《意外な事実》家に食べ物がなく着物を売ってしのいだ時期も…徳川家19代目当主が明かした「明治維新後の困窮事情」

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政治経済評論家で翻訳家の徳川家広氏(58)は、あの徳川家康の子孫だ。2023年1月、徳川宗家19代当主を継ぎ、東京・港区の増上寺で「継宗の儀」が行われた。次期当主として、彼はどんな人生を歩んできたのか? 現代を生きる“上様”に、意外なお家事情を聞かせてもらった。(全2回の1回目/後編を読む)
《写真多数》美少女&美少年になってしまった「徳川家康」
今年1月に徳川宗家19代当主を継いだ徳川家広氏。由緒ある家柄の氏は、いったいどんな人生を送ってきたのだろうか? 文藝春秋
◆◆◆
――徳川宗家の代替わりは、実に60年ぶりのことらしいですね。
徳川家広(以下、家広) はい。18代当主である父が高齢のため、今年の1月1日をもって代替わりしました。2021年からは、父が創設した「徳川記念財団」の理事長も務めています。
――徳川宗家の当主とは、具体的にどんなことをする立場なんでしょうか?
家広 徳川家に限らず戦前の華族というものは、財産をまるまる引き継ぐ権利と義務があり、帝国議会の貴族院に議席が与えられ、その代わり結婚については国家の干渉を受けることになっていました。現代では、ここまでややこしくありませんが、まったく普通というわけでもない。
何か挙げるとすれば、東照宮の祭事・神事で司祭を担当することでしょうか。それが徳川宗家の当主として一番重要な務めだと言えます。あと今は「代替わりしましたよ」ということで、お寺への挨拶まわりもしています。徳川家にゆかりのあるお寺は全国にあるので、ちょっと大変ではありますね。
それと「徳川記念財団」の理事長として、徳川宗家に伝来した歴史資料や文化財の保存・修復・研究・公開も行っています。なので最近は自分の本業である文筆業が全然できていません(笑)。
――徳川宗家19代継承記念のお菓子の監修も担当されたとか。
家広 にしき堂の「楓果(ふうのか)」ですね。パッケージのデザインから味まで、非常に良い仕上がりです。
――やはり徳川宗家当主はやることが多い……! 代替わりにともなう「継宗の儀」は非公開でしたが、どんなことをしたんですか?家広 お経をあげていただいたり、ほかにはお香の奉納などを行いました。香道の二大流派である御家流と志野流に一緒にお香を焚いていただき、天と地を繋ぐ。続いて、当主の証となる品の受け渡しをして、過去と現在を繋ぎました。全部で大体1時間ほどだったでしょうか。江戸火消しの皆さまによるはしご乗りなどの特別演舞もありました。――代替わりが60年ぶりということは、「継宗の儀」も60年ぶりですか?家広 17、18代当主は先代が亡くなって継いだので、式典はなかったんですよ。そして16代は明治維新でそれどころではなかった。なので実は「継宗の儀」がこういう形で行われるのは今回が初めてなんです。――じゃあ何をどうやるか、どのように決めたんですか?家広 それぞれの立場の人の「なんとなくこういう感じじゃないか」というイメージを持ち寄ってみると、結構しっくり来ました。ちゃんと記録をとったので、これからの「継宗の儀」は今回のものをひな形に行われることでしょう。戦中・戦後はひもじい思いをした徳川家――小さな頃から、「いずれ徳川宗家を継ぐ存在」として教育を受けるのでしょうか?家広 日本では多くの場合、長子が家を継ぎ、先祖代々のお墓を管理したりする立場になります。でも長子だからといって子どもが小さな頃から「あなたは〇〇家を継ぐ存在なんだ」とわざわざ言い聞かせたりはしませんよね。それは徳川家にかぎらず、ほとんどのお家で同じことだと思います。――では、徳川家ならではのしつけのようなものはあまりない?家広 特には、ありませんでした。ただ一つ強烈にしつけられたことがありましたが、それは解説が必要と思います。 祖父の松平一郎は銀行マンで、戦時中はシンガポールに赴任し、大東亜共栄圏の為替の業務を担当していました。海外勤務で単身赴任だったわけですが、日本に残された妻子は社内の配給網から外されてしまい、家には食べ物がありませんでした。