寝たきり老人を激減させた「奇跡の村」 102歳医師が明かす「死ぬまで元気」の秘訣

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高知県にある、3人に1人が高齢者の町で寝たきり老人を激減させた疋田善平(ひきたよしひら)医師。数多くの住民の健康を見守り、地域医療の世界に金字塔を打ち立てた老医師は、自らも100歳を超えてなお元気である。その秘訣(ひけつ)に、ノンフィクション作家の奥野修司氏が迫る。
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【写真を見る】100歳を超えてなお元気な疋田医師「病気というのは格好だけ見てもわからんな。隠れている本当の病気を治さんといかん。これは力のない医者ではできません。あんたはどう思う?」

こう言うのは、この4月で102歳の誕生日を迎える疋田善平さんだ。自宅の窓には前栽の向こうに杣山(そまやま)がどこまでも広がっていた。ここは高知県の西南部にある黒潮町。この町の名が全国に知れ渡ったのは、南海トラフ大地震が起これば34メートル以上の津波が押し寄せると言われてからだ。疋田さんがこの町にやってきて診療所医師に着任したのは、まだ佐賀町とよばれた50年も前のことである。ここで「満足死」なる思想を提唱し、住民が満足な死を迎えられるように全村病院構想というシステムを一人で作り上げると、やがて住民の医療費が削減でき、国民健康保険料も下がった。その業績が評価されて、保健文化賞や保健医療に貢献した人に贈られる若月賞を受賞した疋田さんは、地域医療の世界に金字塔を打ち立てた医師である。ジョギングのすすめ全部そろっていた歯が抜け落ち… 疋田さんは三十余年にわたって診療所の医師を務めたが、辞めてからも90歳になるまで住民を診てきた。1日の睡眠が4、5時間というハードな仕事にもかかわらず、これまで重篤な病気をしたことがない。引退後も散歩をかかさず読書三昧の日々を送っていたという。それが100歳を迎える前に、全部そろっていた歯がいきなり抜け落ちて食生活が大きく変わった。食事がやわらかい食べ物だけになると、散歩をしなくなって記憶もあやしくなってきたそうだ。ただ、医療のことはしっかり頭に刻まれているせいか、不用意な問いかけをすると逆に辛辣な質問を返されて、こちらが返答に窮することもたびたびだった。「歯がないので、今は全部潰したものを食べています。そのせいか、体力が低下しましたね。医食同源といいますが、やっぱり食べることは長生きする一番の秘訣なのだと思います」 妻の睦美さんが言う。100歳超えとは思えない食事量 では病院食のような食事なのかというと、そうではない。たとえば、ある日の朝食はこんなメニューだ。 5枚切りの食パン1枚にバター10グラム、ハチミツ大さじ1杯を200ccの牛乳に入れて加熱し、ミキサーにかけたパン粥をメインに、ヨーグルト、ホウレンソウ、バナナ、リンゴ、ハチミツを加えたスムージー。そして、卵1.5個分のやわらかいオムレツと納豆、甘酒を80~90cc、そして最後は栄養補助食品のメイバランスを一本――。とても100歳を超えた人の食事とは思えない量だが、これでもずいぶん減ったそうである。 私が疋田さんに初めて会ったのは20年も前のことだ。当時、高齢になっても寝たきりにならず、元気で自宅で過ごすための生き方を住民に説いていたが、その彼が100歳になる前までかくしゃくとしていたのは、自らそれを実践してきたからだろう。では何が彼を元気にさせていたのか。当時の取材ノートを参考に、その秘訣を探ってみたい。「満足死」を学会に発表 国立京都病院(現在の京都医療センター)の内科医長だった疋田さんは50歳を機に退職すると、予防医学をやりたいと当時の佐賀町にやってきた。1972年のことである。そこで彼は、余命いくばくもないのに、どうせ死ぬなら家で死にたいと退院してきた患者を引き受けたことで「満足死」という思想に思い至る。その患者が亡くなる数日前に「先生、ありがとう」と手を合せて感謝し、遺族からも感謝された。その体験から「本人の満足、家族の満足、医療側の満足」を満たした死を「満足死」として学会に発表した。 そこで、みんなが望む満足死とはどんな死なのか、疋田さんはあらためて住民に尋ねた。すると圧倒的に多かったのが「死ぬまで元気でいて、逝くときは自宅でぽっくりと逝きたい」だった。どうすればぽっくり逝けるのだろうか。