2024年3月24日夕方、ラジオ番組『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』(ニッポン放送)でパーソナリティーの笑福亭鶴瓶が、その日の放送の終わりがけ、思い出したように「(東京・新宿の)アルタがね、なくなりますね」と口にすると、「しょっちゅう行ってましたからね、何かちょっと淋しいですけどね」「一回また見に行けるなら行こ」「クロワッサンの店があって、そこがなかなかうまかったんですよね」などと語った。
周知のとおり鶴瓶は、新宿アルタ内の「アルタスタジオ」から生放送されていた、タモリ司会のバラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)に2014年3月の番組終了まで27年にわたりレギュラー出演していた。
「アルタがなくなる」とは、この放送の3日前、3月21日に、三越伊勢丹ホールディングス子会社の三越伊勢丹が、来年(2025年)2月末をもって商業ビルである新宿アルタの営業を終了すると発表したことを指す。ちょうど『いいとも!』の最終回から10年を迎えるタイミングということもあってか、この発表は世間に衝撃をもって受け止められた。
ただ、鶴瓶師匠にしてもそうだが、今回の発表について、どうも少なからぬ人がアルタの建物自体がなくなってしまうと勘違いしているふしがある。実際には、新宿アルタという商業ビルの経営から三越伊勢丹が撤退するという話にすぎないので、師匠もそんなに慌てないでいただきたい。
こうした誤解が生じるのは、新宿アルタが複数の異なる機能を備えた複合ビルであることに一因があるのだろう。
このビルは大きく分ければ、7~8階に入る現在は「KeyStudio」と呼ばれる旧アルタスタジオと、壁面に備えられた大型ビジョン「アルタビジョン」、そしてファッション専門店や飲食店がテナントに入ったファッションビル形態の商業施設と、3つの機能を持つ。
運営主体もそれぞれ異なり、大型ビジョンの運営は、ビルの通称でもあるスタジオアルタという会社が担う。旧アルタスタジオも三越伊勢丹グループの企業である同社が1980年のビルオープン以来運営してきたが、現在は総合エンターテインメント事業を行うKeyHolderの子会社であるallfuz(オルファス)が運営し、アイドルなどのライブやイベントが日々開催されている。
商業ビルを運営するのは先述のとおり三越伊勢丹で、もともとはその前身の三越が土地・建物ともに所有していたが、2000年、巨額の負債を抱えた三越の経営再建のため貸しビル大手・ダイビルに売却されている。
したがってあのビルの名前も、『いいとも!』がまだ放送されていた24年前から正式には「新宿ダイビル」に変わっている。ただし、売却後もリースバック形式がとられ、三越およびその後継会社の三越伊勢丹(2011年設立)はダイビルに賃料を払いながら新宿アルタの経営を続けてきた。
こうした経営の現状からすれば、ビルを所有するダイビルが取り壊しを決めないかぎり、場所としての新宿アルタがなくなることはない。新宿のランドマークとなっているアルタビジョンも、運営会社のスタジオアルタは三越伊勢丹と同じ企業グループに属するとはいえ別会社なので、新宿アルタの営業終了後も存続する。ただし、KeyStudioは新宿アルタと同じく来年2月末をもって営業を終了する予定だと報じられている(「音楽ナタリー」2024年3月22日配信)。
もちろん、三越伊勢丹にとっては、新宿アルタは前身の三越が建設して以来、グループを挙げて力を注いできたものだけに、今回営業終了を決めたことは同社の歴史において大きな曲がり角というべき出来事には違いない。ここで改めてアルタ誕生までの経緯を、拙著『タモリと戦後ニッポン』(近藤正高著、講談社現代新書、2015年)の第6章に書いた内容と一部重なるが、振り返ってみたい。
新宿アルタ(以下、昔からの通称である「スタジオアルタ」と記述)がオープンしたのは1980年4月1日。その誕生には、当時の三越社長で、老舗百貨店にあって若者をターゲットにさまざまな商法を展開したことから「流通界の革命児」とも称された岡田茂(1914~95)が深くかかわっていた。
三越入社以来、宣伝畑を歩き続けてきた岡田は1968年、銀座三越の店長となる。この年10月、銀座三越は新装開店し、2階のヤングファッションフロアや屋上の「森の劇場」を中心にヤング路線を打ち出した。
岡田は銀座三越の店長となるや、売場の責任者を集めて、「レコードを売るなら、バンドと歌手を連れて来い。ファッションをマネキンに着せて見せる時代じゃない。モデルに着せろ。食料品は、できたものを売るのではなく、つくりながら売れ。お客が楽しみながら買い物ができるように各売場で工夫をこらせ」などと指示を出す(針木康雄『三越商法とダイエー商法』日本実業出版社、1972年)。
