自衛隊史に長く刻まれるであろう訓練中の候補生による銃乱射・隊員射殺事件。容疑者(以下、A)は幼少期を児童養護施設で過ごし、里親の下を転々とする生活を送りつつ、ある仄暗い思いを抱えて自衛隊を志望した。実の父、弟や同級生に聞いたAの素顔とは――。
***
【写真を見る】Aの家族が暮らす実家 父は「普通の子やけえ」とコメント 過酷な鍛錬を積む猛者たちをしても、その瞬間は“防衛”不能の状態だったのか。 岐阜県岐阜市の陸上自衛隊日野基本射撃場で今月14日午前9時8分ごろ、同僚による銃撃で自衛官2名が死亡し、1名が重傷を負った事件。現場は幅30メートル、全長340メートルの屋内射撃場だ。

陸自第10師団が管理し、当日は朝から自衛官候補生約70名による実弾射撃訓練が行われていた。指導にあたる自衛官約50名も参加し、その場には総勢約120名が居合わせたことになる。第35普通科連隊HPより 89式小銃の射撃訓練では通常、訓練生は弾薬置き場で直径5.56ミリの弾丸29発を渡される。が、指定の射撃位置である「射座」につくまで小銃に弾を装填することは許されない。また「準備線」で服装をチェックされ、「待機線」で順番を待つ間も、余計な動作をするのは厳にご法度である。大量の銃弾を手にしていたら… ところが、待機場所にいた第10師団第35普通科連隊所属の候補生1名が突如、思いがけない行動に出た。 周囲に向けて「動くな」と大声で威嚇。待機場所を管理していた八代航佑3等陸曹(25)が即座にこれに反応して制止しようとするが、候補生の男はちゅうちょなく八代3等陸曹の脇腹に発砲した。 踵(きびす)を返した男は右斜め後方の弾薬置き場を目指し、「弾薬係」の菊松安親1等陸曹(52)の胸を銃撃。続けざまに原悠介3等陸曹(25)の左腿にも銃弾を発射し、返す刀とばかりにもう一度、菊松1等陸曹に銃弾を撃ち込み、とどめを刺した。冷酷無比というほかない。 男は羽交い締めにされて取り押さえられたが、その間も抵抗。壁などに乱射を続けたのだった。 菊松1等陸曹と八代3等陸曹は搬送先の病院で死亡が確認され、原3等陸曹も全治3カ月という重傷を負った。「候補生は犯行目的について、あくまで弾薬置き場から実弾を奪おうとしただけだと話しています。その際に邪魔されたから発砲したのだと」(社会部デスク) 瞬時に3人を殺傷した男が、制圧もされず、大量の銃弾を手にしていたら……。一体、どんな惨事が続けて起きていたかわからない。「最後は家賃を支払わず…」 Aはトラック運転手の父親と母親を両親に持つ。6人きょうだいの次男で、すでに成人している長女と長男に続く第3子にあたる。 一家の原点は岐阜市内の岐阜市中央卸売市場に近い、今は取り壊されたアパートだ。 当時の大家が振り返る。「あの大家族の家ね。いつもおむつが窓際に干してあってね。家賃は3万円で安かったのに、最後は家賃を支払わず、家財道具もほったらかしにして、あいさつもなく出て行きましたよ」 一家は困窮。両親はAを2歳上の兄とともに岐阜県瑞穂市の児童養護施設に預けた。Aは施設から幼稚園と小学校に通った。 小学校の元同級生が言う。「Aという名前の男の子は確かにいたと思います。でも、休みがちでした。3年生で転校しましたよ」 兄とともに移った先こそ、現在も一家が居を構える同県安八(あんぱち)郡の貸家。子どもたちは再び、親元で過ごすようになったのだ。「昔から一緒に遊ぶ間柄だったので悲しいです」 そう語るのは、安八郡にある小~中学校時代の元同級生だ。Aは小学校ではコマ遊びなどをする「伝統遊びクラブ」、中学では「美術部」に所属したが、放課後はもっぱらゲームに時間を費やしていたといい、「小学校では『妖怪ウォッチ』、中学では『スプラトゥーン』を一緒によくやりました。ひと月前もシューティングゲームの『フォートナイト』をオンラインで一緒にプレイしたばかり。