【大川原化工機冤罪事件】8回の保釈申請は却下…勾留中に胃がんで死亡した元役員の妻が語る“酷すぎる夫の扱い”

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

昨年12月、東京地裁は大川原加工機(本社・神奈川県横浜市)に対する捜査の違法性を認め、国と東京都に約1億6000万円の賠償を命じた(1月11日に両者が控訴)。原告の1人は、胃がんで亡くなった大川原加工機の元顧問・相嶋静夫さん(享年72)の妻(75)だ。胃がん発覚後も保釈が認められず、十分な治療が受けられないままに亡くなった相嶋さんの最期を、妻が語る。(前後編の後編)【粟野仁雄/ジャーナリスト】
前編【冤罪事件で検察と警察に1億6000万円の支払い命令も…亡くなった大川原化工機元幹部夫人の告白「控訴するなんて思わなかった。がっかりです」】のつづき
【写真】名誉回復できないまま72歳で亡くなった相嶋静夫さん
相嶋さんが大川原正明社長(74)らとともに「生物兵器の製造に転用できる工作機械を無許可で輸出した」という外為法(外国為替及び外国貿易法)違反の容疑で警視庁公安部に逮捕されたのは、2020年3月11日のことだった。
逮捕からおよそ半年後の8月の終わり、勾留中の相嶋さんの体調が急に悪化し、貧血のために輸血を受けた。10月上旬に拘置所で内視鏡検査を受けると、胃に五円玉大くらいの悪性腫瘍ができていることが分かった。
「拘置所には医務官がいるから、この先の治療も大丈夫だと思っていました。外部の医師が医務官をやっていると聞いたから、主人はその医師の病院に行って治療してもらえると思っていましたが違いました」(相嶋さんの妻、以下同)
相嶋さんの家族が医者を探さなければならなかった。しかし、証拠隠滅の恐れがあるとして保釈は認められなかった。
「8時間だけの一時的な勾留停止を得て、以前、別の病気で手術をした病院に連れて行きました。すると、拘置所で撮ったCT写真をもとに、進行性の胃がんだと言われました。しかし、病院で『勾留停止でこんなところに来るものではない』というようなことを言われて犯罪人のように扱われた上に、『他の患者に迷惑になるから早く帰るように』とも言われ、主人は泣いていました」
短時間の勾留停止だけでは、十分な検査や治療を受けられなかった。
「(すぐに入院が必要とした拘置所の)医者の見解を国は認めず、外部の病院での治療を許可しませんでした」
保釈請求は認められなかったが、11月に再び一時的な勾留停止が認められ、入院できることになった。そうするうちにも相嶋さんの患部からの出血は続き、拘置所で500ccもの輸血を受けた。
「早く入院させないと死んでしまうと焦りましたが、どこの病院も勾留中の被告ということを理由にちゃんと診てくれず、治療を断られ続けた。なんとか入院できる病院を見つけました」
入院は2週間後だった。治療が間に合うのか気が気でなかった。
入院までの間、寒い拘置所で過ごす相嶋さんのために、売店で毛布を買って差し入れた。売店の店主に「弁護士を足腰が立たなくなるまでこき使わなきゃだめだよ」と言われ、弁護士に「もっと動いてください」とはっぱをかけたという。さらに、店主は「ときどき黒い車が来ますよ。助からないとわかって病院に運ぶのかな」と言った。「絶対に拘置所なんかで死なせない」と妻は誓った。
東京拘置所から入院先の横浜の病院に直接行こうと考えていたが、裁判所に「1日は自宅に帰してから行ってください」と言われた。面会の帰りに、東京駅の車椅子の出入り口など、富士宮市まで夫を運ぶ方法を調べた。「裁判所は嫌がらせをしているとしか思えなかった」と妻は振り返る。
入院すると、相嶋さんはほっとしたような顔になった。入院先の副院長も気を使ってくれて、「スタッフは噂もするから」と言って、勾留中ということはカルテに書かないようにしてくれ、特定の医師だけに情報を共有した。
「ありがたかったけど、何も悪いことをしていないのにと思うと悔しかった」
病院を探し回っていたころ、拘置所での面会中、妻は相嶋さんに「死んじゃったら終わり。嘘でもいいから(容疑を)認めてしまえば」と言った。
