4歳の時に消防士の父が殉職…保育士の夢をつかむまでの軌跡

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阪神大震災(1995年)で家族を失った遺児の心のケアを続けてきた「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)が2003年に支援対象を病気や自死などで親を亡くした子どもにも広げて20年。「あの時があって自分は救われた」。かつて支援を受けた少女は、自身の経験を糧に保育士になる夢を実現させた。
乗馬で遺児に「心癒やして」 神戸大馬術部自分が素でいられる場所 神戸市灘区の上甲(じょうこう)朝香さん(24)。幼稚園の先生だった母やレインボーハウスのボランティアに影響を受け、子どもと接する職業を選んだ。須磨区の幼稚園で年長組を担当しており、園児19人の表情を注意深く見るようにしている。以前の自分を思い出しながら。

4歳の時に父直司(なおじ)さんを失った。突然の別れはクリスマスの5日前だった。 兵庫県西宮消防署の消防司令補だった直司さんは03年12月20日未明、西宮市のディスカウントストアで発生した火災の消火活動中に殉職した。炎と煙が広がる店内ではぐれた同僚2人を捜す最中に空気呼吸器の酸素が少なくなり、一酸化炭素中毒で死亡した。33歳だった。 「幼稚園への入園を楽しみにしてくれていたと、母から聞かされました」。当時の記憶はおぼろげだが、撮りためられたホームビデオを編集したDVDに在りし日の父の姿がある。自分と一つ下の妹を同時に抱きかかえるほどたくましく、職場の公開訓練では、はしご車に乗せてくれていた。 3人の子育てに励む、子煩悩な父だったらしい。「正直あんまり覚えていなくて『こんな人やったんや』っていう感じ」。物心がついた時から、父がいないことは当たり前になっていた。 だが、他界直後は知らないうちに「SOS」を発していた。お漏らしを繰り返したり、誰かの似顔絵を真っ黒に塗りつぶしたり……。明るく振る舞う母や、運動会などの行事に来てくれる叔父ら親族が心の空白を埋めてくれていたはずだった。でも、父親と一緒に過ごす友人を目にすると「お父さん、いいな」と思うこともあった。 あしなが育英会(東京)が運営するレインボーハウスには小学2年時から通い始めた。瀬戸内海に浮かぶ家島(姫路市)で開かれた海水浴やキャンプの行事に参加したのが初めて。ぬいぐるみで遊んだり、バレーボールをしたり。妹と弟も一緒で、幅広い世代のボランティアといろいろな遊びをした。肉親を亡くした経験を他の人に話す際、「気まずい雰囲気になるのが嫌だった」が、レインボーハウスだけは「自分が素でいられる居場所」となった。 中学進学後は部活動が忙しく、足を運ぶ機会は減った。だが「お互いの心の痛みを話さなくても理解し合える大切な存在」というハウスの仲間との親睦は深まった。高校や短期大学で幼児教育を学びながら、行事に参加する子どもたちにボランティアとして触れ合ってきた。 20年から念願の保育士となった。「年齢が離れていても友人のように接してくれて、どんなささいな話や悩み事でも熱心に耳を傾けて安心させてくれた」。かつて面倒を見てくれたこうしたボランティアの存在が、今の自分を作ってくれた。 「先生と子どもというより、友人のような関係を築いていきたい。天職と言えるか分からないけど、毎日が楽しいです」。父を亡くした悲しみを乗り越え、与えられた人生を笑顔で歩み続ける。あしなが育英会、対象広げ20年、305人支援 神戸レインボーハウスが震災遺児以外にも支援を広げて20年となった。運営するあしなが育英会によると、支援対象を広げた2003年9月以降、22年度までに支援してきた遺児は計305人に上る。 阪神大震災(1995年)の遺児を除く親の死因は、病気200人▽自死61人▽事故を含むその他44人。 育英会は震災直後、親を亡くした子どもが573人いることを確認し、心のケアに奔走。子どもが成長していき支援対象者が減る中、全ての遺児の救済に向けてこれまでのノウハウを生かすことにした。JR福知山線脱線事故(2005年)で親を亡くした遺児のフォローもした。 2週間に1回程度、年少から中学3年までの遺児が参加するプログラムは03~20年で計約900回実施した。今も遺児にとって心のよりどころとなっている。【山本康介】