なかなかの腕前です」(同)喜怒哀楽がない感じ ゲーム好きで内向的な性格のAにはまた、子どもの頃からいったんキレると手に負えない面があった。「不登校気味でしたが一度、中学校にスマホとイヤホンを持ち込んで、校則違反だと先生に怒られたことがあります。それに対してAは“なんで持ってきたらダメなんか”と逆ギレした。結局、先生に私物は没収され、親との三者面談を受けていました」 また別の元同級生いわく、「中学に入って接しにくい雰囲気になりました。髪が長くて、前髪が目にかかるようになって……。喜怒哀楽がない感じ。友達の間でも“大丈夫か”みたいな話になっていました」 ほどなくほぼ不登校となり、ついに完全に姿を消すことに。「彼は中2の頃に突然転校しました。なぜ、どこに転校したのか。先生からは特に何も説明されませんでした」(同) もっとも、教師には「転校理由」を生徒たちに公にできないワケがあった。さる捜査関係者が声をひそめて言う。「Aは素行に問題があり、中学の後半を岐阜県関市の児童心理療育施設で過ごしています。その施設には地元の公立中学の分教室があり、彼はそこで授業を受けていた」 児童心理療育施設とは耳慣れないが、関市健康福祉部子ども家庭課によると、「家庭環境に問題があるなどの理由で、社会生活への適応が困難となった児童を入所させる施設です」 そこで件の施設に直接尋ねたところ、「なにもお答えできない」 だが、さる元職員に聞くと「(彼とは)仲良しでした」と在籍の事実を認めた。“里親制度を使って子供を外に出している” Aは施設を退所後、岐阜県羽島市の県立高校に進む。ただし、実家からは通わずに複数の里親の下を転々とする生活を送るようになった。実父の知人が語る。「経済的な理由でしょうが、父親はかねてから“里親制度を使って子供を外に出している”と話していました」 里親の一人に連絡を取ると、「大きな事件を起こしてショックですし、世間の皆さんには申し訳ない気持ちです。いろいろ、思うところはあるのですが……」 と言って話を打ち切った。 続けて高校時代の同級生が回想するには、「彼は“2~3回、親が変わった”と話していました。親代わりの里親には“よくしてもらっている”と言い、うまくいっている様子でした。一方で実家との関係も悪くなかったみたいで、ちょくちょく実家にも帰っていましたよ」 高校時代の別の同級生も、「家庭は複雑な様子でしたが、実の親との仲は基本的に良さそうでした」 そう話しながら、「里親よりも、役所の人に対する不満をよく口にしていました。役所の人が定期的に面談に来るのですが、“今日は国の人が来るで、早よ帰らなあかん。面倒くせえ”と吐き捨てていた」三つのアルバイト 里親には感謝しつつ、そうやって頼らざるを得ない己が身上へのいら立ちがあったのかもしれない。 とはいえ、里親の下での高校生活はそれなりに充実したものだったようだ。「彼は放送部の所属で、お昼休みに校内放送を流していました。いろいろ話した後に音楽をかけるのですが、『ブルーハーツ』などのバンドの曲をよく流していました。3年生の時には部長として、部員をまとめる立場でもありました」(高校時代の友人) 続けてこんな話も。「彼は高校を卒業するまでにアルバイトを三つしています。仕事内容は、一つ目はドラッグストアの倉庫での作業。二つ目はラーメン店のキッチンでの調理補助。三つ目は倉庫での洋服の箱詰めでした。どのバイトも続けたのは半年くらい。週3日程度のシフトに入っていたと思います」「格闘モノ」「戦争モノ」に傾倒 稼いだ金は趣味に費やしていたという。「自転車が趣味で、ロードバイクに乗っていました。ゲームも好きで、ソニーの『プレイステーション4』も買っていた。あとは友達とカラオケに行ったり、ご飯を食べに行ったりしていました」 先の同級生も同意する。