紫式部は愛子さまのご先祖さまだった…NHK大河ドラマ「光る君へ」登場人物の”意外な子孫”

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NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公は『源氏物語』の作者、紫式部である。どのように『源氏物語』の内容を取り込むのだろうかと危惧していたが、紫式部周辺の人物や出来事が『源氏物語』の内容の下敷きであるように投映してしまおうということのようだ。
たとえば、藤原道長の第二夫人である源明子は、光源氏の愛人で嫉妬深く、正夫人・葵の上を呪い殺す六条御息所のキャラクターに寄せられているといった具合だ。
しかし、いくら脚本がよくできているといっても、ストーリーが難解に感じられるのは、登場人物のほとんどの姓が「藤原」であるためだ。近衛とか九条とか名字を名乗り始めたのは鎌倉時代になってからだ。しかも名前もよく似ているので、登場人物同士の関係がさっぱり頭に入らないという人が多い。また、子孫はどうなったのかも分かりにくい。
そこで、藤原氏の系図のなかで、登場人物たちがどこに位置するのか、また登場人物の子孫たちがどうなったのかといった観点からの分析を、4月に刊行する『地名と地形から謎解き 紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)でマニアックに試みたので、その一部を紹介したいと思う。戦前まで華族として生き残った家はすべて網羅した。
とくに驚くのは、紫式部が現在の皇室やほとんどの旧華族名家と繋がっていることだ。愛子さまが学習院大学文学部で『源氏物語』の研究をされていたのも、ご自身のご先祖の作品を扱われていたということになる。
藤原氏の始まりは、645年の「大化の改新」で活躍した中臣鎌足だ。天智天皇から藤原姓をもらい、その子孫だけが中臣氏から独立し藤原氏を名乗った。鎌足の子の不比等には4人の男子がおり、南家・北家・式家・京家の4家に分かれていった。
長男・武智麻呂の南家は、仲麻呂(恵美押勝)が叔母にあたる光明皇后(不比等の継室で宮廷の実力者として不比等を出世させた橘三千代の娘)に気に入られて権力を握り、光明皇后から娘の孝謙天皇を補佐役として支えるよう期待されていた。
だが、光明皇后が亡くなり、淳仁天皇に譲位したのちの孝謙上皇は、石山寺の付近に営まれた保良宮で怪僧道鏡と会い、どうも恋に落ちてしまったようだ。これを仲麻呂は諫めたが、逆襲されて失脚した。
桓武天皇のころには三男・宇合の式家が栄え、嵯峨天皇のころ、次男・房前の子孫である北家から冬嗣が出た。南家も中級貴族として残り、明治華族として藪・園・高岳の三子爵家を出してはいるが、主流は北家になった。
冬嗣の子のうち良房が摂関制の祖とされているが、男子がなかったので兄・長良の子である基経が養子になった。その玄孫が道長であり、その子孫から五摂家(近衛・一条・九条・鷹司・二条)が出た(公爵)。これが、摂関家といわれる藤原本流である。
道長の子孫以外でそれに次ぐのは、道長の叔父・公季の子孫で閑院流と言われる系統である。院政期の天皇の母を何人も出し、三条(公爵)や徳大寺(侯爵)、西園寺(侯爵)などがこの系統だ。
一方、良房の弟・良門の子である高藤の娘、宮道列子が醍醐天皇の母となり栄えた(『源氏物語』に登場する明石の君のモデルとされる)。これが勧修寺流で、勧修寺(伯爵)などのほか武士では上杉家などに繋がっていく。多くは紫式部の夫である宣孝と前妻の間の子の子孫だ。井伊家も「良門流」を名乗る。
※本記事の爵位は1885年の制度発足時のもの
紫式部の父・為時は、高藤の兄である利基の子孫で、この系統は絶家している。紫式部の母は、基経の弟である清経の子孫である。
為時は正五位下・越後守、宣孝は正五位下・右衛門権佐山城守で終わっている。いまの政治家にたとえれば、代議士を何期か務めた後に知事に転じて2期ほど務めたとか、霞が関で本省の部長クラスから地方出先の長になってキャリアを終えたといったイメージだ。
紫式部と宣孝の結婚生活はわずか3年ほどだったが、賢子という娘を残した。賢子は道長の甥(次兄・道兼の子である兼隆。「光る君へ」では道兼が紫式部の母を殺したことになっている)と結婚し娘をもうけたが、のちの後冷泉天皇の乳母になってから別れたらしく、高階成章(太宰大弐などを歴任)と再婚した。
その子孫は、院政の時代にその側近として活躍し、後鳥羽天皇の妃である源在子を出した。その子が土御門天皇、孫が後嵯峨天皇、ひ孫が南朝の祖である亀山天皇と北朝の祖である後深草天皇であるため、紫式部は今上陛下を含む現皇室の先祖の一人ということになる。
つまり、紫式部→藤原賢子(夫は高階成章)→高階為家→高階為賢→女(夫は藤原南家能兼)→藤原範兼→藤原範子(最初の夫は平清盛夫人の弟・能円、のちに源通親)→源在子(後鳥羽天皇妃承明門院。父は能円。源通親の養子)→土御門天皇という系譜だ。
このほかにも、紫式部と今上陛下は全部で16のルートでつながっているという調査結果もあるようだ。
賢子の子孫は、皇族や有力公家とさかんに縁組みをしたので、ほとんどの公家出身の名家は紫式部の子孫であるし、それと縁組みした大名家も同様だ。たとえば、後陽成天皇の第四皇子が養子になって近衛信尋となり、徳川宗家には16代目の家達が近衛家から夫人を迎えている。島津家や細川家にも近衛文麿の娘が嫁いだので、紫式部の子孫である。
道長の親戚や友人、ライバルの子孫については、関白・摂政や大臣が誰だったかという観点から整理するとわかりやすい。
