「下水道まで調べたけど、遺体は出てこなかった」7人が惨殺された「北九州監禁連続殺人事件」の元検事が明かす、難航した当時の捜査

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2002年3月に発覚した「北九州監禁連続殺人事件」。起訴された案件だけで7人が死亡しているこの事件では、主犯の松永太(62)の死刑、内妻である緒方純子(61)の無期懲役判決が確定している。
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北九州監禁連続殺人事件をめくる人物相関図
父親が殺害された後、松永と緒方が監禁していた17歳の広田清美さん(仮名、以下同)が逃走したことで、彼らが逮捕されたのは02年3月7日のこと。その後、同年6月3日に福岡地裁小倉支部で初公判(清美さんへの監禁致傷罪や別の被害女性への監禁致傷罪と詐欺・強盗罪での審理)が開かれるが、9月18日に彼らが初めて殺人容疑で逮捕されたことで、公判は延期されてしまう。
松永と緒方に対しては、それから殺人容疑での再逮捕が続き、結果として彼らは7件の殺人罪で起訴された。そのため、殺人罪を審理する第3回公判が開かれたのは、03年5月21日である(この段階で6件の殺人罪で起訴済み。後に1件の殺人罪が追加)。
裁判迅速化法に基づき、03年10月以降は週に1回のペースで審理が行われたが、被害者があまりに多いため、両名に死刑を求める論告求刑公判が行われたのは05年3月2日で、松永と緒方に死刑判決が下されたのは、同年9月28日であった。
一審での死刑判決について、松永は福岡高裁に即日控訴し、緒方は弁護団に説得されて10月11日に控訴した。福岡高裁での控訴審は07年1月24日に始まり、同年9月26日に判決が言い渡されている。その際に松永の死刑判決は変わらなかったが、緒方は死刑が破棄され、無期懲役判決に減刑されている。
この二審判決を不服とした松永は最高裁に上告し、福岡高検もまた緒方への判決を不服として上告した。しかし最高裁は11年12月12日に、松永と福岡高検の上告を棄却。これをもって松永の死刑と緒方の無期懲役刑が確定したのだった。 今回、こうした裁判の流れをあえて事前に説明したのには理由がある。福岡地裁小倉支部から福岡高裁、さらには最高裁と、松永と緒方の裁判は3カ所で行われているが、そのうち福岡地裁と福岡高裁という、2カ所の裁判に関わっている人物への取材を行うことができたからだ。さらにいえば、その人物は裁判にとどまらず、松永逮捕直後からの捜査についても関与している。「これは広がりそうだとの印象」があった 現在、福岡市で法律事務所を営む牧野忠弁護士は、松永と緒方が逮捕された翌月の02年4月に、福岡地検の刑事部長に着任。それから2年間、この「北九州監禁連続殺人事件」などに関わり、04年3月末に一旦福岡地検を離れるが、その2年後の06年4月からは福岡高検に公安部長として着任した。同事件の控訴審の担当として、答弁書などの作成に携わり、翌年1月から始まった控訴審には、公判担当検事として出廷している。牧野氏は言う。「最初、(福岡地検の刑事部長として)着任する前に、福岡地検が現在どういう重要事件を抱えているか見たんですが、そのなかにこの事件(北九州監禁連続殺人事件)があった。これは広がりそうだとの印象はありました」 02年3月6日の早朝、松永と緒方のもとから脱出した広田清美さんは、同市内に住む祖父母に助けを求めた。そして清美さんは迎えに来た祖父(祖母の再婚相手)に、「お父さん(広田由紀夫さん)は殺された」と伝え、ふたりは福岡県警門司署に被害を通報。その後、同県警小倉北署に被害を申告する。 事態を重大視した福岡県警は3月7日、清美さんへの監禁・傷害容疑で、松永と緒方を身元不詳のまま緊急逮捕した。それ以降、4月より同地検小倉支部から上がってくるこの事件の捜査についての報告を、福岡地検の刑事部長として、牧野氏は受けていた。子供たちは「警察は敵だ」と徹底的に教育されていた「あのふたりは逮捕当時に偽名を使っていたし、本名については黙秘していた。たしか清美さんも本当の名前は知らずに、別の名前を呼んでいたはずです」 清美さんは小学4年生だった94年10月から、父親の由紀夫さんとともに、松永らと同居していた。