「みんな国旗を出しなさい」国葬は“大日本帝国の遺物”か 55年前の“国葬”現場では何が【報道特集】

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前回、国葬が行われたのは55年前。その時、現場では何が起きていたのか、当時を知る人に聞きました。また、国葬に詳しい大学教授は「大日本帝国の遺物」と批判します。その理由を聞きました。【写真を見る】「みんな国旗を出しなさい」国葬は“大日本帝国の遺物”か 55年前の“国葬”現場では何が【報道特集】■見出しは『うなだれる小中学生』 55年前の“国葬”弔問した小学生は今前回の国葬は、55年前の1967年(昭和42年)。吉田茂元総理が死去した時だ。佐藤栄作内閣の閣議決定を経て行われた。吉田邸があった神奈川県・大磯町では何が起きていたのか。当時を知る人は…

膳場貴子キャスター「どの程度、覚えていらっしゃいますか?」当時小学生だった 相田かよ子さん「当時は小学校の6年生で、児童会の代表で何人かで弔問に行ったんですよ。なんかすごく偉い人が亡くなったということは、子供心に分かった」死去の翌日、地元の小学生が吉田邸を弔問し、棺に花を手向けたり黙祷したりした様子が記事になっていた。見出しは、『うなだれる小中学生』。相田さん「この記事の中にいると思います。校長先生と一緒に行ったんですよね」さらに国葬当日、住民が撮影した吉田邸前の写真には、遺骨を乗せた車列の脇に立つ地元の小学生の姿が映っていた。膳場キャスター「道路に並んで見送る時の気持ちとか覚えていますか?」相田さん「頭を下げるタイミングがいつがいいのかとか考えていました。ちゃんとお見送りしないといけないという気持ちが子供心にもあった」■当時の国葬も反対の声あがる中…出された「国民各位へのお願い」実は、当時も国葬には反対の声があった。共産党が国に出した「抗議」と題された文書。日本共産党の抗議文「国葬を行う意図は個人の死に対する追悼の感情を利用し、戦後の自民党政治全体を美化」一方、国は国葬の記録を冊子にまとめている。題字は佐藤栄作元総理によって書かれたものだ。国葬に批判があったことには触れられていないが、式壇の生花飾りに5万本、献花に3万本という大量の菊が使われたことで一時的に菊の値段が上がったことまで記されていた。いまも大きな争点となっている“弔意の表明”については、『国民各位へのお願い』として…「午後2時10分、サイレンの吹鳴等で、それぞれの場所で1分間の黙祷をされることを期待します。各官庁においては弔旗を掲揚し、歌舞、音楽をともなう行事はさしひかえますので、これに準ずるように期待します」こうした“お願い”に応えてか、東京・赤坂のナイトクラブでは営業が取り止めに。大磯町に隣接する平塚競輪場でも弔旗が掲げられ、国葬当日のレースは全て中止になったという。■「みんな国旗を出しなさい」世帯ごと弔旗掲揚 銀座では“異なる”風景一方、住民にはどう受け止められていたのか。写真に写った吉田邸近くで理容店を営む吉川圭子さん。当時も同じ場所にいて、沿道に並んだという。吉川圭子さん「ずっとここ(道路)に立っていた。この辺で。うちは貧しくて国旗が無かった。それでも買ってきたのを覚えている。この日のために」膳場キャスター「国旗はなぜ買ったんですか?」吉川さん「国旗を揚げるって。『みんな国旗を出しなさい』と言われた」膳場キャスター「それでわざわざ購入も?」吉川さん「購入しましたよ。本当に1回しか立てないのに」膳場キャスター「それでもみんな『えー』という空気は?」吉川さん「なかった。当たり前だった」国葬当日の写真には、その日の丸がしっかりと映っていた。大磯町内では、世帯ごとに弔旗が掲揚されたという。しかし、吉田邸から離れた東京・銀座では、全く異なる風景が。黙祷の時刻、午後2時10分に黙祷したのは、警察官だけ。周りの人々はその様子を見つめていた。