間寛平、西川きよし、宮本亞門、三谷幸喜……いずれも著名人ばかりだが、彼らの共通点をご存知だろうか。ひょっとすると、男性のほうが正解者は多いかもしれない。答えは「前立腺がんの罹患を発表した人々」だ。(全2回目の2回目)
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【写真をみる】「がん手術をロボットがを手伝う?」男性の手術にも用いられた「ダ・ヴィンチ」と呼ばれる“手術用ロボット” 複数のアームと目のようなカメラが特徴的だ 天皇陛下も検査を受けられた。2022年11月、前立腺のMRI検査を受診された。前立腺がんの診断に使われるPSA(前立腺特異抗原)の数値が高かったためだ。

在位中だった上皇陛下も、2002年12月に前立腺がんが見つかり、翌03年1月に摘出手術を受けられた。手術後、男性が感じたある“異変”とは?(写真はイメージ) 公益財団法人「日本対がん協会」の公式サイトには、《部位別がん罹患数(2019年)男性》のデータが紹介され、以下のように説明されている。《男性の部位別の罹患数をみると、男性は前立腺がんが9万4748人(16・7%)と最も多く、次いで大腸がん8万7872人(15・5%)、胃がん8万5325人(15・1%)、肺がん8万4325人(14・9%)、肝がん2万5339人(4・5%)の順となりました》 実のところ、死亡者数はそれほどでもない。とはいえ男性なら、誰でも前立腺がんに罹患する可能性がある。まさに“他人事”ではない。 手術はどのような内容なのか、術後はどのような状態になるのか──手術を受けた男性(61)がデイリー新潮の取材に赤裸々に語ってくれた。 男性は2022年4月、勤務先が実施した健康診断でPSAが11・86だと知った。一般的に4・0以上で「高い」と判断され、2桁だと前立腺がんの疑いが強くなる。 8月に大学病院で生検を受け、9月に前立腺がんだと医師から告知された。治療には手術、放射線、化学療法などがあるが、担当医は「ロボット支援腹腔鏡下根治的前立腺全摘除術(ダ・ヴィンチ)」がベストという見解だった。手術後は爆睡 ダ・ヴィンチとは、腹腔鏡手術の進化系と言える。バーチャルリアリティーの3次元立体映像を見ながら操作し、仮に執刀医の手が震えたとしてもロボットが補正してくれる。精確な手術が保証されているため、執刀医も思いきってメスを振るうことができる。 さらに、腹腔鏡手術のため出血量が50ccと極めて少ない。担当医は男性に「術後翌日には歩けるようになるほど回復が早い」と説明した。 手術は今年1月に行われた。看護師に案内されて手術室に入ると、目の前にダ・ヴィンチが置いてあったという。誓約書にサインすると全身麻酔をかけられ、男性は意識を失っていった。「私の名前を呼ぶ看護師さんの声で目を覚ますと、午後5時を過ぎていました。8時間を超える手術だったわけです。『無事に終了しましたよ』と言われて安心しましたが、意識はぼんやりとしていました。顔には酸素マスクがあり、チューブが体につながっているのが見えました。ナースコール用のボタンと、痛みが強い時に押すボタンの2つを握らされましたが、そのまま寝てしまいました」襲いかかった激痛 早朝に目が覚めた。激痛で寝ていられなくなったのだ。顔にへばりついている酸素マスクも煩わしい。「食欲は全くなく、水以外は喉を通りませんでした。朝の検温で微熱だと分かりましたが、酸素マスクは外され、看護師さんから『起き上がってください』と言われました。腹腔鏡手術ですから小さな傷とはいえ、おへその周りに6カ所の穴が開いています。上体を起こそうと腹筋に力を入れると、たちまち激痛が走りました」 腹部や腰に強烈な痛みを感じる。脂汗がだらだらと流れる。しばらくすると、下腹部も差し込むような痛みに襲われた。だが看護師は「今日から歩いてもらいます。そのほうが回復は早いです」とお構いなしだ。男性は「勘弁してくれ!」と心の中で叫んだ。「レントゲン室に行くように言われました。車いすを用意してくれましたが、乗る際に激痛が走り、レントゲン室に入ると再び激痛です。様々な体勢を取る必要があり、その度にあまりの痛さに『い、た、た、た、た……!』と悲鳴をあげてしまいました」 激痛にのたうち回っても、看護師は「歩け、歩け」を繰り返す。