「はい、彼とはカラオケに行って遊ぶことが多かったですね。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』とかの古い曲をよく知っていて、歌うのが好きでした」 1975年の曲である。「ええ、“親父が聴いていて”と言ってました。里子に出されても父親を恨んでいる様子などなかったですし、自分の境遇をある程度は受け入れていたはず」 だが他方、こんな逸話も思い起こす。「里親が作るお弁当に猫の毛が入っていた時は嫌がっていました。“また(猫の毛が)入ってるわ”と言って表向きは笑ってみせてましたが、以降、お弁当は持ってこなくなりました」 こうした“里子生活”の最中に「格闘モノ」「戦争モノ」へと耽溺していく。「高校の図書館に漫画が結構あって、中国の春秋戦国時代を描いた『キングダム』を好んで読んでました。男っぽい漫画が好きで『刃牙』も読んでたな」 さらには、「戦争についてもよく学んでいました。アマゾンプライムでモノクロの戦争ドキュメンタリーのような映画を観ては“お前も観ろよ”と僕に薦めてくることがありました。高校の終盤になるとウクライナで戦争が始まって、“あそこ(ウクライナ)に派遣されて死んでくるわ”と冗談も口にしていましたよ」 ゲームの趣味も戦争色が濃くなっていった。「彼は本当にゲームが好きで、プレイステーションみたいな家庭用ゲーム機のゲームだけでなく、PCでやるようなタイプのものも含めてひと通りのFPS(一人称視点のシューティングゲーム)をやってました」自衛隊の案内役と親しく やがて、Aは現実世界においても銃と戦争を志向するようになる。「“海外に行ったら銃に触(さわ)れる。だから撃ってみたいよね”なんて話もしていましたね」(同) そのためかどうか、海外で自衛隊員として活動する夢を実際に語るようになったのだという。高校時代の先の友人が明かす。「彼は高校3年生に上がるくらいのタイミングで自衛隊の入隊試験対策の勉強を始めて、放課後などに冊子を使って勉強していましたね。1日何時間かは必ず勉強していて、冊子を見せてもらったんですけど、重要なところにメモ書きもちゃんとしていました。自衛隊に入るモチベーションは高かったと思います。面接対策などいろいろやっていると聞きました」 自衛隊熱は日々高まる一方だった。「“見学会があるから行ってみない?”と誘われて、いちど一緒に岐阜県内の駐屯地に見学に行ったことがあります。その時は彼の里親に車で送り迎えをしてもらいました。自衛隊のカレーを食べたり、戦車や自動小銃、装備服の見学をしました。彼はテンションが高くて楽しそうにしていましたよ。何回も自衛隊の見学に行っていたので、自衛隊の案内役の人とも知り合いになっていました」 熱を帯びやすいその性向は、友人らの記憶に刻まれるほどのものだった。「自分が分からないことは納得できるまで追求したいという気持ちが強いヤツで、その過程で熱くなるという感じ。理由がなく怒るわけではないんだけど、周囲は彼の振る舞いが理解できないこともあった。例えば英語のテストでバツをもらった時のことです。彼は自分の解答が正解だと思い込んでるので、間違いと採点されたことに対して先生に抗議していました」(同級生のひとり)激高した父親 元バイト先のラーメン店の店員は、こう回想する。「自衛隊に入るのが小さい頃からの夢だって、ことあるごとに言っていて、でも学力は追いついてなかったみたいです。高2になる前にバイトはやめて、高3になってから同級生とラーメンを食べに来たんだけど、以前は耳にかかるくらいのロン毛だったのに丸坊主になってた。羽島から岐阜市の山の上にある岐阜城まで一日がかりで自転車をこいでいくこともあったそうで、自衛隊に入るために体を鍛えていると言ってました」 かくて念願かなって自衛隊に職を得たことに、実父の喜びはひとしおだった。