【工藤 勇一, 苫野 一徳】学校で「茶髪はダメ」「化粧は薄めに」「地毛証明を出せ」…! “人を見た目で判断するな”と教える教師たちの「決定的矛盾」

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教育の現場では、いきすぎた頭髪指導や、下着の色のチェックなどの「ブラック校則」が社会問題になっている。一方、教員養成の現場はどうだろう。
教育哲学者・苫野一徳氏は、全国の教育学部の教育実習の手引きには、大学によっては「教師らしい髪型や服装やしゃべり方をせよ」「髪が少しでも茶色がかっていたらダメ、化粧は薄め、アクセサリーはダメ」などの厳しい規定があると指摘する。
“教師の仮面”を無理にかぶらせるかのような教員養成の実態について、学校教育の旗振り役・工藤勇一校長(現・横浜創英中高校長)と苫野氏が教育の未来を語り合った書籍『子どもたちに民主主義を教えよう』(あさま社)から抜粋する。
学校って、教師って、なんだ…? photo/iStock
「大人の表裏」に敏感な子どもたち苫野 教員養成も、やはり抜本的に変えていく必要があると思います。以前に、木村泰子さん(大阪市立大空小学校・初代校長)と、教育委員会の方々や現職の先生方、また教員志望の学生たちと、「よい教師とは?」をめぐる「本質観取」という哲学対話をしたことがありました。そのとき、「教師の仮面をかぶらない」というキーワードがでてきたんですね。教師は何かにつけて、教師らしくあらねばならないと仮面をかぶろうとしてしまいます。でもそれは、やっぱり仮面ですから、子どもたちは見抜くわけです。そしてそんな教師を、信頼することはない。子どもたちは大人の裏表にとても敏感ですよね。もちろん、専門職としての教師のあるべき姿勢はあります。でもそれは、子どもを一人の人間として尊重するとか、共同探究者としての姿勢とか、学びの連続性や教科の系統性についての専門的理解などであって、表面的な「仮面」をつけることではないはずです。「茶髪はダメ」という指導苫野 で、その哲学対話のときに、もしかしたら教員養成自体が、教師の仮面をかぶる練習をさせているんじゃないかと話題になったんです。たとえば全国の教育学部の教育実習の手引きなんかを見ても、教師らしい髪型や服装やしゃべり方をせよと、大学によってはかなり細かく指示が書かれてあります。髪がちょっとでも茶色がかっていたらダメ、化粧は薄め、アクセサリーはダメ、など。で、それが少しでもできていなかったら、かなり厳しい「指導」が入るんですね。その場で帰らされたり。たしかに、教師の仮面をかぶる練習をさせているように感じます。 工藤 じっくりと見たことがありませんが、たしかにそうかもしれないですね。苫野 こういうときこそ、そもそも教師とは一体何なのか、その本質に立ち戻らないといけません。教師は「自由の相互承認」をこそ教えるべき存在です。それはつまり、他者の自由を侵害しない限り、どんな人種だろうが、宗教だろうが、ましてやどんな髪型や服装をしていようが、対等な存在として認め合うことを教えるということです。実際、学校では「人を見た目で判断しない」と教えていますよね。だから先生だって、教師の仕事の本質からすれば、もう少し自由な格好をしていいはずなんです。もちろん、公序良俗やTPOは考えないといけませんが。「同質性」と「従順さ」と「規律」工藤 そういう規定って校長経験者があれこれ助言するものなんですが、いかにも日本的ですよね。教員に対して同質性と従順さと規律をひたすら求める。だから教員も子どもたちに同質性と従順さと規律を求める。たしかにそれは象徴的かもしれない。苫野 生徒だけでなく、教育実習生にも、茶色がかった髪の人には「地毛証明」をださせるなんていまだにやっているところもありますからね。工藤 自分たちは白髪染めしているのに。苫野 ははは、たしかに(笑)。いま、いきすぎた頭髪指導や、下着の色のチェックといった理不尽な校則が社会問題になっていますが、その慣習を変えるには、教員養成自体も変わらなきゃいけないなと思います。理不尽な校則はなぜあるのか photo/iStock 何が悲しいって、学生たちは、免許を取得するためにはそうしたことに黙って従わなければいけないということです。そこには大きな問題が2つあります。ひとつは、民主主義の担い手を育てるはずの先生が、理不尽に対して声を上げず、「なんとかやり過ごせばいいんだ」というマインドを持ってしまうこと。もうひとつは、自分がされた理不尽を、子どもたちや後輩の先生にしてしまいかねないことです。「本音」と「建て前」工藤 教育学部の他の教授はどんな反応なんですか?苫野 やっぱりおかしいよねとおっしゃる先生は多いです。受け入れてくださっている学校にも、同じ問題意識を持っている先生は多いんじゃないかと思うんです。もちろん、教師が茶髪なんて絶対に許せないという方もいらっしゃいますが、いろんな先生方と話をすると、同意してくださる方がとても多いです。工藤 ああ、やっぱり。「本音と建前」ですね。 