点滴スタンドでバランスを取りながら、ナースセンターの周りを歩いた。点滴スタンドに鎮痛剤が備え付けてあることは知っていたが、安易に頼ると治らないような気がして躊躇していた。鎮痛剤の威力 歩くのに意識を集中させすぎて、浴衣の前がはだけていたことに気づかなかった。看護師に指摘され、あまりの恥ずかしさに狼狽した。「病室に戻ってベッドに横になりました。相変わらず食欲はなく、じっとしていても痛みはひどくなる一方です。もう耐えられないと思い、鎮痛剤のボタンを押しました。すると劇的な変化が起きました。嘘のように痛みが消え、部屋が明るくなったような気がしました。非常に前向きな幸福な気持ちでいっぱいになったのです」 看護師が部屋に入ってくると、鎮痛剤の効果なのか、表情がきらきらと輝いて見えた。夜もぐっすりと眠れた。そして「会いたいと願っていた友人との再会」とか「仕事で立て続けに成功を収める」といった楽しい夢ばかりを見た。 翌朝の目覚めは快適だった。さっそくボタンを押してみた。あっという間に幸福な気持ちでいっぱいになる。その一方で食欲は全くない。看護師に「歩いてください」と言われたが、昨日の失態を思い出してやる気になれない。 翌日、朝食は通常食になったが、相変わらず食欲はない。食後、個室に2人の看護師が入ってきた。鎮痛剤の残量をチェックしている。「看護師さんに『点滴と鎮痛剤を外します』と言われ、強いショックを受けました。『痛くなったらどうすればいいんですか? まだ使いたいです』と懸命に食い下がりました。しかし看護師さんは『これは一種の麻薬なので、今日で終わりです。痛い時は飲み薬の鎮痛剤を持ってきます』と動じません。『あの心地よさ、深い眠り、楽しい夢がもう見られなくなる』と悲しくて仕方がありませんでした」尿漏れの始まり ところがしばらくすると、今度は腹部ではなく肩が異常なほど痛い。担当医が回診に来た際、「あまりにも辛い」と訴えてみた。すると意外な理由を説明してくれた。 ダ・ヴィンチ手術では頭を30度下げ、軽い逆立ちの状態で執刀するという。重力で腸を上半身側に移動させたほうが手術には都合がいい。男性の肩は8時間、全体重を支えていた。これで肩が悲鳴を上げたのだ。担当医から抗炎症剤を処方されると、幾分かは楽になった。 この頃から腹部の痛みは減っていった。代わりに浮上した悩みが尿漏れだ。看護師が尿道カテーテルを抜くと、すぐに釘を指された。「『カテーテルを抜いた瞬間から尿漏れが始まると思ってください』と言われました。尿漏れパッドを手渡されましたが、確かに前触れもなく股間が濡れ始め、かなり焦りました。その後、何度もトイレに行き、排尿量を記録します。徐々にパッドが重くなり、寝る前に新しいものに交換しました。ところが、『大丈夫だろうか。この年でおねしょは恥ずかしすぎる』と不安に襲われたのです」遂に退院 結局、一睡もできずに朝を迎えた。徹夜で格闘していると、尿漏れについて一つの発見があった。ベッドから立ち上がった時や、廊下を歩いていると濡れる。だが、横になっていると漏れないようなのだ。これが本当だとすれば、夜に眠っても問題がないことになる。 朝食が終わると、ベッドで横になってみる。確かに尿漏れはない。今夜は寝てみようと決心した。漏らしてしまったのなら、それはそれで仕方がない──。 廊下を歩いていると、窓の外に取引先の建物が見えた。「入院前のように働けるのだろうか」と考えながら歩き続ける。起きていると尿漏れが起きるが、何とか浴衣は汚れていない。そして夕方になると、担当医から明日の退院を告げられた。 退院の喜びと退院後の不安が交差しながら夜を迎えた。寝る前に何度もトイレに行く。「あの鎮痛剤があれば幸せな気持ちで寝られるかもしれないのに……」と考えているうちに徹夜の疲れからか寝てしまった。「退院の朝、お漏らしはしていませんでした。横になれば大丈夫なのだと心強くなり、朝から荷造りに励みました。友人が迎えに来てくれて、車でホームセンターに向かってもらいました。そして尿漏れバッドを探しましたが、種類があり過ぎてどれを選んだらいいのか悩みます。スマホで検索しても、ほとんど情報が出て来ないのです。戸惑いながら、いくつか買ってみました」スーパーで尿漏れ それから男性の「尿漏れと格闘する日々」が始まった。まずはネット通販の欠点に気づいた。