茨城県つくば市で訪問診察を続ける『ホームオン・クリニック』院長・平野国美氏は、この地で20年間、「人生の最期は自宅で迎えたい」と望む、多くの末期患者の終末医療を行ってきた。5500人以上の患者とその家族に出会い、2700人以上の最期に立ち会った医師が、人生の最期を迎える人たちを取り巻く、令和のリアルをリポートする――。
我々医療者は、インチキ健康食品やトンデモ医学に負けてしまう事がある。特に終末期を迎えたがん患者にそれは多い。インチキとトンデモ達は余命幾ばくも無い患者とその家族に群がり、甘い言葉をささやいては、患者の財産とQOLを奪っていく。
医師を志す者たちは、医学生の頃から「患者の痛みの分かる医者になれ」と何度も言われ続けて医者となったはずだ。しかし一体、どれだけの医者が、その言葉を胸に刻んで今日も診療に臨んでいるだろうか。インチキとトンデモに騙される患者が未だにいる中、これで本当に患者の痛みに寄り添えた医療を行えていると言えるのだろうか。
ある時、その問いを私は患者の夫に突きつけられた――。これは私の苦い経験である。
患者は元高校教師の平山幸子さん(仮名・60歳)。喫煙者ではなかったが、肺癌に冒された。手術と抗がん剤療法を行ったものの、効果が見られなかったため、在宅で緩和療法を行っていきたいという依頼だった。
彼女の介護者は夫の茂一さん(仮名・62歳)。元製薬会社の研究員で、名門大学の薬学部を出た博士である。
photo by gettyimages
しかし診察の依頼は、この二人からではなくて、同じ市内に住む長女からの依頼だった。患者夫婦は、私が訪問診療でこの家に入る事を、納得していないのだという。電話口の娘さんは必死に訴えてきた。「父は悪い人ではないんです。ただ、母の病気で性格が頑なになってしまったんです。初診日には私も立ち会って父を説得しますので、なんとかお願いしたいです」まずは直接、患者から話を聞いてみる事にした。病院をたらいまわしにされた初診日、予定の時間に患者宅に向かうと長女は玄関前で待ってくれていた。「お世話になります。もしかしたら、特に父が御不快な思いをさせるかもしれませんが、許してください」すがるように言われた。かなり両親の事で困っている様子だ。長女に案内されて家に入ると、患者の幸子さんは応接間のソファーに横たわっていた。深々と毛糸の帽子を被り、目は閉じていた。かなり痩せており、壁に掛けられた元気だった頃の家族写真と比較するまでもなく、病状の悪化からくる異常な体重減少である“るい痩”が進んでいる事がわかる。病状的には進行した肺がんで多くみられる合併症のひとつ、がん性悪液質といったところか。末期の状態だと考えられる。二階の寝室から一階に降りるだけでも、相当辛くなっていると思われる。夫はベッド脇の椅子に腰を下ろして、妻を見つめていた。私たちに気づいていると思うが背中を向けたままだ。背中から敵意さえ感じる。「お父さん、今度、診察に来てくれることになった先生だよ」「帰れ…。うちには必要ない」「お父さん、失礼だよ。お母さんだってもう都内まで病院に通うのもきついし、お医者さんにも、地元の緩和ケアの病院か訪問診療の先生を探した方がいいって、散々言われていたじゃん!」「あんなの医者じゃない。ただの拝金主義者だ。絶対に許さない。まだまだやれる事があるのに、あいつは途中で見捨てたんだ。今は治せる医者が必要な時なんだ。訪問診療で稼いでいるような、二流の医者はいらない。さっさと帰れ!」photo by gettyimages 私は「二流の医者」と言われても気にならないが、長女が「ごめんなさい」と言わんばかりの目で私をちらっと見て、必死に食い下がった。「もう治療でお母さんを受け入れてくれる病院なんて無いんだよ? この前だってお母さんが深夜に大変になって、さんざん色々な病院に電話したけど、たらいまわしにされて、やっと見つかった病院からも、『明日は元の病院へ行ってください』と追い出されたじゃないの。また、ああなったらどうするの?」うちはまだそんな時期じゃない背中を向けて喋っていた茂一さんがここでやっと振り返った。長女を真っ赤な顔で睨みつけた。「あの後、温熱療法を行ってちゃんと痛みは消えた。本当は今日もそこへ行くはずだったんだぞ! だけどお前が家にいてくれと言うからキャンセルしたんだ。俺はな、正直お前が良い医者を連れてくるからというので期待していたんだ。でも名前を検索したら、この平野さんってのは、終末期医療だの看取りだのを標榜している死神みたいな医者じゃないか」今度は私を睨んだ。「うちはまだ、その時期じゃないんだよ。もう帰ってください」全員が沈黙し、重苦しい空気が肌にまとわりついた。