苫野 建前が慣習化すると、おかしいと思っても声を上げることが極端に難しくなってしまいますよね。自縄自縛に陥ってしまうんです。問題提起しても拒否されるだろうな、面倒くさいことを言われるのはイヤだな、と思っているうちに、いつの間にか自分も染まってしまったり。私自身は、去年ようやく、この問題をめぐって学生や教員たちとのささやかな対話の機会を持ち始めました。今後は、関係者をもっと巻き込んで、「そもそも教師とは何か」「何のための教員養成か」の最上位目標を合意するような対話ができたらなと思っているところです。工藤 期待しています。家族システムから考える「日本人」工藤 いまの話もそうですけど、日本って歴史的にも人権感覚が低いんですかね。「上が絶対」、「上を敬え」、「上に従え」の発想が本当に根強いですよね。さすがに戦争の反省から「国家が絶対」とは学校で教えなくなったけど、「学校が絶対」「先生が絶対」「監督が絶対」「先輩が絶対」という構図は変わっていませんよね。苫野 残念ながら。工藤 暴力教師は減ったけど、部活の暴力事件は相変わらず報道されていますからね。これって儒教の影響なんですか? 苫野 儒教の影響もあると思うんですが、私がよく引き合いにだすのは、エマニュエル・トッドという人類学・歴史学者による「家族システム論」です。この理論をひとことで言えば、それぞれの国や地域で何百年も続いてきた家族のあり方が、私たちのイデオロギー、つまり物の考え方に色濃く影響を与えているというものです。トッドによれば、日本やドイツ、韓国などは「直系家族」、あるいは「権威主義家族」という家族システムです。お父さんが偉くて、兄弟姉妹が不平等。父親の権威の程度は、国や地域によってまったく異なります。また、遺産相続のルールも、平等な地域と不平等な地域があります。直系家族の場合、たいてい長子相続です。兄弟姉妹は不平等なんですね。工藤 それは面白い。知らず知らずのうちに…苫野 いまの日本では核家族化が進み、お父さんの地位も下がっているかもしれないですが、日本の一般的な農民は「直系家族」の中で何百年も生活してきました。で、トッドによれば、この家族システムに基づく価値観は、知らず知らずのうちに近代社会の設計思想にもなっているんですね。photo by gettyimages 近代化とは、一般大衆が主役になる時代。だからその社会システムには、それまでの大多数の人々の価値観が色濃く反映されることになるわけです。日本は近代化に際して、天皇を中心に国家を形成しました。まさに「お父さんは偉い」なわけです。また、表向きは「四民平等」が唱えられましたが、現実には、アイヌ民族や沖縄、在日朝鮮人などを差別する不平等が当然のように続きました。大日本帝国においては、朝鮮や台湾、ビルマの人たちを日本人化し、でも同じ日本人としては扱いませんでした。「人間って不平等だよね」という感覚を、日本人は無意識の底では持っているというわけです。工藤 なるほど。苫野 しかも社会システムは惰性を持つので、いったん走りだすとなかなか変わりません。家族のあり方が時代とともに少しずつ変わっても、文化の底に根付いた価値観はそう簡単に変わらないと、トッドは明らかにしています。「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっている工藤 日本は議員や大臣でさえも世襲のような感じですからね。他にはどんな家族システムがあるんですか?苫野 たとえば、フランス北部の家族システムは「平等主義的核家族」と呼ばれます。お父さんは全然偉くないし、兄弟姉妹も完全に平等。そんな家族システムからでてきたのが、フランス革命の合言葉である「自由・平等・博愛」だったとトッドは言っています。工藤 ああ、では、もともと平等意識が高いわけですか。 苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。自分の日常の言動が最も大事苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。苫野 わかってもらえた実感はありましたか? 工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
苫野 教員養成も、やはり抜本的に変えていく必要があると思います。以前に、木村泰子さん(大阪市立大空小学校・初代校長)と、教育委員会の方々や現職の先生方、また教員志望の学生たちと、「よい教師とは?」をめぐる「本質観取」という哲学対話をしたことがありました。
そのとき、「教師の仮面をかぶらない」というキーワードがでてきたんですね。教師は何かにつけて、教師らしくあらねばならないと仮面をかぶろうとしてしまいます。でもそれは、やっぱり仮面ですから、子どもたちは見抜くわけです。そしてそんな教師を、信頼することはない。子どもたちは大人の裏表にとても敏感ですよね。
もちろん、専門職としての教師のあるべき姿勢はあります。でもそれは、子どもを一人の人間として尊重するとか、共同探究者としての姿勢とか、学びの連続性や教科の系統性についての専門的理解などであって、表面的な「仮面」をつけることではないはずです。