その際、松永は「ミヤザキ」、緒方は「モリ」という偽名を名乗っていたことが判明している。また、松永と緒方の逮捕直後には、北九州市小倉北区にある「泉台マンション」(仮名)において、松永と緒方の子供である9歳と5歳の男児と、別の女性の6歳の双子男児が保護されたが、彼らにはある“教育”がなされていた。「もうね、子供なんですけど、警察は敵だっていうふうに、徹底的に教育されているわけですよ。だから当初は警察の言うことはまったく聞こうとしませんでした」 そうしたなか、清美さんは最初から、自分の父親と、緒方の親族6人が殺害されていることを口にしていた。彼女の供述に対して、福岡県警の動きは早かったという。それについては、私が以前に取材した、福岡地検小倉支部の検事として松永と緒方の取り調べを行い、彼らの一審における公判担当もした金子達也元検事(現在は弁護士)も次のように認めている。「当時、小倉北署の刑事一課長がかなり鋭い人で、警察の初動が良かった。とにかく地検に連絡しろということで、私のところにもすぐに連絡が来たし、それでまあ、本部にも連絡して、捜査一課が入ってきて、瞬く間に態勢が整いました」大量殺人事件であるとの認識で、立証できるものから順番に そうした金子氏からの報告を受けた牧野氏もまた、当初から大量殺人事件であるとの認識はあったようだ。「清美さんはかなり早い段階で、お父さんを含めて全員が殺されてるという話をしているわけで、その話には信ぴょう性があり、これはもうそこまで絶対に広がるぞ、との思いはありました。だから、どのタイミングで、どの事件からやっていくのか。どういう立証ができ、それぞれの事件について立証できるのか。それはもうきっちり見ましょうっていうことが、スタート地点からのスタンスです。だから、そうすると、まずは立証が完全なものというか、できるものから順番に、という形になるわけです」 松永と緒方については、以下の順番で起訴が行われている。02年3月29日 広田清美さんに対する監禁致傷罪4月25日 原武裕子さんに対する監禁致傷罪6月7日 原武裕子さんに対する詐欺・強盗罪10月8日 緒方花奈ちゃん(緒方の姪)に対する殺人罪11月2日 緒方孝さん(緒方の父)に対する殺人罪(*後に傷害致死罪の判決)12月27日 緒方和美さん(緒方の母)に対する殺人罪03年2月1日 緒方佑介くん(緒方の甥)に対する殺人罪2月23日 広田由紀夫さん(清美さんの父)に対する殺人罪3月18日 緒方智恵子さん(緒方の妹)に対する殺人罪6月20日 緒方隆也さん(智恵子さんの夫)に対する殺人罪 殺人事件の被害者のうち、佑介くんは5歳、花奈ちゃんは10歳だった。「抵抗できない子供2人が亡くなってるじゃないですか。そこはもう、絶対に許せないという思いはありましたね。ただし、誰の遺体も残っていないという点で、かなり厄介な事件であるとは思っていました」緒方が全面自供に転じたことが突破口に 証拠類として、広田由紀夫さんや、緒方家の親族が一室に集められた写真、さらに彼らに書かせた念書などは発見、押収されていたが、遺体についてはその一部でも発見されたということは耳にしていない。「それこそ風呂場の配管から、下水道まで調べたけど、なにも出てこなかった。写真や周辺の聞き込みで、この時期まではいて、それから消息を絶ったということはわかりましたが、清美さんの証言が頼りだった。捜査の流れが大きく変わったのは、やはり緒方が全面自供に転じたことでしたね」 逮捕されて以降、取り調べで黙秘を貫いていた緒方は、父親の孝さん殺人容疑で02年10月12日に再逮捕され、11月2日に同罪で起訴されるまでの間に全面自供へと転じた。10月23日に緒方の弁護団が発表したコメントは、「緒方容疑者より、自分の意思で『私の家族のこと、松永のことを考えて、事実をありのままにお話しする気持ちになりました』との申し出がありました」というものだった。 それにより、同じく黙秘を貫いていた松永も、自身の保身のために有利な供述をする必要が生まれていた。しかし、そこでも巧妙な答え方をしていたそうだ。「『自分は関係ない。無罪です』と言ったり、『そこで誰がなにをやったか、私はいませんでしたから』っていう、 ずっと自分は関係ないって形の供述しかしなかった。