさらに好きになるという傾向もある。 アメリカの消費者社会がさっぱりした関係性で成り立っているのは、文化的背景の違いがあるからだ。多様な文化や社会システムを持つ移民国家のアメリカでは、日本のような「忖度」や「暗黙のルール」は通じにくい。「良い/悪い」「好き/嫌い」「快/不快」と、はっきり伝えなければ生活できない社会だからこそ、店も顧客も対等な立場で振る舞うのだ。世界に後れをとる日本 ハラスメント行為を禁じる国際労働機関条約が発効された2021年、日本ではどのような動きが見られたのだろうか? 結論から言えば、日本政府は条約の採択に賛成しつつも、批准には後ろ向きだった。 法をつくると、企業側にとっては損害賠償などの訴訟が増える可能性もある。そうなれば、顧客第一主義を謳う企業には受け入れられにくい……。そんな忖度の結果、ハラスメント規制法(改正労働施策総合推進法、正式名称・労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律)が施行されても、禁止規定がなく抑止力が欠けた状態のままだ。現行法では被害範囲が狭いためにグレーな部分が広く、被害を防止できていない。 日本における悪質なクレームは、コロナ禍以前から従業員の心身に悪影響を与えてきた。欧米とは対照的に忖度し合う文化的背景と企業風土の特質は、カスハラを生み出す悪しき要因となっている。消費者による他社とのいきすぎたサービス比較やネットでの風評被害など、そうした消費者の過剰さに企業側も過敏に反応してきたことが、悪質なクレーム行動を悪化させている。 皮肉にも、企業が自らカスハラに加担するようなシステムが、日本には形成されていたのだ。そしてコロナ禍が、この悪しき土壌をますます活性化させてきた。 こうした消費者行動は、国の文化や社会システムの違いのほかにも、購買行動の意識の違い、移民の割合といった要因が関わると考えられている。先ほども挙げたように、移民国家であるアメリカでは、コミュニケーションの仕方が日本とは異なるという文化的背景の違いがある。それに加えてクレームに関しても、個人的な思想や価値観より、客観的判断に基づいて対応される[北村ほか 2020]。 そのため、クレームに関する研究や対策も、こうした文化的・社会的背景に基づいている。 海外の研究では、消費者苦情行動(Consumer complaint behavior 〈CCB〉)に関するモデルの提案や、企業側の適切な対応に関するものなど、経営やマーケティングに関連した心理学的研究が主流となっている。 当然ながら、国の成り立ちも文化も大きく異なる日本では、こうした海外の知見をそのまま当てはめることはできない。曖昧なコミュニケーションを重んじる文化のもと、曖昧でグレーなクレームに曖昧に対応する。そんな日本で悪質クレーマー対策を講じるには、日本国内でのカスハラ研究を積み重ねていく必要があるのだ。(続きを読む)【出典】・桐生正幸 2020「悪質クレーム対策(迷惑行為)アンケート調査 分析結果:迷惑行為被害によるストレス対処及び悪質クレーム行為の明確化について」・田中泰恵、西川千登世、澤口右京、渋谷昌三 2014「クレーム行動経験と個人特性の関係」『目白大学 総合科学研究』10, 55-61・Northington, William Magnus, Gillison, S. T., Beatty, S. E. & Vivek, S. (2021) I Don’t Want to be a Rule Enforcer During the COVID-19 Pandemic: Frontline Employees’ Plight,”Journal of Retalling and Consumer Services, 63(august), 102723.・北村英哉 桐生正幸 山田一成 編著、安藤清志 大島尚 監修 2020『心理学から見た社会 実証研究の可能性と課題』誠信書房「土下座せえへんかったら、店のもん壊す」ついには店員の頭を蹴るヤカラも…日本をむしばむ「モンスター客」の壮絶実態 へ続く(桐生 正幸/Webオリジナル(外部転載))
韓国は、日本と同じ年上を敬う儒教的な価値観に加えて、徴兵制によってもタテ社会が強化されている側面があり、経済格差も顕著だ。そうした社会で、接客に対応する従業員たちは客の攻撃的な言動に耐え忍び、自分の気持ちを押し殺して働かねばならない感情労働(業務中に感情のコントロールや表現が求められること)が強いられてきたという。
ナッツリターン事件に関しては、カスハラ加害者が同社の経営層でもあった点は特異だが、数年前に韓国との共同セミナーで私が日本のカスハラの調査結果を報告した際には、韓国の研究者が一様に「韓国もそうだ」と言って幾度も頷いていた。日本と同じく、韓国でもカスハラは多発していることがよくわかる。
こうした感情労働とカスハラが韓国で社会問題となった結果、2016年にソウル市条例の制定により感情労働従事者の権利が定められた。さらに、国も立法化に動き出し、2018年には産業安全保健法の改正が決定された。国全体で見れば、まだまだ企業側の管理・監督の不十分さへの批判もある。コロナ禍による影響は韓国も同様で、その被害は増加しているという。
しかし、いち早く条例を定めたソウル市では、企業の個別マニュアルや実施方法をサポートし、被害を受けた従業員には一対一の心理相談や集団治癒プログラムをおこなうなどし、一定の成果をあげている。並行して実態調査やソウル市全体へのカスハラの啓蒙活動も広くおこなったことが功を奏したようだ。
韓国のような一連の動きは、国際社会でも見られた。国連の専門機関である国際労働機関(ILO)によって、ハラスメント行為を禁じる初めての国際労働機関条約「仕事の世界における暴力及びハラスメントの撤廃に関する条約」が2019年に採択され、2021年に発効された。