「面倒を見る」と言うのに、実際は見ない日本人 人は3度死ぬ、と疋田さんは言う。退職して社会に貢献できなくなる「社会死」、やがて寝たきりになるなど自分で身の回りの世話ができなくなる「生活死」、そして心臓が止まる「生物死」だ。人生50年といわれた昔なら、「社会死」のあと日を置かずに「生活死」と「生物死」がやってきたが、今は寿命が長くなったおかげで「生活死」から「生物死」まで5年10年は当たり前になった。当時はまだ介護保険がない時代だ。この間に寝たきりになったら誰が世話するのだろう。 こんな調査データがあるという。親の面倒を最後まで見ますかと、日、英、独の三カ国で質問すると、英独で「はい」と答えたのは2人に1人だったが、日本は4人に3人もいた。ところが、それを実行したかどうかを調査すると、英独はどちらも2人に1人だったのに、日本は期待値とは逆で5人に1人しかいなかったのだ。 介護の問題が噴出するのは、介護が長期にわたるからだが、では寝たきりの親を、家族はどれぐらいの期間なら世話ができるのだろうか。疋田さんが住民に聞き取り調査をすると、どんな家族でも1カ月未満なら世話してくれるが、2カ月3カ月となると、死んでくれとは言わないまでも粗末に扱われやすくなるという結果となった。理想的には1週間がいい。つまりぽっくり死にたいというのは、死ぬ直前まで元気でいて、寝ついたら1週間くらいであの世に旅立ちたいということなのだ。96歳で死去した英国のエリザベス女王は、死の2日前にはトラス前首相の任命をし、医師を呼んだのは亡くなる当日だったそうだが、おそらく住民が望む死はそんなイメージなのだろう。転倒して寝込むとすぐに「寝たきり」に 住民の希望とは逆に、当時の佐賀町には寝たきり老人がたくさんいた。どうすれば寝たきりを減らせるのか。疋田さんによれば、人間には運動するための細胞と、臓器など生命を維持するための細胞があり、生命を維持する細胞はその個体が死ぬまでコンスタントに動くが、筋肉のような運動能力のある細胞は使われないと衰退していくそうだ。つまり、生命維持の細胞が元気なのに、運動能力のある細胞が萎縮した状態が寝たきりなのだという。 人間の骨格を支えているのは筋肉である。これが衰えると、歩くときも十分に足が上がらず、つまずいて転びやすくなる。転倒で骨折して寝つけば、リハビリをしないと1週間で筋力の10~15%が低下する。3~5週間も寝込んだら半分になるというから、この時点でほぼ寝たきりだ。「一部の細胞が死にかけて、ほかの細胞が元気だと苦しいのです。全部の細胞が同じように衰弱していったときに器官が止まれば、苦しむことがないわけです」 これが満足死である。農村に元気な高齢者が多い理由 転倒しなくても、筋肉量は加齢と共に必ず低下していく。放っておけば頭や背骨を支えきれなくなって腰痛などが頻発し、歩くのもおっくうになるから、さらに筋力が低下する。そうならないためには、運動能力のある細胞を活性化させて生命維持の細胞と同時に衰えていくようにするしかない。それには常に筋肉に負荷をかけてやることだ。そのことに疋田さんが気付いたのは、佐賀町にやってきてからだった。 この町の産業構造は単純で、農業中心の山間部と漁労中心の市街地に分かれていた。高齢化率は山間部の方が高いが、長期入院患者数と特別養護老人ホーム入所者数は市街地の6分の1と少なかった。逆に90歳以上で元気な高齢者は市街地の3倍もいた。つまり農村地帯のほうが健康な高齢者が多かったのである。なぜか。「死ぬまで働け」という結論 市街地の漁師らは比較的高給取りが多く、退職して陸に上がると、せいぜいゲートボールをするぐらいで体を動かさなくなる。一方の山間部の農家は収入が少ないから、高齢になっても畑仕事をしながら自分の食べる野菜などを作っていた。つまり体力に合わせて毎日働いていたのである。働くとは体を動かすことだ。 老化は筋力の低下から始まるといわれるが、農家はコンスタントに体を動かすことで無意識に筋肉に負荷をかけ続け、その結果として老化を遅らせ、寝たきりにもならずに元気で過ごす人が多かったのだ。 幸福度は個人によって違うが、少なくとも「幸せは健康度に比例する」のではないかと疋田さんは考えた。そして「元気で死にたいと思ったら、死ぬまで働くことだ」という結論を導き出したのである。「働け」という言葉に抵抗があるなら「全身の筋肉を動かせ」と言い換えてもいい。 住民と膝を突き合わせながら、疋田さんは当時こんなことを説いていた。「若いときは金のために働いても、年を取ったら健康のために働きなさい。