価格は安いが、試供品を手に取って触ることができない。宅配便で届いた商品を開けてみると、装着する前からダメだと分かることもあった。「ホームセンターで『種類が多すぎる』という印象を持ったのも事実とは異なりました。尿漏れパッドの7割は女性用で、男性用の商品は少ないのです。おまけに男性用の主流は“軽く漏れる人”に対応したもので、私のように大量に漏らすことを想定したものは稀です。介護用のおむつなら種類は豊富ですが、それを履くのはかなりの抵抗感がありました」 日常生活が戻り、男性はスーパーに買い物へ出かけた。この時は入院中に使っていた尿漏れパッドを装着した。店内を回り、商品をカゴに入れて清算した。すると異変に気づいた。「買ったものをエコバックに移し替えていると、太ももにひやりとした感触が伝わりました。手を伸ばすと濡れています。『最悪だ! 周りの人に気づかれだろうか!?』。体を小さくして、うつむき加減で急いでスーパーを出ました。傷口が痛みましたが、それどころではありません。恥ずかしさと情けなさで死にたくなるような気分です」 帰宅して確認すると、原因が判明した。小さな字で「この尿漏れパッドはトランクスには使えない」と書いてあった。尿漏れで自己嫌悪 原因が分かっても、塞ぎ込んでしまった。食事をする気持ちもなくなり、ベッドに横になった。人間失格と烙印を押されたようだった。 なぜ男性用の尿漏れパッドに関する情報がネット上に少ないかも理解した。経験者は60代以上が多く、ネットに疎いということも大きいだろう。だが、根源的な理由は、尊厳が奪われたようで辛いのだ。尿を漏らし続けるという屈辱的な体験を、わざわざネット上に投稿する気分にはなれない。 それでもめげず、使用を推奨されているボクサーパンツやブリーフと尿漏れパッドの組み合わせを試すうち、徐々に日常生活を快適に過ごすことができるようになっていった。「手術後の変化として、お風呂が大好きになりました。手術前は普通に入浴していただけでしたが、術後は尿漏れパッドを外せるので爽快感が桁違いなのです。ある日、浴室から出て脱衣場で体を拭いていると、床に尿を漏らしてしまいました。たちまち自分に対して猛烈に腹が立ち、自己嫌悪から『手術なんてしなければよかった』と激しく後悔しました」 お風呂で幸せな気持ちになっていた分、余計に奈落の底へ突き落とされたような感覚になったのだ。「冷静さを取り戻すと、まず一人暮らしでよかったと考えました。もし妻が側にいたら、激しく当たり散らしていたでしょう。それほど精神的に動揺しました。一人暮らしですから、自分で精神を安定させるしかありません。そうするうちに、だんだんとではありますが、尿漏れをする自分を許せるというか、一緒にやっていけるようになりました」サニタリーボックス 尿漏れで一喜一憂しても仕方がない。リハビリを行っているが、効果が出るのは時間がかかる。術後6カ月が経過しても漏れていれば、別の対応策を試すと泌尿器科医から説明を受けていた。「脱衣場で漏らしてしまうなら、浴室で体を拭いて出ればいいのです。尿を漏らすからといって、私の価値が下がるはずもない。今ではそう思えるようになりました。実際、漏らすのが嫌で引きこもりになってしまう人もいるそうで、そういう方はなかなか治らない。じゃんじゃん漏らしながらゴルフをするような人のほうが回復は早いそうです」 職場復帰も果たしたが、尿を漏らすようになって困ったことが起きた。男性用のトイレにはサニタリーボックスがないのだ。高級なシティホテルや国会にも仕事で訪れたが、尿漏れパッドを捨てる場所はなかった。「私は内勤ではありません。外回りをしていると、尿漏れパッドが満タンになってしまうことがあります。トイレの個室で取り替えることは簡単ですが、捨てる場所がないのです。サニタリーボックスはもちろん、最近のトイレはゴミ箱も撤去しています。仕方なくビニール袋にくるみ、ジャケットのポケットに入れます。この状態で次の訪問先に向かったり、人と会ったりするのは、どうしても申し訳ない気持ちになってしまいます」骨盤底筋体操 男性は今、泌尿器科医の指導を受けながら、骨盤底筋体操に励んでいる。尿漏れの改善に効果が期待できると説明を受けており、ネット上でも様々な関連記事が公開されている。「要するに、お尻の筋肉を鍛えるわけです。ちょっと恥ずかしい話ですが、私は浴槽に入りながら、肛門に指を当てます。骨盤底筋体操を試すと、力が入っているのは腹筋ばかりで、お尻の筋肉を全く使っていないことが分かります。自分は尿を漏らしているという事実を冷静に受け止めながら、治療できるという希望も持つ。こんな態度で、術後の日常生活を続けています」デイリー新潮編集部