自分で話を作っていれば、周辺捜査で客観証拠をかためて話の内容の矛盾を突けるけど、それができない。崩しようがない話ばかりするわけです。そこが彼の頭の良い部分でしたね」地検は「100パーセント殺人罪での起訴」と意志を固めていた「起訴段階で、これは傷害致死なんじゃないのといった異論はありませんでした。すべての事件について、100パーセント殺人でいいってことで、意見はまとまっていました」 結果として広田由紀夫さんと緒方家親族6人の計7人に対する殺人罪での起訴を行い、論告求刑公判においては、松永と緒方の両名に死刑を求刑したのだった。 福岡地裁小倉支部が下した判決は、すでに記した通り、松永と緒方の両名に対して死刑というもの。ただし、緒方の父である孝さんに対する事件のみ、殺人罪で起訴していたものが、傷害致死罪の認定に変更されている。「傷害致死に落ちたことで、えっ? という思いはありました。ただ、証拠関係にやや難があると報告されていたので、殺人での起訴は思い切った選択だったんです。そういった経緯もあり、まあ他の6人は殺人で認められたから、いいんじゃないの、と。2人とも死刑判決ですしね。1件くらい殺意が飛んでも、これはまあしょうがないとなりました」 そういう流れで、一審判決に対して松永と緒方は控訴しても、検察側が控訴することはなかったのである。〈「絞首台に乗った方が良かったんじゃないか」法廷では顔を紅潮させ歪んだ表情…7人が惨殺された“最凶事件”の裁判で下された予想外の判決〉へ続く(小野 一光)
この二審判決を不服とした松永は最高裁に上告し、福岡高検もまた緒方への判決を不服として上告した。しかし最高裁は11年12月12日に、松永と福岡高検の上告を棄却。これをもって松永の死刑と緒方の無期懲役刑が確定したのだった。
今回、こうした裁判の流れをあえて事前に説明したのには理由がある。福岡地裁小倉支部から福岡高裁、さらには最高裁と、松永と緒方の裁判は3カ所で行われているが、そのうち福岡地裁と福岡高裁という、2カ所の裁判に関わっている人物への取材を行うことができたからだ。さらにいえば、その人物は裁判にとどまらず、松永逮捕直後からの捜査についても関与している。
現在、福岡市で法律事務所を営む牧野忠弁護士は、松永と緒方が逮捕された翌月の02年4月に、福岡地検の刑事部長に着任。それから2年間、この「北九州監禁連続殺人事件」などに関わり、04年3月末に一旦福岡地検を離れるが、その2年後の06年4月からは福岡高検に公安部長として着任した。同事件の控訴審の担当として、答弁書などの作成に携わり、翌年1月から始まった控訴審には、公判担当検事として出廷している。牧野氏は言う。
「最初、(福岡地検の刑事部長として)着任する前に、福岡地検が現在どういう重要事件を抱えているか見たんですが、そのなかにこの事件(北九州監禁連続殺人事件)があった。これは広がりそうだとの印象はありました」
02年3月6日の早朝、松永と緒方のもとから脱出した広田清美さんは、同市内に住む祖父母に助けを求めた。そして清美さんは迎えに来た祖父(祖母の再婚相手)に、「お父さん(広田由紀夫さん)は殺された」と伝え、ふたりは福岡県警門司署に被害を通報。その後、同県警小倉北署に被害を申告する。
事態を重大視した福岡県警は3月7日、清美さんへの監禁・傷害容疑で、松永と緒方を身元不詳のまま緊急逮捕した。それ以降、4月より同地検小倉支部から上がってくるこの事件の捜査についての報告を、福岡地検の刑事部長として、牧野氏は受けていた。
子供たちは「警察は敵だ」と徹底的に教育されていた「あのふたりは逮捕当時に偽名を使っていたし、本名については黙秘していた。たしか清美さんも本当の名前は知らずに、別の名前を呼んでいたはずです」 清美さんは小学4年生だった94年10月から、父親の由紀夫さんとともに、松永らと同居していた。その際、松永は「ミヤザキ」、緒方は「モリ」という偽名を名乗っていたことが判明している。また、松永と緒方の逮捕直後には、北九州市小倉北区にある「泉台マンション」(仮名)において、松永と緒方の子供である9歳と5歳の男児と、別の女性の6歳の双子男児が保護されたが、彼らにはある“教育”がなされていた。「もうね、子供なんですけど、警察は敵だっていうふうに、徹底的に教育されているわけですよ。