苫野 で、その哲学対話のときに、もしかしたら教員養成自体が、教師の仮面をかぶる練習をさせているんじゃないかと話題になったんです。
たとえば全国の教育学部の教育実習の手引きなんかを見ても、教師らしい髪型や服装やしゃべり方をせよと、大学によってはかなり細かく指示が書かれてあります。髪がちょっとでも茶色がかっていたらダメ、化粧は薄め、アクセサリーはダメ、など。で、それが少しでもできていなかったら、かなり厳しい「指導」が入るんですね。その場で帰らされたり。たしかに、教師の仮面をかぶる練習をさせているように感じます。
工藤 じっくりと見たことがありませんが、たしかにそうかもしれないですね。苫野 こういうときこそ、そもそも教師とは一体何なのか、その本質に立ち戻らないといけません。教師は「自由の相互承認」をこそ教えるべき存在です。それはつまり、他者の自由を侵害しない限り、どんな人種だろうが、宗教だろうが、ましてやどんな髪型や服装をしていようが、対等な存在として認め合うことを教えるということです。実際、学校では「人を見た目で判断しない」と教えていますよね。だから先生だって、教師の仕事の本質からすれば、もう少し自由な格好をしていいはずなんです。もちろん、公序良俗やTPOは考えないといけませんが。「同質性」と「従順さ」と「規律」工藤 そういう規定って校長経験者があれこれ助言するものなんですが、いかにも日本的ですよね。教員に対して同質性と従順さと規律をひたすら求める。だから教員も子どもたちに同質性と従順さと規律を求める。たしかにそれは象徴的かもしれない。苫野 生徒だけでなく、教育実習生にも、茶色がかった髪の人には「地毛証明」をださせるなんていまだにやっているところもありますからね。工藤 自分たちは白髪染めしているのに。苫野 ははは、たしかに(笑)。いま、いきすぎた頭髪指導や、下着の色のチェックといった理不尽な校則が社会問題になっていますが、その慣習を変えるには、教員養成自体も変わらなきゃいけないなと思います。理不尽な校則はなぜあるのか photo/iStock 何が悲しいって、学生たちは、免許を取得するためにはそうしたことに黙って従わなければいけないということです。そこには大きな問題が2つあります。ひとつは、民主主義の担い手を育てるはずの先生が、理不尽に対して声を上げず、「なんとかやり過ごせばいいんだ」というマインドを持ってしまうこと。もうひとつは、自分がされた理不尽を、子どもたちや後輩の先生にしてしまいかねないことです。「本音」と「建て前」工藤 教育学部の他の教授はどんな反応なんですか?苫野 やっぱりおかしいよねとおっしゃる先生は多いです。受け入れてくださっている学校にも、同じ問題意識を持っている先生は多いんじゃないかと思うんです。もちろん、教師が茶髪なんて絶対に許せないという方もいらっしゃいますが、いろんな先生方と話をすると、同意してくださる方がとても多いです。工藤 ああ、やっぱり。「本音と建前」ですね。 苫野 建前が慣習化すると、おかしいと思っても声を上げることが極端に難しくなってしまいますよね。自縄自縛に陥ってしまうんです。問題提起しても拒否されるだろうな、面倒くさいことを言われるのはイヤだな、と思っているうちに、いつの間にか自分も染まってしまったり。私自身は、去年ようやく、この問題をめぐって学生や教員たちとのささやかな対話の機会を持ち始めました。今後は、関係者をもっと巻き込んで、「そもそも教師とは何か」「何のための教員養成か」の最上位目標を合意するような対話ができたらなと思っているところです。工藤 期待しています。家族システムから考える「日本人」工藤 いまの話もそうですけど、日本って歴史的にも人権感覚が低いんですかね。「上が絶対」、「上を敬え」、「上に従え」の発想が本当に根強いですよね。さすがに戦争の反省から「国家が絶対」とは学校で教えなくなったけど、「学校が絶対」「先生が絶対」「監督が絶対」「先輩が絶対」という構図は変わっていませんよね。苫野 残念ながら。工藤 暴力教師は減ったけど、部活の暴力事件は相変わらず報道されていますからね。これって儒教の影響なんですか? 苫野 儒教の影響もあると思うんですが、私がよく引き合いにだすのは、エマニュエル・トッドという人類学・歴史学者による「家族システム論」です。この理論をひとことで言えば、それぞれの国や地域で何百年も続いてきた家族のあり方が、私たちのイデオロギー、つまり物の考え方に色濃く影響を与えているというものです。トッドによれば、日本やドイツ、韓国などは「直系家族」、あるいは「権威主義家族」という家族システムです。お父さんが偉くて、兄弟姉妹が不平等。父親の権威の程度は、国や地域によってまったく異なります。また、遺産相続のルールも、平等な地域と不平等な地域があります。直系家族の場合、たいてい長子相続です。兄弟姉妹は不平等なんですね。工藤 それは面白い。