患者本人である幸子さんの意見も聞きたいが目を瞑ったまま黙っている。患者の意思がわからない。幸子さんの余命は幾ばくもない。何かあった時に駆けつけられる主治医は必要だろう。しかし、だからといって必要とされていない患者宅に出向くのも辛いものがある。今日は長女と一旦、撤収するべきか――。そんな事を頭の中でぐるぐる考えていると、長女が茂一さんにみついた。photo by gettyimages 「私も嫁いでいて、子育て中なの! 毎日保育園の送り迎えもあるし、生活していくためにもパートに出かけなくちゃいけないの! だから毎日ずっとお母さんの側にいてあげられないの。無理なの。お父さんがお母さんのために一生懸命なのはわかるよ。でも、もう振り回すのはやめて! お母さんがかわいそう。私も辛い。頼むから怪しい本で見つけた健康法やら、誰かに勧められた民間療法を、なんでもかんでもお母さんに試すのはやめて! お願いだからお母さんを休ませて。それで月一回でもいいから、ちゃんとした訪問診療をいれて下さい」帰り際、泣きじゃくった長女に、玄関先で深々と頭を下げられた。私はこの流れで、歓迎はされていない患者宅に通う事になった。そして、訪問診療は月一回どころでは済まなくなっていった。後編記事『看取り医を「死神」呼ばわり…最愛の妻を亡くした夜に62歳夫が絞り出した言葉』に続く。
しかし診察の依頼は、この二人からではなくて、同じ市内に住む長女からの依頼だった。患者夫婦は、私が訪問診療でこの家に入る事を、納得していないのだという。電話口の娘さんは必死に訴えてきた。
「父は悪い人ではないんです。ただ、母の病気で性格が頑なになってしまったんです。初診日には私も立ち会って父を説得しますので、なんとかお願いしたいです」
まずは直接、患者から話を聞いてみる事にした。
初診日、予定の時間に患者宅に向かうと長女は玄関前で待ってくれていた。
「お世話になります。もしかしたら、特に父が御不快な思いをさせるかもしれませんが、許してください」
すがるように言われた。かなり両親の事で困っている様子だ。
長女に案内されて家に入ると、患者の幸子さんは応接間のソファーに横たわっていた。深々と毛糸の帽子を被り、目は閉じていた。かなり痩せており、壁に掛けられた元気だった頃の家族写真と比較するまでもなく、病状の悪化からくる異常な体重減少である“るい痩”が進んでいる事がわかる。病状的には進行した肺がんで多くみられる合併症のひとつ、がん性悪液質といったところか。末期の状態だと考えられる。二階の寝室から一階に降りるだけでも、相当辛くなっていると思われる。
夫はベッド脇の椅子に腰を下ろして、妻を見つめていた。私たちに気づいていると思うが背中を向けたままだ。背中から敵意さえ感じる。
「お父さん、今度、診察に来てくれることになった先生だよ」「帰れ…。うちには必要ない」「お父さん、失礼だよ。お母さんだってもう都内まで病院に通うのもきついし、お医者さんにも、地元の緩和ケアの病院か訪問診療の先生を探した方がいいって、散々言われていたじゃん!」「あんなの医者じゃない。ただの拝金主義者だ。絶対に許さない。まだまだやれる事があるのに、あいつは途中で見捨てたんだ。今は治せる医者が必要な時なんだ。訪問診療で稼いでいるような、二流の医者はいらない。さっさと帰れ!」
photo by gettyimages
私は「二流の医者」と言われても気にならないが、長女が「ごめんなさい」と言わんばかりの目で私をちらっと見て、必死に食い下がった。「もう治療でお母さんを受け入れてくれる病院なんて無いんだよ? この前だってお母さんが深夜に大変になって、さんざん色々な病院に電話したけど、たらいまわしにされて、やっと見つかった病院からも、『明日は元の病院へ行ってください』と追い出されたじゃないの。また、ああなったらどうするの?」うちはまだそんな時期じゃない背中を向けて喋っていた茂一さんがここでやっと振り返った。長女を真っ赤な顔で睨みつけた。「あの後、温熱療法を行ってちゃんと痛みは消えた。本当は今日もそこへ行くはずだったんだぞ! だけどお前が家にいてくれと言うからキャンセルしたんだ。俺はな、正直お前が良い医者を連れてくるからというので期待していたんだ。でも名前を検索したら、この平野さんってのは、終末期医療だの看取りだのを標榜している死神みたいな医者じゃないか」今度は私を睨んだ。「うちはまだ、その時期じゃないんだよ。もう帰ってください」全員が沈黙し、重苦しい空気が肌にまとわりついた。患者本人である幸子さんの意見も聞きたいが目を瞑ったまま黙っている。患者の意思がわからない。