ボランティアでもやってみんなに喜んでもらったら気分がよろしい。するとその人の人生はさらに充実してより健康になります」50人いた寝たきりが2人に こうして、死が目的だった「満足死」は、いかに老化を遅らせて元気でいるかという「生」が目的になったのである。 寝たきりの人を診察すると、病気というより、寝るより楽なものはなしと寝続けているうちに寝たきりになるケースが多かった。そこで疋田さんは往診のたびに、タンスの引き出しや掘りごたつを利用したリハビリを指導していった。人は目標を持って自分の物語を描くことができれば、自ら努力する。そこで患者の本音を聞き出しながら、リハビリの動機付けになる目標を次々と提案していった。それを2年間繰り返していると、それまで疋田さんの往診エリアに50人いた寝たきり老人は5人に減り、翌年には2人と限りなくゼロに近づいたのである。同じスピードでもウオーキングよりジョギング さて疋田さん自身の健康法だが、真っ先に思い出すのは早朝のジョギングである。ただ住民から「あれは走ってるのかね。ふらふらしながら歩いているが」と言われていた。それを確かめようと、夜明け前に走るコースで疋田さんを待っていた。やがて上半身裸の人影がぺたぺたと足音を立てながら近づいてきた。たしかに格好は走っているが、ほとんど歩くのと同じスピードだ。2キロの距離を20分かけて走るのだという。ただ、そのときの記憶で今も印象に残るのは、ほっそりとした体形なのに、ふくらはぎが運動選手のように盛り上がっていたことである。当時、疋田さんは83歳。年齢を感じさせないたくましい筋肉に、私は圧倒されてしまった。 ジョギングは50歳で佐賀町に来てから毎日続けているそうで、私は「歩いたほうがいいんじゃないですか」と笑った。すると彼は、これでいいという。 同じスピードでもウオーキングに比べてジョギングの方がよりダイナミックに多くの筋肉を動かす。だからといってジョギングが絶対にいいかというと必ずしもそうではなく、どちらを選ぶかはその人の体力に合わせるべきで、「ちょっときついな」と思うぐらいがいいそうだ。無理な目標を定めると、途中でギブアップしてしまう。大事なのは頑張るのではなく、疲れを残さず継続させることなのだと言った。筋肉と柔軟 老化を実感するのはたいてい筋力の低下からだ。寝たきりになるのも筋肉の衰えからである。筋肉に負荷をかけないと、知らないうちに衰えていくが、それを知らずに若いときの感覚でいると、段差につまずいて転倒しかねない。運悪く骨折でもして1カ月も寝込めば、そのまま寝たきりだろう。これを防ぐには、筋肉量が低下しないように鍛えるしかないのだという。 実は寝たきりを防ぐのに効果的なのは筋肉を維持すること以外にもう一つ、体を柔軟にすることだと疋田さんに言われた。筋肉が弱ってくると、ちょっとしたことでバランスを崩してしまう。体が硬いと無理な体勢で倒れて骨折しやすい。そうならないためには体を柔らかくすることだそうだ。死ぬまで働く 当時の疋田さんは各集落で健康教室を開いていたから、そこで住民相手に、体を動かすことがいかに大切かを切々と語っていた。「元気でいたかったら死ぬまで働きなさい」 働けというのは、体力に合わせて体を動かせということだ。これがもたらした結果は大きく、疋田さんが赴任して18年目に、佐賀町は国保料を下げたのである。住民が健康になって病院に行かなくなり、医療費が減ったからである。 ある日、疋田さんの取り組みを知った近隣の西土佐村(現・四万十市)の村長が、村議を連れて疋田さんの予防医学を学ぼうとやって来た。そして村に戻ると、空き地を村民に無料で提供し、そこで作った露地野菜を村と農協で買い取ることにした。小遣いが稼げるとあって、年寄りたちは昔取った杵柄とばかりに競って野菜づくりに励んだものだから、わずか5年で7億円産業になった。それだけではない。人口3800人の村に、介助が必要な寝たきり老人は22人いたが、5年後には2人にまで減り、6年後には西土佐村も国保料を引き下げた。西土佐村が佐賀町より短い期間で下げられたのは、自治体が全面的にバックアップしたからである。体を動かすことが高齢者を元気にさせることをここでも実証したのだ。「老人と性は関係ない」という老人神話 体を動かして健康になることだけが満足な生き方につながるわけではない。年を重ねても仲間がいれば楽しいし、それも好きな人ならなおいい。疋田さんがそのことに気付いたのはある悲劇があったからだ。 