■「国葬は大日本帝国の遺物」専門家語る 国葬の“機能”と“危惧”とは世論が割れる安倍元総理の国葬問題。そもそも国葬とは、どういうものだったのか。国葬に詳しい宮間教授は、こう語る。中央大学文学部(日本史学) 宮間純一教授「天皇国家のために尽くした、いわゆる功労のある人、この人を天皇と国民が共同して悼もうと、その人がいかに偉大な人物であったのかっていうことを褒め称えようという、そういう場として機能してきたのが国葬だと思います。結果的にこれは国民を統合していく、国家というまとまりを強固にしていくという機能を持ってきました」国葬は、大久保利通の葬儀を原型とし、1883年、岩倉具視の葬儀で確立したとされる。中でも国民統合の機能が最も色濃く表れたのが、1943年に行われた大日本帝国憲法下で最後となる、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬だ。宮間教授「山本の遺志をみんなで継承して、この戦争を完遂するんだっていうことが、その国葬の場で訴えられていくわけです。戦争動員のために利用されたこともある儀式だということを表している。そこで、いや私は戦争に協力したくないってことは言えないわけですよね。態度としてそういうことを表明できなくさせるっていう機能はあった。それが大事な点かなと思います。国葬というのは、大日本帝国の遺物というふうに理解していて、現代の世の中にそのままよみがえらせていいものではないと考えています」吉田元総理の国葬では、当時の佐藤内閣が民間にも要望した弔意の表明。今回、岸田総理は国民に強制しない、としている。しかし…宮間教授「国葬は、国民が望んで行うということですから、基本的に国民が弔意を持っていないとできないんですね。何も民間に求めないというなら、まず国葬じゃないだろうと。私たち国民が弔意を示して初めて国葬は成立するので、そんなこと何もしなくていい、無関係で良いというなかで行われるのは、国葬ではない」「国葬で評価される人物に対する反対意見、批判意見を抑圧するような機能を基本的に備えていたという意味で、民主主義的なものと言えない」そして、歴史家の一人として、今回の国葬が将来に及ぼしかねない影響を重く考える。宮間教授「国葬のようなものを好きなように政治が使える形で、またここで前例を作っちゃう。未来の私たちの子供、孫たちのときに何かまずい形で機能してしまうことがあるんじゃないかということを危惧しています」
前回、国葬が行われたのは55年前。その時、現場では何が起きていたのか、当時を知る人に聞きました。また、国葬に詳しい大学教授は「大日本帝国の遺物」と批判します。その理由を聞きました。
【写真を見る】「みんな国旗を出しなさい」国葬は“大日本帝国の遺物”か 55年前の“国葬”現場では何が【報道特集】■見出しは『うなだれる小中学生』 55年前の“国葬”弔問した小学生は今前回の国葬は、55年前の1967年(昭和42年)。吉田茂元総理が死去した時だ。佐藤栄作内閣の閣議決定を経て行われた。吉田邸があった神奈川県・大磯町では何が起きていたのか。当時を知る人は…

膳場貴子キャスター「どの程度、覚えていらっしゃいますか?」当時小学生だった 相田かよ子さん「当時は小学校の6年生で、児童会の代表で何人かで弔問に行ったんですよ。なんかすごく偉い人が亡くなったということは、子供心に分かった」死去の翌日、地元の小学生が吉田邸を弔問し、棺に花を手向けたり黙祷したりした様子が記事になっていた。見出しは、『うなだれる小中学生』。相田さん「この記事の中にいると思います。校長先生と一緒に行ったんですよね」さらに国葬当日、住民が撮影した吉田邸前の写真には、遺骨を乗せた車列の脇に立つ地元の小学生の姿が映っていた。膳場キャスター「道路に並んで見送る時の気持ちとか覚えていますか?」相田さん「頭を下げるタイミングがいつがいいのかとか考えていました。