だから当初は警察の言うことはまったく聞こうとしませんでした」 そうしたなか、清美さんは最初から、自分の父親と、緒方の親族6人が殺害されていることを口にしていた。彼女の供述に対して、福岡県警の動きは早かったという。それについては、私が以前に取材した、福岡地検小倉支部の検事として松永と緒方の取り調べを行い、彼らの一審における公判担当もした金子達也元検事(現在は弁護士)も次のように認めている。「当時、小倉北署の刑事一課長がかなり鋭い人で、警察の初動が良かった。とにかく地検に連絡しろということで、私のところにもすぐに連絡が来たし、それでまあ、本部にも連絡して、捜査一課が入ってきて、瞬く間に態勢が整いました」大量殺人事件であるとの認識で、立証できるものから順番に そうした金子氏からの報告を受けた牧野氏もまた、当初から大量殺人事件であるとの認識はあったようだ。「清美さんはかなり早い段階で、お父さんを含めて全員が殺されてるという話をしているわけで、その話には信ぴょう性があり、これはもうそこまで絶対に広がるぞ、との思いはありました。だから、どのタイミングで、どの事件からやっていくのか。どういう立証ができ、それぞれの事件について立証できるのか。それはもうきっちり見ましょうっていうことが、スタート地点からのスタンスです。だから、そうすると、まずは立証が完全なものというか、できるものから順番に、という形になるわけです」 松永と緒方については、以下の順番で起訴が行われている。02年3月29日 広田清美さんに対する監禁致傷罪4月25日 原武裕子さんに対する監禁致傷罪6月7日 原武裕子さんに対する詐欺・強盗罪10月8日 緒方花奈ちゃん(緒方の姪)に対する殺人罪11月2日 緒方孝さん(緒方の父)に対する殺人罪(*後に傷害致死罪の判決)12月27日 緒方和美さん(緒方の母)に対する殺人罪03年2月1日 緒方佑介くん(緒方の甥)に対する殺人罪2月23日 広田由紀夫さん(清美さんの父)に対する殺人罪3月18日 緒方智恵子さん(緒方の妹)に対する殺人罪6月20日 緒方隆也さん(智恵子さんの夫)に対する殺人罪 殺人事件の被害者のうち、佑介くんは5歳、花奈ちゃんは10歳だった。「抵抗できない子供2人が亡くなってるじゃないですか。そこはもう、絶対に許せないという思いはありましたね。ただし、誰の遺体も残っていないという点で、かなり厄介な事件であるとは思っていました」緒方が全面自供に転じたことが突破口に 証拠類として、広田由紀夫さんや、緒方家の親族が一室に集められた写真、さらに彼らに書かせた念書などは発見、押収されていたが、遺体についてはその一部でも発見されたということは耳にしていない。「それこそ風呂場の配管から、下水道まで調べたけど、なにも出てこなかった。写真や周辺の聞き込みで、この時期まではいて、それから消息を絶ったということはわかりましたが、清美さんの証言が頼りだった。捜査の流れが大きく変わったのは、やはり緒方が全面自供に転じたことでしたね」 逮捕されて以降、取り調べで黙秘を貫いていた緒方は、父親の孝さん殺人容疑で02年10月12日に再逮捕され、11月2日に同罪で起訴されるまでの間に全面自供へと転じた。10月23日に緒方の弁護団が発表したコメントは、「緒方容疑者より、自分の意思で『私の家族のこと、松永のことを考えて、事実をありのままにお話しする気持ちになりました』との申し出がありました」というものだった。 それにより、同じく黙秘を貫いていた松永も、自身の保身のために有利な供述をする必要が生まれていた。しかし、そこでも巧妙な答え方をしていたそうだ。「『自分は関係ない。無罪です』と言ったり、『そこで誰がなにをやったか、私はいませんでしたから』っていう、 ずっと自分は関係ないって形の供述しかしなかった。自分で話を作っていれば、周辺捜査で客観証拠をかためて話の内容の矛盾を突けるけど、それができない。崩しようがない話ばかりするわけです。そこが彼の頭の良い部分でしたね」地検は「100パーセント殺人罪での起訴」と意志を固めていた「起訴段階で、これは傷害致死なんじゃないのといった異論はありませんでした。