それは当時の百貨店の常識をくつがえすものであった。若者のファッションがめまぐるしく変わるなか、老舗百貨店も従来どおり上等の客を相手にしているだけでは時代に取り残される。そんな危機感が、銀座三越での岡田の数々の実践につながった。
1971年にマクドナルドの日本第1号店が銀座三越にオープンしたのも、1972年に三越とTBSが提携してサテライトスタジオ「銀座テレサ」を設置したのも、この岡田の敷いた若者路線の延長線上にある。
銀座テレサでは、TBSの情報バラエティ番組『ぎんざNOW!』(1972~79年)が月~金曜の夕方に放送された。同番組は、平日の帯番組、スタジオに観客を入れての公開生放送、素人参加番組だったことなど、のちの『いいとも!』を先取りした点が多い。後年、『いいとも!』にレギュラー出演する関根勤も学生時代に同番組に出演したのをきっかけに芸能界入りしている。
銀座店のリニューアルを成功させた岡田は1969年に本店に復帰し、常務から専務を経て1972年には社長にまで昇りつめる。この間にも彼はメディアとの連携に熱心だった。1970年には、ニッポン放送のプロデューサーでDJだった高崎一郎とともに日本初のテレビショッピングコーナーを含むラジオ番組『東京ホームジョッキー』を立ち上げる。この企画はのち1983年に司会の高崎ともどもテレビ東京に移って『レディス4』となり、後身の『L4 YOU!』(2012~17年)まで含めると四半世紀にわたって続いた。
銀座テレサを生んだサテライトスタジオの発想は、そのまま新宿のスタジオアルタへとつながってゆく。JR新宿駅の東口を出てすぐのその場所には、もともと「二幸」という三越系の食品専門店があった。建物自体は大正末の1924年に三越新宿分店として竣工、昭和初期の1930年に三越の移転とともに二幸が入る。以来、待ち合わせスポットとしてもおなじみの場所となった。
この二幸が1978年に取り壊された2年後、替わって三越・フジテレビ・ニッポン放送の出資によりスタジオアルタがオープンする。「スタジオアルタはおれが計画した」とは、ほかならぬ岡田茂の言である。岡田はこのころ、単に物を売るのではなく、消費者に文化を提供しようとさまざまな文化事業を計画していた。アルタもその一環であった。
ファッションビルと放送スタジオに加え、世界で初めて壁面に大型街頭ビジョンを備えたスタジオアルタは「情報発信基地」と位置づけられた。アルタという名称は英語で二者択一を意味するalternative(オルタナティブ)からとったもので、「次に来るべきもの」という解釈で名づけたという(『週刊朝日』1980年2月29日号)。
アルタからはオープンと同時にフジテレビの平日お昼の公開生番組『日本全国ひる休み』が放送される。これは長続きせず、半年後の1980年10月からは替わって『笑ってる場合ですよ!』が始まった。ちょうど漫才ブームの真っ只中で、同番組は各曜日の出演者に、ブームを牽引していたB&Bやツービート、島田紳助・松本竜介など人気コンビをそろえて大いに当たり、番組観覧のため若者たちが連日アルタに詰めかけた。
なお同じく1980年10月には、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の日曜昼の番組『タモリの突撃ナマ放送』が始まっている。番組は9ヵ月ほどしか続かなかったとはいえ、タモリが『いいとも!』以前にアルタからの生放送で司会を務めていたという事実は特筆に値しよう。
オープンから2年後、アルタは初めて黒字を出し、岡田は《これは世界に一つしかない。これはおれは威張っていえると思う。あんなバカなもんつくるやついませんよ。ビルが全部ビデオサイン(引用者注:アルタビジョンの当初の名称)になってんだから》と豪語してみせた(大下英治『ドキュメント三越』三一書房、1983年)。
1970年代、岡田茂は流通業界の風雲児として西武百貨店の堤清二(1927~2013)やダイエーの中内功(1922~2005。「功」は正しくは工に刀)と並び称されたりもした。だが、岡田が堤や中内と決定的に違ったのは、戦略思考に欠けていたことだ。情報を発信するための設備は整えても、それを使って三越としてどんなイメージ戦略を打ち出すのかまでは一切考えていなかった。
アルタの場合でも、時代に先がけて新たな事業の展開や市場の創出の可能性があったはずなのに、岡田は採算性のことをとやかく言い、出向した三越社員たちを委縮させるばかりだった。結果、彼らは消極的・保身的となり、単なる貸しスタジオ屋になってしまったと、時事通信社の記者だった梅本浩志は指摘する(『三越物語――劇的百貨店、その危機と再生』ティビーエス・ブリタニカ、1988年)。
