ウクライナ報道にみる「朝日新聞」の迷走――現地を取材したジャーナリストが批判

今年2月24日にプーチン大統領の命令の下、ロシア軍がウクライナに侵攻してから半年が過ぎた。だが、日本のメディア上で識者によって語られる論議は、現地の状況からかけ離れたものがしばしばある。
ウクライナ現地で今年4月に取材を行い、8月15日に『ウクライナ危機から問う日本と世界の平和 戦場ジャーナリストの提言』(あけび書房)を上梓したジャーナリストの志葉玲氏は「もっと現地で何が起きているか見て、物事を論じてほしい」と苦言を呈している。以下、志葉氏からの寄稿である。
◆ゼレンスキー政権と第二次世界大戦時の日本を重ね合わせる
このところウクライナに関して『朝日新聞』の記事は迷走状態だと言わざるを得ない。同紙の記者たちはウクライナ現地でも取材していて、彼らのルポはいずれも優れたもので、筆者も敬意を持って読ませてもらっている。ところが、日本にいる識者のコメントを載せた記事では、首をかしげるものが多い。
例えば8月12付で掲載された「(寄稿)ウクライナ、戦争と人権 政治学者・豊永郁子」だ。同稿で、豊永郁子教授(早稲田大学)はロシア軍に徹底抗戦するウクライナのゼレンスキー大統領の姿勢に疑問を呈し、「市民に銃を配り、すべての成人男性を戦力とし、さらに自ら英雄的な勇敢さを示して徹底抗戦を遂行するというのだから、ロシアの勝利は遠のく。だがどれだけのウクライナ人が死に、心身に傷を負い、家族がバラバラとなり、どれだけの家や村や都市が破壊されるのだろう」と懸念を表明している。また、第二次世界大戦の日本と、現在のゼレンスキー政権を重ね合わせている。
まず、豊永教授の認識は事実と異なる。確かにゼレンスキー政権は国民総動員令を発令し、戦闘可能年齢の男性の国外への避難を禁じた。そのこと自体は、筆者も個人の人権の観点から、間違ったことだと思う。ただし今のところは、強制的な動員が大規模に行われている状況ではない。むしろ、志願してウクライナ軍に入隊する男性が多いのである。
そうした志願兵たちに筆者もインタビューを行った。彼らこそ、一刻も早く戦争が終わり、家族の元に帰ることを望んでいる。だが、ロシア軍が侵攻してくる中では戦い続けざるを得ないのだ。それはゼレンスキー大統領に命じられているからではない。志願兵たちにとって、危険に対峙し続ける最も大きな動機は「家族を護るため」だ。
◆プーチン大統領の暴走や、日本の対ロ外交についての批判はなし
豊永教授の寄稿はゼレンスキー政権批判に終始し、「いかにしてプーチン大統領の暴走を止めるか」についての具体的な提言はまったくない。「私はむしろウクライナ戦争を通じて、多くの日本人が憲法9条の下に奉じてきた平和主義の意義がわかった気がした。ああそうか、それはウクライナで今起こっていることが日本に起こることを拒否していたのだ」と書いている通り、結局は他人事である。
だが筆者は、在日ウクライナ人の人々が、開戦後まもなく渋谷駅前などで必死に訴えていたことを思い出す。それは、「ロシアの天然ガスを買わないで下さい!」というものだ。その割合は日本の輸入量全体の1割に満たないとはいえ、ロシアからの天然ガスを日本は買い続けている。そうした資源による収益がロシアの戦費となり、ウクライナの人々を殺しているのだ。豊永教授は、ゼレンスキー政権を批判する前に、まず日本のエネルギー政策や対ロ外交にこそ目を向けるべきではないのか。
◆ロシア軍は無差別攻撃で一般市民を殺害していた

石川記者は「戦闘員と非戦闘員を明確に分けて扱うことが戦時国際法(国際人道法)の原則のはずですが、ゼレンスキー大統領はそれを自らあいまいにして国民を戦争に動員した面があります」と述べている。
