元バレーボール女子日本代表の大山加奈さん(38)が、双子ベビーカーでバスに乗車しようとして乗車拒否されたとSNSに投稿し「炎上」した問題が大きな波紋を広げた。本来、大型ベビーカーが公共交通機関でも難なく乗れるようにするにはどうしたらよいか、という「制度の改善」の話のはずが、なぜか賛否を争う話、それもかなりヒステリックな様相になってしまっている。一体なぜか。
大型ベビーカーをバスに乗せにくいという「制度」の不備自体は、以前からずっと指摘されてきた問題だ。都営バスでは、過去「2人乗りなどの大型ベビーカーの場合」は折り畳みを、国交省も車内で後ろ向きに固定するよう求めていたものだが、2019年の秋ごろにネット上でも問題提起が広がり、大型ベビーカーを畳まずに乗れる方向に進んだ。
ついに今年6月から都営バス全線で折り畳まずに乗車できるようになった。他県でもこの傾向が広がりつつあり、少しずつではあるが、「制度の改善」については進んでいる好ましい状況がある。
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しかし、今回の問題で人々の意見を見ると、論点が少し違う。日本でしばしば目にする「人の心理を気にしすぎる」という特徴が過剰に大きくなっているのだ。まず、大山さんがSNSで伝えたのは、双子ベビーカーと一緒にバスを待っていたところ、バスが走り去っていったというもの。そして、次のバスでは乗車できたが、「歩道の段差とバスのステップまで大きな溝」があり、「困っていても運転手さんはスルー」、降りる際も運転手に手伝ってもらえなかったことから、「色々な感情が込み上げてきて涙腺崩壊…迷惑な存在だと思われたことがやはりとても悲しくて…あのバスが走り去る光景。思い出すとまた涙が出て来ます…」と綴った。バスが通り過ぎたこと、ひとりで重いベビーカーを運ぶつらい乗降作業を手伝ってもらえなかったこと、この2点の原因を「迷惑な存在だと思われた」と受け取ったわけだ。ただ、バスが通り過ぎたことについては、都バス運営の交通局が、「中扉の前でお待ちになっていた場合、運転手席から見えずに通り過ぎてしまった可能性もある」「乗車拒否だとすれば論外だが、実際はケースバイケースのことが多く、対処の仕方を定期的に研修している」と説明。運転手が大型ベビーカーを見て意図的にバスが通り過ぎたのではなく、単に注意ミスで起こった可能性が高いというのは客観的にも理解できる。 「感情」に注意が向く乗降の手伝いの部分は、解決に向けてはこれまた「制度の改善」を話し合うのがいいと思うが、今回の「論争」で人々が気にしているのは大山さんの「感情」のほうだ。世間では彼女の悲しみに寄り添う人々がたくさんいる一方、「他人に手伝ってもらう前提なのか」「運転手に負担が大きくてかわいそう」という声があり、ここでは、手伝ってもらう側の心構えや、どっちの立場が気の毒かというような、制度的な論点とは異なる「心理的な論点」が生まれてしまっている。なかには「周囲の乗客が手伝えばいい」という意見もあったが、これにも「手伝ってほしいなら自分でまずお願いするべき」とか「手伝おうとして嫌な顔されることもある」と、やはり他者の心理を気にする話になっていて、制度の改善から遠のいてしまっている。これを見て、なぜ日本の人々は、困っている人に冷たいのか、と思うところもあるが、一方で、人々の声には「助けてもらって当たり前という感じの人が嫌い」という意見も多く、そこは大山さんの悲痛な叫びに「被害者感情」が強いものであったがゆえの反発とも思える。運転手がたまたま見過ごしたり、気がつかなかったりで悪意がなかったかもしれない、いわば「不便だったこと」や「不運だったこと」を、「迷惑な存在だと思われた」という風に、攻撃されたかのように書いていることにも一因があっただろう。 日本の議論の特徴不便な出来事について訴える当事者も、そうした意見を聞いている傍観者も、話の主題を「心理」に集中させやすい。