従業員やフリーランス、求職活動者に対する「身体的、心理的、性的又は経済的損害を目的とし、又はこれらの損害をもたらし、若しくはもたらすおそれのある一定の容認することができない行動及び慣行又はこれらの脅威」を法的に禁じる条約だ。
一方で、韓国でもコロナ禍でカスハラ被害が増加したように、そのほかの国々でも以前よりも悪質クレーマーの問題行動は深刻化している。海外の消費者行動に関する学会誌には、先述したAさんと同様の状況が知れる論文が散見された。
たとえば、アメリカでは次のような事例が起きている。飲食店内での出来事だ。食事が運ばれてくるまでマスクを着用するよう店員がお願いすると、女性客は「コロナはでっちあげだ!」と怒鳴ってマスク着用を拒否した。また、ある別の男性客は「権利の侵害だ!」と叫び、マスクを着用するよう促した他の客にも怒鳴りつけた、など。この論文では、新型コロナウイルスのパンデミックが、顧客の不正行為を悪化させ、最前線にいる従業員のストレスを増加させたことが指摘されている[Northington et al. 2021]。
Aさんのケースとよく似た出来事がアメリカでも起きていたことがわかるが、一方で日本との違いもある。悪質なクレームに対する企業や店の態度が欧米では明確だという点だ。店側と客との間にトラブルが発生したときには、店側は警察官を呼ぶ。不当だと思う客は訴訟を起こす。製品やサービスに満足できなかった場合も、企業側が問題点を解決しなければその企業から離れて別の企業に移り、解決すればその店をさらに好きになるという傾向もある。
アメリカの消費者社会がさっぱりした関係性で成り立っているのは、文化的背景の違いがあるからだ。多様な文化や社会システムを持つ移民国家のアメリカでは、日本のような「忖度」や「暗黙のルール」は通じにくい。「良い/悪い」「好き/嫌い」「快/不快」と、はっきり伝えなければ生活できない社会だからこそ、店も顧客も対等な立場で振る舞うのだ。
ハラスメント行為を禁じる国際労働機関条約が発効された2021年、日本ではどのような動きが見られたのだろうか? 結論から言えば、日本政府は条約の採択に賛成しつつも、批准には後ろ向きだった。
法をつくると、企業側にとっては損害賠償などの訴訟が増える可能性もある。そうなれば、顧客第一主義を謳う企業には受け入れられにくい……。そんな忖度の結果、ハラスメント規制法(改正労働施策総合推進法、正式名称・労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律)が施行されても、禁止規定がなく抑止力が欠けた状態のままだ。現行法では被害範囲が狭いためにグレーな部分が広く、被害を防止できていない。
日本における悪質なクレームは、コロナ禍以前から従業員の心身に悪影響を与えてきた。欧米とは対照的に忖度し合う文化的背景と企業風土の特質は、カスハラを生み出す悪しき要因となっている。消費者による他社とのいきすぎたサービス比較やネットでの風評被害など、そうした消費者の過剰さに企業側も過敏に反応してきたことが、悪質なクレーム行動を悪化させている。
皮肉にも、企業が自らカスハラに加担するようなシステムが、日本には形成されていたのだ。そしてコロナ禍が、この悪しき土壌をますます活性化させてきた。
こうした消費者行動は、国の文化や社会システムの違いのほかにも、購買行動の意識の違い、移民の割合といった要因が関わると考えられている。先ほども挙げたように、移民国家であるアメリカでは、コミュニケーションの仕方が日本とは異なるという文化的背景の違いがある。それに加えてクレームに関しても、個人的な思想や価値観より、客観的判断に基づいて対応される[北村ほか 2020]。
そのため、クレームに関する研究や対策も、こうした文化的・社会的背景に基づいている。
海外の研究では、消費者苦情行動(Consumer complaint behavior 〈CCB〉)に関するモデルの提案や、企業側の適切な対応に関するものなど、経営やマーケティングに関連した心理学的研究が主流となっている。
当然ながら、国の成り立ちも文化も大きく異なる日本では、こうした海外の知見をそのまま当てはめることはできない。曖昧なコミュニケーションを重んじる文化のもと、曖昧でグレーなクレームに曖昧に対応する。そんな日本で悪質クレーマー対策を講じるには、日本国内でのカスハラ研究を積み重ねていく必要があるのだ。(続きを読む)
【出典】・桐生正幸 2020「悪質クレーム対策(迷惑行為)アンケート調査 分析結果:迷惑行為被害によるストレス対処及び悪質クレーム行為の明確化について」・田中泰恵、西川千登世、澤口右京、渋谷昌三 2014「クレーム行動経験と個人特性の関係」『目白大学 総合科学研究』10, 55-61・Northington, William Magnus, Gillison, S. T., Beatty, S. E. & Vivek, S. (2021) I Don’t Want to be a Rule Enforcer During the COVID-19 Pandemic: Frontline Employees’ Plight,”Journal of Retalling and Consumer Services, 63(august), 102723.・北村英哉 桐生正幸 山田一成 編著、安藤清志 大島尚 監修 2020『心理学から見た社会 実証研究の可能性と課題』誠信書房
「土下座せえへんかったら、店のもん壊す」ついには店員の頭を蹴るヤカラも…日本をむしばむ「モンスター客」の壮絶実態 へ続く
(桐生 正幸/Webオリジナル(外部転載))