実父の勤務先である岐阜市内の運送業者の関係者が言う。「“息子がこの春から自衛隊に入る”と話した時は、とてもうれしそうでしたよ。入隊の際にも、わざわざ息子を送り届けたようです」 そんな幸せも、それからわずか3カ月後、息子自身の凶行によって絶たれてしまうのである。「事件の日、父親から“実は息子があの事件を起こしてしまった。今後、どうなるかわからないが、ひとまず仕事はしばらく休ませてくれ”という連絡がありました」(同) 父親はマスコミの取材攻勢を避けて妻子とともに自宅から一時避難した。が、事件から5日後の19日、自衛隊警務隊の家宅捜索に立ち会うために帰宅。現在、16歳になる三男と一緒に自宅で寝起きしている。 三男は取材に対し、「起きてしまった事件なんで。なんと言ったらいいんでしょうかね、悲しいというか、現実味がないっていうか」 つとめて平静にそう言うのだが、父親は、「たわけ! うるせえ、馬鹿野郎!」 と激高。だが、Aのことについて聞くと、「普通の子やけえ……」 と言って、肉親としての心情ものぞかせた。どうして“危険人物”が候補生に選ばれた? 事件は未然に防げなかったのか。この点、さる陸自関係者に聞いてみると、「射撃訓練などで隊員が暴走して別の隊員を撃とうとしたり、あるいは実際に撃ったりした時にどうすべきか、という行動指針は自衛隊にありません。撃たれたらどうしようもない。銃を持つ相手を抑える側は、いかに訓練の教官といえども、無暗に銃は持てませんから。弾倉と弾薬を射座に着く前に持てるという現在の状況こそが問題なのです」 そもそもどうしてAのような“危険人物”が候補生に選ばれてしまったのか。「慢性的に自衛隊員のなり手が足りておらず、実際には希望すれば誰でも入隊できるというのが現実なんです」(同) 銃を持つことを許される組織に「人を撃ちたい」衝動に駆られたような危険人物が難なく入れてしまう。もし彼が弾薬を奪って、射撃場から抜け出していたら……。社会にとって重大な脅威と言うほかあるまい。18歳が放った無情の銃弾は、国民を守る自衛隊への信任をも揺るがしたのである。「週刊新潮」2023年6月29日号 掲載
過酷な鍛錬を積む猛者たちをしても、その瞬間は“防衛”不能の状態だったのか。
岐阜県岐阜市の陸上自衛隊日野基本射撃場で今月14日午前9時8分ごろ、同僚による銃撃で自衛官2名が死亡し、1名が重傷を負った事件。現場は幅30メートル、全長340メートルの屋内射撃場だ。
陸自第10師団が管理し、当日は朝から自衛官候補生約70名による実弾射撃訓練が行われていた。指導にあたる自衛官約50名も参加し、その場には総勢約120名が居合わせたことになる。
89式小銃の射撃訓練では通常、訓練生は弾薬置き場で直径5.56ミリの弾丸29発を渡される。が、指定の射撃位置である「射座」につくまで小銃に弾を装填することは許されない。また「準備線」で服装をチェックされ、「待機線」で順番を待つ間も、余計な動作をするのは厳にご法度である。
ところが、待機場所にいた第10師団第35普通科連隊所属の候補生1名が突如、思いがけない行動に出た。
周囲に向けて「動くな」と大声で威嚇。待機場所を管理していた八代航佑3等陸曹(25)が即座にこれに反応して制止しようとするが、候補生の男はちゅうちょなく八代3等陸曹の脇腹に発砲した。
踵(きびす)を返した男は右斜め後方の弾薬置き場を目指し、「弾薬係」の菊松安親1等陸曹(52)の胸を銃撃。続けざまに原悠介3等陸曹(25)の左腿にも銃弾を発射し、返す刀とばかりにもう一度、菊松1等陸曹に銃弾を撃ち込み、とどめを刺した。冷酷無比というほかない。
男は羽交い締めにされて取り押さえられたが、その間も抵抗。壁などに乱射を続けたのだった。
