〈「わたし、本当に困ります」“日本初のミスコン”に優勝した14歳の美少女…人生を狂わせた“写真”の背後にあるもの〉から続く
いまから116年前、まだ14歳(満年齢。当時の表記では16歳)の市長令嬢が「日本初の全国ミス・コンテスト」とされる美人写真の公募企画で日本一となったものの、それを理由に学習院女学部を退学させられる「事件」が起きた。
【画像】「日本一の美人」に選ばれた写真
背景には当時のメディアや学校の事情、さらに女性が置かれた社会的な位置の問題が介在していた。「美人日本一」をめぐる騒動の実体はどんなものだったのか。関係した人たちはどんな言動を見せたのか。本人はどう考えていたのか――。
当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、一定期間を経過した歴史的人物の敬称は省略する。(全2回目の2回目/はじめから読む)

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1908(明治41)年に行われた、日本で初めて一般の女性を対象にした「ミスコン」とされる、「美人写真コンテスト」。1等となったのは満年齢で14歳(数えで16歳)の福岡県小倉市長の娘、「末弘ヒロ子」だった。
各紙が結果を取り上げる中、3月22日付東日の記事は、「日本一美人問題」の見出しで、隠れていた事態の進行を報じた。それをさらにうまくまとめた、系列の大阪毎日(大毎)の同じ日付の記事(見出しは「日本一美人の不運」)を見よう。
〈 日本一美人の不運

かしこき辺りの思し召しによって、乃木大将が院長の職に就き、次いで松本源太郎氏が下田女史に代わって女学部の部長に任ぜられるに及び、学習院と同女学部の校風、大いに見るべきものがある。特に女学部にあっては軽佻浮薄(けいちょうふはく)(軽はずみで浮ついている)の弊(へい)(風潮)を戒めるのに努めているが、先頃某新聞社が美人写真を募集した際、同部3年級の末弘ヒロ子(16)らがこれに応募。審査の結果、ヒロ子は1等と発表されるに至った。

ところが、乃木院長、松本部長、佐野学監その他の職員はこのうわさを耳にして大いに喜ばず、さらぬだに(そうでなくても)、女は虚栄心の盛んなもの。女学部生徒のような上流家庭に育った者にあっては、本人が虚栄心に駆られて自ら応募したものなら、他の生徒の取り締まり上、停学か諭旨退学の処分をしようと、目下頻繁に協議中。数日前、学校からヒロ子の義兄である江崎清氏に一応の質問を出し、ヒロ子とほかに応募した同校生徒もそれぞれ取り調べのうえ処分するはずという。〉
「かしこき辺り」とは明治天皇周辺を指す。「乃木大将」とは日露戦争の旅順攻略で知られ、最後は明治天皇を追って殉死し、現在も神社に名前が残る“レジェンド”乃木希典のこと。明治天皇の意向により、学習院の第10代院長に就任した。「下田女史」とは女子教育の先覚者で宮中に隠然たる勢力を張ったといわれる下田歌子のこと。
ヒロ子が通っていた学習院女学部の正門の風景(『女子学習院五十年史』より)
他社が主催のキャンペーンのことだから記事のトーンは皮肉っぽいが、1世紀以上前とはいえ、「女は虚栄心の盛んなもの」など女性蔑視意識は明らかだ。記事は学校当事者への取材結果へ続く。
〈 松本部長、佐野学監を訪ねて意見を聞いたが、両氏とも目下この件についてははっきりした答えができないという。松本部長は「私は個人として誠に気の毒に思っている。実際見世物にされるようなものですからね。あるいは、このために将来良家に片付く(嫁ぐ)道がふさがってしまうかもしれない」とした。

考えがうかがえる気がする。ヒロ子が日本一の美人として新聞紙上に現れて以来、同校生徒の間には妬んでヒロ子をいろいろからかう者もいるという。ヒロ子は今学期で及第すれば、小倉市長である実父・末弘直方氏の元に行くはず。〉