そして、気持ちのあり方に議論が集中してしまうという事態は、日本でしばしば見かける議論の特徴である。敬語や物事の言い方にたくさんの表現があるという日本語の特徴も、こうした議論が生じやすい原因のひとつかもしれない。たとえば自分を示す一人称だけでも私、俺、僕、おいら、あたし、など多彩で、二人称も、あなた、おまえ、君などによって言葉の印象を変える。英語だとIとYOUだけで、シンプルに主張が交換できるところ、日本人は知らず知らずのうちに相手を気遣い、他者の心理を察する機会が多くなる。だから、日本の世間で揉めていることが多いのが、「言い方」の問題だ。著名人の物言いでも、言い方に悪意を感じると、「嘲笑っぽい」とか「人を見下している」とか、本題よりそこが議題となっているものも多い。一方で、筆者が拠点を持つマレーシアでは、日本人よりダイレクトに言葉のやりとりがある分なのか、感情への注目度がそれほど高くない。以前、クアラルンプールのオフィスで、インターネットの接続が度々途切れるため、窓口で苦情を言ったことがあった。筆者はかなり困っていたこともあって、つい「ネット接続が悪いために仕事上で困った」という被害の話を長々説明し、いかに自分が困ったかを強くぶつけたのだが、担当者は「僕にそんなことを言われても、ただの窓口業務なのです」とサラッと答えた。日本ではありえないような対応だと腹が立ったが、複数のマレーシア人の友人からは「気持ちは分かるが、片岡さんはちょっと無駄なことをしている」と口々に言われた。目的はネット接続を改善することなのだから、窓口では接続担当者に繋いでもらえたらよかった、というのだ。たしかにそのほうが話が早いという気はした。多くの人があまり感情や心理や言い方に注目をしていない印象だ。感情的に文句を言うと、問題解決の以前に「なんでそんなことで怒っているのか」と呆れられ、むしろ解決が遅れるのがマレーシア生活で感じた傾向だ。 ただ、いまの日本社会は感情論が主流だ。ネット上では大騒ぎして炎上させた方が結果的に人々の関心を集めるという残念な社会風潮になって、それを狙って問題解決を図ろうとする人も少なくない。そして、その炎上に疲れてしまい、不快を覚える人々が猛反発してしまう。本題は、大型ベビーカーを乗降させやすい公共交通機関にするにはどうしたらいいか、という話のはずだ。運転手に手伝いを義務付ける案はあるが、命を預かる運転に集中させるべきという懸念が出るのも一理ある。今回の場合、誰かが責められるべき問題ではないのだから、ストレスを溜める論争より、解決策をスムーズに生み出したほうがウィン・ウィンになれると思うのだが。
しかし、今回の問題で人々の意見を見ると、論点が少し違う。日本でしばしば目にする「人の心理を気にしすぎる」という特徴が過剰に大きくなっているのだ。
まず、大山さんがSNSで伝えたのは、双子ベビーカーと一緒にバスを待っていたところ、バスが走り去っていったというもの。そして、次のバスでは乗車できたが、「歩道の段差とバスのステップまで大きな溝」があり、「困っていても運転手さんはスルー」、降りる際も運転手に手伝ってもらえなかったことから、「色々な感情が込み上げてきて涙腺崩壊…迷惑な存在だと思われたことがやはりとても悲しくて…あのバスが走り去る光景。思い出すとまた涙が出て来ます…」と綴った。
バスが通り過ぎたこと、ひとりで重いベビーカーを運ぶつらい乗降作業を手伝ってもらえなかったこと、この2点の原因を「迷惑な存在だと思われた」と受け取ったわけだ。
ただ、バスが通り過ぎたことについては、都バス運営の交通局が、「中扉の前でお待ちになっていた場合、運転手席から見えずに通り過ぎてしまった可能性もある」「乗車拒否だとすれば論外だが、実際はケースバイケースのことが多く、対処の仕方を定期的に研修している」と説明。運転手が大型ベビーカーを見て意図的にバスが通り過ぎたのではなく、単に注意ミスで起こった可能性が高いというのは客観的にも理解できる。