岡田については、《宣伝のプロを自認する岡田はよくアイデアを出したが、残念なことに、営業や経営の経験が浅く、アイデアをものにするための裏づけがなかった》との指摘もある(日経流通新聞編『ドキュメント社長解任』日本経済新聞社、1982年)。
実際、岡田には商品の仕入れや販売など百貨店の本業の経験はほとんどなく、経営者としての修業や訓練を受けることもないまま社長になった。それゆえ派手な話題を提供し続ける一方で、中長期的な経営計画に欠け、設備投資やシステム開発でほかの百貨店に大きく遅れをとってしまう。
だが、岡田は人事権を盾に強固なワンマン体制を築き、社内には彼に対しまともに進言できる者はいなかった。それをいいことに彼は会社を私物化し、結果的にそのために足元をすくわれることになる。納入業者に対して高級品や自社イベントのチケットを強制的に買わせていたことは公正取引委員会から摘発され、さらに親しい関係にあった女性の経営する会社への公私混同的な優遇は、特別背任事件へと発展した。
ダメ押しとなったのは、1982年8月、日本橋三越で開催された「古代ペルシア秘宝展」の展示品の大半が贋物と判明したことだ。岡田が直接関与したものではなかったとはいえ、先のスキャンダルとあわせて老舗百貨店・三越の信用を著しく失墜させたとして、ついに彼の命脈は尽きる。
1982年9月22日、三越の取締役会は全会一致で岡田の社長解任を決議、その瞬間、岡田は「なぜだ!」と叫んだ。タモリを相手に日本国民が「いいとも!」と言い始める、約2週間前のできごとであった。
1982年10月4日にスタートした『笑っていいとも!』は、連日ゲストを招いてのトークコーナー「テレフォンショッキング」などが話題を呼び、人気が出るのに時間はかからなかった。スタジオアルタの存在も『いいとも!』のおかげですっかり全国に知れ渡る。
専門店をテナントに入ったファッションビルにとって、集客のためにイメージづくりは必須である。アルタにおいては長らく『いいとも!』とアルタビジョンのイメージが、そのブランド価値を高めてきたといえる。のちに三越が「アルタ」の名を掲げた商業施設を各地で展開したのも、このブランド力に乗じてのことだろう。
2002年には新潟と札幌、2003年には池袋のサンシャインシティに若者向け専門店館としてアルタがオープンした。ただ、これらの大半は一時は客を集めたものの、札幌アルタは2010年、新潟アルタは2019年に閉店、この間2014年に原宿・竹下通りにオープンした原宿アルタも、新宿アルタとともに来年2月末に閉店が決まっており、アルタの名を持つ商業施設で残るのは池袋サンシャインシティアルタだけとなる。
企業のスタジオアルタにとっても『いいとも!』は、スタジオや機材の使用料が定期的に支払われる重要な収入源であった。それだけに番組が終わった打撃は大きく、その後、4期連続で赤字を計上している。会社の資本も『いいとも!』終了後、親会社である三越伊勢丹グループと共同出資をしていたフジテレビの合弁が解消となり減少した。それでも事業を大幅に整理するなどして、2018年に黒字に転じている。
他方、新宿アルタは2018年以降、それまで若年層に設定してきたターゲットを中高年層に変えて再起を図ろうとした。しかし近年は、コロナ禍で客足が減ったことに加え、JR新宿駅周辺のほかの商業施設との競争の激しさから営業赤字が続いていたといい、結果的に今回の閉店決定にいたった。
旧アルタスタジオからもKeyStudioの撤退が決まり、このままでは来春以降、アルタは大型ビジョンだけを備えた巨大ながらんどうになってしまう。それはそれで、中身のない空虚な情報が大量に飛び交う現在の世界を象徴しているようでもあり興味深くはあるが、面白がってばかりもいられない。賃料が減れば、将来的には建物を所有するダイビルも撤退し、最悪、建物自体がなくなる可能性もなきにしもあらずである。
スタジオアルタは長らく新宿のランドマークであり、大型ビジョンのもと人々が集まる広場の役割も果たしてきた。そればかりか、『いいとも!』の毎日の放送を通じて日本のお昼の風景の一部にもなっていた。それだけに万が一なくなってしまうとあれば大きな損失だろう。今後の存続のため、まずは商業施設とスタジオに新たな借り手が現れることを祈りたい。同時に『いいとも!』に替わる新たなブランドイメージを創出する必要もありそうだ。
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