菊松1等陸曹と八代3等陸曹は搬送先の病院で死亡が確認され、原3等陸曹も全治3カ月という重傷を負った。
「候補生は犯行目的について、あくまで弾薬置き場から実弾を奪おうとしただけだと話しています。その際に邪魔されたから発砲したのだと」(社会部デスク)
瞬時に3人を殺傷した男が、制圧もされず、大量の銃弾を手にしていたら……。一体、どんな惨事が続けて起きていたかわからない。
Aはトラック運転手の父親と母親を両親に持つ。6人きょうだいの次男で、すでに成人している長女と長男に続く第3子にあたる。
一家の原点は岐阜市内の岐阜市中央卸売市場に近い、今は取り壊されたアパートだ。
当時の大家が振り返る。
「あの大家族の家ね。いつもおむつが窓際に干してあってね。家賃は3万円で安かったのに、最後は家賃を支払わず、家財道具もほったらかしにして、あいさつもなく出て行きましたよ」
一家は困窮。両親はAを2歳上の兄とともに岐阜県瑞穂市の児童養護施設に預けた。Aは施設から幼稚園と小学校に通った。
小学校の元同級生が言う。
「Aという名前の男の子は確かにいたと思います。でも、休みがちでした。3年生で転校しましたよ」
兄とともに移った先こそ、現在も一家が居を構える同県安八(あんぱち)郡の貸家。子どもたちは再び、親元で過ごすようになったのだ。
「昔から一緒に遊ぶ間柄だったので悲しいです」
そう語るのは、安八郡にある小~中学校時代の元同級生だ。Aは小学校ではコマ遊びなどをする「伝統遊びクラブ」、中学では「美術部」に所属したが、放課後はもっぱらゲームに時間を費やしていたといい、
「小学校では『妖怪ウォッチ』、中学では『スプラトゥーン』を一緒によくやりました。ひと月前もシューティングゲームの『フォートナイト』をオンラインで一緒にプレイしたばかり。なかなかの腕前です」(同)
ゲーム好きで内向的な性格のAにはまた、子どもの頃からいったんキレると手に負えない面があった。
「不登校気味でしたが一度、中学校にスマホとイヤホンを持ち込んで、校則違反だと先生に怒られたことがあります。それに対してAは“なんで持ってきたらダメなんか”と逆ギレした。結局、先生に私物は没収され、親との三者面談を受けていました」
また別の元同級生いわく、
「中学に入って接しにくい雰囲気になりました。髪が長くて、前髪が目にかかるようになって……。喜怒哀楽がない感じ。友達の間でも“大丈夫か”みたいな話になっていました」
ほどなくほぼ不登校となり、ついに完全に姿を消すことに。
「彼は中2の頃に突然転校しました。なぜ、どこに転校したのか。先生からは特に何も説明されませんでした」(同)
もっとも、教師には「転校理由」を生徒たちに公にできないワケがあった。さる捜査関係者が声をひそめて言う。
「Aは素行に問題があり、中学の後半を岐阜県関市の児童心理療育施設で過ごしています。その施設には地元の公立中学の分教室があり、彼はそこで授業を受けていた」
児童心理療育施設とは耳慣れないが、関市健康福祉部子ども家庭課によると、
「家庭環境に問題があるなどの理由で、社会生活への適応が困難となった児童を入所させる施設です」
そこで件の施設に直接尋ねたところ、
「なにもお答えできない」
だが、さる元職員に聞くと「(彼とは)仲良しでした」と在籍の事実を認めた。
Aは施設を退所後、岐阜県羽島市の県立高校に進む。ただし、実家からは通わずに複数の里親の下を転々とする生活を送るようになった。実父の知人が語る。
「経済的な理由でしょうが、父親はかねてから“里親制度を使って子供を外に出している”と話していました」
里親の一人に連絡を取ると、
「大きな事件を起こしてショックですし、世間の皆さんには申し訳ない気持ちです。いろいろ、思うところはあるのですが……」
と言って話を打ち切った。
続けて高校時代の同級生が回想するには、