「感情」に注意が向く乗降の手伝いの部分は、解決に向けてはこれまた「制度の改善」を話し合うのがいいと思うが、今回の「論争」で人々が気にしているのは大山さんの「感情」のほうだ。世間では彼女の悲しみに寄り添う人々がたくさんいる一方、「他人に手伝ってもらう前提なのか」「運転手に負担が大きくてかわいそう」という声があり、ここでは、手伝ってもらう側の心構えや、どっちの立場が気の毒かというような、制度的な論点とは異なる「心理的な論点」が生まれてしまっている。なかには「周囲の乗客が手伝えばいい」という意見もあったが、これにも「手伝ってほしいなら自分でまずお願いするべき」とか「手伝おうとして嫌な顔されることもある」と、やはり他者の心理を気にする話になっていて、制度の改善から遠のいてしまっている。これを見て、なぜ日本の人々は、困っている人に冷たいのか、と思うところもあるが、一方で、人々の声には「助けてもらって当たり前という感じの人が嫌い」という意見も多く、そこは大山さんの悲痛な叫びに「被害者感情」が強いものであったがゆえの反発とも思える。運転手がたまたま見過ごしたり、気がつかなかったりで悪意がなかったかもしれない、いわば「不便だったこと」や「不運だったこと」を、「迷惑な存在だと思われた」という風に、攻撃されたかのように書いていることにも一因があっただろう。 日本の議論の特徴不便な出来事について訴える当事者も、そうした意見を聞いている傍観者も、話の主題を「心理」に集中させやすい。そして、気持ちのあり方に議論が集中してしまうという事態は、日本でしばしば見かける議論の特徴である。敬語や物事の言い方にたくさんの表現があるという日本語の特徴も、こうした議論が生じやすい原因のひとつかもしれない。たとえば自分を示す一人称だけでも私、俺、僕、おいら、あたし、など多彩で、二人称も、あなた、おまえ、君などによって言葉の印象を変える。英語だとIとYOUだけで、シンプルに主張が交換できるところ、日本人は知らず知らずのうちに相手を気遣い、他者の心理を察する機会が多くなる。だから、日本の世間で揉めていることが多いのが、「言い方」の問題だ。著名人の物言いでも、言い方に悪意を感じると、「嘲笑っぽい」とか「人を見下している」とか、本題よりそこが議題となっているものも多い。一方で、筆者が拠点を持つマレーシアでは、日本人よりダイレクトに言葉のやりとりがある分なのか、感情への注目度がそれほど高くない。以前、クアラルンプールのオフィスで、インターネットの接続が度々途切れるため、窓口で苦情を言ったことがあった。筆者はかなり困っていたこともあって、つい「ネット接続が悪いために仕事上で困った」という被害の話を長々説明し、いかに自分が困ったかを強くぶつけたのだが、担当者は「僕にそんなことを言われても、ただの窓口業務なのです」とサラッと答えた。日本ではありえないような対応だと腹が立ったが、複数のマレーシア人の友人からは「気持ちは分かるが、片岡さんはちょっと無駄なことをしている」と口々に言われた。目的はネット接続を改善することなのだから、窓口では接続担当者に繋いでもらえたらよかった、というのだ。たしかにそのほうが話が早いという気はした。多くの人があまり感情や心理や言い方に注目をしていない印象だ。感情的に文句を言うと、問題解決の以前に「なんでそんなことで怒っているのか」と呆れられ、むしろ解決が遅れるのがマレーシア生活で感じた傾向だ。 ただ、いまの日本社会は感情論が主流だ。ネット上では大騒ぎして炎上させた方が結果的に人々の関心を集めるという残念な社会風潮になって、それを狙って問題解決を図ろうとする人も少なくない。そして、その炎上に疲れてしまい、不快を覚える人々が猛反発してしまう。本題は、大型ベビーカーを乗降させやすい公共交通機関にするにはどうしたらいいか、という話のはずだ。運転手に手伝いを義務付ける案はあるが、命を預かる運転に集中させるべきという懸念が出るのも一理ある。今回の場合、誰かが責められるべき問題ではないのだから、ストレスを溜める論争より、解決策をスムーズに生み出したほうがウィン・ウィンになれると思うのだが。