天皇陛下も検査を受けられた。2022年11月、前立腺のMRI検査を受診された。前立腺がんの診断に使われるPSA(前立腺特異抗原)の数値が高かったためだ。
在位中だった上皇陛下も、2002年12月に前立腺がんが見つかり、翌03年1月に摘出手術を受けられた。
公益財団法人「日本対がん協会」の公式サイトには、《部位別がん罹患数(2019年)男性》のデータが紹介され、以下のように説明されている。
《男性の部位別の罹患数をみると、男性は前立腺がんが9万4748人(16・7%)と最も多く、次いで大腸がん8万7872人(15・5%)、胃がん8万5325人(15・1%)、肺がん8万4325人(14・9%)、肝がん2万5339人(4・5%)の順となりました》
実のところ、死亡者数はそれほどでもない。とはいえ男性なら、誰でも前立腺がんに罹患する可能性がある。まさに“他人事”ではない。
手術はどのような内容なのか、術後はどのような状態になるのか──手術を受けた男性(61)がデイリー新潮の取材に赤裸々に語ってくれた。
男性は2022年4月、勤務先が実施した健康診断でPSAが11・86だと知った。一般的に4・0以上で「高い」と判断され、2桁だと前立腺がんの疑いが強くなる。
8月に大学病院で生検を受け、9月に前立腺がんだと医師から告知された。治療には手術、放射線、化学療法などがあるが、担当医は「ロボット支援腹腔鏡下根治的前立腺全摘除術(ダ・ヴィンチ)」がベストという見解だった。
ダ・ヴィンチとは、腹腔鏡手術の進化系と言える。バーチャルリアリティーの3次元立体映像を見ながら操作し、仮に執刀医の手が震えたとしてもロボットが補正してくれる。精確な手術が保証されているため、執刀医も思いきってメスを振るうことができる。
さらに、腹腔鏡手術のため出血量が50ccと極めて少ない。担当医は男性に「術後翌日には歩けるようになるほど回復が早い」と説明した。
手術は今年1月に行われた。看護師に案内されて手術室に入ると、目の前にダ・ヴィンチが置いてあったという。誓約書にサインすると全身麻酔をかけられ、男性は意識を失っていった。
「私の名前を呼ぶ看護師さんの声で目を覚ますと、午後5時を過ぎていました。8時間を超える手術だったわけです。『無事に終了しましたよ』と言われて安心しましたが、意識はぼんやりとしていました。顔には酸素マスクがあり、チューブが体につながっているのが見えました。ナースコール用のボタンと、痛みが強い時に押すボタンの2つを握らされましたが、そのまま寝てしまいました」
早朝に目が覚めた。激痛で寝ていられなくなったのだ。顔にへばりついている酸素マスクも煩わしい。
「食欲は全くなく、水以外は喉を通りませんでした。朝の検温で微熱だと分かりましたが、酸素マスクは外され、看護師さんから『起き上がってください』と言われました。腹腔鏡手術ですから小さな傷とはいえ、おへその周りに6カ所の穴が開いています。上体を起こそうと腹筋に力を入れると、たちまち激痛が走りました」
腹部や腰に強烈な痛みを感じる。脂汗がだらだらと流れる。しばらくすると、下腹部も差し込むような痛みに襲われた。だが看護師は「今日から歩いてもらいます。そのほうが回復は早いです」とお構いなしだ。男性は「勘弁してくれ!」と心の中で叫んだ。
「レントゲン室に行くように言われました。車いすを用意してくれましたが、乗る際に激痛が走り、レントゲン室に入ると再び激痛です。様々な体勢を取る必要があり、その度にあまりの痛さに『い、た、た、た、た……!』と悲鳴をあげてしまいました」
激痛にのたうち回っても、看護師は「歩け、歩け」を繰り返す。点滴スタンドでバランスを取りながら、ナースセンターの周りを歩いた。点滴スタンドに鎮痛剤が備え付けてあることは知っていたが、安易に頼ると治らないような気がして躊躇していた。
歩くのに意識を集中させすぎて、浴衣の前がはだけていたことに気づかなかった。看護師に指摘され、あまりの恥ずかしさに狼狽した。