学習院女学部の部長・松本源太郎は旧制第五高等学校(現熊本大)教頭や山口高校(現山口大)校長などを務め、のちに宮中顧問官になる教育者。問題が広がっていることが分かる。
翌3月23日、東日と同系列の大阪毎日(大毎)は2面の評論コラム「硯滴(けんてき)」で「近頃馬鹿馬鹿しい事件」として騒動を取り上げた。「学習院側の意見は根本的に間違っている」「美貌は婦人の一徳」と断言。「問題にすべきことがあるとすれば、それはほかではない。ヒロ子をして同校に留まるができないほど、嫉妬の揶揄を試みる生徒間の卑劣心である」と述べた。
当事者である時事新報が問題の経過と自社の主張を公表したのは3月29日付紙面。「時事新報主催の美人寫眞募集と学習院の態度」と題して、実に3ページ近くを費やして学習院の姿勢を批判した。募集の経過説明に続いて次のように書いている。
〈 円満に事が終わった後に1つの面白くない事件が発生した。第1等当選者、末弘ヒロ子嬢が学習院を退学するに至ったこと、それである。これについては世上いろいろな浮説が生まれて、ヒロ子嬢はもちろん、その親類とわが時事新報社に迷惑を及ぼすこと少なからず、もはや黙視できない。〉
記事は「本社が学習院とヒロ子の親類の間に立って尽力した顛末を詳しく書き、学習院職員の意見、態度を本社は肯定できないことを述べて世人の判断を仰ぎたい」として経過を個条書きにしている。要約して記す。
〈1.本社員と学習院
日本一美人選定を発表したその日、学習院女学部はヒロ子の保証人・山下(啓次郎)氏を呼び、写真応募についてただした。あるいは退学命令に至るのではないかとの情報があり、翌9日、記者が松本女学部長を訪ねた。
松本部長は「保証人にいきさつを聞いたのは事実だが、退学うんぬんは未定で、追って協議することになった」と答えた。以下は一問一答。
記者 ことが一段落したいま、妙齢の女子に中途退学を余儀なくさせるのは本社の最も遺憾とするところだ。
部長 一段落したと言うが、本人の写真はこれから外国に送られ、世界の舞台で美を競おうとしているのではないか。それが大変困る。
記者 外国ではそんな狭い了見はない。現にカナダの1等に選ばれた美人もヒロ子同様市長の娘だ。元来、写真はヒロ子自身が提出したのではないことは知っているはず。写真の応募が気に入らないとしても、それをしたのは本人でないのに、本人に累を及ぼすのは当を得ない。そうした事情を察して退学は見合わせてほしい。
部長 そのことは学校も承知している。退学はまだ決まっていないから、ご意見は私が含み置く〉
〈その後、記者は学習院長の乃木大将を赤坂新坂町の自邸に訪ねた。来客があって将軍自ら玄関にいたので、松本部長とのやりとりを手短に述べ「退学のような過剰な処置がないように願います」と言った。将軍は「その件はまだ確定していないので、あなたの話は拙者において含み置くことにする」と答えた。
武士の一言金鉄のごとし。学習院長・乃木陸軍大将が含んで置くとの一言は、本社の可憐な少女への心遣いが決して空しいものではないことを感じさせた。
ところが、その翌日の10日に情報が入り、女学部は再びヒロ子の保証人を呼び、「この際、自分から退学することを勧告したという。意外意外、金鉄の一言溶けて水のごとし。記者は11日、保証人・山下啓次郎氏を訪問。事実かどうかを確認した〉
このあたり、日露戦争の英雄、乃木大将に対する感情がうかがえる。

ヒロ子の保証人である山下啓次郎の話は――。
〈9日、女学部から呼び出し状が届き、10日に出頭したところ、佐野学監からいろいろな説明があり、「そちらにも信念があり、理屈もあるだろう。しかし、こちらは議論は好まない。この際、ヒロ子嬢が自ら退学されることを望む。ちょうど定期休暇になるので、いま退学すれば他の生徒にも目立たないだろう」ということだった。
「どんな理由で退学する必要があるのか」と反問すると、「学校の主義に反する次第。だが、いまは議論する時ではない」と言を避けた。自分は「そのまま受け取るわけにはいかない。熟考のうえ本人の父たちとも協議して返答する」と言って引き下がってきた〉