知らず知らずのうちに…苫野 いまの日本では核家族化が進み、お父さんの地位も下がっているかもしれないですが、日本の一般的な農民は「直系家族」の中で何百年も生活してきました。で、トッドによれば、この家族システムに基づく価値観は、知らず知らずのうちに近代社会の設計思想にもなっているんですね。photo by gettyimages 近代化とは、一般大衆が主役になる時代。だからその社会システムには、それまでの大多数の人々の価値観が色濃く反映されることになるわけです。日本は近代化に際して、天皇を中心に国家を形成しました。まさに「お父さんは偉い」なわけです。また、表向きは「四民平等」が唱えられましたが、現実には、アイヌ民族や沖縄、在日朝鮮人などを差別する不平等が当然のように続きました。大日本帝国においては、朝鮮や台湾、ビルマの人たちを日本人化し、でも同じ日本人としては扱いませんでした。「人間って不平等だよね」という感覚を、日本人は無意識の底では持っているというわけです。工藤 なるほど。苫野 しかも社会システムは惰性を持つので、いったん走りだすとなかなか変わりません。家族のあり方が時代とともに少しずつ変わっても、文化の底に根付いた価値観はそう簡単に変わらないと、トッドは明らかにしています。「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっている工藤 日本は議員や大臣でさえも世襲のような感じですからね。他にはどんな家族システムがあるんですか?苫野 たとえば、フランス北部の家族システムは「平等主義的核家族」と呼ばれます。お父さんは全然偉くないし、兄弟姉妹も完全に平等。そんな家族システムからでてきたのが、フランス革命の合言葉である「自由・平等・博愛」だったとトッドは言っています。工藤 ああ、では、もともと平等意識が高いわけですか。 苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。自分の日常の言動が最も大事苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。苫野 わかってもらえた実感はありましたか? 工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
工藤 じっくりと見たことがありませんが、たしかにそうかもしれないですね。
苫野 こういうときこそ、そもそも教師とは一体何なのか、その本質に立ち戻らないといけません。
教師は「自由の相互承認」をこそ教えるべき存在です。それはつまり、他者の自由を侵害しない限り、どんな人種だろうが、宗教だろうが、ましてやどんな髪型や服装をしていようが、対等な存在として認め合うことを教えるということです。
実際、学校では「人を見た目で判断しない」と教えていますよね。だから先生だって、教師の仕事の本質からすれば、もう少し自由な格好をしていいはずなんです。もちろん、公序良俗やTPOは考えないといけませんが。
工藤 そういう規定って校長経験者があれこれ助言するものなんですが、いかにも日本的ですよね。教員に対して同質性と従順さと規律をひたすら求める。だから教員も子どもたちに同質性と従順さと規律を求める。たしかにそれは象徴的かもしれない。
苫野 生徒だけでなく、教育実習生にも、茶色がかった髪の人には「地毛証明」をださせるなんていまだにやっているところもありますからね。
工藤 自分たちは白髪染めしているのに。
苫野 ははは、たしかに(笑)。いま、いきすぎた頭髪指導や、下着の色のチェックといった理不尽な校則が社会問題になっていますが、その慣習を変えるには、教員養成自体も変わらなきゃいけないなと思います。
理不尽な校則はなぜあるのか photo/iStock
何が悲しいって、学生たちは、免許を取得するためにはそうしたことに黙って従わなければいけないということです。そこには大きな問題が2つあります。ひとつは、民主主義の担い手を育てるはずの先生が、理不尽に対して声を上げず、「なんとかやり過ごせばいいんだ」というマインドを持ってしまうこと。もうひとつは、自分がされた理不尽を、子どもたちや後輩の先生にしてしまいかねないことです。「本音」と「建て前」工藤 教育学部の他の教授はどんな反応なんですか?苫野 やっぱりおかしいよねとおっしゃる先生は多いです。受け入れてくださっている学校にも、同じ問題意識を持っている先生は多いんじゃないかと思うんです。もちろん、教師が茶髪なんて絶対に許せないという方もいらっしゃいますが、いろんな先生方と話をすると、同意してくださる方がとても多いです。工藤 ああ、やっぱり。「本音と建前」ですね。 苫野 建前が慣習化すると、おかしいと思っても声を上げることが極端に難しくなってしまいますよね。自縄自縛に陥ってしまうんです。問題提起しても拒否されるだろうな、面倒くさいことを言われるのはイヤだな、と思っているうちに、いつの間にか自分も染まってしまったり。私自身は、去年ようやく、この問題をめぐって学生や教員たちとのささやかな対話の機会を持ち始めました。