日本キリスト教団白河教会の竹迫之さん(55)は、10代後半の約2年間、旧統一教会に入信し集団生活を送った。母親に懇願されて縁を切った後は、聖書を学び直して牧師になり、2世信者らの支援に奔走してきた。ほかの宗教者とは一味違った経歴を持つ竹迫さんの目に、社会を脅かすカルトの問題はどう映っているのだろうか。【聞き手・太田敦子】
「絶対に信仰を否定しない」2世に寄り添う旧統一教会元信者の牧師 ――「旧統一教会はカルトであって宗教ではない」という指摘もある。カルトと宗教の違いは何か。

◆一つはっきりしているのは、カルトは脅迫がベース。不安をあおって、救いの道はこっちですよと誘導していく。旧統一教会のように何億円も巻き上げているのは明らかにカルトだ。一方、人に罪があると追い詰めるのではなく、「今まで苦労してきたけどこれからはいい人生が待っているよ」と希望を持たせるのが、まともな宗教だと思う。 ただ、この問いは僕にとってまだ宿題で、答えをきちんとした言葉にできていない。例えば、聖書には「呪い」と「祝福」がワンセットで出てくる。「神に従わない者は呪われる、神に従う者は祝福される」というふうに。この「呪い」の部分を捨て去らないといけない。自分自身の課題としてずっと考えている。 ――絶対的な答えはないのか? ◆そうだ。お寺の集まりに呼ばれて話をすることもあるが、「先祖の因縁などで脅迫をもってその人の選択を誘導するのがカルト」という話をすると、たまにびくっとするお坊さんがいる。一般的には「これをやると地獄に落ちる」という教導はしないらしいが、中には思い当たる人がいる。既存の宗教でも、場合によっては恐怖信仰になってしまうということだ。 自分がカルト団体のメンバーだったから思うことだが、「お前カルトだろ」と言われるとむっとする。でもそこで「ひょっとしたらうちの宗教もカルトっぽいかも」と立ち止まれるのが理性的な宗教というか、まともな宗教だと思う。 ――不安をあおっても、金銭を要求しなければまともな宗教と言えるか? ◆職業宗教家としては致命的かもしれないが、僕は拝まなきゃ救われない宗教のあり方自体がまずいんじゃないかという気がする。 信者はある意味、宗教の教義を後々に伝えていくボランティア集団のメンバーのようなものだと思う。もちろん組織の維持にはお金がかかるし、献金で支えてもらっているのも事実だが、「見返りはないよ、一方的にお金を出すだけだよ」と。それでも仲間になってくれるならお願いします、という感じですね。 ――宗教とは何だと考えるか。 ◆人類とそれ以前の生物との境目は二つあると言われる。一つは火を使うことで、暖まるだけでなく煮炊きをする。もう一つは仲間を弔った形跡があるかどうか。確かに、死というものを認識できるのは、今のところ人間だけ。そういう意味で仲間を弔った形跡があるところから人類としてカウントするそうだ。人間でなくペットが死んだときも、生ゴミに捨てる人はいないわけでお墓を作る。こうした弔いの営みが宗教の起源だと思う。 ある哲学者が「不在であることを悲しみを持って想起する存在が家族だ」と語っていた。そうした交わりが奪い取られるというのが死の現実ですから、当然悲しんだり悼んだりする。そこに手当てをするのが宗教の本質であって、宗教はすべてうさんくさいものだということになると、人間の本質から乖離(かいり)した議論になると思う。 ――インターネットを駆使できる情報化時代でも、若者がカルトに引き込まれる危険性はあるか。 ◆あると思う。気になるのは、宗教ではないが、カルトとしか言えない団体が増えていることだ。 ネットワークビジネスの多くは「経済カルト」と言うべきだと思う。ネットで情報が拡散しないよう、団体名すら明かさない集団もある。上納金を払った上、ビジネスチャンスが来るからと、タコ部屋労働のように酷使されるケースも確認されている。自己啓発セミナーの中にもカルト的な団体がある。「政治カルト」も放っておくと、反社会的な行動を起こす危険がある。 実は、旧統一教会をやめたのに結局ネットワークビジネスに行ってしまう人もいる。依存対象をいつでも求めている人だと思う。宗教だけを見てカルトを警戒すると、かえって足をすくわれるかもしれない。たけさこ・いたる 1967年秋田県生まれ。東北学院大キリスト教学科(現・総合人文学科)卒。日本キリスト教団白河教会牧師。東北学院大、宮城学院女子大非常勤講師。日本脱カルト協会理事などを務める。
――「旧統一教会はカルトであって宗教ではない」という指摘もある。カルトと宗教の違いは何か。
◆一つはっきりしているのは、カルトは脅迫がベース。不安をあおって、救いの道はこっちですよと誘導していく。旧統一教会のように何億円も巻き上げているのは明らかにカルトだ。一方、人に罪があると追い詰めるのではなく、「今まで苦労してきたけどこれからはいい人生が待っているよ」と希望を持たせるのが、まともな宗教だと思う。
ただ、この問いは僕にとってまだ宿題で、答えをきちんとした言葉にできていない。例えば、聖書には「呪い」と「祝福」がワンセットで出てくる。「神に従わない者は呪われる、神に従う者は祝福される」というふうに。この「呪い」の部分を捨て去らないといけない。自分自身の課題としてずっと考えている。
――絶対的な答えはないのか?
