「入所施設がなければ長男を殺していたかも」18歳の知的障害者を襲う「法律の壁と親へのしわ寄せ」

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’20年7月、京都市で母親が17歳の重度知的障害児を殺害した事件があった。ひとり親で頼る相手もおらず、うつ病に自身の親の介護と困窮を極め、心中を考え息子を殺害した。息子の高校卒業が迫る中、条件に合う就労支援施設がなく、インターネットで一時受け入れ施設を探すも見つからない。その夜、息子が服を破いたり暴れたりしたことで、将来への絶望感が増し犯行に至ったとみられる。
日本では現在も入所施設で暮らす人が12万人を超える。昨夏には国連の障害者権利委員会から「施設収容の廃止」が強く勧告され、「脱施設」は喫緊の課題だという。では実際、家庭での生活はどのように支えられているのか。
息子さんが京都市の事件の被害者が通っていた支援学校の同級生という竹口宏樹さんに話を聞いた。
「私たちは望んで子供を施設に入れたわけではなく、苦渋の決断でした。現在、国は地域移行を進めていますが、現場で疲弊している家族のことをどれだけ社会は理解しているのでしょうか?子供の同級生が亡くなった事件ですが、母親を100%責めることはできない、母親のSOSをなぜ救いあげることができなかったのか。どれほど重い障害があっても地域で暮らす社会を目指すのであれば、追い込まれ、私たちが苦渋の決断で長男を施設に入れた経緯を知ってもらわなければいけません」
昨年20歳になった竹口さんの長男は、生後すぐに指定難病である「結節性硬化症」と診断された。病気に伴う最重度の難治てんかん、全身に良性腫瘍、右麻痺があり、右手はほとんど使えない。知的障害も最重度の判定で、発話は二語文ほど。竹口さんは医療機器の企業で働きながら、家族会や結節性硬化症学会にも通い、長男のケアを模索し続けてきた。しかし、’20年1月、自宅での生活が限界に。夫婦ともに疲弊し、家族全員がギリギリの状態に陥ったため、長男は施設に入ることになった。
長男は人懐こい性格で人との関わりが大好きだが、衝動的に気持ちが荒れ、自傷・他害行為に至ることもしばしば。「自宅内には常に緊張感」があったそうだ。
「私たち夫婦にとっては初めての子供でしたので、障害があり、体が不自由でも、言葉が話せなくても、我が子に変わりはなく、大事に大事に育ててきました」
長男は常に誰か(特に父である竹口さん)を独占していないと荒れる傾向にあり、他のきょうだいとのかかわり方にも気を使う。
「きょうだい児にも負担を強いました。我が家は長男が中心の生活で回っており、長男が起きている間は、ほとんど長男にかかりっきりでした。ですので、朝5時から娘と2人でジョギングをしたこともあります。学校や放課後等デイサービスのない年末年始には、私は長男につきっきり。下の子供たちと初詣に行くこともできませんでした」
仕事と長男の世話で過ぎていく毎日。長男が家にいるときは、就寝時を含めて、常に神経を尖らせた緊張状態にあった。
「仕事から帰宅する前や、長男が放課後デイサービスから帰宅する前など、これから長男のケアをしないといけない、と思うと、気が重く、私は朝までの長男との長い戦いに備えて、深呼吸をしないと持ちこたえられませんでした」
中学に入学し、思春期を迎えたころから長男は徐々に荒れていった。自分が辛い状況にあることをアピールするようになり、自傷行動をするように。
「下の子供たちの泣き声や怒っている声は、長男にとって苦痛になっていました。長男にとって、自宅が居場所ではなくなっていってしまったんですね」
状況はどんどん悪化し、帰宅しても家に入らずにうずくまり、自宅にようやく入っても、次は玄関で何時間もうずくまり、目に映るあらゆるものを投げるなどの行動障害が強くなった。入浴、食事も拒否。深夜になって疲れ果て、着替えもできずに眠りにつく。寝室でも一人で過ごしたがるようになり、カメラを導入した。様子を見て、てんかん発作や支援が必要なときに対応するためだった。
朝起こすと噛みつきや蹴りがあり、食事、服薬もできないため、寝ている間に、そっと着替えをさせる毎日。学校への送迎バス乗り場までなんとか連れて行っても、途中で靴を脱ぎ、投げ捨てることも。
「自分に気にくわないことがあると、暴力がでることもありました。おんぶのときに後ろから顔面へのパンチ、噛みつき、蹴りもありました。親子とも傷が絶えない毎日でした」
’20年1月の夕方、長男が帰宅し、いつもと同じように玄関外、玄関で何時間も過ごした。着替え、入浴、食事も何もできないまま寝室までなんとか連れて行こうとするが、とうとう寝室にも入れなくなり、寒さの厳しい中、2階の廊下で自傷を繰り返し朝を迎えた。
「妻に『児童相談所に行こうか』と打ち明けました。家の中に長男が安心していられる場所がなくなったと思ったからです。妻から『うん』との返事がありました」
児童相談所に事情を話し、何度か催促してようやく障害児入所施設に入れてもらえることに。一時保護を数週間経た後、措置入所となった。18歳を迎えると本来は退所だが、特例措置があったため児童として2年の延長を許可され、その後、成人枠(障害者入所施設)の空きが出たため、現在も同施設に入所している。
「入所施設がなければ、私たちの家族は崩壊していたでしょう。入所を安易に選んだわけではなく、それしか方法がなかった。入所という選択肢がなければ、私たちが長男を殺していたかもしれません」
土日に帰ってくるグループホームはもちろん、数日のショートステイで事態が好転するとは思えず、家族と本人にとって明るい未来が見えない中では、どうにもならなかったと振り返る。
「施設入所を否定する人は、一度、長男のような障害がある当事者と生活してみてください。荒れないように常に緊張感を持ち続ける日々。疲弊を極め、いずれ、どちらかが限界を迎えるのです」
正しい知識を共有し、親が限界を感じる前に周囲にいる支援者が外部へ適切につなぐこと、障害者とその家族を支援する仕組みが必要不可欠だ、と竹口さんは指摘する。
「福祉サービスは一昔前に比較し、断然、良くなっていると思います。しかし、家族にしわ寄せがいっているのも事実。そのしわ寄せが解消され、施設から出られることが正解なのではないでしょうか」
「脱施設」「地域移行」の言葉の前に、施設入所者が地域生活に何度もチャレンジできる報酬体系、受け皿、地域生活にたとえ失敗したとしても、もう一度以前の施設に戻れる仕組みが必要だと訴えている。
現在、日本では障害児者の地域移行が進む反面、家族の負担が増加している。成長とともに他人や自らを傷つけてしまう行動障害が増えると、家庭で介護を続けることも難しくなる。条件の合う施設は常に満員状態で、京都市では今年1月時点で障害者の入所施設では合わせて240人余りが待機しているとのこと。京都市での事件は、支援学校卒業後に居場所がなくなる「18歳の壁」問題の深刻さの象徴とも言えるだろう。
図らずも我が子を手にかけ加害者となってしまった母親の悲痛な声を正面に捉え、社会全体で支えていく仕組みを皆で考えていかなければならない。
取材・文:中西美穂ノンフィクションライター。NPO法人サードプレイス代表。元週刊誌記者。不妊治療によって双子を授かり、次男に障害があることがわかる。自身の経験を活かし、生殖補助医療、妊娠・出産・育児、障害・福祉を中心に取材活動を行う。

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