■取材帳 異次元の長寿<3>
高齢になって新しいことを始める人がいる一方で、一つのことに関わり続ける人もいる。
元厚生次官の吉原健二さん(92)の場合は「年金一筋の人生」だ。ただ、わが子のように愛する年金の将来については相当心配しているという。(文・編集委員 猪熊律子、写真・鈴木竜三)
厚生省(現・厚生労働省)に入ったのは1955年。
「経済を立て直し、福祉国家を作る。そんな目標を国が掲げた頃に役所に入り、61年に実現した国民皆年金の仕事をしました。年金局長だった85年には、全国民に基礎年金を支給する制度を作り、その上に厚生年金などの報酬比例部分を乗せる2階建ての仕組みに大改正しました」
「厚生省でもう一つ、忘れられない仕事があります。82年に作った老人保健法です。老人医療費無料化で膨張した財政を立て直すという非常に難しい仕事でした」
「児童や公害の仕事もしましたが、役所を辞めてからも年金の仕事をずっとしてきた。だから年金は天職、自分はこれをやるために生まれてきたのかなと思うほど。実際、いつも年金のことを考えているから、だんだんわが子を思うような気持ちになっちゃって。もっといい制度にできないかと、それが頭から離れないんですよ」
退官後、厚生年金関係の二つの団体で理事長を計約20年務めた。今は別の年金関係の団体で評議員を務める。年金との付き合いは半世紀に及ぶ。
「公的年金の受給者は今、約4000万人で国民の約3分の1を占めます。給付費は年約60兆円と、国内総生産(GDP)のほぼ1割に相当します」
「年金がこんなに大きな制度になったのは、65歳以上の高齢者が増えているのが最大の理由ですが、65歳になる前から年金をもらっている人が多いこともあります。これは、60歳から65歳への年金の支給開始年齢の引き上げが遅れに遅れたからです。男女とも65歳になるのは2030年と、まだまだ先です」
「今後も高齢化は進むので、原則65歳から受給するという今の仕組みのままだと、やがて国民の4割が年金受給者になります」
「私は年金を愛していますが、制度が大きいほど、受給者が多いほどいいとは思わないんです。大きくなり過ぎると倒れる危険性があります」
膨らむ給付と負担の均衡を図り、持続可能な制度とするために、国は支給開始年齢を65歳に引き上げてきたほか、受給者一人一人の年金額を少しずつ下げ、財源の範囲内で給付水準を調整(抑制)する「マクロ経済スライド」と呼ばれる仕組みなどを導入してきた。
「私は支給開始年齢を70歳まで引き上げることを提唱してきましたが、厚労省はそれはせず、支給開始年齢は将来とも65歳を基本とし、受給を開始する年齢については個人が選択すれば75歳まで繰り下げられるようにしました。それはそれで仕方ありませんが、国民年金の被保険者期間の延長はぜひ実現してほしい」
国民年金は現在、20歳から60歳になるまでの40年が被保険者期間とされている。
「厚労省は次期改正でこれを65歳になるまでの45年にしたいと言っています。でも、男性81歳、女性87歳という平均寿命を思えば、さらに5年延ばして70歳までの50年にしてもおかしくない。今より10年延長したら満額で月10万円程度の基礎年金を受け取ることもできるはずです」
基礎年金の満額は現在、月約6万6000円。
「平均寿命はさらに延びています。人生100年のうち、50年ぐらいは働くのが自然なんじゃないでしょうか。もちろん、働けない人もいます。でも、若い世代が減っているのだから、働ける人は原則70歳まで働いて保険料を納め、70歳から年金を受け取れる仕組みをぜひ検討してほしいと思っているんですよ」
現在は医療関係の団体の代表理事も務め、週4日、東京にある事務所に出勤する。部屋には新聞や、自著を含めた社会保障関係の本がずらりと並ぶ。囲碁好きらしく、碁盤も置かれている。
「ところで、90代の人は何人ぐらいいると思われます? 調べてみたら男性72万人、女性202万人の計274万人。男性は、男性全体の人口の1・2%。私は長生きしても80代ぐらいまでだと思っていたので、100人に1人の中に生き残れたのはすごく良かったと感じました」
「これまでの人生を振り返ると、仕事は運と縁を大切に、どんな仕事も一生懸命やってきた。趣味も、囲碁や山歩き、スキー、旅行などを楽しんできました。仕事面では大きな仕事をいろいろやらせてもらい、大変幸せな人生でしたが、個人的な生活では二度と思い出したくないショッキングな事件にも遭っています。自分の身代わりとなり、ひどい目に遭った家内が今もそばにいてくれて、一緒に生活できるのが本当にありがたい。このままずっと一緒にいて、できれば家内より先に逝きたい」
幸せとは何かについて、最近、よく考えるという。
「幸せは年齢によって違うでしょうが、今の私にとっては、一日一日を無事に過ごせることが何よりの幸せです。何だそんなことかと若い人たちは思うかもしれませんが、若い時に見えなかったものが見え、感じなかったことを感ずるようになる。そうやって人間は最期を迎えるわけです。人生、それでいいんだと思っているんですよ」
■◆元厚生次官宅連続襲撃事件=
2008年11月に起きた連続殺傷事件。元次官の山口剛彦さん宅で山口さんと妻が当時46歳の男に刺殺され、吉原さん宅では吉原さんの妻、靖子さんが刺されて重傷を負った。最高裁は14年、1、2審の死刑判決に対する被告の上告を棄却し、死刑が確定。当初は厚生行政を狙った年金テロが疑われたが、被告は「保健所で殺処分された愛犬の敵討ち」などと動機を語った。