ちゃんとお見送りしないといけないという気持ちが子供心にもあった」■当時の国葬も反対の声あがる中…出された「国民各位へのお願い」実は、当時も国葬には反対の声があった。共産党が国に出した「抗議」と題された文書。日本共産党の抗議文「国葬を行う意図は個人の死に対する追悼の感情を利用し、戦後の自民党政治全体を美化」一方、国は国葬の記録を冊子にまとめている。題字は佐藤栄作元総理によって書かれたものだ。国葬に批判があったことには触れられていないが、式壇の生花飾りに5万本、献花に3万本という大量の菊が使われたことで一時的に菊の値段が上がったことまで記されていた。いまも大きな争点となっている“弔意の表明”については、『国民各位へのお願い』として…「午後2時10分、サイレンの吹鳴等で、それぞれの場所で1分間の黙祷をされることを期待します。各官庁においては弔旗を掲揚し、歌舞、音楽をともなう行事はさしひかえますので、これに準ずるように期待します」こうした“お願い”に応えてか、東京・赤坂のナイトクラブでは営業が取り止めに。大磯町に隣接する平塚競輪場でも弔旗が掲げられ、国葬当日のレースは全て中止になったという。■「みんな国旗を出しなさい」世帯ごと弔旗掲揚 銀座では“異なる”風景一方、住民にはどう受け止められていたのか。写真に写った吉田邸近くで理容店を営む吉川圭子さん。当時も同じ場所にいて、沿道に並んだという。吉川圭子さん「ずっとここ(道路)に立っていた。この辺で。うちは貧しくて国旗が無かった。それでも買ってきたのを覚えている。この日のために」膳場キャスター「国旗はなぜ買ったんですか?」吉川さん「国旗を揚げるって。『みんな国旗を出しなさい』と言われた」膳場キャスター「それでわざわざ購入も?」吉川さん「購入しましたよ。本当に1回しか立てないのに」膳場キャスター「それでもみんな『えー』という空気は?」吉川さん「なかった。当たり前だった」国葬当日の写真には、その日の丸がしっかりと映っていた。大磯町内では、世帯ごとに弔旗が掲揚されたという。しかし、吉田邸から離れた東京・銀座では、全く異なる風景が。黙祷の時刻、午後2時10分に黙祷したのは、警察官だけ。周りの人々はその様子を見つめていた。■「国葬は大日本帝国の遺物」専門家語る 国葬の“機能”と“危惧”とは世論が割れる安倍元総理の国葬問題。そもそも国葬とは、どういうものだったのか。国葬に詳しい宮間教授は、こう語る。中央大学文学部(日本史学) 宮間純一教授「天皇国家のために尽くした、いわゆる功労のある人、この人を天皇と国民が共同して悼もうと、その人がいかに偉大な人物であったのかっていうことを褒め称えようという、そういう場として機能してきたのが国葬だと思います。結果的にこれは国民を統合していく、国家というまとまりを強固にしていくという機能を持ってきました」国葬は、大久保利通の葬儀を原型とし、1883年、岩倉具視の葬儀で確立したとされる。中でも国民統合の機能が最も色濃く表れたのが、1943年に行われた大日本帝国憲法下で最後となる、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬だ。宮間教授「山本の遺志をみんなで継承して、この戦争を完遂するんだっていうことが、その国葬の場で訴えられていくわけです。戦争動員のために利用されたこともある儀式だということを表している。そこで、いや私は戦争に協力したくないってことは言えないわけですよね。態度としてそういうことを表明できなくさせるっていう機能はあった。それが大事な点かなと思います。国葬というのは、大日本帝国の遺物というふうに理解していて、現代の世の中にそのままよみがえらせていいものではないと考えています」吉田元総理の国葬では、当時の佐藤内閣が民間にも要望した弔意の表明。今回、岸田総理は国民に強制しない、としている。しかし…宮間教授「国葬は、国民が望んで行うということですから、基本的に国民が弔意を持っていないとできないんですね。何も民間に求めないというなら、まず国葬じゃないだろうと。