妻に先立たれた男性が診療所でリハビリに励んでいたが、あまりにも熱心なので、疋田さんは彼の仲間に尋ねてみた。すると、茶飲み友だちの女性がいて、元気で彼女と会いたい一心でリハビリに励んでいるのだという。ところが、そのことが自分の家族に知れると、相手の女性は遠ざけられてしまった。女性に会えなくなった男性は、リハビリに見向きもしなくなり、やがて寝たきりになって死んだ。疋田さんによれば、原因は「老人と性は関係ない」という「老人神話」があるからだという。年を重ねたら枯れたようになるという先入観は今も根強いが、体に生理的な変化があっても性への関心がなくなるわけではない。「性を自由に語れる雰囲気があれば、元気になる年寄りはずいぶんいるのに!」と疋田さんは悔しがった。異性を紹介するとうつ病が消滅 以来、疋田さんは、必要とあれば患者に異性を紹介するようになった。たまたま私が取材していたときだ。愛妻に先立たれてから何も手につかず、うつ病になった一人暮らしの男性がいた。疋田さんによれば「健康度が高いのは独居老人が1番で、その次が老夫婦、3番目は子供と同居する老人」だそうだが、ただ夫は妻に先立たれると精神的にも不安定になりやすく、この男性もそうだった。 病院で薬を処方されたが、副作用で歩くのが困難になっていた。男性から相談を受けた疋田さんは、まず薬を断たせたうえで、車椅子で一人暮らしをしている女性の相談相手になってほしいと頼んだ。男性はちゅうちょし、拒んだが、疋田さんが「あんたは話をして相手に喜んでもらうんやから、これは老老ボランティアとちがうか」と説得すると、ようやく納得した。数日後、世間話をするつもりで女性を訪ねると、相手は喜び、何度か通ううちに男性のうつ病が消えてしまったという。他者や社会とつながることで、少しでも自分が役立っていることを実感できると、生きる力がみなぎってくるのだろう。「貯筋」「疋田さんの健康法はジョギングだけですか?」と尋ねたことがある。当時は学会に出る日以外は休診日がなく、住民から電話があれば、24時間いつでも往診に出かけていた。地域に医者は彼一人だから病気で休めば困るのは住民である。だから健康には人一倍気を付けているはずと思って尋ねたのだが、「はて、あとは食事ぐらいかなぁ」と言った。 ある日、往診の帰りに地元のうどん屋に入ったことがあった。そこで注文したのが大盛りで、私にはとても食べきれないボリュームだったのに、彼はそれを軽く平らげてしまったのだ。驚いて、いつも食べている朝食を見せてほしいと、翌朝、自宅を訪ねたが、食卓に並んだメニューに目をむいた。 食パン1枚、ゆで卵2個、ハチミツ、ヨーグルト、牛乳400cc、ホウレンソウのおひたし、トマト2個、キュウリ1本、納豆、それに胡麻の粉末ときな粉を混ぜた地元の名産「胡麻きな粉」が添えられていた。かなりの健啖家である。とても80歳を過ぎた人の食事とは思えなかった。 昼食もそうだが、量は多くても基本的に炭水化物は少なく、おかずの種類が多い。疋田さんは、1日30種類以上の食材を食べるように心がけていた。科学的根拠からでなく、特定の食材に偏らず、満遍なく食べることを習慣にしてきたのだろう。これは今も続いているそうで、99歳で歯が抜けてから粥のような流動食になったが、それでも冒頭で紹介したようにかなりの量である。ただ食事を用意する側にすれば、30品目以上で献立を作るというのはなかなか大変なようで、夫人によれば、30品目以下の食事が2、3日続くと、「この頃はちょっと食事が乱れているな」とつぶやくそうだ。 疋田さんにとって食事は、運動と共に健康維持の基本である。例えば風邪をひいて熱を出しても、薬は一切飲まず、食事などで自然治癒するのを待った。おかげで、誤嚥性肺炎になったときも抗生物質を飲んだらすぐ治ったという。100歳を過ぎても元気なのは、これを地道に続けてきたからだろう。今は運動をしていないが、過去の「貯筋」(筋肉)で食べているといえるのではないだろうか。「あそこは家にいるより孤独だ」 現在の疋田さんはといえば、デイサービスには「あそこは家にいるより孤独だ」と言って行かずに、ほとんど自宅で過ごしている。集団生活は性に合わないのだろう。では孤独かというと、そうでもなさそうで、住民がカンパを募って大理石の立派な顕彰碑を建てたおかげで、小学生らが「生きているうちに碑が建つような立派な先生に会いたい」と訪ねてきたり、半生を地域医療に尽くした疋田さんに会ってみたいと若い医師がやって来たりするので、家にいながら今の生活にはけっこう満足しているようである。奥野修司(おくのしゅうじ)ノンフィクション作家。1948年生まれ。『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で講談社ノンフィクション賞と大宅ノンフィクション賞を受賞。『ねじれた絆』『皇太子誕生』『心にナイフをしのばせて』『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』など著作多数。「週刊新潮」2023年4月27日号 掲載