「容疑の内容はよく分からなかったけど、死なれては元も子もない。普段なら『そんな嘘つけるか、お前、何が言いたいんだ』とか言って怒るはずの主人ですが、そんな元気もなく黙って俯いていました。そのころは貧血で皮膚が透き通るように白くなっていました」
亡くなる年の正月には、何も食べられなくなって水すらも吐いてしまう状態だった。1月13日に診察を受け、肝臓肥大と言われた。それを聞いた相嶋さんは「2月いっぱいもたないなあ」とうっすら涙を浮かべていたという。緩和病棟に移ると「もうだめか」と絶望した。その2週間後には、激痛に襲われてモルヒネを打った。
「『頭が狂っちゃう治療は嫌だな』と言っていましたが、だんだんと意識が朦朧とすることも増えてきました。私は病院の近くにマンションを借りて看病しました。自宅治療を許可されてからは抗がん剤治療もしましたが、高熱に悩まされました。氷枕を作ってもすぐに溶けてしまうほどでした。高島屋でおいしい魚を買ったり、スープや全粥も作りましたが、最後は食べ物をほとんど受け付けなかった」
2月7日、相嶋さんは都内の病院で静かに息を引き取った。
東京地検が異例の「起訴取り消し」をしたのは7月31日。生前の名誉回復は果たせなかった。起訴取り消しが判明し、大川原社長は顧問弁護士の高田剛氏や元役員島田順司さん(70)と臨んだ記者会見で、「我々は名誉回復できたが、相嶋さんのことはどうしてくれるんだ」と怒りを見せた。
「妻よりも相嶋さんと一緒にいる時間が長かったかもしれない」と話していた大川原社長は、相嶋さんより一つ齢下になる。
妻は「主人は社長さんのことを『学会にばかり行ってるんだよ』なんてこぼしていたことがありました。でも、機械の虫のような夫と、いろんな情報を求めて勉強される理論肌の大川原さんで、タイプが違ってよかったのでは」と笑う。
相嶋さんは学生の頃から「献金などで政治家に媚びる大企業は嫌いだ。技術、営業などすべて自分でやれる中小企業で働きたい」と言っていたという。東京工業大学工学部の応用化学科を卒業し、最初は甲陽建設工業(愛知県名古屋市)に勤めて集塵機の研究などをした。35、6歳の時、大川原化工機に転職し、ユニークな研究に没頭してきた。妻が回顧する。
「大川原化工機は基本的に注文生産で、ある時、漁協から養殖の稚魚に餌をやる機械を頼まれた。主人は稚魚の口に入る小さな餌の研究なんかをやって、完成した機械を納めに西日本各地の漁協に出張したりしていました。コメの籾から培土を作る研究とかもしていましたね。中国に工場を立ち上げる時は上海にも出張していました。機械づくり一筋、うまくいかないと家でもそればかり考えていました。私や子供にとって、マイホームパパとは縁遠い男でしたね」
昨年12月の記者会見で、相嶋さんの長男が「子どもの私が言うのも変ですが、父は子どもよりスプレードライヤを愛していました」と打ち明けていたのを思い出す。
「横浜の本社では営業の仕事が多くなっていましたが、70歳近くなって粉体技術研究所に転勤になったことを喜んでいました。『孫たちの教育資金も稼いでやらないと』と張り切っていました」
後輩たちに機械製作や数学を教えたりする充実した生活を送っていたさ中のまさかの逮捕劇だった。警察、検察はもちろん、8度の保釈申請をすべて却下した裁判所も含めた国家権力の横暴で命を落とした。
「裁判官はちゃんと調べて保釈申請を却下していたのでしょうか」と妻は訝る。
取材の日、横浜から来ていた妻の友人は「お孫さんといらっしゃる時のご主人のお顔は本当に優しそうでした」と語った。
余生を富士山の麓で昔気質の夫を見守りながら楽しく過ごせるはずだった。
「主人は何も悪いことなどしてないのに。日本は警察に睨まれたら終わりなんですか。警察官でも悪い人は悪い人として、しっかり処罰してほしいですよ」と悔しさを滲ませる妻に、遺影の相嶋さんが「最後まで苦労かけたな、本当にありがとう」と語りかけているようだった。
粟野仁雄(あわの・まさお)ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。
デイリー新潮編集部

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。