「病室に戻ってベッドに横になりました。相変わらず食欲はなく、じっとしていても痛みはひどくなる一方です。もう耐えられないと思い、鎮痛剤のボタンを押しました。すると劇的な変化が起きました。嘘のように痛みが消え、部屋が明るくなったような気がしました。非常に前向きな幸福な気持ちでいっぱいになったのです」
看護師が部屋に入ってくると、鎮痛剤の効果なのか、表情がきらきらと輝いて見えた。夜もぐっすりと眠れた。そして「会いたいと願っていた友人との再会」とか「仕事で立て続けに成功を収める」といった楽しい夢ばかりを見た。
翌朝の目覚めは快適だった。さっそくボタンを押してみた。あっという間に幸福な気持ちでいっぱいになる。その一方で食欲は全くない。看護師に「歩いてください」と言われたが、昨日の失態を思い出してやる気になれない。
翌日、朝食は通常食になったが、相変わらず食欲はない。食後、個室に2人の看護師が入ってきた。鎮痛剤の残量をチェックしている。
「看護師さんに『点滴と鎮痛剤を外します』と言われ、強いショックを受けました。『痛くなったらどうすればいいんですか? まだ使いたいです』と懸命に食い下がりました。しかし看護師さんは『これは一種の麻薬なので、今日で終わりです。痛い時は飲み薬の鎮痛剤を持ってきます』と動じません。『あの心地よさ、深い眠り、楽しい夢がもう見られなくなる』と悲しくて仕方がありませんでした」
ところがしばらくすると、今度は腹部ではなく肩が異常なほど痛い。担当医が回診に来た際、「あまりにも辛い」と訴えてみた。すると意外な理由を説明してくれた。
ダ・ヴィンチ手術では頭を30度下げ、軽い逆立ちの状態で執刀するという。重力で腸を上半身側に移動させたほうが手術には都合がいい。男性の肩は8時間、全体重を支えていた。これで肩が悲鳴を上げたのだ。担当医から抗炎症剤を処方されると、幾分かは楽になった。
この頃から腹部の痛みは減っていった。代わりに浮上した悩みが尿漏れだ。看護師が尿道カテーテルを抜くと、すぐに釘を指された。
「『カテーテルを抜いた瞬間から尿漏れが始まると思ってください』と言われました。尿漏れパッドを手渡されましたが、確かに前触れもなく股間が濡れ始め、かなり焦りました。その後、何度もトイレに行き、排尿量を記録します。徐々にパッドが重くなり、寝る前に新しいものに交換しました。ところが、『大丈夫だろうか。この年でおねしょは恥ずかしすぎる』と不安に襲われたのです」
結局、一睡もできずに朝を迎えた。徹夜で格闘していると、尿漏れについて一つの発見があった。ベッドから立ち上がった時や、廊下を歩いていると濡れる。だが、横になっていると漏れないようなのだ。これが本当だとすれば、夜に眠っても問題がないことになる。
朝食が終わると、ベッドで横になってみる。確かに尿漏れはない。今夜は寝てみようと決心した。漏らしてしまったのなら、それはそれで仕方がない──。
廊下を歩いていると、窓の外に取引先の建物が見えた。「入院前のように働けるのだろうか」と考えながら歩き続ける。起きていると尿漏れが起きるが、何とか浴衣は汚れていない。そして夕方になると、担当医から明日の退院を告げられた。
退院の喜びと退院後の不安が交差しながら夜を迎えた。寝る前に何度もトイレに行く。「あの鎮痛剤があれば幸せな気持ちで寝られるかもしれないのに……」と考えているうちに徹夜の疲れからか寝てしまった。
「退院の朝、お漏らしはしていませんでした。横になれば大丈夫なのだと心強くなり、朝から荷造りに励みました。友人が迎えに来てくれて、車でホームセンターに向かってもらいました。そして尿漏れバッドを探しましたが、種類があり過ぎてどれを選んだらいいのか悩みます。スマホで検索しても、ほとんど情報が出て来ないのです。戸惑いながら、いくつか買ってみました」
それから男性の「尿漏れと格闘する日々」が始まった。まずはネット通販の欠点に気づいた。価格は安いが、試供品を手に取って触ることができない。宅配便で届いた商品を開けてみると、装着する前からダメだと分かることもあった。
