【廣末 登】真面目な「県庁職員」の家庭で育った女性が日本で初めての「女性暴力団員」になった理由

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『「女ヤクザ」とよばれて――ヤクザも恐れた「悪魔の子」一代記』西村まこ著が、清談社Publicoから発売された。筆者は、本書の監修等に携わらせて頂いた。
読者の中には、「ヤクザは男社会だろう。女でなれるわけがない」と仰るむきもあると思う。実際、ヤクザは男社会であり、歴史的に男性主導のサブカルチャーである。筆者も俄かに信じがたかった。だから、本書の主人公である西村まこ氏(以下、西村氏)は、かなりのレアケースであるといえる。
筆者は、毎日新聞の「憂楽帳」というコラムで「暴力団博士」と紹介された(毎日新聞 2015年9月29日)。別に実話誌のジャーナリストのように、暴力団や任侠界にそこまで詳しいわけではないが、2003年に北九州市立大学の大学院に入ってから今日まで、暴力団=ヤクザや半グレなどの研究に携わってきた。
20年もヤクザなどの研究しているわけだから、当然、その社会の女性たちとも知り合いになる。主要な調査地点であった関西では、業界の有名人とされる親分の姐さん(ヤクザの奥さん)たちとも親しくなり、ホストクラブに連れて行かれたり、会食させて頂いたことも数えきれない。
西村氏は、こうした姐さん方とは明らかに違う。それは、女性でありながら、親分の盃を受け、ヤクザの若中として、男性同様に正規のヤクザ組織の組員だったからである。
さらりと書いたが、筆者がヤクザ研究に携わってから20年余の間に、女性がヤクザの若中になるという話は聞いたことがない。実際に西村氏本人から話を聞いた時は、金脈を掘り当てた山師のような気分であった。
任侠史を紐解いたとしても、女性で親分の盃をもらい、ヤクザという男社会の中で、身体を張ってシノギをした女性若中(組員)というケースは例がないと思っていた。
ちょうど、本書が校正に入った昨秋、「The Japan Times」コラムニストで、『TOKYO VICE』の著者である友人のジェイク・エーデルスタイン氏から、昭和の時代に女親分が存在したという情報を頂いた。
「山口組で唯一の女組長――。 そんな肩書で語られる数奇な人生を歩んだ女性がいる。その名は小田切波さん(71)。福岡を拠点とする三代目山口組伊豆一家龍我会の元会長で、ヤクザ全盛だった激動の時代を歩んできた(中略)’79年、小田切さんは田岡邸で伊豆組長の盃を受けた。」という話がある(FRIDAYデジタル 2023年11月30日)。
これはこれで、稀有な逸話であるが、当時はヤクザにも社会的な役割があり、当局の締め付けが緩い牧歌的な時代であった。しかし、1992年の暴対法施行を機に、日本社会におけるヤクザへの眼差しは変化した。西村氏は、この暴対法が施行された前後に、ヤクザとして生きている。それも、一組員として。
だから、西村氏が服役していた笠松刑務所では、彼女が「ヤクザの脱退届」を書いた際、金筋の刑務官(幹部刑務官)から「あんたが日本初だから、こんなに時間かかるんよ」と、いやみを言われている。
もっとも、フィクションの作品では、女ヤクザが居ないこともない。昭和の時代には、藤純子(ふじ じゅんこ)主演の『緋牡丹博徒(ひぼたんばくと)』シリーズがあった(東映映画 1968年)。その作品では、「緋牡丹のお竜」こと女侠客・矢野竜子が父親の仇を打たんと、各地の賭場を渡り歩くという設定であった。緋牡丹のお竜は侠客(きょうかく=ヤクザ)には違いないが、親分は持たない。
女性が主人公で有名になった昭和から平成時代の映画は、『極道の妻たち(ごくどうのおんなたち)』のシリーズがある(東映映画 1986年)。これは、極妻としての主人公が、男ヤクザを相手に大立ち回りを演じることで、エンターテイメント映画として好評を博し、1998年までに10作品が製作されている。この作品は、『緋牡丹博徒』とは異なり、ヤクザの妻、姐さんが主役である。
何れの映画も、主演で銀幕に登場する女性たちは、ヤクザの男衆相手に切ったり張ったりと、刃物や拳銃を手に派手に活躍するものの、美人揃いである。それは、大衆に受けることが求められるエンターテイメントだから当然であろうが、作られたフィクション感が否めない。
『極道の妻たち』世代で育ち、数々のヤクザ映画を見てきた方々からすると、女ヤクザの話を聞いた時は、にわかに信じ難いことは首肯できる。昭和の時代、女性が男性主導のヤクザ社会に入ることはタブーだったのである。