乗降の手伝いの部分は、解決に向けてはこれまた「制度の改善」を話し合うのがいいと思うが、今回の「論争」で人々が気にしているのは大山さんの「感情」のほうだ。世間では彼女の悲しみに寄り添う人々がたくさんいる一方、「他人に手伝ってもらう前提なのか」「運転手に負担が大きくてかわいそう」という声があり、ここでは、手伝ってもらう側の心構えや、どっちの立場が気の毒かというような、制度的な論点とは異なる「心理的な論点」が生まれてしまっている。
なかには「周囲の乗客が手伝えばいい」という意見もあったが、これにも「手伝ってほしいなら自分でまずお願いするべき」とか「手伝おうとして嫌な顔されることもある」と、やはり他者の心理を気にする話になっていて、制度の改善から遠のいてしまっている。
これを見て、なぜ日本の人々は、困っている人に冷たいのか、と思うところもあるが、一方で、人々の声には「助けてもらって当たり前という感じの人が嫌い」という意見も多く、そこは大山さんの悲痛な叫びに「被害者感情」が強いものであったがゆえの反発とも思える。
運転手がたまたま見過ごしたり、気がつかなかったりで悪意がなかったかもしれない、いわば「不便だったこと」や「不運だったこと」を、「迷惑な存在だと思われた」という風に、攻撃されたかのように書いていることにも一因があっただろう。
日本の議論の特徴不便な出来事について訴える当事者も、そうした意見を聞いている傍観者も、話の主題を「心理」に集中させやすい。そして、気持ちのあり方に議論が集中してしまうという事態は、日本でしばしば見かける議論の特徴である。敬語や物事の言い方にたくさんの表現があるという日本語の特徴も、こうした議論が生じやすい原因のひとつかもしれない。たとえば自分を示す一人称だけでも私、俺、僕、おいら、あたし、など多彩で、二人称も、あなた、おまえ、君などによって言葉の印象を変える。英語だとIとYOUだけで、シンプルに主張が交換できるところ、日本人は知らず知らずのうちに相手を気遣い、他者の心理を察する機会が多くなる。だから、日本の世間で揉めていることが多いのが、「言い方」の問題だ。著名人の物言いでも、言い方に悪意を感じると、「嘲笑っぽい」とか「人を見下している」とか、本題よりそこが議題となっているものも多い。一方で、筆者が拠点を持つマレーシアでは、日本人よりダイレクトに言葉のやりとりがある分なのか、感情への注目度がそれほど高くない。以前、クアラルンプールのオフィスで、インターネットの接続が度々途切れるため、窓口で苦情を言ったことがあった。筆者はかなり困っていたこともあって、つい「ネット接続が悪いために仕事上で困った」という被害の話を長々説明し、いかに自分が困ったかを強くぶつけたのだが、担当者は「僕にそんなことを言われても、ただの窓口業務なのです」とサラッと答えた。日本ではありえないような対応だと腹が立ったが、複数のマレーシア人の友人からは「気持ちは分かるが、片岡さんはちょっと無駄なことをしている」と口々に言われた。目的はネット接続を改善することなのだから、窓口では接続担当者に繋いでもらえたらよかった、というのだ。たしかにそのほうが話が早いという気はした。多くの人があまり感情や心理や言い方に注目をしていない印象だ。感情的に文句を言うと、問題解決の以前に「なんでそんなことで怒っているのか」と呆れられ、むしろ解決が遅れるのがマレーシア生活で感じた傾向だ。 ただ、いまの日本社会は感情論が主流だ。ネット上では大騒ぎして炎上させた方が結果的に人々の関心を集めるという残念な社会風潮になって、それを狙って問題解決を図ろうとする人も少なくない。そして、その炎上に疲れてしまい、不快を覚える人々が猛反発してしまう。本題は、大型ベビーカーを乗降させやすい公共交通機関にするにはどうしたらいいか、という話のはずだ。運転手に手伝いを義務付ける案はあるが、命を預かる運転に集中させるべきという懸念が出るのも一理ある。今回の場合、誰かが責められるべき問題ではないのだから、ストレスを溜める論争より、解決策をスムーズに生み出したほうがウィン・ウィンになれると思うのだが。