私たち国民が弔意を示して初めて国葬は成立するので、そんなこと何もしなくていい、無関係で良いというなかで行われるのは、国葬ではない」「国葬で評価される人物に対する反対意見、批判意見を抑圧するような機能を基本的に備えていたという意味で、民主主義的なものと言えない」そして、歴史家の一人として、今回の国葬が将来に及ぼしかねない影響を重く考える。宮間教授「国葬のようなものを好きなように政治が使える形で、またここで前例を作っちゃう。未来の私たちの子供、孫たちのときに何かまずい形で機能してしまうことがあるんじゃないかということを危惧しています」
前回の国葬は、55年前の1967年(昭和42年)。吉田茂元総理が死去した時だ。佐藤栄作内閣の閣議決定を経て行われた。
吉田邸があった神奈川県・大磯町では何が起きていたのか。当時を知る人は…
膳場貴子キャスター「どの程度、覚えていらっしゃいますか?」
当時小学生だった 相田かよ子さん「当時は小学校の6年生で、児童会の代表で何人かで弔問に行ったんですよ。なんかすごく偉い人が亡くなったということは、子供心に分かった」
死去の翌日、地元の小学生が吉田邸を弔問し、棺に花を手向けたり黙祷したりした様子が記事になっていた。
見出しは、『うなだれる小中学生』。
相田さん「この記事の中にいると思います。校長先生と一緒に行ったんですよね」
さらに国葬当日、住民が撮影した吉田邸前の写真には、遺骨を乗せた車列の脇に立つ地元の小学生の姿が映っていた。
膳場キャスター「道路に並んで見送る時の気持ちとか覚えていますか?」
相田さん「頭を下げるタイミングがいつがいいのかとか考えていました。ちゃんとお見送りしないといけないという気持ちが子供心にもあった」
実は、当時も国葬には反対の声があった。共産党が国に出した「抗議」と題された文書。
日本共産党の抗議文「国葬を行う意図は個人の死に対する追悼の感情を利用し、戦後の自民党政治全体を美化」
一方、国は国葬の記録を冊子にまとめている。題字は佐藤栄作元総理によって書かれたものだ。国葬に批判があったことには触れられていないが、式壇の生花飾りに5万本、献花に3万本という大量の菊が使われたことで一時的に菊の値段が上がったことまで記されていた。
いまも大きな争点となっている“弔意の表明”については、『国民各位へのお願い』として…
「午後2時10分、サイレンの吹鳴等で、それぞれの場所で1分間の黙祷をされることを期待します。各官庁においては弔旗を掲揚し、歌舞、音楽をともなう行事はさしひかえますので、これに準ずるように期待します」
こうした“お願い”に応えてか、東京・赤坂のナイトクラブでは営業が取り止めに。大磯町に隣接する平塚競輪場でも弔旗が掲げられ、国葬当日のレースは全て中止になったという。
一方、住民にはどう受け止められていたのか。
写真に写った吉田邸近くで理容店を営む吉川圭子さん。当時も同じ場所にいて、沿道に並んだという。
吉川圭子さん「ずっとここ(道路)に立っていた。この辺で。うちは貧しくて国旗が無かった。それでも買ってきたのを覚えている。この日のために」膳場キャスター「国旗はなぜ買ったんですか?」吉川さん「国旗を揚げるって。『みんな国旗を出しなさい』と言われた」膳場キャスター「それでわざわざ購入も?」吉川さん「購入しましたよ。本当に1回しか立てないのに」膳場キャスター「それでもみんな『えー』という空気は?」吉川さん「なかった。当たり前だった」国葬当日の写真には、その日の丸がしっかりと映っていた。大磯町内では、世帯ごとに弔旗が掲揚されたという。しかし、吉田邸から離れた東京・銀座では、全く異なる風景が。黙祷の時刻、午後2時10分に黙祷したのは、警察官だけ。周りの人々はその様子を見つめていた。■「国葬は大日本帝国の遺物」専門家語る 国葬の“機能”と“危惧”とは世論が割れる安倍元総理の国葬問題。そもそも国葬とは、どういうものだったのか。