「ホームセンターで『種類が多すぎる』という印象を持ったのも事実とは異なりました。尿漏れパッドの7割は女性用で、男性用の商品は少ないのです。おまけに男性用の主流は“軽く漏れる人”に対応したもので、私のように大量に漏らすことを想定したものは稀です。介護用のおむつなら種類は豊富ですが、それを履くのはかなりの抵抗感がありました」
日常生活が戻り、男性はスーパーに買い物へ出かけた。この時は入院中に使っていた尿漏れパッドを装着した。店内を回り、商品をカゴに入れて清算した。すると異変に気づいた。
「買ったものをエコバックに移し替えていると、太ももにひやりとした感触が伝わりました。手を伸ばすと濡れています。『最悪だ! 周りの人に気づかれだろうか!?』。体を小さくして、うつむき加減で急いでスーパーを出ました。傷口が痛みましたが、それどころではありません。恥ずかしさと情けなさで死にたくなるような気分です」
帰宅して確認すると、原因が判明した。小さな字で「この尿漏れパッドはトランクスには使えない」と書いてあった。
原因が分かっても、塞ぎ込んでしまった。食事をする気持ちもなくなり、ベッドに横になった。人間失格と烙印を押されたようだった。
なぜ男性用の尿漏れパッドに関する情報がネット上に少ないかも理解した。経験者は60代以上が多く、ネットに疎いということも大きいだろう。だが、根源的な理由は、尊厳が奪われたようで辛いのだ。尿を漏らし続けるという屈辱的な体験を、わざわざネット上に投稿する気分にはなれない。
それでもめげず、使用を推奨されているボクサーパンツやブリーフと尿漏れパッドの組み合わせを試すうち、徐々に日常生活を快適に過ごすことができるようになっていった。
「手術後の変化として、お風呂が大好きになりました。手術前は普通に入浴していただけでしたが、術後は尿漏れパッドを外せるので爽快感が桁違いなのです。ある日、浴室から出て脱衣場で体を拭いていると、床に尿を漏らしてしまいました。たちまち自分に対して猛烈に腹が立ち、自己嫌悪から『手術なんてしなければよかった』と激しく後悔しました」
お風呂で幸せな気持ちになっていた分、余計に奈落の底へ突き落とされたような感覚になったのだ。
「冷静さを取り戻すと、まず一人暮らしでよかったと考えました。もし妻が側にいたら、激しく当たり散らしていたでしょう。それほど精神的に動揺しました。一人暮らしですから、自分で精神を安定させるしかありません。そうするうちに、だんだんとではありますが、尿漏れをする自分を許せるというか、一緒にやっていけるようになりました」
尿漏れで一喜一憂しても仕方がない。リハビリを行っているが、効果が出るのは時間がかかる。術後6カ月が経過しても漏れていれば、別の対応策を試すと泌尿器科医から説明を受けていた。
「脱衣場で漏らしてしまうなら、浴室で体を拭いて出ればいいのです。尿を漏らすからといって、私の価値が下がるはずもない。今ではそう思えるようになりました。実際、漏らすのが嫌で引きこもりになってしまう人もいるそうで、そういう方はなかなか治らない。じゃんじゃん漏らしながらゴルフをするような人のほうが回復は早いそうです」
職場復帰も果たしたが、尿を漏らすようになって困ったことが起きた。男性用のトイレにはサニタリーボックスがないのだ。高級なシティホテルや国会にも仕事で訪れたが、尿漏れパッドを捨てる場所はなかった。
「私は内勤ではありません。外回りをしていると、尿漏れパッドが満タンになってしまうことがあります。トイレの個室で取り替えることは簡単ですが、捨てる場所がないのです。サニタリーボックスはもちろん、最近のトイレはゴミ箱も撤去しています。仕方なくビニール袋にくるみ、ジャケットのポケットに入れます。この状態で次の訪問先に向かったり、人と会ったりするのは、どうしても申し訳ない気持ちになってしまいます」
男性は今、泌尿器科医の指導を受けながら、骨盤底筋体操に励んでいる。尿漏れの改善に効果が期待できると説明を受けており、ネット上でも様々な関連記事が公開されている。
「要するに、お尻の筋肉を鍛えるわけです。ちょっと恥ずかしい話ですが、私は浴槽に入りながら、肛門に指を当てます。骨盤底筋体操を試すと、力が入っているのは腹筋ばかりで、お尻の筋肉を全く使っていないことが分かります。自分は尿を漏らしているという事実を冷静に受け止めながら、治療できるという希望も持つ。こんな態度で、術後の日常生活を続けています」
デイリー新潮編集部