幸子さんの余命は幾ばくもない。何かあった時に駆けつけられる主治医は必要だろう。しかし、だからといって必要とされていない患者宅に出向くのも辛いものがある。今日は長女と一旦、撤収するべきか――。そんな事を頭の中でぐるぐる考えていると、長女が茂一さんにみついた。photo by gettyimages 「私も嫁いでいて、子育て中なの! 毎日保育園の送り迎えもあるし、生活していくためにもパートに出かけなくちゃいけないの! だから毎日ずっとお母さんの側にいてあげられないの。無理なの。お父さんがお母さんのために一生懸命なのはわかるよ。でも、もう振り回すのはやめて! お母さんがかわいそう。私も辛い。頼むから怪しい本で見つけた健康法やら、誰かに勧められた民間療法を、なんでもかんでもお母さんに試すのはやめて! お願いだからお母さんを休ませて。それで月一回でもいいから、ちゃんとした訪問診療をいれて下さい」帰り際、泣きじゃくった長女に、玄関先で深々と頭を下げられた。私はこの流れで、歓迎はされていない患者宅に通う事になった。そして、訪問診療は月一回どころでは済まなくなっていった。後編記事『看取り医を「死神」呼ばわり…最愛の妻を亡くした夜に62歳夫が絞り出した言葉』に続く。
私は「二流の医者」と言われても気にならないが、長女が「ごめんなさい」と言わんばかりの目で私をちらっと見て、必死に食い下がった。
「もう治療でお母さんを受け入れてくれる病院なんて無いんだよ? この前だってお母さんが深夜に大変になって、さんざん色々な病院に電話したけど、たらいまわしにされて、やっと見つかった病院からも、『明日は元の病院へ行ってください』と追い出されたじゃないの。また、ああなったらどうするの?」
背中を向けて喋っていた茂一さんがここでやっと振り返った。長女を真っ赤な顔で睨みつけた。
「あの後、温熱療法を行ってちゃんと痛みは消えた。本当は今日もそこへ行くはずだったんだぞ! だけどお前が家にいてくれと言うからキャンセルしたんだ。俺はな、正直お前が良い医者を連れてくるからというので期待していたんだ。でも名前を検索したら、この平野さんってのは、終末期医療だの看取りだのを標榜している死神みたいな医者じゃないか」
今度は私を睨んだ。
「うちはまだ、その時期じゃないんだよ。もう帰ってください」
全員が沈黙し、重苦しい空気が肌にまとわりついた。患者本人である幸子さんの意見も聞きたいが目を瞑ったまま黙っている。患者の意思がわからない。
幸子さんの余命は幾ばくもない。何かあった時に駆けつけられる主治医は必要だろう。しかし、だからといって必要とされていない患者宅に出向くのも辛いものがある。今日は長女と一旦、撤収するべきか――。そんな事を頭の中でぐるぐる考えていると、長女が茂一さんにみついた。
photo by gettyimages
「私も嫁いでいて、子育て中なの! 毎日保育園の送り迎えもあるし、生活していくためにもパートに出かけなくちゃいけないの! だから毎日ずっとお母さんの側にいてあげられないの。無理なの。お父さんがお母さんのために一生懸命なのはわかるよ。でも、もう振り回すのはやめて! お母さんがかわいそう。私も辛い。頼むから怪しい本で見つけた健康法やら、誰かに勧められた民間療法を、なんでもかんでもお母さんに試すのはやめて! お願いだからお母さんを休ませて。それで月一回でもいいから、ちゃんとした訪問診療をいれて下さい」帰り際、泣きじゃくった長女に、玄関先で深々と頭を下げられた。私はこの流れで、歓迎はされていない患者宅に通う事になった。そして、訪問診療は月一回どころでは済まなくなっていった。後編記事『看取り医を「死神」呼ばわり…最愛の妻を亡くした夜に62歳夫が絞り出した言葉』に続く。
「私も嫁いでいて、子育て中なの! 毎日保育園の送り迎えもあるし、生活していくためにもパートに出かけなくちゃいけないの! だから毎日ずっとお母さんの側にいてあげられないの。無理なの。お父さんがお母さんのために一生懸命なのはわかるよ。でも、もう振り回すのはやめて! お母さんがかわいそう。私も辛い。頼むから怪しい本で見つけた健康法やら、誰かに勧められた民間療法を、なんでもかんでもお母さんに試すのはやめて! お願いだからお母さんを休ませて。それで月一回でもいいから、ちゃんとした訪問診療をいれて下さい」
帰り際、泣きじゃくった長女に、玄関先で深々と頭を下げられた。私はこの流れで、歓迎はされていない患者宅に通う事になった。そして、訪問診療は月一回どころでは済まなくなっていった。
後編記事『看取り医を「死神」呼ばわり…最愛の妻を亡くした夜に62歳夫が絞り出した言葉』に続く。