今後は、関係者をもっと巻き込んで、「そもそも教師とは何か」「何のための教員養成か」の最上位目標を合意するような対話ができたらなと思っているところです。工藤 期待しています。家族システムから考える「日本人」工藤 いまの話もそうですけど、日本って歴史的にも人権感覚が低いんですかね。「上が絶対」、「上を敬え」、「上に従え」の発想が本当に根強いですよね。さすがに戦争の反省から「国家が絶対」とは学校で教えなくなったけど、「学校が絶対」「先生が絶対」「監督が絶対」「先輩が絶対」という構図は変わっていませんよね。苫野 残念ながら。工藤 暴力教師は減ったけど、部活の暴力事件は相変わらず報道されていますからね。これって儒教の影響なんですか? 苫野 儒教の影響もあると思うんですが、私がよく引き合いにだすのは、エマニュエル・トッドという人類学・歴史学者による「家族システム論」です。この理論をひとことで言えば、それぞれの国や地域で何百年も続いてきた家族のあり方が、私たちのイデオロギー、つまり物の考え方に色濃く影響を与えているというものです。トッドによれば、日本やドイツ、韓国などは「直系家族」、あるいは「権威主義家族」という家族システムです。お父さんが偉くて、兄弟姉妹が不平等。父親の権威の程度は、国や地域によってまったく異なります。また、遺産相続のルールも、平等な地域と不平等な地域があります。直系家族の場合、たいてい長子相続です。兄弟姉妹は不平等なんですね。工藤 それは面白い。知らず知らずのうちに…苫野 いまの日本では核家族化が進み、お父さんの地位も下がっているかもしれないですが、日本の一般的な農民は「直系家族」の中で何百年も生活してきました。で、トッドによれば、この家族システムに基づく価値観は、知らず知らずのうちに近代社会の設計思想にもなっているんですね。photo by gettyimages 近代化とは、一般大衆が主役になる時代。だからその社会システムには、それまでの大多数の人々の価値観が色濃く反映されることになるわけです。日本は近代化に際して、天皇を中心に国家を形成しました。まさに「お父さんは偉い」なわけです。また、表向きは「四民平等」が唱えられましたが、現実には、アイヌ民族や沖縄、在日朝鮮人などを差別する不平等が当然のように続きました。大日本帝国においては、朝鮮や台湾、ビルマの人たちを日本人化し、でも同じ日本人としては扱いませんでした。「人間って不平等だよね」という感覚を、日本人は無意識の底では持っているというわけです。工藤 なるほど。苫野 しかも社会システムは惰性を持つので、いったん走りだすとなかなか変わりません。家族のあり方が時代とともに少しずつ変わっても、文化の底に根付いた価値観はそう簡単に変わらないと、トッドは明らかにしています。「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっている工藤 日本は議員や大臣でさえも世襲のような感じですからね。他にはどんな家族システムがあるんですか?苫野 たとえば、フランス北部の家族システムは「平等主義的核家族」と呼ばれます。お父さんは全然偉くないし、兄弟姉妹も完全に平等。そんな家族システムからでてきたのが、フランス革命の合言葉である「自由・平等・博愛」だったとトッドは言っています。工藤 ああ、では、もともと平等意識が高いわけですか。 苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。自分の日常の言動が最も大事苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。苫野 わかってもらえた実感はありましたか? 工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
何が悲しいって、学生たちは、免許を取得するためにはそうしたことに黙って従わなければいけないということです。
そこには大きな問題が2つあります。ひとつは、民主主義の担い手を育てるはずの先生が、理不尽に対して声を上げず、「なんとかやり過ごせばいいんだ」というマインドを持ってしまうこと。
もうひとつは、自分がされた理不尽を、子どもたちや後輩の先生にしてしまいかねないことです。
工藤 教育学部の他の教授はどんな反応なんですか?
苫野 やっぱりおかしいよねとおっしゃる先生は多いです。受け入れてくださっている学校にも、同じ問題意識を持っている先生は多いんじゃないかと思うんです。もちろん、教師が茶髪なんて絶対に許せないという方もいらっしゃいますが、いろんな先生方と話をすると、同意してくださる方がとても多いです。
工藤 ああ、やっぱり。「本音と建前」ですね。