「病気というのは格好だけ見てもわからんな。隠れている本当の病気を治さんといかん。これは力のない医者ではできません。あんたはどう思う?」
こう言うのは、この4月で102歳の誕生日を迎える疋田善平さんだ。自宅の窓には前栽の向こうに杣山(そまやま)がどこまでも広がっていた。ここは高知県の西南部にある黒潮町。この町の名が全国に知れ渡ったのは、南海トラフ大地震が起これば34メートル以上の津波が押し寄せると言われてからだ。疋田さんがこの町にやってきて診療所医師に着任したのは、まだ佐賀町とよばれた50年も前のことである。ここで「満足死」なる思想を提唱し、住民が満足な死を迎えられるように全村病院構想というシステムを一人で作り上げると、やがて住民の医療費が削減でき、国民健康保険料も下がった。その業績が評価されて、保健文化賞や保健医療に貢献した人に贈られる若月賞を受賞した疋田さんは、地域医療の世界に金字塔を打ち立てた医師である。
疋田さんは三十余年にわたって診療所の医師を務めたが、辞めてからも90歳になるまで住民を診てきた。1日の睡眠が4、5時間というハードな仕事にもかかわらず、これまで重篤な病気をしたことがない。引退後も散歩をかかさず読書三昧の日々を送っていたという。それが100歳を迎える前に、全部そろっていた歯がいきなり抜け落ちて食生活が大きく変わった。食事がやわらかい食べ物だけになると、散歩をしなくなって記憶もあやしくなってきたそうだ。ただ、医療のことはしっかり頭に刻まれているせいか、不用意な問いかけをすると逆に辛辣な質問を返されて、こちらが返答に窮することもたびたびだった。
「歯がないので、今は全部潰したものを食べています。そのせいか、体力が低下しましたね。医食同源といいますが、やっぱり食べることは長生きする一番の秘訣なのだと思います」
妻の睦美さんが言う。
では病院食のような食事なのかというと、そうではない。たとえば、ある日の朝食はこんなメニューだ。
5枚切りの食パン1枚にバター10グラム、ハチミツ大さじ1杯を200ccの牛乳に入れて加熱し、ミキサーにかけたパン粥をメインに、ヨーグルト、ホウレンソウ、バナナ、リンゴ、ハチミツを加えたスムージー。そして、卵1.5個分のやわらかいオムレツと納豆、甘酒を80~90cc、そして最後は栄養補助食品のメイバランスを一本――。とても100歳を超えた人の食事とは思えない量だが、これでもずいぶん減ったそうである。
私が疋田さんに初めて会ったのは20年も前のことだ。当時、高齢になっても寝たきりにならず、元気で自宅で過ごすための生き方を住民に説いていたが、その彼が100歳になる前までかくしゃくとしていたのは、自らそれを実践してきたからだろう。では何が彼を元気にさせていたのか。当時の取材ノートを参考に、その秘訣を探ってみたい。
国立京都病院(現在の京都医療センター)の内科医長だった疋田さんは50歳を機に退職すると、予防医学をやりたいと当時の佐賀町にやってきた。1972年のことである。そこで彼は、余命いくばくもないのに、どうせ死ぬなら家で死にたいと退院してきた患者を引き受けたことで「満足死」という思想に思い至る。その患者が亡くなる数日前に「先生、ありがとう」と手を合せて感謝し、遺族からも感謝された。その体験から「本人の満足、家族の満足、医療側の満足」を満たした死を「満足死」として学会に発表した。
そこで、みんなが望む満足死とはどんな死なのか、疋田さんはあらためて住民に尋ねた。すると圧倒的に多かったのが「死ぬまで元気でいて、逝くときは自宅でぽっくりと逝きたい」だった。どうすればぽっくり逝けるのだろうか。
人は3度死ぬ、と疋田さんは言う。退職して社会に貢献できなくなる「社会死」、やがて寝たきりになるなど自分で身の回りの世話ができなくなる「生活死」、そして心臓が止まる「生物死」だ。人生50年といわれた昔なら、「社会死」のあと日を置かずに「生活死」と「生物死」がやってきたが、今は寿命が長くなったおかげで「生活死」から「生物死」まで5年10年は当たり前になった。当時はまだ介護保険がない時代だ。この間に寝たきりになったら誰が世話するのだろう。