すべての事件について、100パーセント殺人でいいってことで、意見はまとまっていました」 結果として広田由紀夫さんと緒方家親族6人の計7人に対する殺人罪での起訴を行い、論告求刑公判においては、松永と緒方の両名に死刑を求刑したのだった。 福岡地裁小倉支部が下した判決は、すでに記した通り、松永と緒方の両名に対して死刑というもの。ただし、緒方の父である孝さんに対する事件のみ、殺人罪で起訴していたものが、傷害致死罪の認定に変更されている。「傷害致死に落ちたことで、えっ? という思いはありました。ただ、証拠関係にやや難があると報告されていたので、殺人での起訴は思い切った選択だったんです。そういった経緯もあり、まあ他の6人は殺人で認められたから、いいんじゃないの、と。2人とも死刑判決ですしね。1件くらい殺意が飛んでも、これはまあしょうがないとなりました」 そういう流れで、一審判決に対して松永と緒方は控訴しても、検察側が控訴することはなかったのである。〈「絞首台に乗った方が良かったんじゃないか」法廷では顔を紅潮させ歪んだ表情…7人が惨殺された“最凶事件”の裁判で下された予想外の判決〉へ続く(小野 一光)
「あのふたりは逮捕当時に偽名を使っていたし、本名については黙秘していた。たしか清美さんも本当の名前は知らずに、別の名前を呼んでいたはずです」
清美さんは小学4年生だった94年10月から、父親の由紀夫さんとともに、松永らと同居していた。その際、松永は「ミヤザキ」、緒方は「モリ」という偽名を名乗っていたことが判明している。また、松永と緒方の逮捕直後には、北九州市小倉北区にある「泉台マンション」(仮名)において、松永と緒方の子供である9歳と5歳の男児と、別の女性の6歳の双子男児が保護されたが、彼らにはある“教育”がなされていた。
「もうね、子供なんですけど、警察は敵だっていうふうに、徹底的に教育されているわけですよ。だから当初は警察の言うことはまったく聞こうとしませんでした」
そうしたなか、清美さんは最初から、自分の父親と、緒方の親族6人が殺害されていることを口にしていた。彼女の供述に対して、福岡県警の動きは早かったという。それについては、私が以前に取材した、福岡地検小倉支部の検事として松永と緒方の取り調べを行い、彼らの一審における公判担当もした金子達也元検事(現在は弁護士)も次のように認めている。
「当時、小倉北署の刑事一課長がかなり鋭い人で、警察の初動が良かった。とにかく地検に連絡しろということで、私のところにもすぐに連絡が来たし、それでまあ、本部にも連絡して、捜査一課が入ってきて、瞬く間に態勢が整いました」
そうした金子氏からの報告を受けた牧野氏もまた、当初から大量殺人事件であるとの認識はあったようだ。
「清美さんはかなり早い段階で、お父さんを含めて全員が殺されてるという話をしているわけで、その話には信ぴょう性があり、これはもうそこまで絶対に広がるぞ、との思いはありました。だから、どのタイミングで、どの事件からやっていくのか。どういう立証ができ、それぞれの事件について立証できるのか。それはもうきっちり見ましょうっていうことが、スタート地点からのスタンスです。だから、そうすると、まずは立証が完全なものというか、できるものから順番に、という形になるわけです」
松永と緒方については、以下の順番で起訴が行われている。02年3月29日 広田清美さんに対する監禁致傷罪4月25日 原武裕子さんに対する監禁致傷罪6月7日 原武裕子さんに対する詐欺・強盗罪10月8日 緒方花奈ちゃん(緒方の姪)に対する殺人罪11月2日 緒方孝さん(緒方の父)に対する殺人罪(*後に傷害致死罪の判決)12月27日 緒方和美さん(緒方の母)に対する殺人罪03年2月1日 緒方佑介くん(緒方の甥)に対する殺人罪2月23日 広田由紀夫さん(清美さんの父)に対する殺人罪3月18日 緒方智恵子さん(緒方の妹)に対する殺人罪6月20日 緒方隆也さん(智恵子さんの夫)に対する殺人罪 殺人事件の被害者のうち、佑介くんは5歳、花奈ちゃんは10歳だった。「抵抗できない子供2人が亡くなってるじゃないですか。そこはもう、絶対に許せないという思いはありましたね。ただし、誰の遺体も残っていないという点で、かなり厄介な事件であるとは思っていました」緒方が全面自供に転じたことが突破口に 証拠類として、広田由紀夫さんや、緒方家の親族が一室に集められた写真、さらに彼らに書かせた念書などは発見、押収されていたが、遺体についてはその一部でも発見されたということは耳にしていない。