苫野 建前が慣習化すると、おかしいと思っても声を上げることが極端に難しくなってしまいますよね。自縄自縛に陥ってしまうんです。問題提起しても拒否されるだろうな、面倒くさいことを言われるのはイヤだな、と思っているうちに、いつの間にか自分も染まってしまったり。私自身は、去年ようやく、この問題をめぐって学生や教員たちとのささやかな対話の機会を持ち始めました。今後は、関係者をもっと巻き込んで、「そもそも教師とは何か」「何のための教員養成か」の最上位目標を合意するような対話ができたらなと思っているところです。工藤 期待しています。家族システムから考える「日本人」工藤 いまの話もそうですけど、日本って歴史的にも人権感覚が低いんですかね。「上が絶対」、「上を敬え」、「上に従え」の発想が本当に根強いですよね。さすがに戦争の反省から「国家が絶対」とは学校で教えなくなったけど、「学校が絶対」「先生が絶対」「監督が絶対」「先輩が絶対」という構図は変わっていませんよね。苫野 残念ながら。工藤 暴力教師は減ったけど、部活の暴力事件は相変わらず報道されていますからね。これって儒教の影響なんですか? 苫野 儒教の影響もあると思うんですが、私がよく引き合いにだすのは、エマニュエル・トッドという人類学・歴史学者による「家族システム論」です。この理論をひとことで言えば、それぞれの国や地域で何百年も続いてきた家族のあり方が、私たちのイデオロギー、つまり物の考え方に色濃く影響を与えているというものです。トッドによれば、日本やドイツ、韓国などは「直系家族」、あるいは「権威主義家族」という家族システムです。お父さんが偉くて、兄弟姉妹が不平等。父親の権威の程度は、国や地域によってまったく異なります。また、遺産相続のルールも、平等な地域と不平等な地域があります。直系家族の場合、たいてい長子相続です。兄弟姉妹は不平等なんですね。工藤 それは面白い。知らず知らずのうちに…苫野 いまの日本では核家族化が進み、お父さんの地位も下がっているかもしれないですが、日本の一般的な農民は「直系家族」の中で何百年も生活してきました。で、トッドによれば、この家族システムに基づく価値観は、知らず知らずのうちに近代社会の設計思想にもなっているんですね。photo by gettyimages 近代化とは、一般大衆が主役になる時代。だからその社会システムには、それまでの大多数の人々の価値観が色濃く反映されることになるわけです。日本は近代化に際して、天皇を中心に国家を形成しました。まさに「お父さんは偉い」なわけです。また、表向きは「四民平等」が唱えられましたが、現実には、アイヌ民族や沖縄、在日朝鮮人などを差別する不平等が当然のように続きました。大日本帝国においては、朝鮮や台湾、ビルマの人たちを日本人化し、でも同じ日本人としては扱いませんでした。「人間って不平等だよね」という感覚を、日本人は無意識の底では持っているというわけです。工藤 なるほど。苫野 しかも社会システムは惰性を持つので、いったん走りだすとなかなか変わりません。家族のあり方が時代とともに少しずつ変わっても、文化の底に根付いた価値観はそう簡単に変わらないと、トッドは明らかにしています。「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっている工藤 日本は議員や大臣でさえも世襲のような感じですからね。他にはどんな家族システムがあるんですか?苫野 たとえば、フランス北部の家族システムは「平等主義的核家族」と呼ばれます。お父さんは全然偉くないし、兄弟姉妹も完全に平等。そんな家族システムからでてきたのが、フランス革命の合言葉である「自由・平等・博愛」だったとトッドは言っています。工藤 ああ、では、もともと平等意識が高いわけですか。 苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。自分の日常の言動が最も大事苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。苫野 わかってもらえた実感はありましたか? 工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
苫野 建前が慣習化すると、おかしいと思っても声を上げることが極端に難しくなってしまいますよね。自縄自縛に陥ってしまうんです。問題提起しても拒否されるだろうな、面倒くさいことを言われるのはイヤだな、と思っているうちに、いつの間にか自分も染まってしまったり。
私自身は、去年ようやく、この問題をめぐって学生や教員たちとのささやかな対話の機会を持ち始めました。今後は、関係者をもっと巻き込んで、「そもそも教師とは何か」「何のための教員養成か」の最上位目標を合意するような対話ができたらなと思っているところです。
工藤 期待しています。
工藤 いまの話もそうですけど、日本って歴史的にも人権感覚が低いんですかね。「上が絶対」、「上を敬え」、「上に従え」の発想が本当に根強いですよね。さすがに戦争の反省から「国家が絶対」とは学校で教えなくなったけど、「学校が絶対」「先生が絶対」「監督が絶対」「先輩が絶対」という構図は変わっていませんよね。
苫野 残念ながら。
工藤 暴力教師は減ったけど、部活の暴力事件は相変わらず報道されていますからね。これって儒教の影響なんですか?