こんな調査データがあるという。親の面倒を最後まで見ますかと、日、英、独の三カ国で質問すると、英独で「はい」と答えたのは2人に1人だったが、日本は4人に3人もいた。ところが、それを実行したかどうかを調査すると、英独はどちらも2人に1人だったのに、日本は期待値とは逆で5人に1人しかいなかったのだ。
介護の問題が噴出するのは、介護が長期にわたるからだが、では寝たきりの親を、家族はどれぐらいの期間なら世話ができるのだろうか。疋田さんが住民に聞き取り調査をすると、どんな家族でも1カ月未満なら世話してくれるが、2カ月3カ月となると、死んでくれとは言わないまでも粗末に扱われやすくなるという結果となった。理想的には1週間がいい。つまりぽっくり死にたいというのは、死ぬ直前まで元気でいて、寝ついたら1週間くらいであの世に旅立ちたいということなのだ。96歳で死去した英国のエリザベス女王は、死の2日前にはトラス前首相の任命をし、医師を呼んだのは亡くなる当日だったそうだが、おそらく住民が望む死はそんなイメージなのだろう。
住民の希望とは逆に、当時の佐賀町には寝たきり老人がたくさんいた。どうすれば寝たきりを減らせるのか。疋田さんによれば、人間には運動するための細胞と、臓器など生命を維持するための細胞があり、生命を維持する細胞はその個体が死ぬまでコンスタントに動くが、筋肉のような運動能力のある細胞は使われないと衰退していくそうだ。つまり、生命維持の細胞が元気なのに、運動能力のある細胞が萎縮した状態が寝たきりなのだという。
人間の骨格を支えているのは筋肉である。これが衰えると、歩くときも十分に足が上がらず、つまずいて転びやすくなる。転倒で骨折して寝つけば、リハビリをしないと1週間で筋力の10~15%が低下する。3~5週間も寝込んだら半分になるというから、この時点でほぼ寝たきりだ。
「一部の細胞が死にかけて、ほかの細胞が元気だと苦しいのです。全部の細胞が同じように衰弱していったときに器官が止まれば、苦しむことがないわけです」
これが満足死である。
転倒しなくても、筋肉量は加齢と共に必ず低下していく。放っておけば頭や背骨を支えきれなくなって腰痛などが頻発し、歩くのもおっくうになるから、さらに筋力が低下する。そうならないためには、運動能力のある細胞を活性化させて生命維持の細胞と同時に衰えていくようにするしかない。それには常に筋肉に負荷をかけてやることだ。そのことに疋田さんが気付いたのは、佐賀町にやってきてからだった。
この町の産業構造は単純で、農業中心の山間部と漁労中心の市街地に分かれていた。高齢化率は山間部の方が高いが、長期入院患者数と特別養護老人ホーム入所者数は市街地の6分の1と少なかった。逆に90歳以上で元気な高齢者は市街地の3倍もいた。つまり農村地帯のほうが健康な高齢者が多かったのである。なぜか。
市街地の漁師らは比較的高給取りが多く、退職して陸に上がると、せいぜいゲートボールをするぐらいで体を動かさなくなる。一方の山間部の農家は収入が少ないから、高齢になっても畑仕事をしながら自分の食べる野菜などを作っていた。つまり体力に合わせて毎日働いていたのである。働くとは体を動かすことだ。
老化は筋力の低下から始まるといわれるが、農家はコンスタントに体を動かすことで無意識に筋肉に負荷をかけ続け、その結果として老化を遅らせ、寝たきりにもならずに元気で過ごす人が多かったのだ。
幸福度は個人によって違うが、少なくとも「幸せは健康度に比例する」のではないかと疋田さんは考えた。そして「元気で死にたいと思ったら、死ぬまで働くことだ」という結論を導き出したのである。「働け」という言葉に抵抗があるなら「全身の筋肉を動かせ」と言い換えてもいい。
住民と膝を突き合わせながら、疋田さんは当時こんなことを説いていた。
「若いときは金のために働いても、年を取ったら健康のために働きなさい。ボランティアでもやってみんなに喜んでもらったら気分がよろしい。するとその人の人生はさらに充実してより健康になります」
こうして、死が目的だった「満足死」は、いかに老化を遅らせて元気でいるかという「生」が目的になったのである。