想田監督も、ロシア軍によって住民虐殺が行われていたウクライナの都市ブチャについて「ウクライナは、国家としては武力による抵抗を選んでいます。非暴力だから虐殺が起きたわけではなく、武装抵抗の帰結として虐殺事件が起きてしまっているわけです」と主張している。
石川記者の言う国際人道法は、一般市民の殺害につながる無差別攻撃を禁じ(ジュネーヴ条約第一追加議定書第4編第51条4-5)、「いかなる武力紛争においても、紛争当事者が戦闘の方法及び手段を選ぶ権利は、無制限ではない」(ジュネーヴ条約第一追加議定書第3編第1部第35条1)としている。
だが、筆者が取材したウクライナ北東部の都市ハルキウでは、ロシア軍によって砲撃やロケット弾による無差別攻撃が連日繰り返されていた。これにより、住宅地や学校、保育園、病院などが破壊され、一般市民の犠牲も相次いだ。つまり、ゼレンスキー大統領が市民に抵抗を呼びかけたことは、ロシア軍が行っている国際人道法違反の原因にも、正当化する根拠にも断じてならない。
◆「武装抵抗の帰結」で虐殺が起きたわけではない
想田監督もブチャでの虐殺の実態をもっと知るべきである。今年3月、ロシア軍に占拠されていた間、ブチャにはウクライナ軍はいなかった。それにもかかわらず、人々は殺された。攻撃で、電気・ガス・水道などのライフラインが破壊されたため、住民たちは水を求めて屋外に出ざるを得なかった。
どう見ても非武装の市民を、ロシア軍のスナイパーや兵士は問答無用で銃殺するということが相次いだ。地元当局者の話では、400人以上の犠牲者の約半数が、上述のような形で殺されたとのことである。これらの犠牲も、「武装抵抗の帰結」だと言うのだろうか?
◆ロシア軍にこそ「殺すな」と抗議すべき
そして8月17日にも、「『殺したらいけない』がなぜ言いづらい 徹底抗戦が支持される危うさ」と題し、山本昭宏准教授(神戸市外国語大)のインタビュー記事が掲載された。
同記事で、山本准教授は「戦争体験者がたくさん生きていたら、もっとゼレンスキー大統領に対して違和感を言う人がいてもおかしくないのではないかと思います」「ベトナム反戦運動のときだったら『殺すな』ということが掲げられました。今回のウクライナ侵攻でも、戦場に行きたくないのに殺し合いに巻き込まれているロシア兵がいるということへの想像力が強く働いたでしょう」と述べている。
だがベトナム反戦運動は、ベトナム側に対し「殺すな」と抗議したのではなく、同国に攻め込んでいた米軍に対し抗議したものだ。今回のウクライナ侵攻に当てはめるのであれば、ゼレンスキー政権に対してではなく、ウクライナに攻め込んだロシア軍に対してこそ「殺すな」と抗議するべきなのではないのか? 前出の豊永教授と言い、山本准教授と言い、侵略した側と侵略された側を逆にした前提そのものがおかしいのではないだろうか。
◆ウクライナ危機に乗じた改憲派への対抗手段か
これらの「識者」の論考に共通するのは、結局のところ「ウクライナで何が起きているか」に重きを置いているのではなく、過去の日本の戦争を批判することや自らの思想・信条なのだ。確かに、ウクライナ危機に乗じる形で、政府与党などで「改憲すべき」との主張が活発になっていて、それを懸念し批判しようとすることは理解できる。
だがそうした改憲派と同様に、自らの主張のために中途半端な理解でウクライナを利用することも浅ましいことだ。『朝日新聞』も社としての立場は護憲なのだろうが、ウクライナをダシにするのではなく、正面から改憲派の主張に反論すべきだろう。ウクライナ現地で取材する同紙の記者たちには同業の端くれとして敬意を持っているからこそ、ここ最近の紙面にはやはり苦言を呈したくなるのだ。