「彼は“2~3回、親が変わった”と話していました。親代わりの里親には“よくしてもらっている”と言い、うまくいっている様子でした。一方で実家との関係も悪くなかったみたいで、ちょくちょく実家にも帰っていましたよ」
高校時代の別の同級生も、
「家庭は複雑な様子でしたが、実の親との仲は基本的に良さそうでした」
そう話しながら、
「里親よりも、役所の人に対する不満をよく口にしていました。役所の人が定期的に面談に来るのですが、“今日は国の人が来るで、早よ帰らなあかん。面倒くせえ”と吐き捨てていた」
里親には感謝しつつ、そうやって頼らざるを得ない己が身上へのいら立ちがあったのかもしれない。
とはいえ、里親の下での高校生活はそれなりに充実したものだったようだ。
「彼は放送部の所属で、お昼休みに校内放送を流していました。いろいろ話した後に音楽をかけるのですが、『ブルーハーツ』などのバンドの曲をよく流していました。3年生の時には部長として、部員をまとめる立場でもありました」(高校時代の友人)
続けてこんな話も。
「彼は高校を卒業するまでにアルバイトを三つしています。仕事内容は、一つ目はドラッグストアの倉庫での作業。二つ目はラーメン店のキッチンでの調理補助。三つ目は倉庫での洋服の箱詰めでした。どのバイトも続けたのは半年くらい。週3日程度のシフトに入っていたと思います」
稼いだ金は趣味に費やしていたという。
「自転車が趣味で、ロードバイクに乗っていました。ゲームも好きで、ソニーの『プレイステーション4』も買っていた。あとは友達とカラオケに行ったり、ご飯を食べに行ったりしていました」
先の同級生も同意する。
「はい、彼とはカラオケに行って遊ぶことが多かったですね。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』とかの古い曲をよく知っていて、歌うのが好きでした」
1975年の曲である。
「ええ、“親父が聴いていて”と言ってました。里子に出されても父親を恨んでいる様子などなかったですし、自分の境遇をある程度は受け入れていたはず」
だが他方、こんな逸話も思い起こす。
「里親が作るお弁当に猫の毛が入っていた時は嫌がっていました。“また(猫の毛が)入ってるわ”と言って表向きは笑ってみせてましたが、以降、お弁当は持ってこなくなりました」
こうした“里子生活”の最中に「格闘モノ」「戦争モノ」へと耽溺していく。
「高校の図書館に漫画が結構あって、中国の春秋戦国時代を描いた『キングダム』を好んで読んでました。男っぽい漫画が好きで『刃牙』も読んでたな」
さらには、
「戦争についてもよく学んでいました。アマゾンプライムでモノクロの戦争ドキュメンタリーのような映画を観ては“お前も観ろよ”と僕に薦めてくることがありました。高校の終盤になるとウクライナで戦争が始まって、“あそこ(ウクライナ)に派遣されて死んでくるわ”と冗談も口にしていましたよ」
ゲームの趣味も戦争色が濃くなっていった。
「彼は本当にゲームが好きで、プレイステーションみたいな家庭用ゲーム機のゲームだけでなく、PCでやるようなタイプのものも含めてひと通りのFPS(一人称視点のシューティングゲーム)をやってました」
やがて、Aは現実世界においても銃と戦争を志向するようになる。
「“海外に行ったら銃に触(さわ)れる。だから撃ってみたいよね”なんて話もしていましたね」(同)
そのためかどうか、海外で自衛隊員として活動する夢を実際に語るようになったのだという。高校時代の先の友人が明かす。
「彼は高校3年生に上がるくらいのタイミングで自衛隊の入隊試験対策の勉強を始めて、放課後などに冊子を使って勉強していましたね。1日何時間かは必ず勉強していて、冊子を見せてもらったんですけど、重要なところにメモ書きもちゃんとしていました。自衛隊に入るモチベーションは高かったと思います。面接対策などいろいろやっていると聞きました」
