阿刀純子さんと母親(写真:阿刀さん提供)
人はいつか老いて病んで死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から切り離し、親の老いによる病気や死を、病院に長い間任せきりにしてきた。結果、死はいつの間にか「冷たくて怖いもの」になり、親が死ぬと、どう受け止めればいいのかがわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。
一方で悲しいけれど老いた親に触れ、抱きしめ、思い出を共有して「温かい死」を迎える家族もいる。それを支えるのが「看取り士」だ。
アロマオイルのかぐわしい匂いの中、阿刀純子(60)が手慣れた様子で、介護用ベッドに横たわる母親の胸元をマッサージしていた。2022年9月上旬。看取り士の権藤華連と藤本妙子が、89歳の母親宅を初めて訪問したときのことだ。
「純子さんは、『手で触れてマッサージすることで血行が良くなったり、匂いをかぐことで精神的に落ちついたり、咳が収まりやすくなったりするんです』と、話されました。仲がいい母娘だなと思いました」(権藤)
純子は9月初めに、日本看取り士会に看取り士の派遣を依頼した。在宅医から母親の余命は1、2週間と言われたからだ。今年6月に腎不全が悪化した母親は、打診された人工透析をしない選択をした。人工腎臓を使い、自身の血液中にある老廃物などを取り除いて体内に再び戻す治療法だ。
母親は「そのときはそのとき、あるがままを受け入れる」と、一人娘の純子にきっぱりと伝えた。延命治療は望まないという意味だ。
権藤らの訪問時に話を戻す。2人はベッド柵(さく)を外して母親の耳元に顔を寄せ、「これからお話を聞いて、寄り添わせていただきます」と、交互に短い自己紹介をした。権藤が母親の手に触れると、ぎゅっと握り返してきた。
「私がそこで『何かしてほしいことがありますか?』と尋ねると、しばらくしてから、『喉が渇いた』『苦しい』などとつぶやかれました。それを見た純子さんがとても驚かれていて、実は6月に容体が急変して以降、お母様がほとんど話されていなかったことを、私もそのとき知りました」
訪問看護師や介護士もその間、定期的に訪れていたにもかかわらず、だ。
母娘と孫
「権藤さんが母の耳元に口を寄せて質問された後で、母の答えをじっと待ってくださったんですね。けっして事務的ではなく、ホスピタリティ-を感じさせる姿勢に、母も『彼女たちなら……』と思ったのかもしれません」(純子)
看取り士との会話をきっかけに、母親は娘と会話したり、少量だが自分の口から食べようとする意欲を束の間取り戻していく。母の生きようとするエネルギーのふたが再び開いた気がしましたと、純子は当日を振り返った。
その後、ベッド横で今後の打ち合わせを3人でしている最中に、母親が突然「れっかのごとくいきる」とつぶやいた。純子が、「ママ、今、何て言ったの?」と尋ねると、母親は再び「れっかのごとくいきる」とくり返した。
純子は以降、それが何を意味するのかを反すうすることになる。
母親はオーダーメイド中心のファッションデザイナーだった。戦後は稀少だった職業婦人の先がけ。福岡市内の自身のアトリエで84歳まで働き続けた。経営者だった父親は生前、母親の自立した生き方の最大の理解者だった。
延命治療を拒んだ母親の決断を受け入れてからも、純子の気持ちはひそかに揺れ動いた。在宅医からは、容体が急変する危険性があるとも聞かされていた。だから信頼する別の医師や、一人息子にも揺れる心情を打ち明けてもいた。やはり1日でも長く生きてほしかったからだ。
「ですが、祖母が大好きな息子からは、『おばあちゃんの気持ちを大事に考えてあげたほうがいいよ』と言われて、ハッとさせられました。私がしっかりしなきゃいけないって。ですから息子にも支えてもらいましたね」(純子)
人工透析を拒んだ時点で、在宅医は純子の母親には点滴もしない最期を見すえた。腎不全を悪化させていた母親に点滴をすると、肺に水がたまり、呼吸困難におちいる危険がある。そもそも点滴は大半が水分で、栄養はあまりないと純子は言われたという。
在宅医は点滴代わりに、生命維持に最低限必要な栄養ドリンクを処方する一方、それ以外は「本人が食べたいものを、食べたいときに、好きなだけ食べてもらえばいい」と純子に伝えた。
「ですから母親が大好きな巨峰や茶碗蒸し、ハーゲンダッツのバニラなどを、スプーンで少量ずつ何回にも分けて食べてもらいました」
終末期の親に「せめて点滴だけでも」と家族が懇願する、という話を時おり聞く。だが、看護師でもある看取り士の権藤によると、衰弱した体に点滴を注入すると、吸収できずに全身がむくんで顔が腫れ上がったり、やたらとたんがからんで息苦しくなったりして、本人に心身両面で負担をかける可能性がある。
純子は母親の「延命しない」という決断に葛藤しながら、人は樹木が枯れるように「点滴しない最期」を迎えるのか、という思いで見守ってもいたという。
「母は、食が次第に細くなっていきました。するとみるみる痩せてきて、介護用オムツを交換するたびに太ももやウエストが細くなり、腰や脚を上げ下げするたびに軽くなっていくんです。終わりに向かういのちを日々抱きしめているような、いとおしい時間でもありました」
パリ時代の母
初訪問から1週間後の9月中旬。看取り士の藤本が母親宅を訪問。藤本の声がけに反応はあるものの、母親は眠っている時間が多かった。時おり「苦しい」「痛い」と話して呼吸状態も不安定だった。