「それこそ風呂場の配管から、下水道まで調べたけど、なにも出てこなかった。写真や周辺の聞き込みで、この時期まではいて、それから消息を絶ったということはわかりましたが、清美さんの証言が頼りだった。捜査の流れが大きく変わったのは、やはり緒方が全面自供に転じたことでしたね」 逮捕されて以降、取り調べで黙秘を貫いていた緒方は、父親の孝さん殺人容疑で02年10月12日に再逮捕され、11月2日に同罪で起訴されるまでの間に全面自供へと転じた。10月23日に緒方の弁護団が発表したコメントは、「緒方容疑者より、自分の意思で『私の家族のこと、松永のことを考えて、事実をありのままにお話しする気持ちになりました』との申し出がありました」というものだった。 それにより、同じく黙秘を貫いていた松永も、自身の保身のために有利な供述をする必要が生まれていた。しかし、そこでも巧妙な答え方をしていたそうだ。「『自分は関係ない。無罪です』と言ったり、『そこで誰がなにをやったか、私はいませんでしたから』っていう、 ずっと自分は関係ないって形の供述しかしなかった。自分で話を作っていれば、周辺捜査で客観証拠をかためて話の内容の矛盾を突けるけど、それができない。崩しようがない話ばかりするわけです。そこが彼の頭の良い部分でしたね」地検は「100パーセント殺人罪での起訴」と意志を固めていた「起訴段階で、これは傷害致死なんじゃないのといった異論はありませんでした。すべての事件について、100パーセント殺人でいいってことで、意見はまとまっていました」 結果として広田由紀夫さんと緒方家親族6人の計7人に対する殺人罪での起訴を行い、論告求刑公判においては、松永と緒方の両名に死刑を求刑したのだった。 福岡地裁小倉支部が下した判決は、すでに記した通り、松永と緒方の両名に対して死刑というもの。ただし、緒方の父である孝さんに対する事件のみ、殺人罪で起訴していたものが、傷害致死罪の認定に変更されている。「傷害致死に落ちたことで、えっ? という思いはありました。ただ、証拠関係にやや難があると報告されていたので、殺人での起訴は思い切った選択だったんです。そういった経緯もあり、まあ他の6人は殺人で認められたから、いいんじゃないの、と。2人とも死刑判決ですしね。1件くらい殺意が飛んでも、これはまあしょうがないとなりました」 そういう流れで、一審判決に対して松永と緒方は控訴しても、検察側が控訴することはなかったのである。〈「絞首台に乗った方が良かったんじゃないか」法廷では顔を紅潮させ歪んだ表情…7人が惨殺された“最凶事件”の裁判で下された予想外の判決〉へ続く(小野 一光)
松永と緒方については、以下の順番で起訴が行われている。
02年3月29日 広田清美さんに対する監禁致傷罪
4月25日 原武裕子さんに対する監禁致傷罪
6月7日 原武裕子さんに対する詐欺・強盗罪
10月8日 緒方花奈ちゃん(緒方の姪)に対する殺人罪
11月2日 緒方孝さん(緒方の父)に対する殺人罪(*後に傷害致死罪の判決)
12月27日 緒方和美さん(緒方の母)に対する殺人罪
03年2月1日 緒方佑介くん(緒方の甥)に対する殺人罪
2月23日 広田由紀夫さん(清美さんの父)に対する殺人罪
3月18日 緒方智恵子さん(緒方の妹)に対する殺人罪
6月20日 緒方隆也さん(智恵子さんの夫)に対する殺人罪
殺人事件の被害者のうち、佑介くんは5歳、花奈ちゃんは10歳だった。
「抵抗できない子供2人が亡くなってるじゃないですか。そこはもう、絶対に許せないという思いはありましたね。ただし、誰の遺体も残っていないという点で、かなり厄介な事件であるとは思っていました」
証拠類として、広田由紀夫さんや、緒方家の親族が一室に集められた写真、さらに彼らに書かせた念書などは発見、押収されていたが、遺体についてはその一部でも発見されたということは耳にしていない。
「それこそ風呂場の配管から、下水道まで調べたけど、なにも出てこなかった。写真や周辺の聞き込みで、この時期まではいて、それから消息を絶ったということはわかりましたが、清美さんの証言が頼りだった。捜査の流れが大きく変わったのは、やはり緒方が全面自供に転じたことでしたね」