苫野 儒教の影響もあると思うんですが、私がよく引き合いにだすのは、エマニュエル・トッドという人類学・歴史学者による「家族システム論」です。この理論をひとことで言えば、それぞれの国や地域で何百年も続いてきた家族のあり方が、私たちのイデオロギー、つまり物の考え方に色濃く影響を与えているというものです。トッドによれば、日本やドイツ、韓国などは「直系家族」、あるいは「権威主義家族」という家族システムです。お父さんが偉くて、兄弟姉妹が不平等。父親の権威の程度は、国や地域によってまったく異なります。また、遺産相続のルールも、平等な地域と不平等な地域があります。直系家族の場合、たいてい長子相続です。兄弟姉妹は不平等なんですね。工藤 それは面白い。知らず知らずのうちに…苫野 いまの日本では核家族化が進み、お父さんの地位も下がっているかもしれないですが、日本の一般的な農民は「直系家族」の中で何百年も生活してきました。で、トッドによれば、この家族システムに基づく価値観は、知らず知らずのうちに近代社会の設計思想にもなっているんですね。photo by gettyimages 近代化とは、一般大衆が主役になる時代。だからその社会システムには、それまでの大多数の人々の価値観が色濃く反映されることになるわけです。日本は近代化に際して、天皇を中心に国家を形成しました。まさに「お父さんは偉い」なわけです。また、表向きは「四民平等」が唱えられましたが、現実には、アイヌ民族や沖縄、在日朝鮮人などを差別する不平等が当然のように続きました。大日本帝国においては、朝鮮や台湾、ビルマの人たちを日本人化し、でも同じ日本人としては扱いませんでした。「人間って不平等だよね」という感覚を、日本人は無意識の底では持っているというわけです。工藤 なるほど。苫野 しかも社会システムは惰性を持つので、いったん走りだすとなかなか変わりません。家族のあり方が時代とともに少しずつ変わっても、文化の底に根付いた価値観はそう簡単に変わらないと、トッドは明らかにしています。「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっている工藤 日本は議員や大臣でさえも世襲のような感じですからね。他にはどんな家族システムがあるんですか?苫野 たとえば、フランス北部の家族システムは「平等主義的核家族」と呼ばれます。お父さんは全然偉くないし、兄弟姉妹も完全に平等。そんな家族システムからでてきたのが、フランス革命の合言葉である「自由・平等・博愛」だったとトッドは言っています。工藤 ああ、では、もともと平等意識が高いわけですか。 苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。自分の日常の言動が最も大事苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。苫野 わかってもらえた実感はありましたか? 工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
苫野 儒教の影響もあると思うんですが、私がよく引き合いにだすのは、エマニュエル・トッドという人類学・歴史学者による「家族システム論」です。この理論をひとことで言えば、それぞれの国や地域で何百年も続いてきた家族のあり方が、私たちのイデオロギー、つまり物の考え方に色濃く影響を与えているというものです。
トッドによれば、日本やドイツ、韓国などは「直系家族」、あるいは「権威主義家族」という家族システムです。お父さんが偉くて、兄弟姉妹が不平等。父親の権威の程度は、国や地域によってまったく異なります。また、遺産相続のルールも、平等な地域と不平等な地域があります。直系家族の場合、たいてい長子相続です。兄弟姉妹は不平等なんですね。
工藤 それは面白い。
苫野 いまの日本では核家族化が進み、お父さんの地位も下がっているかもしれないですが、日本の一般的な農民は「直系家族」の中で何百年も生活してきました。で、トッドによれば、この家族システムに基づく価値観は、知らず知らずのうちに近代社会の設計思想にもなっているんですね。
photo by gettyimages
近代化とは、一般大衆が主役になる時代。だからその社会システムには、それまでの大多数の人々の価値観が色濃く反映されることになるわけです。日本は近代化に際して、天皇を中心に国家を形成しました。まさに「お父さんは偉い」なわけです。また、表向きは「四民平等」が唱えられましたが、現実には、アイヌ民族や沖縄、在日朝鮮人などを差別する不平等が当然のように続きました。大日本帝国においては、朝鮮や台湾、ビルマの人たちを日本人化し、でも同じ日本人としては扱いませんでした。「人間って不平等だよね」という感覚を、日本人は無意識の底では持っているというわけです。工藤 なるほど。苫野 しかも社会システムは惰性を持つので、いったん走りだすとなかなか変わりません。家族のあり方が時代とともに少しずつ変わっても、文化の底に根付いた価値観はそう簡単に変わらないと、トッドは明らかにしています。「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっている工藤 日本は議員や大臣でさえも世襲のような感じですからね。他にはどんな家族システムがあるんですか?苫野 たとえば、フランス北部の家族システムは「平等主義的核家族」と呼ばれます。お父さんは全然偉くないし、兄弟姉妹も完全に平等。そんな家族システムからでてきたのが、フランス革命の合言葉である「自由・平等・博愛」だったとトッドは言っています。工藤 ああ、では、もともと平等意識が高いわけですか。 苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。自分の日常の言動が最も大事苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。苫野 わかってもらえた実感はありましたか? 工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
近代化とは、一般大衆が主役になる時代。だからその社会システムには、それまでの大多数の人々の価値観が色濃く反映されることになるわけです。日本は近代化に際して、天皇を中心に国家を形成しました。まさに「お父さんは偉い」なわけです。
また、表向きは「四民平等」が唱えられましたが、現実には、アイヌ民族や沖縄、在日朝鮮人などを差別する不平等が当然のように続きました。大日本帝国においては、朝鮮や台湾、ビルマの人たちを日本人化し、でも同じ日本人としては扱いませんでした。「人間って不平等だよね」という感覚を、日本人は無意識の底では持っているというわけです。
工藤 なるほど。
苫野 しかも社会システムは惰性を持つので、いったん走りだすとなかなか変わりません。家族のあり方が時代とともに少しずつ変わっても、文化の底に根付いた価値観はそう簡単に変わらないと、トッドは明らかにしています。
工藤 日本は議員や大臣でさえも世襲のような感じですからね。他にはどんな家族システムがあるんですか?