意外なのは、記者が松本女学部長、乃木院長のいずれもから「含んで置く」という答えを得た翌日の出来事だったこと。呼び出し状が届いたのは9日だから、学校が退学勧告を決めたのは記者への回答の当日。呆然とならざるを得ない。驚きを抑えて学習院女学部に行き、松本女学部長に対面して次のような一問一答を交わした。
〈記者 時事新報の言い分を含み置いてくださるという話だったが、保証人に反対の説明があったのはどういう次第か。
部長 実はあの日にあれから協議会を開いてそのようにすることに決まったので……。
記者 ヒロ子嬢に自分から退学することを勧告したのか。
部長 いや、そう具体的に申し渡したのではない。ただ、煎じ詰めれば「引退」の意味になるかもしれないが……。保証人に応接したのは佐野学監だが、学校からの申し出としては、単に相当の方法をとってほしいということ。
記者 相当の方法とはどういう意味か。方法を示したか。
部長 学校としては示していない。だが、学監は個人として第一に、時事新報から写真を撤回することを勧めたと聞いている。
記者 時事新報はその交渉には応じない。当初から写真を提出した者との約束であるだけでなく、外国の新聞社との確約を遂行する義務と責任があるからだ。
部長 もっともだ。自分もそう信じている〉
話がかみ合っていない。だが、やりとりにはどこか時代を超えたリアリティーがある。
〈記者 あらためて聞くが、煎じ詰めれば時事新報の企画が悪いということになる。その理由を拝聴したい。
部長 企画の良し悪しについてはいまは言いたくない。ただ、学習院女学部は、こういう企画に参加しても構わないような家庭の女子を教育することはできないとはいえる。ご存じの通り、当校は女子の知育徳育が主眼。容貌の美醜を気にする者は、とかく気が散って学業に身が入らず、従って他の生徒に悪い感化を及ぼすことがないともいえない。それは教育者の最も遺憾とするところだ。
記者 ヒロ子の罪は審査の結果、全国第1等になった点ではなく、こういう企画に参加したことのようだが。
部長 その通り。
記者 それでは聞きたい。本社の募集に応じて写真を提出した貴校生徒は末弘ヒロ子だけではない。他の生徒は放っておいて、1位に当選したヒロ子だけとがめるのはどうしてか。
部長 そのことはきのう初めて知った。処置は協議中だ。
記者 ヒロ子の写真は応募時と第1次審査当選時にも掲載されている。学校の主義・方針に違反しているなら、なぜ最初に掲載された時に注意しなかったのか。
部長 その点は当方の手落ちだ。申し訳ない〉

記者も痛いところを突いているが、学習院側の頑として動かない姿勢が印象的だ。
〈2.ヒロ子の厳父上京
ヒロ子の父・末弘直方氏は3月13日に上京。かねてから、この学期が終わり次第、ヒロ子を小倉に呼び戻そうと考えていたことから、退学そのものにはそれほど心を痛めていなかったが、このような事情で懲罰的な汚名を娘に被らせるのは遺憾と14日、乃木大将を訪ねて懇談した。
結局、いろいろな賞品を受け取らなければ在学させるという確答を得た。直方氏は時事新報に賞品を受け取らないか、受け取って慈善団体に寄付する方針を提示。時事新報は社内で協議し、問題はさまざまあるが、本人のために承諾することを伝えた。
これでめでたく落着と思ったが、あに図らんや、乃木大将はさらに不満があるとみえ、またも金鉄の一言を取り消し、ヒロ子の自主退学を要求してやまないという。びっくりして言葉がないとはこのことだ〉
このあたり、乃木大将(院長)の態度があやふやな印象が強い。
時事新報の記事は「3.ヒロ子愈々(いよいよ)退学」「4.院長部長の態度に非難なきや」「5.寫眞募集は悪行か」「6.結論」と続く。次にまとめたように、学習院の姿勢を批判し、自社のキャンペーンの意義と正当性を延々と主張した。
〈旅順包囲の名将である乃木大将の過失を世上に明らかにするに忍びなく、これまで経過を記事化しなかったが、20日にヒロ子が退学届を提出。23日ごろから顛末を記事にする新聞も現れ、ヒロ子や時事新報を中傷する記事も。このうえ沈黙を続ければ、時事新報の行為は非、学習院の行為は是と世間に信じさせてしまう。
美人写真募集は単なる娯楽ではなく、わが国の実情を世界に周知させること。時事新報の見方からすれば、美人写真募集は悪行ではなく、その応募は悪徳ではない。いずれも天地に恥じない行為だ〉
その後も時事新報は、審査委員の「美人審査に就て」の連載を継続。3月31日付では23日の大毎「硯滴」を「忖度」の語源とされる「他人心あり我これを忖(はか)り度(はか)る」記事として引用。大勢の女子生徒が乃木大将とおぼしき人物の尻を押しているポンチ絵を添えた。その後も「学習院の偏狭」という他紙の社説を全文引用するなどして、必死の自己防衛を続けた。