寝たきりの人を診察すると、病気というより、寝るより楽なものはなしと寝続けているうちに寝たきりになるケースが多かった。そこで疋田さんは往診のたびに、タンスの引き出しや掘りごたつを利用したリハビリを指導していった。人は目標を持って自分の物語を描くことができれば、自ら努力する。そこで患者の本音を聞き出しながら、リハビリの動機付けになる目標を次々と提案していった。それを2年間繰り返していると、それまで疋田さんの往診エリアに50人いた寝たきり老人は5人に減り、翌年には2人と限りなくゼロに近づいたのである。
さて疋田さん自身の健康法だが、真っ先に思い出すのは早朝のジョギングである。ただ住民から「あれは走ってるのかね。ふらふらしながら歩いているが」と言われていた。それを確かめようと、夜明け前に走るコースで疋田さんを待っていた。やがて上半身裸の人影がぺたぺたと足音を立てながら近づいてきた。たしかに格好は走っているが、ほとんど歩くのと同じスピードだ。2キロの距離を20分かけて走るのだという。ただ、そのときの記憶で今も印象に残るのは、ほっそりとした体形なのに、ふくらはぎが運動選手のように盛り上がっていたことである。当時、疋田さんは83歳。年齢を感じさせないたくましい筋肉に、私は圧倒されてしまった。
ジョギングは50歳で佐賀町に来てから毎日続けているそうで、私は「歩いたほうがいいんじゃないですか」と笑った。すると彼は、これでいいという。
同じスピードでもウオーキングに比べてジョギングの方がよりダイナミックに多くの筋肉を動かす。だからといってジョギングが絶対にいいかというと必ずしもそうではなく、どちらを選ぶかはその人の体力に合わせるべきで、「ちょっときついな」と思うぐらいがいいそうだ。無理な目標を定めると、途中でギブアップしてしまう。大事なのは頑張るのではなく、疲れを残さず継続させることなのだと言った。
老化を実感するのはたいてい筋力の低下からだ。寝たきりになるのも筋肉の衰えからである。筋肉に負荷をかけないと、知らないうちに衰えていくが、それを知らずに若いときの感覚でいると、段差につまずいて転倒しかねない。運悪く骨折でもして1カ月も寝込めば、そのまま寝たきりだろう。これを防ぐには、筋肉量が低下しないように鍛えるしかないのだという。
実は寝たきりを防ぐのに効果的なのは筋肉を維持すること以外にもう一つ、体を柔軟にすることだと疋田さんに言われた。筋肉が弱ってくると、ちょっとしたことでバランスを崩してしまう。体が硬いと無理な体勢で倒れて骨折しやすい。そうならないためには体を柔らかくすることだそうだ。
当時の疋田さんは各集落で健康教室を開いていたから、そこで住民相手に、体を動かすことがいかに大切かを切々と語っていた。
「元気でいたかったら死ぬまで働きなさい」
働けというのは、体力に合わせて体を動かせということだ。これがもたらした結果は大きく、疋田さんが赴任して18年目に、佐賀町は国保料を下げたのである。住民が健康になって病院に行かなくなり、医療費が減ったからである。
ある日、疋田さんの取り組みを知った近隣の西土佐村(現・四万十市)の村長が、村議を連れて疋田さんの予防医学を学ぼうとやって来た。そして村に戻ると、空き地を村民に無料で提供し、そこで作った露地野菜を村と農協で買い取ることにした。小遣いが稼げるとあって、年寄りたちは昔取った杵柄とばかりに競って野菜づくりに励んだものだから、わずか5年で7億円産業になった。それだけではない。人口3800人の村に、介助が必要な寝たきり老人は22人いたが、5年後には2人にまで減り、6年後には西土佐村も国保料を引き下げた。西土佐村が佐賀町より短い期間で下げられたのは、自治体が全面的にバックアップしたからである。体を動かすことが高齢者を元気にさせることをここでも実証したのだ。
体を動かして健康になることだけが満足な生き方につながるわけではない。年を重ねても仲間がいれば楽しいし、それも好きな人ならなおいい。疋田さんがそのことに気付いたのはある悲劇があったからだ。
妻に先立たれた男性が診療所でリハビリに励んでいたが、あまりにも熱心なので、疋田さんは彼の仲間に尋ねてみた。すると、茶飲み友だちの女性がいて、元気で彼女と会いたい一心でリハビリに励んでいるのだという。ところが、そのことが自分の家族に知れると、相手の女性は遠ざけられてしまった。女性に会えなくなった男性は、リハビリに見向きもしなくなり、やがて寝たきりになって死んだ。疋田さんによれば、原因は「老人と性は関係ない」という「老人神話」があるからだという。年を重ねたら枯れたようになるという先入観は今も根強いが、体に生理的な変化があっても性への関心がなくなるわけではない。「性を自由に語れる雰囲気があれば、元気になる年寄りはずいぶんいるのに!」と疋田さんは悔しがった。