着物を売って、なんとか生活していたと聞いています。 祖母の松平豊子は17代当主・家正の長女でしたが、あくまでよそに嫁いだ身なので「実家の敷居をまたいではいけない」と言われ、徳川家を頼れなかったのでしょう。だから父は子どもの頃にひもじい思いをしたそうで、私が食べ物を残すと、「好き嫌いするな」と叱られたものです。まぁ昭和のよくある家庭の風景ですよね。――千駄ヶ谷の東京体育館のあるところが全部、昔は徳川邸だったと聞きました。家広 江戸時代のまま将軍家が続いているような豪華さの裏で、すごく質素で地味な生活を過ごしていたらしいです。17代当主・家正の三女である保科順子さんが毎日新聞社から『花葵―徳川邸おもいで話』という本を出しているんですが、帯に書かれたコピーは「広大な邸の、質素な暮らし」というものでした(笑)。ベトナム出身の妻は日々驚き――家広さんは幼少期を米ニューヨークで過ごし、おじいさんはシンガポールで銀行マンをしていたそうで、「意外とグローバルなお家なんだ!」と驚きました。家広 徳川家康は中国の進んだ文化を取り入れようと、漢文の古典を活版印刷したりしていました。印刷が必要な漢文を読める人口がおらず、あまり盛り上がらずに終わったらしいですが(笑)、現代で例えるならば、社内公用語を英語にするような思い切った動きです。だから徳川家は最初からグローバルなんですよ。――奥様はベトナム出身で、結婚を決意したときはご家族の猛反対があったと聞きました。家広 猛反対というほどではなく、実際は「びっくりされた」くらいでしたよ。国際結婚となると、どんなお家でも家族はまず驚くものだと思います。両親も妻に会ったら、「いい子だね」と納得してくれました。――奥様は、「自分の夫は特殊な家の生まれらしい」というのをどのタイミングで知ったんでしょうか?家広 知るというか、理解する、でしょうか。ただ、説明はわりと大雑把だったので。妻は日々衝撃を受けているらしく、私は叱られっぱなしです(笑)。 私自身も儀式には少々後ろ向きではありました。関係者の皆さまをまとめてお呼びして代替わりのご挨拶をしようとしたら、なんだか大事になってしまったというのが正直なところです。服装はスーツでいいかと思っていたら、気づけば衣冠束帯という話になりかけ、それも変だというので、現代日本で最高の礼装であるモーニングの着用となりました。 ニュースに取り上げられるというのも、てっきりローカルニュースのつもりでいたら全国版で驚きました。『どうする家康』が放送され家康ブームなんて言われている最中に当主を継いだので、私自身も右往左往しています。――まさに「どうする家広」ですね。家広 そうそう、そうなんです(笑)。令和川チャンネル(川記念財団公式)「家康を美少女化したコンテンツ、どう思う?」「なぜそんなことを…」徳川家19代目当主に“答えにくい質問”を聞いてみた へ続く(原田イチボ@HEW)
――やはり徳川宗家当主はやることが多い……! 代替わりにともなう「継宗の儀」は非公開でしたが、どんなことをしたんですか?
家広 お経をあげていただいたり、ほかにはお香の奉納などを行いました。香道の二大流派である御家流と志野流に一緒にお香を焚いていただき、天と地を繋ぐ。続いて、当主の証となる品の受け渡しをして、過去と現在を繋ぎました。全部で大体1時間ほどだったでしょうか。江戸火消しの皆さまによるはしご乗りなどの特別演舞もありました。
――代替わりが60年ぶりということは、「継宗の儀」も60年ぶりですか?
家広 17、18代当主は先代が亡くなって継いだので、式典はなかったんですよ。そして16代は明治維新でそれどころではなかった。なので実は「継宗の儀」がこういう形で行われるのは今回が初めてなんです。
――じゃあ何をどうやるか、どのように決めたんですか?
家広 それぞれの立場の人の「なんとなくこういう感じじゃないか」というイメージを持ち寄ってみると、結構しっくり来ました。ちゃんと記録をとったので、これからの「継宗の儀」は今回のものをひな形に行われることでしょう。
――小さな頃から、「いずれ徳川宗家を継ぐ存在」として教育を受けるのでしょうか?