2023年10月、元山口組系「義竜会」の会長で、現在は更生支援に尽力している「特定非営利活動法人 五仁會」の会長・竹垣悟(たけがき さとる)氏の紹介で西村氏と会い、本人から詳しく話を聴いて、女ヤクザが生まれた背景に得心がいった。彼女はそこらの不良男子を凌駕するほどの「悪」だったのである。
本書中にヤクザ渡世している人間を拉致した時の回想が興味深い。竹垣会長が「ワシ以上の“じゃじゃ馬”と言うのも頷ける。
「私は銃口を西田に向け、若い衆が身柄を確保しました。服を着せて車に押し込むと、ヤクザ渡世をしている大の男が、『まこ~助けてくれ。命だけは取らんといてくれ』と泣きを入れ始めました』」
ちなみに西村まこの「まこ」とは、あだ名であり、「悪魔の子」を縮めた意味があるそうだ。本書を読んで頂けると、そう呼ばれるようになった経緯がお分かり頂けると思う。
取材時に、犯罪学徒である筆者が一番驚いたことは、西村氏の家庭が機能不全ではないことである。筆者の調査結果はもちろん、ヤクザ研究の大家である元科学警察研究所の星野周弘(ほしの かねひろ)氏の研究でも、ヤクザになる者が生育した家庭には、経済的な貧困家庭や、ネグレクトなどが顕著な家庭の機能不全傾向が指摘されている。
しかし、西村氏の家庭は違う。親戚に預けられ、苦労して夜学に通い、県庁職員になった父親、国会図書館職員の家庭に育ち、お金に苦労したことのない母親との間に生まれている。それほど真っ当で恵まれた家庭で育ちながら、非行を深化させ、挙句の果てにヤクザになる道を選択した彼女の生き方は不思議としか言いようがない。
問題があるとしたら、父親によるスパルタ教育である。西村氏は、真面目一本の父親が強いるスパルタ教育という軛から逃れたい一心で、中二の頃に出会った友人をモデルとして不良に走っている。その後、研究者が「非行副次文化論」などの犯罪学理論をもってしても説明できない紆余曲折した道を歩んで、(女性でありながら)ヤクザになっているのだ。
西村氏の半生を概観すると、人生におけるターニングポイントは、不良の友人と出会った中学二年生の頃とみることができる。
実は、かくいう筆者も、西村氏の家庭とよく似た家庭で育っている。小中学校には殆ど行かせてもらえず、大学の仕事を辞めていた父親からスパルタ教育を受け、強制的に進学塾に通わされた。テストで90点以下の点数を取ると、鉄拳制裁が待っていた。筆者は、そうした家庭から逃れたくて、中学二年を境に不良の友人とつるみ出して、非行にはしった過去がある。
気力体力が充実する中学二年生というのは、誰しも何らかのターニングポイントを経験する可能性があるのかもしれない。中二病とはよく言ったものである。
厳しい家庭から逃れたいという切実な思いから不良になったことは、筆者も西村氏も同様であった。しかし、主体的に不良性を深化させるか否かという点は、少々異なるようである。
西村氏に不良道やヤクザ道を極めさせたのは、生まれ育った家庭で涵養された「負けん気の強さ」であったのではないかと筆者は見ている。
その負けん気が、彼女を、男女の別なく喧嘩に駆り立て、非行行為も躊躇わない筋金入りの不良に鍛え上げて行った。
おそらく、父親から投影された負けることを恥とする人格が、中学二年次の時に、父親がわが子に望んだ進学とは異なる分野に邁進させて終ったように思える。勝ち負けの尺度が、テストの得点から喧嘩に変わったように思える。
「不良になるならシャブは避けて通れないと考えていましたので、受け入れたのです」と諦念し、十代で覚せい剤を身体に入れたり、「ヤクザ稼業やっているのだから、指の一本落としておかないと格好がつかん」と考え、自ら指を落とすことなどは、普通に不良や半グレをやっている男性では考えまい。
犯罪学が専門の筆者からみても、実にユニークである。しかし、西村氏が暴力を是とする社会で地位と役割を得られたのは、その根底に、主体性――すなわち、誰からも強制されることのない「ヤクザとして生きたい、ヤクザとして死にたい」という、彼女の強い意思が存在していたからであると思う。
女ヤクザの半生において、この主体的で強固な意思が底流に流れていたことを、見落としてはならない。
男女の別なく、職業に関わらず、彼ら彼女らがその社会で成功するためには、自ら研鑽努力し、高みを目指す主体性が大切である。
不良を中途で挫折し、学歴コンプレックスを抱えて、ひたすら15年間も勉学に明け暮れた筆者とは異なり、不良道を究めてヤクザとなった西村まこという人間に、筆者は、女ヤクザであったことへの興味よりも、「一意専心」する生きざまに敬意を抱かずにはいられない。
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