翌1909(明治42)年1月には読売、報知などが「世界審査の結果、ヒロ子が世界6位になった」と報じたが、それは写真の到着順だともいわれ、時事新報は確定報を流さず、はっきりしないまま終わった。
実際には、この「美人写真」は時事新報全社がまとまって盛り上げた企画ではなかったようだ。
「別冊新聞研究」で板倉卓造は、時事新報が明治40年代に美人コンテストを始めるなど、かなりセンセーショナルな面が見えたという指摘に対して「その通りです。われわれも論説室で見ていて、こんなひどいものを出すのは『時事新報』の威信に関わるんじゃないかと反対したくらいなんです。それはまあひどいものでしたよ。これは、その当時のアメリカの新聞がそうであったのを福澤捨次郎が見て、そのまま持ってきたものです」と述べている。
福澤捨次郎とは時事新報を創刊した福澤諭吉の次男で、アメリカ留学で土木工学を学び、見聞を広めて帰国。諭吉の死後、1896(明治29)年から時事新報の社長を務めた。「アメリカの新聞のセンスを身に付けていた」とされ、奇抜なアイデアで紙面に新企画を多く取り入れた。

たとえば、1901(明治34)年に東京・上野の不忍池を12時間周回する競走は「現代のスポーツイベントのさきがけといえるもの」=松尾理也『大阪時事新報の研究』(2021年)=だった。美人写真騒動と同時期に発生した、銭湯帰りの美人が殺害され、のちに容疑者のあだ名をとって「出歯亀事件」と呼ばれた事件でも、「真っ先に犯人を探知、もしくは逮捕した者に金時計を贈る」懸賞を出している。
しかし、1905(明治38)年に大阪時事を創刊したことなどをきっかけに、昭和に入ってから徐々に衰退。1936(昭和11)年、東京日日に合併されて消滅した。
学習院側にも差し迫った事情があったと考えられる。美人写真コンテストへの募集が始まっていた1907年11月1日、東朝は「學(学)習院の内訌(ないこう)(内輪もめ)」の見出しの記事を載せている。乃木大将が、それまで務めていた軍事参議官と兼務で学習院長に就任したのはこの年の1月。前年の1906(明治39)年には、それまでの華族女学校が学習院に併合されて女学部になっていた。
記事は、乃木院長に加えて、文部省から岡田良平(文相も務めた文部官僚)が御用掛として学習院に来たことから、下田歌子部長は華族女学校時代のようなわがままができなくなり、「下田対岡田の暗闘」が展開されているとした。

結局、下田歌子は11月26日に辞任。後任が松本だったが、東朝は12月15日付では乃木院長と松本部長の資質の違いを記事にした。「松本新部長は性質端厳(端正で威厳がある)だが、米国留学経験もあって万事積極的啓発主義を執る教育家。乃木院長のどちらかといえば消極的な訓練主義と相反する点が多い」と指摘。
年が明けた1908年1月11日付では「學習院第二の破綻」として、下田前部長の息のかかった女学部の教授、講師らが次々辞職していると伝えた。「かわいそうなのはただいまの部長、松本源太郎氏である」「松本部長も『この学校ほど難しいものはない』とある人に漏らしたようである」と書いている。
さらに、この年4月11日には学習院初等科(小学校)に明治天皇の孫・迪宮(みちのみや)(のちの昭和天皇)が入学している。明治天皇はその教育のために乃木大将を学習院長に任命したともいわれる。要するに、乃木院長と松本部長にとっては、皇孫の教育と女子部の内部統制が目先の最優先課題で、末弘ヒロ子の問題に神経をつかって取り組める状態ではなかったと思われる。