自分が素でいられる場所
神戸市灘区の上甲(じょうこう)朝香さん(24)。幼稚園の先生だった母やレインボーハウスのボランティアに影響を受け、子どもと接する職業を選んだ。須磨区の幼稚園で年長組を担当しており、園児19人の表情を注意深く見るようにしている。以前の自分を思い出しながら。
4歳の時に父直司(なおじ)さんを失った。突然の別れはクリスマスの5日前だった。
兵庫県西宮消防署の消防司令補だった直司さんは03年12月20日未明、西宮市のディスカウントストアで発生した火災の消火活動中に殉職した。炎と煙が広がる店内ではぐれた同僚2人を捜す最中に空気呼吸器の酸素が少なくなり、一酸化炭素中毒で死亡した。33歳だった。
「幼稚園への入園を楽しみにしてくれていたと、母から聞かされました」。当時の記憶はおぼろげだが、撮りためられたホームビデオを編集したDVDに在りし日の父の姿がある。自分と一つ下の妹を同時に抱きかかえるほどたくましく、職場の公開訓練では、はしご車に乗せてくれていた。
3人の子育てに励む、子煩悩な父だったらしい。「正直あんまり覚えていなくて『こんな人やったんや』っていう感じ」。物心がついた時から、父がいないことは当たり前になっていた。
だが、他界直後は知らないうちに「SOS」を発していた。お漏らしを繰り返したり、誰かの似顔絵を真っ黒に塗りつぶしたり……。明るく振る舞う母や、運動会などの行事に来てくれる叔父ら親族が心の空白を埋めてくれていたはずだった。でも、父親と一緒に過ごす友人を目にすると「お父さん、いいな」と思うこともあった。
あしなが育英会(東京)が運営するレインボーハウスには小学2年時から通い始めた。瀬戸内海に浮かぶ家島(姫路市)で開かれた海水浴やキャンプの行事に参加したのが初めて。ぬいぐるみで遊んだり、バレーボールをしたり。妹と弟も一緒で、幅広い世代のボランティアといろいろな遊びをした。肉親を亡くした経験を他の人に話す際、「気まずい雰囲気になるのが嫌だった」が、レインボーハウスだけは「自分が素でいられる居場所」となった。
中学進学後は部活動が忙しく、足を運ぶ機会は減った。だが「お互いの心の痛みを話さなくても理解し合える大切な存在」というハウスの仲間との親睦は深まった。高校や短期大学で幼児教育を学びながら、行事に参加する子どもたちにボランティアとして触れ合ってきた。
20年から念願の保育士となった。「年齢が離れていても友人のように接してくれて、どんなささいな話や悩み事でも熱心に耳を傾けて安心させてくれた」。かつて面倒を見てくれたこうしたボランティアの存在が、今の自分を作ってくれた。
「先生と子どもというより、友人のような関係を築いていきたい。天職と言えるか分からないけど、毎日が楽しいです」。父を亡くした悲しみを乗り越え、与えられた人生を笑顔で歩み続ける。
あしなが育英会、対象広げ20年、305人支援
神戸レインボーハウスが震災遺児以外にも支援を広げて20年となった。運営するあしなが育英会によると、支援対象を広げた2003年9月以降、22年度までに支援してきた遺児は計305人に上る。
阪神大震災(1995年)の遺児を除く親の死因は、病気200人▽自死61人▽事故を含むその他44人。
育英会は震災直後、親を亡くした子どもが573人いることを確認し、心のケアに奔走。子どもが成長していき支援対象者が減る中、全ての遺児の救済に向けてこれまでのノウハウを生かすことにした。JR福知山線脱線事故(2005年)で親を亡くした遺児のフォローもした。
2週間に1回程度、年少から中学3年までの遺児が参加するプログラムは03~20年で計約900回実施した。今も遺児にとって心のよりどころとなっている。【山本康介】

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