逮捕されて以降、取り調べで黙秘を貫いていた緒方は、父親の孝さん殺人容疑で02年10月12日に再逮捕され、11月2日に同罪で起訴されるまでの間に全面自供へと転じた。10月23日に緒方の弁護団が発表したコメントは、「緒方容疑者より、自分の意思で『私の家族のこと、松永のことを考えて、事実をありのままにお話しする気持ちになりました』との申し出がありました」というものだった。
それにより、同じく黙秘を貫いていた松永も、自身の保身のために有利な供述をする必要が生まれていた。しかし、そこでも巧妙な答え方をしていたそうだ。「『自分は関係ない。無罪です』と言ったり、『そこで誰がなにをやったか、私はいませんでしたから』っていう、 ずっと自分は関係ないって形の供述しかしなかった。自分で話を作っていれば、周辺捜査で客観証拠をかためて話の内容の矛盾を突けるけど、それができない。崩しようがない話ばかりするわけです。そこが彼の頭の良い部分でしたね」地検は「100パーセント殺人罪での起訴」と意志を固めていた「起訴段階で、これは傷害致死なんじゃないのといった異論はありませんでした。すべての事件について、100パーセント殺人でいいってことで、意見はまとまっていました」 結果として広田由紀夫さんと緒方家親族6人の計7人に対する殺人罪での起訴を行い、論告求刑公判においては、松永と緒方の両名に死刑を求刑したのだった。 福岡地裁小倉支部が下した判決は、すでに記した通り、松永と緒方の両名に対して死刑というもの。ただし、緒方の父である孝さんに対する事件のみ、殺人罪で起訴していたものが、傷害致死罪の認定に変更されている。「傷害致死に落ちたことで、えっ? という思いはありました。ただ、証拠関係にやや難があると報告されていたので、殺人での起訴は思い切った選択だったんです。そういった経緯もあり、まあ他の6人は殺人で認められたから、いいんじゃないの、と。2人とも死刑判決ですしね。1件くらい殺意が飛んでも、これはまあしょうがないとなりました」 そういう流れで、一審判決に対して松永と緒方は控訴しても、検察側が控訴することはなかったのである。〈「絞首台に乗った方が良かったんじゃないか」法廷では顔を紅潮させ歪んだ表情…7人が惨殺された“最凶事件”の裁判で下された予想外の判決〉へ続く(小野 一光)
それにより、同じく黙秘を貫いていた松永も、自身の保身のために有利な供述をする必要が生まれていた。しかし、そこでも巧妙な答え方をしていたそうだ。
「『自分は関係ない。無罪です』と言ったり、『そこで誰がなにをやったか、私はいませんでしたから』っていう、 ずっと自分は関係ないって形の供述しかしなかった。自分で話を作っていれば、周辺捜査で客観証拠をかためて話の内容の矛盾を突けるけど、それができない。崩しようがない話ばかりするわけです。そこが彼の頭の良い部分でしたね」
「起訴段階で、これは傷害致死なんじゃないのといった異論はありませんでした。すべての事件について、100パーセント殺人でいいってことで、意見はまとまっていました」
結果として広田由紀夫さんと緒方家親族6人の計7人に対する殺人罪での起訴を行い、論告求刑公判においては、松永と緒方の両名に死刑を求刑したのだった。
福岡地裁小倉支部が下した判決は、すでに記した通り、松永と緒方の両名に対して死刑というもの。ただし、緒方の父である孝さんに対する事件のみ、殺人罪で起訴していたものが、傷害致死罪の認定に変更されている。
「傷害致死に落ちたことで、えっ? という思いはありました。ただ、証拠関係にやや難があると報告されていたので、殺人での起訴は思い切った選択だったんです。そういった経緯もあり、まあ他の6人は殺人で認められたから、いいんじゃないの、と。2人とも死刑判決ですしね。1件くらい殺意が飛んでも、これはまあしょうがないとなりました」
そういう流れで、一審判決に対して松永と緒方は控訴しても、検察側が控訴することはなかったのである。
〈「絞首台に乗った方が良かったんじゃないか」法廷では顔を紅潮させ歪んだ表情…7人が惨殺された“最凶事件”の裁判で下された予想外の判決〉へ続く
(小野 一光)

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