自衛隊熱は日々高まる一方だった。
「“見学会があるから行ってみない?”と誘われて、いちど一緒に岐阜県内の駐屯地に見学に行ったことがあります。その時は彼の里親に車で送り迎えをしてもらいました。自衛隊のカレーを食べたり、戦車や自動小銃、装備服の見学をしました。彼はテンションが高くて楽しそうにしていましたよ。何回も自衛隊の見学に行っていたので、自衛隊の案内役の人とも知り合いになっていました」
熱を帯びやすいその性向は、友人らの記憶に刻まれるほどのものだった。
「自分が分からないことは納得できるまで追求したいという気持ちが強いヤツで、その過程で熱くなるという感じ。理由がなく怒るわけではないんだけど、周囲は彼の振る舞いが理解できないこともあった。例えば英語のテストでバツをもらった時のことです。彼は自分の解答が正解だと思い込んでるので、間違いと採点されたことに対して先生に抗議していました」(同級生のひとり)
元バイト先のラーメン店の店員は、こう回想する。
「自衛隊に入るのが小さい頃からの夢だって、ことあるごとに言っていて、でも学力は追いついてなかったみたいです。高2になる前にバイトはやめて、高3になってから同級生とラーメンを食べに来たんだけど、以前は耳にかかるくらいのロン毛だったのに丸坊主になってた。羽島から岐阜市の山の上にある岐阜城まで一日がかりで自転車をこいでいくこともあったそうで、自衛隊に入るために体を鍛えていると言ってました」
かくて念願かなって自衛隊に職を得たことに、実父の喜びはひとしおだった。実父の勤務先である岐阜市内の運送業者の関係者が言う。
「“息子がこの春から自衛隊に入る”と話した時は、とてもうれしそうでしたよ。入隊の際にも、わざわざ息子を送り届けたようです」
そんな幸せも、それからわずか3カ月後、息子自身の凶行によって絶たれてしまうのである。
「事件の日、父親から“実は息子があの事件を起こしてしまった。今後、どうなるかわからないが、ひとまず仕事はしばらく休ませてくれ”という連絡がありました」(同)
父親はマスコミの取材攻勢を避けて妻子とともに自宅から一時避難した。が、事件から5日後の19日、自衛隊警務隊の家宅捜索に立ち会うために帰宅。現在、16歳になる三男と一緒に自宅で寝起きしている。
三男は取材に対し、
「起きてしまった事件なんで。なんと言ったらいいんでしょうかね、悲しいというか、現実味がないっていうか」
つとめて平静にそう言うのだが、父親は、
「たわけ! うるせえ、馬鹿野郎!」
と激高。だが、Aのことについて聞くと、
「普通の子やけえ……」
と言って、肉親としての心情ものぞかせた。
事件は未然に防げなかったのか。この点、さる陸自関係者に聞いてみると、
「射撃訓練などで隊員が暴走して別の隊員を撃とうとしたり、あるいは実際に撃ったりした時にどうすべきか、という行動指針は自衛隊にありません。撃たれたらどうしようもない。銃を持つ相手を抑える側は、いかに訓練の教官といえども、無暗に銃は持てませんから。弾倉と弾薬を射座に着く前に持てるという現在の状況こそが問題なのです」
そもそもどうしてAのような“危険人物”が候補生に選ばれてしまったのか。
「慢性的に自衛隊員のなり手が足りておらず、実際には希望すれば誰でも入隊できるというのが現実なんです」(同)
銃を持つことを許される組織に「人を撃ちたい」衝動に駆られたような危険人物が難なく入れてしまう。もし彼が弾薬を奪って、射撃場から抜け出していたら……。社会にとって重大な脅威と言うほかあるまい。18歳が放った無情の銃弾は、国民を守る自衛隊への信任をも揺るがしたのである。
「週刊新潮」2023年6月29日号 掲載