藤原北家で最初に摂政になったのは、良房である(866~872年)。その甥で養子になった基経が初代の関白だが(876~891年)、宇多天皇や醍醐天皇の親政で空席になる。
そのあと、藤原忠平(930~949年)、村上天皇の親政期をはさんで、藤原実頼が務めた(967~970年)。実頼を支えた弟・師輔は右大臣のまま兄に先立ち、師輔の外孫の冷泉・円融天皇の出現で師輔の嫡男の伊尹(970~972年)、ついで次男の兼通が続いた(973~977年)。
順当なら三男の兼家が継ぐはずだったが、兄弟喧嘩で兼通は実頼の子の頼忠を後継者にした(977~986年)。これが「光る君へ」の3月放送ごろまでの政治状況だ。
しかし、兼家は権謀術数を駆使し、花山天皇を出家させて一条天皇の摂政となり(986~990年)、そのあとは、その子の道隆(990~993年)、道兼(995年)、道長が内覧や関白となった。
道長のあとは、道長の嫡男で京都・宇治の平等院鳳凰堂を創建した頼通の子孫以外は摂政・関白にしないことが慣習化され、1868年の王政復古により将軍と摂関が廃止になるまで、例外は豊臣秀吉・秀次だけである。
いわゆる五摂家は、頼通の玄孫である藤原忠通の子孫たちで、醍醐(侯爵)や、花山院流の各家も頼通の子孫だ。
頼通は正室・源倫子の子(道長の長男)だが、もう一人の妻・源明子の子(次男)・頼宗の子孫は、中御門流と言われている。園(伯爵。園祥子は明治天皇の子を8人生んでいる)、壬生(子爵)など。その弟(六男)の長家の子孫は御子左流といわれ、藤原定家に代表されるように和歌の名門で冷泉(伯爵)などにつながる。
「光る君へ」では、道長と同世代の友人や同僚が出てくる。若き日の道長と仲良し4人組だった藤原公任は頼忠の子、実資は頼忠の甥、行成は伊尹の孫である。
このうち実頼・頼忠系(小野宮流という。その場合、師輔の子孫は九条流ということもある)は公家としては生き残っていないものの、石見の戦国大名で長州藩家老の益田氏は子孫と称している。行成の子孫は「世尊寺家」となって書道の家元的存在だったが、戦国時代に断絶した。
また、道長が内覧になってから死去するまでに大臣を務めたのは、藤原顕光、公季、実資、頼通である。顕光は兼通の子、公季は兼家の弟、実輔は実頼の孫、頼通は道長の嫡男で、親戚の有力者をそれなりにバランス良く遇していたといえる。
このうち公季の子孫が閑院流として栄えたことは紹介したが、顕光、実資の子孫は振るわなかった。
道長の兄弟の子孫も見てみよう。長兄・道隆の子のうち次男・隆家の子孫では、後白河天皇の近臣だった坊門信隆の娘が後鳥羽天皇の生母なので現皇室につながる。「坊門家」は断絶したが、水無瀬(子爵)家などとなり水無瀬流と呼ばれる。肥後の菊池氏も隆家の子孫と称して、南朝功臣の子孫として男爵になった。
道長の兄・道兼の子孫は公家としては残っていないが、下野国の名族・宇都宮氏の始祖で前九年の役で活躍した宗円は、道兼の曾孫と称している。本家は豊臣秀吉によって改易された後、水戸藩士として残った。分家が、鎌倉時代に各地の地頭となり全国に勢力を広げた。
同じく異母兄の道綱は、母が『蜻蛉日記』の作者として知られるが、父母に似ず出来が悪かったのが「光る君へ」で描かれた。子孫は中級公家だったものの、五摂家のひとつである九条家の祖・兼実の妻を出したので、大正天皇の貞明皇后などにつながっている。
このほか著名な藤原一族としては、北家の祖である房前の子・魚名の子孫が四条流ともいわれる。公家では、四条(伯爵)、山科(伯爵)などがあり、武士では伊達氏や藤原秀郷とその子孫を称する奥州藤原氏、蒲生氏、比企氏、少弐氏、大友氏、龍造寺氏、田沼氏などを出している。道長の母・時姫もこの系統だ。
また、冬嗣の兄である真夏の子孫は真夏流または日野流と呼ばれ、本家は親鸞や日野富子を出した日野家で大正天皇の生母を出した柳原家もこの系統。
一方、公家源氏では、道長の舅(倫子の父)だった宇多源氏の源雅信とその弟の重信が左大臣まで昇進している。雅信の子孫は庭田(伯爵)、大原(伯爵)などとなり、近江守護の佐々木家(六角家と京極家)もそうだという。
道長は村上源氏の具平親王の子である源師房を気に入って娘・尊子(源明子との子)の婿とし、その子孫が上記の源在子など公家源氏の主流である村上源氏となり、久我(侯爵)、岩倉(公爵)、梅溪(子爵)などを出している。
こうして見てみると、長男系が常に勝利するとは限らない。また、藤原氏傍流として不遇だった一家が、臥薪嘗胆ののちに学識で上皇近臣となって后妃を出す名門として復活したり、女系を通じて現皇室にDNAを残したりしている。1000年以上にわたる栄枯盛衰の歴史とDNAレベルの勝利者になる運、不運について、いろいろと考えさせられる。
———-八幡 和郎(やわた・かずお)歴史家、評論家1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス、八幡衣代と共著)、『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』(光文社知恵の森文庫)、『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)、『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)など。———-
(歴史家、評論家 八幡 和郎)

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