◆そうだ。お寺の集まりに呼ばれて話をすることもあるが、「先祖の因縁などで脅迫をもってその人の選択を誘導するのがカルト」という話をすると、たまにびくっとするお坊さんがいる。一般的には「これをやると地獄に落ちる」という教導はしないらしいが、中には思い当たる人がいる。既存の宗教でも、場合によっては恐怖信仰になってしまうということだ。
自分がカルト団体のメンバーだったから思うことだが、「お前カルトだろ」と言われるとむっとする。でもそこで「ひょっとしたらうちの宗教もカルトっぽいかも」と立ち止まれるのが理性的な宗教というか、まともな宗教だと思う。
――不安をあおっても、金銭を要求しなければまともな宗教と言えるか?
◆職業宗教家としては致命的かもしれないが、僕は拝まなきゃ救われない宗教のあり方自体がまずいんじゃないかという気がする。
信者はある意味、宗教の教義を後々に伝えていくボランティア集団のメンバーのようなものだと思う。もちろん組織の維持にはお金がかかるし、献金で支えてもらっているのも事実だが、「見返りはないよ、一方的にお金を出すだけだよ」と。それでも仲間になってくれるならお願いします、という感じですね。
――宗教とは何だと考えるか。
◆人類とそれ以前の生物との境目は二つあると言われる。一つは火を使うことで、暖まるだけでなく煮炊きをする。もう一つは仲間を弔った形跡があるかどうか。確かに、死というものを認識できるのは、今のところ人間だけ。そういう意味で仲間を弔った形跡があるところから人類としてカウントするそうだ。人間でなくペットが死んだときも、生ゴミに捨てる人はいないわけでお墓を作る。こうした弔いの営みが宗教の起源だと思う。
ある哲学者が「不在であることを悲しみを持って想起する存在が家族だ」と語っていた。そうした交わりが奪い取られるというのが死の現実ですから、当然悲しんだり悼んだりする。そこに手当てをするのが宗教の本質であって、宗教はすべてうさんくさいものだということになると、人間の本質から乖離(かいり)した議論になると思う。
――インターネットを駆使できる情報化時代でも、若者がカルトに引き込まれる危険性はあるか。
◆あると思う。気になるのは、宗教ではないが、カルトとしか言えない団体が増えていることだ。
ネットワークビジネスの多くは「経済カルト」と言うべきだと思う。ネットで情報が拡散しないよう、団体名すら明かさない集団もある。上納金を払った上、ビジネスチャンスが来るからと、タコ部屋労働のように酷使されるケースも確認されている。自己啓発セミナーの中にもカルト的な団体がある。「政治カルト」も放っておくと、反社会的な行動を起こす危険がある。
実は、旧統一教会をやめたのに結局ネットワークビジネスに行ってしまう人もいる。依存対象をいつでも求めている人だと思う。宗教だけを見てカルトを警戒すると、かえって足をすくわれるかもしれない。
たけさこ・いたる
1967年秋田県生まれ。東北学院大キリスト教学科(現・総合人文学科)卒。日本キリスト教団白河教会牧師。東北学院大、宮城学院女子大非常勤講師。日本脱カルト協会理事などを務める。