苫野 たとえば、フランス北部の家族システムは「平等主義的核家族」と呼ばれます。お父さんは全然偉くないし、兄弟姉妹も完全に平等。そんな家族システムからでてきたのが、フランス革命の合言葉である「自由・平等・博愛」だったとトッドは言っています。
工藤 ああ、では、もともと平等意識が高いわけですか。
苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。自分の日常の言動が最も大事苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。苫野 わかってもらえた実感はありましたか? 工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
苫野 それが何百年も続いた家族システムの価値観というわけですね。ちなみに、イングランドやアメリカのアングロ・サクソンは「絶対核家族」と呼ばれ、お父さんは偉くないんですけど、兄弟姉妹の平等には無関心な家族システムです。自由は尊重するけど、平等は重視しないので、たとえば人種差別などが続いたりしてしまうのだそうです。
ロシアや中国などは「外婚制共同体家族」という大家族、アラブ世界は、イトコ婚の多い「内婚制共同体家族」という大家族です。トッドは、最近の研究では世界の家族システムを全部で15類型挙げています。家族のあり方って、改めて見てみると驚くほど多様なんですね。それに応じて人々の考え方が異なるのも、かなり納得です。そんなわけで、日本はもともと権威や規律に従うことをわりと自然なことと考える傾向があるみたいなんですね。権威的に振る舞う先生がいまだに絶えないひとつの理由かもしれません。
工藤 うーん、なるほど。僕も荒れている学校を経験しているので規律がもたらす効果はわかります。一時期、体育会系の教員から号令のかけ方を学んだこともありますからね。だから統制や規律がまったく無駄だとは言わないんですけど、そこにこだわりすぎる学校があまりに多い。
苫野 行進のときに使う「ぜんた~い、止まれ!」の「ぜんたい」は、軍隊における「全隊」のことだそうです。学校で軍事訓練をしていたときの名残ですね。
工藤 本当にそうなんです。小学校でも中学校でも一番幅を利かせているのは体育系の教師ということもよくある話です。中学校の校長もある特定の体育系の大学出身者が多いですからね。生徒が荒れることを恐れている学校においては「生徒を掌握したもの勝ち」みたいになっているんですね。
苫野 工藤さんの場合、暴力的な教員がいたらどう対応されるんですか?
工藤 民主主義の文脈で説得することが多いですね。さすがにいまは手をだす教員はほとんどいないですけど、人権的に問題のある暴言を吐く教員にはこう説明します。「生徒を殴ったり、暴言を吐いたりすることは民主主義に『クソくらえ』と言っているのと同じですからね」って。「人の意志や人権を侵害する暴力行為に一切頼らず、平和方』を子どもたちに教えるのが教員の使命なのに、その作業をすっ飛ばして暴力に頼るなんて言語道断ですからね」って。
教員にも言いますし、教育委員会で指導課長をしていたときは区内の全校長に言っていました。
苫野 わかってもらえた実感はありましたか?
工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。4月1日に伝えること工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。 しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
工藤丁寧に説明していけば、そこそこわかってもらえるものですよ。学校教育法という法律でそもそも体罰が禁止されているのに体罰を行うということは、「子どもたちに法律より大事なものがある」と伝えているようなものです。
つまり「民主主義を否定しろ」と。「外国には条件付きで体罰が許されている国もあるが日本は違いますよ」と。そういう教員は体罰と民主主義を結びつけて考えたことがない人たちだから、「ああ、なるほど……」という顔をします。
教員への伝え方についてはタイミングも大事なんです。
工藤 もちろん教員が大問題を起こしていたらガツンと言うなり、処分を下さないといけないのは当然ですが、そうしたことが起こらないよう、赴任当初、できれば4月1日に伝えることは非常に大切です。
しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。苫野 なるほど。工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。
しかし、教員との間に信頼関係がないときにありきたりのことを言っても伝わらない教員もいます。人はそう簡単に変わらないというのが僕の持論です。基本的にはあらゆる場面でわかる言葉を探しながら繰り返し、僕の考え方を少しずつ知ってもらいます。
たとえわかり得ない教員がいても、最低でも抑止力になるようにです。最も大切にしているのは、僕自身の日常の言動。地道な活動です。するとたとえ根深い風土があっても、人権的に問題のある発言を学校から一掃するタイミングというのが必ずやってくるものなんです。
苫野 なるほど。
工藤1年くらいはかかりますけど、「言うならいましかない」とわかるときがくる。そのときばかりは僕もトップダウン型に切り替えて「君たちが納得しようとしまいとこの学校で人権侵害は絶対に許さない」って強くいきます。するとやっぱりそれなりの大きな変化がありますよ。
さらに連載記事『「素晴らしい先生」がいる学年ほど、なぜか「学級崩壊」が起きる…!学校で「いじめ」や「学級崩壊」が起きる“意外すぎるワケ”と“現場で起きている本当のこと”』では、今学校で起きている“本当のこと”をレポートします。

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