その日の夜からは在宅医が痛みを抑えるために医療用麻薬を使う予定だった。麻薬を使うと痛みが消えると同時に、身体機能も低下する。看護師でもある藤本は、この容体だと死期が早まると察知した。
純子もこの1、2日がヤマ場と言われていた。純子は母親宅に自分が今晩泊まるので、藤本にはいったん帰っていいと伝えた。純子が翌日の午前3時頃、母親の手を握り、「ママ、大丈夫よ、安心して」と声がけしていたときだった。
「ベッドに寝ている母が両手を胸の上にあげて、とても弱々しく左右に振ったんです。2、3秒間だったと思います。それから両手を組んでお腹の上に置いた瞬間に、『あっ、今逝った』と直感しました」(純子)
穏やかな最期だった。在宅医や藤本らに連絡し、在宅医の死亡確認が終わったのが午前4時頃。その間、純子は藤本から教わっていた看取りの作法通りに、母親の後頭部を左太ももの上に置いて顔を近づけ、ずっと抱きしめていた。
純子の一人息子で、夫の祖父が創業した保育園に勤める暖(だん・30)は駆けつけると、祖母を抱きしめた。事前に純子から看取り士のことを聞いていたせいか、とくに違和感もなく「生前の温もりを感じるね」とささやいた。
純子と息子の気持ちの区切りがつくまで、交互に合計6時間も抱きしめていた。集まった親戚らは亡骸(なきがら)のまわりを囲んだり、手脚に触れたりしながら生前の母親の話に花を咲かせた。私もこんなふうに看取ってほしいという人もいた。母親の背中はずっと温かかったという。
母親には自由人という言葉がふさわしいと純子は語った。
ハリコレに出品した博多織を使ったトレス
25歳でファッションデザイナーとして仕事を始め、パリコレで作品を発表する機会にも恵まれ、仕事のかたわら65歳を過ぎた頃からシャンソンを習い始めた。発表会では自らデザインし、裁断したドレスを着て歌ったという。
母親について語る娘はどこか誇らしげだった。
純子は打ち明け話をしてくれた。
彼女は看病疲れで8月に寝込んだ。その際に「ママ、生きていてほしいよぉ~」と、子供みたいにさめざめと一人泣きじゃくった。そのとき自分の心の奥底に潜む執着に、改めて気づかされたという。
6月に母親が下した延命拒否の決断。その後、純子は揺れる気持ちを信頼する医師や息子に明かし、その決断を彼女なりに受け入れたはずだった。
だが、7月に母親が元気を取り戻した後も、純子の心には再び「1日でも長く」が頭をもたげていた。9月に依頼した看取り士の権藤の次の言葉で、それに気づかされた。
看取り士の権藤華連(左)と藤本妙子
「ご自身の最期はお母様が決められます。それが人の尊厳というものです。私たちには旅立つ準備をされている、お母様の手伝いをすることしかできません」
母親の決意と、いのちあるものに宿命づけられた死。その両方に私の執着は反している。歴然とした事実を、純子は目前に突きつけられた気がした。
娘の執着は愛情であり、家族のエゴでもある。思うように意思表示できなくなった母親の決断や尊厳への配慮がそこにはない。
死期が近づくと、「亡くなった肉親などの姿を夢で見る」とか、「お迎えが来る」と言われる。看取り士が関わる現場でも、「お迎えがきた」後に「自身の最期は本人が決める」と言われている。多くの現場経験に根ざしたものだ。
6時間の看取りでも、母親のアトリエで行った通夜と葬儀でも、純子は一粒の涙もこぼさなかった。その理由を自分なりに考えてみたと、看取り後の初七日訪問の際に権藤に話した。
「看取り士さんたちに来ていただいた時間が、遺される私たち家族にとってのグリーフケア(肉親の喪失感をいやすこと)になったんじゃないかって。透析はしないことを受け入れてから、私の気持ちは揺れ動きながらも、樹木のように枯れていく母親を見て、触れて、感じることで、心の準備を少しずつ整えていきました」
それでも心の奥底に潜んでいた執着に、権藤の言葉で気づかせてもらえた。一連の反復の中で母親の死を徐々に受け入れ、喪失感もない看取りを終えられた気がすると続けた。亡骸が放つ温もりもじゅうぶんに受けとれた。
妹(左端)か中学入学時の家族写真
「最初の訪問で、私たちはプラスの死生観をご家族に伝えます。死とは旅立つ肉親からいのちのバトンを引きつぎ、その体の温もりを通してエネルギーを受けとることなのです」
日本看取り士会の柴田久美子会長はそう話す。
看取り士は本人や家族の不安や悩みの相談に乗り、家族には事前に看取りの作法の練習もうながす。旅立った後は故人に触れたり抱きしめたりして、家族にエネルギーを受けとってもらい、生前の思い出話を引き出したりもする。
「一連の手順をへて、看取り士が悲しいだけのご臨終観を変えます。結果、阿刀さんも、涙も喪失感もないお看取りができたのではないでしょうか」(柴田)
葬儀の際、純子は母親が発した「れっかのごとくいきる」が遺言だったと思うと話した。権藤らが初めて訪問したときの言葉だ。
「母はアトリエで深夜まで生地の裁断などをこなす、仕事人間でした。女性が家の外で働くのが難しかった時代に、自分の好きなことを仕事にして、まさに『烈火のごとく』生き切りました。私にもその言葉を通して、『熱く生きていきなさい』と伝えてくれたんだと思います」
旅立つ直前、ふいに胸の上に両手をあげて左右に数秒動かしたのも、母親の「バイバイ」だったと純子は思っている。
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(荒川 龍 : ルポライター)