国葬に詳しい宮間教授は、こう語る。中央大学文学部(日本史学) 宮間純一教授「天皇国家のために尽くした、いわゆる功労のある人、この人を天皇と国民が共同して悼もうと、その人がいかに偉大な人物であったのかっていうことを褒め称えようという、そういう場として機能してきたのが国葬だと思います。結果的にこれは国民を統合していく、国家というまとまりを強固にしていくという機能を持ってきました」国葬は、大久保利通の葬儀を原型とし、1883年、岩倉具視の葬儀で確立したとされる。中でも国民統合の機能が最も色濃く表れたのが、1943年に行われた大日本帝国憲法下で最後となる、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬だ。宮間教授「山本の遺志をみんなで継承して、この戦争を完遂するんだっていうことが、その国葬の場で訴えられていくわけです。戦争動員のために利用されたこともある儀式だということを表している。そこで、いや私は戦争に協力したくないってことは言えないわけですよね。態度としてそういうことを表明できなくさせるっていう機能はあった。それが大事な点かなと思います。国葬というのは、大日本帝国の遺物というふうに理解していて、現代の世の中にそのままよみがえらせていいものではないと考えています」吉田元総理の国葬では、当時の佐藤内閣が民間にも要望した弔意の表明。今回、岸田総理は国民に強制しない、としている。しかし…宮間教授「国葬は、国民が望んで行うということですから、基本的に国民が弔意を持っていないとできないんですね。何も民間に求めないというなら、まず国葬じゃないだろうと。私たち国民が弔意を示して初めて国葬は成立するので、そんなこと何もしなくていい、無関係で良いというなかで行われるのは、国葬ではない」「国葬で評価される人物に対する反対意見、批判意見を抑圧するような機能を基本的に備えていたという意味で、民主主義的なものと言えない」そして、歴史家の一人として、今回の国葬が将来に及ぼしかねない影響を重く考える。宮間教授「国葬のようなものを好きなように政治が使える形で、またここで前例を作っちゃう。未来の私たちの子供、孫たちのときに何かまずい形で機能してしまうことがあるんじゃないかということを危惧しています」
吉川圭子さん「ずっとここ(道路)に立っていた。この辺で。うちは貧しくて国旗が無かった。それでも買ってきたのを覚えている。この日のために」
膳場キャスター「国旗はなぜ買ったんですか?」
吉川さん「国旗を揚げるって。『みんな国旗を出しなさい』と言われた」
膳場キャスター「それでわざわざ購入も?」
吉川さん「購入しましたよ。本当に1回しか立てないのに」
膳場キャスター「それでもみんな『えー』という空気は?」
吉川さん「なかった。当たり前だった」
国葬当日の写真には、その日の丸がしっかりと映っていた。大磯町内では、世帯ごとに弔旗が掲揚されたという。
しかし、吉田邸から離れた東京・銀座では、全く異なる風景が。黙祷の時刻、午後2時10分に黙祷したのは、警察官だけ。周りの人々はその様子を見つめていた。
■「国葬は大日本帝国の遺物」専門家語る 国葬の“機能”と“危惧”とは世論が割れる安倍元総理の国葬問題。そもそも国葬とは、どういうものだったのか。国葬に詳しい宮間教授は、こう語る。中央大学文学部(日本史学) 宮間純一教授「天皇国家のために尽くした、いわゆる功労のある人、この人を天皇と国民が共同して悼もうと、その人がいかに偉大な人物であったのかっていうことを褒め称えようという、そういう場として機能してきたのが国葬だと思います。結果的にこれは国民を統合していく、国家というまとまりを強固にしていくという機能を持ってきました」国葬は、大久保利通の葬儀を原型とし、1883年、岩倉具視の葬儀で確立したとされる。