退学から半年余り、1908年10月6日付読売の「本日」欄に「日本一美人の結婚」という短い記事が見られる。
〈 時事新報が催した美人写真の1等に当選して学習院女学部を追い出された末弘ヒロ子(直方氏令嬢)と野津元帥の令嗣(跡取り)、騎兵大尉・鎮之助氏との結婚は5日、勅許が得られたので本日、野津邸で華燭の典を挙げる。〉
野津元帥とは、薩摩藩出身で日本陸軍草分けの1人の侯爵・野津道貫のことで、鎮之助についてこの記事には「騎兵大尉」とあるが、砲兵中尉が正しい。当時は華族の結婚には天皇の承諾が必要だった。
同じ日付で時事新報も短い記事を載せ、「病床にある元帥の喜悦いかばかりならん」と書いた。野津元帥は重い病気にかかっていた。翌10月7日の記事は時事新報の方が扱いが大きいが、コンパクトな読売を見よう。
〈 野津侯爵令嗣の結婚式

野津元帥令嗣、砲兵中尉・鎮之助氏(24)と豊前小倉市長、末弘直方氏令嬢・ヒロ子(17)とはいよいよ昨6日をもって華燭の典を挙げた。元帥の病状はいまだ全く快方にはないことから、盛大な儀式ではなく、川村(純義海軍)大将媒酌の下に極めて質素に行われた。

ヒロ子嬢は数日前から野津邸に来て元帥の看護に余念がなかったが、5日、ひとまず麻布の親類、山下啓次郎氏方に引き揚げ、今朝新たに野津邸に輿入れした。鎮之助氏も目下砲工学校内に寄宿中で、一足先に帰邸し、ここにめでたく式を終えた。

当日の服装は花婿は軍服、花嫁は紫紺地に紅葉と桜を散らし、扇の裾模様のある振袖の三枚重ねに、金茶地の網の目に菊花を織り込んだ厚板の帯を締め、髪は高島田と、全て純然たる日本式の装い。

午後3時に式が終わり、すぐさま新郎新婦は相携えて祖先の霊前にぬかづき、のち高島(鞆之助陸軍)中将に導かれて元帥の病床の部屋に入った。元帥は病躯(びょうく)(病の体)に紋付の羽織を着け、看護婦に助けられて椅子にもたれ、満面に笑みをたたえながらもいと厳かに「人道を重んじて夫婦相和し、天皇陛下に忠に、親に孝を尽くし、わけても野津の家名を汚すようなことがあってはならぬ」と言い渡した。鎮之助氏は「2人は誓ってお言葉を守ります」と答え、元帥と夫妻は約1時間懇談した。〉

時事新報の記事によれば、元来野津家と末弘家の間で婚約が整ったのは今年春のことで、来春早々に挙式することに内定していたが、野津元帥が重病にかかったため、直方氏はヒロ子とともに上京。
ヒロ子は客分として野津家にあって元帥の病気の看護に専念していた。元帥もその心根の優しさを感じ、早く一緒にさせてやりたいと常に言っていたようだが、病気が重くなったため、結婚を急ぐことになったという。野津元帥は10日余り後の10月18日に死去。鎮之助が爵位を継ぎ、ヒロ子は侯爵夫人となった。
この結婚については、ヒロ子の退学に責任を感じた乃木大将が、親しかった野津元帥に頼み込んだとする説がいまも根強くある。
しかし、結婚直後の1908年10月8日付國民新聞にはこんな記述がある。
〈 野津家と末弘家とは同国(薩摩)のよしみがあるだけでなく、元帥の亡兄鎮雄氏(陸軍中将)存命以来、互いに往来し、ことにヒロ子の厳父直方氏と元帥とはほとんど骨肉のように親密だった。鎮之助氏が腕白時代の時、早くも両家の親同士の間でヒロ子を鎮之助の嫁にもらおうという内約が整っていた。〉