家広 日本では多くの場合、長子が家を継ぎ、先祖代々のお墓を管理したりする立場になります。でも長子だからといって子どもが小さな頃から「あなたは〇〇家を継ぐ存在なんだ」とわざわざ言い聞かせたりはしませんよね。それは徳川家にかぎらず、ほとんどのお家で同じことだと思います。
――では、徳川家ならではのしつけのようなものはあまりない?家広 特には、ありませんでした。ただ一つ強烈にしつけられたことがありましたが、それは解説が必要と思います。 祖父の松平一郎は銀行マンで、戦時中はシンガポールに赴任し、大東亜共栄圏の為替の業務を担当していました。海外勤務で単身赴任だったわけですが、日本に残された妻子は社内の配給網から外されてしまい、家には食べ物がありませんでした。着物を売って、なんとか生活していたと聞いています。 祖母の松平豊子は17代当主・家正の長女でしたが、あくまでよそに嫁いだ身なので「実家の敷居をまたいではいけない」と言われ、徳川家を頼れなかったのでしょう。だから父は子どもの頃にひもじい思いをしたそうで、私が食べ物を残すと、「好き嫌いするな」と叱られたものです。まぁ昭和のよくある家庭の風景ですよね。――千駄ヶ谷の東京体育館のあるところが全部、昔は徳川邸だったと聞きました。家広 江戸時代のまま将軍家が続いているような豪華さの裏で、すごく質素で地味な生活を過ごしていたらしいです。17代当主・家正の三女である保科順子さんが毎日新聞社から『花葵―徳川邸おもいで話』という本を出しているんですが、帯に書かれたコピーは「広大な邸の、質素な暮らし」というものでした(笑)。ベトナム出身の妻は日々驚き――家広さんは幼少期を米ニューヨークで過ごし、おじいさんはシンガポールで銀行マンをしていたそうで、「意外とグローバルなお家なんだ!」と驚きました。家広 徳川家康は中国の進んだ文化を取り入れようと、漢文の古典を活版印刷したりしていました。印刷が必要な漢文を読める人口がおらず、あまり盛り上がらずに終わったらしいですが(笑)、現代で例えるならば、社内公用語を英語にするような思い切った動きです。だから徳川家は最初からグローバルなんですよ。――奥様はベトナム出身で、結婚を決意したときはご家族の猛反対があったと聞きました。家広 猛反対というほどではなく、実際は「びっくりされた」くらいでしたよ。国際結婚となると、どんなお家でも家族はまず驚くものだと思います。両親も妻に会ったら、「いい子だね」と納得してくれました。――奥様は、「自分の夫は特殊な家の生まれらしい」というのをどのタイミングで知ったんでしょうか?家広 知るというか、理解する、でしょうか。ただ、説明はわりと大雑把だったので。妻は日々衝撃を受けているらしく、私は叱られっぱなしです(笑)。 私自身も儀式には少々後ろ向きではありました。関係者の皆さまをまとめてお呼びして代替わりのご挨拶をしようとしたら、なんだか大事になってしまったというのが正直なところです。服装はスーツでいいかと思っていたら、気づけば衣冠束帯という話になりかけ、それも変だというので、現代日本で最高の礼装であるモーニングの着用となりました。 ニュースに取り上げられるというのも、てっきりローカルニュースのつもりでいたら全国版で驚きました。『どうする家康』が放送され家康ブームなんて言われている最中に当主を継いだので、私自身も右往左往しています。――まさに「どうする家広」ですね。家広 そうそう、そうなんです(笑)。令和川チャンネル(川記念財団公式)「家康を美少女化したコンテンツ、どう思う?」「なぜそんなことを…」徳川家19代目当主に“答えにくい質問”を聞いてみた へ続く(原田イチボ@HEW)
――では、徳川家ならではのしつけのようなものはあまりない?