不便な出来事について訴える当事者も、そうした意見を聞いている傍観者も、話の主題を「心理」に集中させやすい。そして、気持ちのあり方に議論が集中してしまうという事態は、日本でしばしば見かける議論の特徴である。
敬語や物事の言い方にたくさんの表現があるという日本語の特徴も、こうした議論が生じやすい原因のひとつかもしれない。たとえば自分を示す一人称だけでも私、俺、僕、おいら、あたし、など多彩で、二人称も、あなた、おまえ、君などによって言葉の印象を変える。英語だとIとYOUだけで、シンプルに主張が交換できるところ、日本人は知らず知らずのうちに相手を気遣い、他者の心理を察する機会が多くなる。
だから、日本の世間で揉めていることが多いのが、「言い方」の問題だ。著名人の物言いでも、言い方に悪意を感じると、「嘲笑っぽい」とか「人を見下している」とか、本題よりそこが議題となっているものも多い。
一方で、筆者が拠点を持つマレーシアでは、日本人よりダイレクトに言葉のやりとりがある分なのか、感情への注目度がそれほど高くない。
以前、クアラルンプールのオフィスで、インターネットの接続が度々途切れるため、窓口で苦情を言ったことがあった。筆者はかなり困っていたこともあって、つい「ネット接続が悪いために仕事上で困った」という被害の話を長々説明し、いかに自分が困ったかを強くぶつけたのだが、担当者は「僕にそんなことを言われても、ただの窓口業務なのです」とサラッと答えた。
日本ではありえないような対応だと腹が立ったが、複数のマレーシア人の友人からは「気持ちは分かるが、片岡さんはちょっと無駄なことをしている」と口々に言われた。目的はネット接続を改善することなのだから、窓口では接続担当者に繋いでもらえたらよかった、というのだ。たしかにそのほうが話が早いという気はした。多くの人があまり感情や心理や言い方に注目をしていない印象だ。
感情的に文句を言うと、問題解決の以前に「なんでそんなことで怒っているのか」と呆れられ、むしろ解決が遅れるのがマレーシア生活で感じた傾向だ。
ただ、いまの日本社会は感情論が主流だ。ネット上では大騒ぎして炎上させた方が結果的に人々の関心を集めるという残念な社会風潮になって、それを狙って問題解決を図ろうとする人も少なくない。そして、その炎上に疲れてしまい、不快を覚える人々が猛反発してしまう。本題は、大型ベビーカーを乗降させやすい公共交通機関にするにはどうしたらいいか、という話のはずだ。運転手に手伝いを義務付ける案はあるが、命を預かる運転に集中させるべきという懸念が出るのも一理ある。今回の場合、誰かが責められるべき問題ではないのだから、ストレスを溜める論争より、解決策をスムーズに生み出したほうがウィン・ウィンになれると思うのだが。
ただ、いまの日本社会は感情論が主流だ。ネット上では大騒ぎして炎上させた方が結果的に人々の関心を集めるという残念な社会風潮になって、それを狙って問題解決を図ろうとする人も少なくない。そして、その炎上に疲れてしまい、不快を覚える人々が猛反発してしまう。
本題は、大型ベビーカーを乗降させやすい公共交通機関にするにはどうしたらいいか、という話のはずだ。運転手に手伝いを義務付ける案はあるが、命を預かる運転に集中させるべきという懸念が出るのも一理ある。今回の場合、誰かが責められるべき問題ではないのだから、ストレスを溜める論争より、解決策をスムーズに生み出したほうがウィン・ウィンになれると思うのだが。