以来、疋田さんは、必要とあれば患者に異性を紹介するようになった。たまたま私が取材していたときだ。愛妻に先立たれてから何も手につかず、うつ病になった一人暮らしの男性がいた。疋田さんによれば「健康度が高いのは独居老人が1番で、その次が老夫婦、3番目は子供と同居する老人」だそうだが、ただ夫は妻に先立たれると精神的にも不安定になりやすく、この男性もそうだった。
病院で薬を処方されたが、副作用で歩くのが困難になっていた。男性から相談を受けた疋田さんは、まず薬を断たせたうえで、車椅子で一人暮らしをしている女性の相談相手になってほしいと頼んだ。男性はちゅうちょし、拒んだが、疋田さんが「あんたは話をして相手に喜んでもらうんやから、これは老老ボランティアとちがうか」と説得すると、ようやく納得した。数日後、世間話をするつもりで女性を訪ねると、相手は喜び、何度か通ううちに男性のうつ病が消えてしまったという。他者や社会とつながることで、少しでも自分が役立っていることを実感できると、生きる力がみなぎってくるのだろう。
「疋田さんの健康法はジョギングだけですか?」と尋ねたことがある。当時は学会に出る日以外は休診日がなく、住民から電話があれば、24時間いつでも往診に出かけていた。地域に医者は彼一人だから病気で休めば困るのは住民である。だから健康には人一倍気を付けているはずと思って尋ねたのだが、「はて、あとは食事ぐらいかなぁ」と言った。
ある日、往診の帰りに地元のうどん屋に入ったことがあった。そこで注文したのが大盛りで、私にはとても食べきれないボリュームだったのに、彼はそれを軽く平らげてしまったのだ。驚いて、いつも食べている朝食を見せてほしいと、翌朝、自宅を訪ねたが、食卓に並んだメニューに目をむいた。
食パン1枚、ゆで卵2個、ハチミツ、ヨーグルト、牛乳400cc、ホウレンソウのおひたし、トマト2個、キュウリ1本、納豆、それに胡麻の粉末ときな粉を混ぜた地元の名産「胡麻きな粉」が添えられていた。かなりの健啖家である。とても80歳を過ぎた人の食事とは思えなかった。
昼食もそうだが、量は多くても基本的に炭水化物は少なく、おかずの種類が多い。疋田さんは、1日30種類以上の食材を食べるように心がけていた。科学的根拠からでなく、特定の食材に偏らず、満遍なく食べることを習慣にしてきたのだろう。これは今も続いているそうで、99歳で歯が抜けてから粥のような流動食になったが、それでも冒頭で紹介したようにかなりの量である。ただ食事を用意する側にすれば、30品目以上で献立を作るというのはなかなか大変なようで、夫人によれば、30品目以下の食事が2、3日続くと、「この頃はちょっと食事が乱れているな」とつぶやくそうだ。
疋田さんにとって食事は、運動と共に健康維持の基本である。例えば風邪をひいて熱を出しても、薬は一切飲まず、食事などで自然治癒するのを待った。おかげで、誤嚥性肺炎になったときも抗生物質を飲んだらすぐ治ったという。100歳を過ぎても元気なのは、これを地道に続けてきたからだろう。今は運動をしていないが、過去の「貯筋」(筋肉)で食べているといえるのではないだろうか。
現在の疋田さんはといえば、デイサービスには「あそこは家にいるより孤独だ」と言って行かずに、ほとんど自宅で過ごしている。集団生活は性に合わないのだろう。では孤独かというと、そうでもなさそうで、住民がカンパを募って大理石の立派な顕彰碑を建てたおかげで、小学生らが「生きているうちに碑が建つような立派な先生に会いたい」と訪ねてきたり、半生を地域医療に尽くした疋田さんに会ってみたいと若い医師がやって来たりするので、家にいながら今の生活にはけっこう満足しているようである。
奥野修司(おくのしゅうじ)ノンフィクション作家。1948年生まれ。『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で講談社ノンフィクション賞と大宅ノンフィクション賞を受賞。『ねじれた絆』『皇太子誕生』『心にナイフをしのばせて』『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』など著作多数。
「週刊新潮」2023年4月27日号 掲載

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