家広 特には、ありませんでした。ただ一つ強烈にしつけられたことがありましたが、それは解説が必要と思います。
祖父の松平一郎は銀行マンで、戦時中はシンガポールに赴任し、大東亜共栄圏の為替の業務を担当していました。海外勤務で単身赴任だったわけですが、日本に残された妻子は社内の配給網から外されてしまい、家には食べ物がありませんでした。着物を売って、なんとか生活していたと聞いています。
祖母の松平豊子は17代当主・家正の長女でしたが、あくまでよそに嫁いだ身なので「実家の敷居をまたいではいけない」と言われ、徳川家を頼れなかったのでしょう。だから父は子どもの頃にひもじい思いをしたそうで、私が食べ物を残すと、「好き嫌いするな」と叱られたものです。まぁ昭和のよくある家庭の風景ですよね。
――千駄ヶ谷の東京体育館のあるところが全部、昔は徳川邸だったと聞きました。家広 江戸時代のまま将軍家が続いているような豪華さの裏で、すごく質素で地味な生活を過ごしていたらしいです。17代当主・家正の三女である保科順子さんが毎日新聞社から『花葵―徳川邸おもいで話』という本を出しているんですが、帯に書かれたコピーは「広大な邸の、質素な暮らし」というものでした(笑)。ベトナム出身の妻は日々驚き――家広さんは幼少期を米ニューヨークで過ごし、おじいさんはシンガポールで銀行マンをしていたそうで、「意外とグローバルなお家なんだ!」と驚きました。家広 徳川家康は中国の進んだ文化を取り入れようと、漢文の古典を活版印刷したりしていました。印刷が必要な漢文を読める人口がおらず、あまり盛り上がらずに終わったらしいですが(笑)、現代で例えるならば、社内公用語を英語にするような思い切った動きです。だから徳川家は最初からグローバルなんですよ。――奥様はベトナム出身で、結婚を決意したときはご家族の猛反対があったと聞きました。家広 猛反対というほどではなく、実際は「びっくりされた」くらいでしたよ。国際結婚となると、どんなお家でも家族はまず驚くものだと思います。両親も妻に会ったら、「いい子だね」と納得してくれました。――奥様は、「自分の夫は特殊な家の生まれらしい」というのをどのタイミングで知ったんでしょうか?家広 知るというか、理解する、でしょうか。ただ、説明はわりと大雑把だったので。妻は日々衝撃を受けているらしく、私は叱られっぱなしです(笑)。 私自身も儀式には少々後ろ向きではありました。関係者の皆さまをまとめてお呼びして代替わりのご挨拶をしようとしたら、なんだか大事になってしまったというのが正直なところです。服装はスーツでいいかと思っていたら、気づけば衣冠束帯という話になりかけ、それも変だというので、現代日本で最高の礼装であるモーニングの着用となりました。 ニュースに取り上げられるというのも、てっきりローカルニュースのつもりでいたら全国版で驚きました。『どうする家康』が放送され家康ブームなんて言われている最中に当主を継いだので、私自身も右往左往しています。――まさに「どうする家広」ですね。家広 そうそう、そうなんです(笑)。令和川チャンネル(川記念財団公式)「家康を美少女化したコンテンツ、どう思う?」「なぜそんなことを…」徳川家19代目当主に“答えにくい質問”を聞いてみた へ続く(原田イチボ@HEW)
――千駄ヶ谷の東京体育館のあるところが全部、昔は徳川邸だったと聞きました。
家広 江戸時代のまま将軍家が続いているような豪華さの裏で、すごく質素で地味な生活を過ごしていたらしいです。17代当主・家正の三女である保科順子さんが毎日新聞社から『花葵―徳川邸おもいで話』という本を出しているんですが、帯に書かれたコピーは「広大な邸の、質素な暮らし」というものでした(笑)。
――家広さんは幼少期を米ニューヨークで過ごし、おじいさんはシンガポールで銀行マンをしていたそうで、「意外とグローバルなお家なんだ!」と驚きました。
家広 徳川家康は中国の進んだ文化を取り入れようと、漢文の古典を活版印刷したりしていました。印刷が必要な漢文を読める人口がおらず、あまり盛り上がらずに終わったらしいですが(笑)、現代で例えるならば、社内公用語を英語にするような思い切った動きです。だから徳川家は最初からグローバルなんですよ。
――奥様はベトナム出身で、結婚を決意したときはご家族の猛反対があったと聞きました。
家広 猛反対というほどではなく、実際は「びっくりされた」くらいでしたよ。国際結婚となると、どんなお家でも家族はまず驚くものだと思います。両親も妻に会ったら、「いい子だね」と納得してくれました。
――奥様は、「自分の夫は特殊な家の生まれらしい」というのをどのタイミングで知ったんでしょうか?
家広 知るというか、理解する、でしょうか。ただ、説明はわりと大雑把だったので。妻は日々衝撃を受けているらしく、私は叱られっぱなしです(笑)。
私自身も儀式には少々後ろ向きではありました。関係者の皆さまをまとめてお呼びして代替わりのご挨拶をしようとしたら、なんだか大事になってしまったというのが正直なところです。服装はスーツでいいかと思っていたら、気づけば衣冠束帯という話になりかけ、それも変だというので、現代日本で最高の礼装であるモーニングの着用となりました。
ニュースに取り上げられるというのも、てっきりローカルニュースのつもりでいたら全国版で驚きました。『どうする家康』が放送され家康ブームなんて言われている最中に当主を継いだので、私自身も右往左往しています。
――まさに「どうする家広」ですね。
家広 そうそう、そうなんです(笑)。
令和川チャンネル(川記念財団公式)
「家康を美少女化したコンテンツ、どう思う?」「なぜそんなことを…」徳川家19代目当主に“答えにくい質問”を聞いてみた へ続く
(原田イチボ@HEW)

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