中でも国民統合の機能が最も色濃く表れたのが、1943年に行われた大日本帝国憲法下で最後となる、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬だ。宮間教授「山本の遺志をみんなで継承して、この戦争を完遂するんだっていうことが、その国葬の場で訴えられていくわけです。戦争動員のために利用されたこともある儀式だということを表している。そこで、いや私は戦争に協力したくないってことは言えないわけですよね。態度としてそういうことを表明できなくさせるっていう機能はあった。それが大事な点かなと思います。国葬というのは、大日本帝国の遺物というふうに理解していて、現代の世の中にそのままよみがえらせていいものではないと考えています」吉田元総理の国葬では、当時の佐藤内閣が民間にも要望した弔意の表明。今回、岸田総理は国民に強制しない、としている。しかし…宮間教授「国葬は、国民が望んで行うということですから、基本的に国民が弔意を持っていないとできないんですね。何も民間に求めないというなら、まず国葬じゃないだろうと。私たち国民が弔意を示して初めて国葬は成立するので、そんなこと何もしなくていい、無関係で良いというなかで行われるのは、国葬ではない」「国葬で評価される人物に対する反対意見、批判意見を抑圧するような機能を基本的に備えていたという意味で、民主主義的なものと言えない」そして、歴史家の一人として、今回の国葬が将来に及ぼしかねない影響を重く考える。宮間教授「国葬のようなものを好きなように政治が使える形で、またここで前例を作っちゃう。未来の私たちの子供、孫たちのときに何かまずい形で機能してしまうことがあるんじゃないかということを危惧しています」
世論が割れる安倍元総理の国葬問題。そもそも国葬とは、どういうものだったのか。国葬に詳しい宮間教授は、こう語る。
中央大学文学部(日本史学) 宮間純一教授「天皇国家のために尽くした、いわゆる功労のある人、この人を天皇と国民が共同して悼もうと、その人がいかに偉大な人物であったのかっていうことを褒め称えようという、そういう場として機能してきたのが国葬だと思います。結果的にこれは国民を統合していく、国家というまとまりを強固にしていくという機能を持ってきました」
国葬は、大久保利通の葬儀を原型とし、1883年、岩倉具視の葬儀で確立したとされる。中でも国民統合の機能が最も色濃く表れたのが、1943年に行われた大日本帝国憲法下で最後となる、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬だ。
宮間教授「山本の遺志をみんなで継承して、この戦争を完遂するんだっていうことが、その国葬の場で訴えられていくわけです。戦争動員のために利用されたこともある儀式だということを表している。そこで、いや私は戦争に協力したくないってことは言えないわけですよね。態度としてそういうことを表明できなくさせるっていう機能はあった。それが大事な点かなと思います。国葬というのは、大日本帝国の遺物というふうに理解していて、現代の世の中にそのままよみがえらせていいものではないと考えています」
吉田元総理の国葬では、当時の佐藤内閣が民間にも要望した弔意の表明。今回、岸田総理は国民に強制しない、としている。しかし…
宮間教授「国葬は、国民が望んで行うということですから、基本的に国民が弔意を持っていないとできないんですね。何も民間に求めないというなら、まず国葬じゃないだろうと。私たち国民が弔意を示して初めて国葬は成立するので、そんなこと何もしなくていい、無関係で良いというなかで行われるのは、国葬ではない」「国葬で評価される人物に対する反対意見、批判意見を抑圧するような機能を基本的に備えていたという意味で、民主主義的なものと言えない」
そして、歴史家の一人として、今回の国葬が将来に及ぼしかねない影響を重く考える。

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