記事には「許嫁(いいなずけ)の間柄」との小見出しも。この方が事実に近そうだ。乃木が結婚を仲介したというのは、数ある「乃木レジェンド」の1つにすぎないのではないか。
では、騒動の意味はどうなるだろう。そもそも、応募資格から芸妓や女優を除外した段階で、この美人写真企画は実質的に「お嬢さま・淑女コンテスト」になった。男社会の当時、女性に求められたのは結婚して子どもを産むこと。女学校などを卒業しても、家で花嫁修業をしながら良縁を待つのが普通の「お嬢さま」のありようだった。
結婚年齢はいまよりずっと低く、女学校でも美人から順に縁談が持ち込まれ、先に退学していった。そうした中での美人写真は格好の「お見合い写真」として捉えられたのではないか。
現に同年3月6日付時事新報に掲載された全国第2位の金田ケン子の父の談話には「娘の写真が発表されてから、諸方から結婚の申し込みが非常なもので、きょうまでに約200通も参りましたよ」とある。
ヒロ子の場合、父は小倉に連れ戻そうとしていたとされ、結婚相手も決まっていたとすれば、退学は既定路線で、残るのはメンツだけ。騒動は時事新報が重大視したほどの大問題だったのかという疑問が湧いてくる。
この騒動の最中の3月には、後年女性活動家・平塚らいてうとなる平塚明子(はるこ)が、のちに作家となる森田草平と駆け落ち。大騒ぎになった揚げ句、栃木県・塩原温泉で発見された。「新しい女」の動きが芽生えつつあったが、ヒロ子の世界はそこから遠かった。
以後のヒロ子についてはほとんど情報がない。2011年に復刻された「華族畫(画)報」の「野津侯爵家」には鎮之助と並んで「令夫人ひろ子の方」の写真が載っている。また『日録20世紀 1909年』(1998年)には「その美貌と気品から社交界の花となり」と書かれているが、裏付ける資料は見当たらない。

鎮之助は太平洋戦争中の1942年11月に死去。ヒロ子の長姉の孫であるジャズピアニスト・山下洋輔氏による『ドバラダ乱入帖』には、洋輔氏が小学校入学前に何度か見かけたという、終戦直後のヒロ子の晩年の姿が描き出されている。
〈 そのように一時代を騒がせた人とは知るよしもありません。曲がった腰と丸くなった背中、両手にリウマチを患っている老女です。かすかに足を引きずり、人目を避ける雰囲気がありました。子どもには近寄り難かったそれらの印象から、兄とひそかに「カイブツ」と呼んでいたのです。何という子どもの残酷さでしょうか。〉
ヒロ子は洋輔氏の祖母である長姉を訪ねてくると、2人だけで長い時間を過ごし、出てくる時にハンカチで涙をぬぐっていることもあった。昔の思い出話をしていたのだろうか。
『昭和新修華族家系大成 下巻』(1984年)には「ひろ 昭和38(1963)年3月死去」と書かれている。満70歳に約2カ月足りなかった。
気になるのは、第1等当選時の談話以外、どの資料を見ても、彼女の肉声が聞こえないことだ。義兄の思惑で写真を提出されたが、1等当選時の記事を読むと、まんざらでもなかったように見える。それが学習院女学部で問題となり、退学、結婚、すぐ侯爵夫人にという運命。それを彼女自身はどう思っていたのか。
騒動や結婚当時はまだ10代半ば。さらに時代もいまとは違うとはいえ、家や学校、社会の古めかしいシステムに縛られ、固定観念の壁にぶつかって振り回された半生を、ただ黙って受け入れるだけだったのだろうか。できることなら聞いてみたい。
【参考文献】▽ポーラ文化研究所編『幕末・明治 美人帖愛蔵版』(新人物往来社、2002年)▽山下洋輔『ドバラダ乱入帖』(集英社、1993年)▽安西篤子・小和田哲男・河合敦編著『ビジュアル日本史 ヒロイン1000人』(世界文化社、2011年)▽松尾理也『大阪時事新報の研究』(創元社、2021年)▽『華族畫報』(吉川弘文館、2011年)▽『日録20世紀 1909年』(講談社、1998年)▽霞会館諸家資料調査委員会編纂『昭和新修華族家系大成 下巻』(霞会館、1984年)
(小池 新)