肝臓試食を疑われた医師 獄中で描いた絵、76年を経て家族の元へ

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太平洋戦争末期の1945年、九州帝国大(現九州大、福岡市)で米軍捕虜8人が実験手術を受け、死亡した「生体解剖事件」。その捕虜から摘出した肝臓を食べたという事実無根の疑いで戦後に拘束され、後に無罪となった日本人医師が収監中に残したスケッチが見つかった。76年の時を経て家族の元に届いた線画には、冤罪(えんざい)におびえる苦悩や家族への思慕がにじむ。
【写真】試食を疑われた医師、真武さん 医師は真武七郎(またけしちろう)さん。連合国軍総司令部(GHQ)の記録や解剖事件の関係者が残した資料などによると、真武さんは福岡市内で開業医をしていた47年9月、巣鴨プリズン(東京)に収監された。

理由は、生体解剖事件で捕虜から取り出された肝臓を、食事会で食べたというもの。肝臓は、市内にあった偕行社(かいこうしゃ)病院(現在は廃院)の軍医見習士官(空襲で死亡)が生体解剖時に持ち出していた。真武さんは同病院の元院長だった。 真武さんは厳しい調べの末、容疑を認める虚偽の自白をしてしまう。BC級戦犯が裁かれた「横浜裁判」で真武さんは他の医師ら4人と共に死刑を求刑されたが、48年8月に5人全員が無罪判決を受けた。その後、真武さんは福岡市内で開業医を続け、69年に61歳で死去した。英文で「正義はどこに?」 見つかったスケッチは縦約26センチ、横約18センチの紙8枚。真武さんの収監中の様子が鉛筆で描かれている。 47年10月9日の日付とイニシャル入りで収監直後に描いたとみられる1枚には、格子窓の横でうなだれた男性の姿に、英文で「誰によって……、この結果」「正義はどこに?」とつづられていた。裸にされて身体検査を受ける様子や、布団で眠る男性が家族や古里の夢を見る絵もあった。収監時、真武さんには子供2人と身重の妻がいた。 これらのスケッチは当時、巣鴨プリズンの看守だったドナルド・フェーブルさんが所有していた。 長女のスーザン・ピーターソンさん(65)=米イリノイ州=によると、フェーブルさんは収監中の真武さんから「家族に送ってほしい」とスケッチを受け取っていた。だが、当時は規則で外部に送るのを認められてはいなかったという。 フェーブルさんは真武さんに無罪判決が出る前に看守を辞め、米国に帰国後もスケッチ8枚を大きな額縁に並べ入れて大切にしてきた。2015年にフェーブルさんが87歳で亡くなるなどしたことから、スケッチを飾っていた家は売却されることになった。 「家族に送ってあげたかっただろうスケッチを、何とか返還したい」 父の遺志を継ごうと考えたスーザンさんらは今夏、米軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)内の学校に勤務する知人に相談。日本の関係者の尽力もあり、福岡市に住む真武さんの三男清志さん(76)、長女ナナさん(74)らにつながった。子供たちの手元に残っていた自画像とタッチが同じだったため、真武さんのスケッチと確認された。 スケッチは24日、スーザンさんらフェーブルさんの子供たちがオンラインで見守る中、福岡市内で関係者から清志さんらに手渡された。スーザンさんは「絵を届けることは父の願い。父がとても喜んだに違いない」と語った。 ナナさんは「通信手段もない中、唯一絵を描くことが何か家族に残せるものだったのかな」と父の胸中を推し量る。清志さんは「戦後に苦悩し、父母が我々に話さなかったことをスケッチは教えてくれる。戻ってきたことは奇跡だ」と感謝した。【青木絵美】
医師は真武七郎(またけしちろう)さん。連合国軍総司令部(GHQ)の記録や解剖事件の関係者が残した資料などによると、真武さんは福岡市内で開業医をしていた47年9月、巣鴨プリズン(東京)に収監された。
理由は、生体解剖事件で捕虜から取り出された肝臓を、食事会で食べたというもの。肝臓は、市内にあった偕行社(かいこうしゃ)病院(現在は廃院)の軍医見習士官(空襲で死亡)が生体解剖時に持ち出していた。真武さんは同病院の元院長だった。
真武さんは厳しい調べの末、容疑を認める虚偽の自白をしてしまう。BC級戦犯が裁かれた「横浜裁判」で真武さんは他の医師ら4人と共に死刑を求刑されたが、48年8月に5人全員が無罪判決を受けた。その後、真武さんは福岡市内で開業医を続け、69年に61歳で死去した。
英文で「正義はどこに?」
見つかったスケッチは縦約26センチ、横約18センチの紙8枚。真武さんの収監中の様子が鉛筆で描かれている。
47年10月9日の日付とイニシャル入りで収監直後に描いたとみられる1枚には、格子窓の横でうなだれた男性の姿に、英文で「誰によって……、この結果」「正義はどこに?」とつづられていた。裸にされて身体検査を受ける様子や、布団で眠る男性が家族や古里の夢を見る絵もあった。収監時、真武さんには子供2人と身重の妻がいた。
これらのスケッチは当時、巣鴨プリズンの看守だったドナルド・フェーブルさんが所有していた。
長女のスーザン・ピーターソンさん(65)=米イリノイ州=によると、フェーブルさんは収監中の真武さんから「家族に送ってほしい」とスケッチを受け取っていた。だが、当時は規則で外部に送るのを認められてはいなかったという。
フェーブルさんは真武さんに無罪判決が出る前に看守を辞め、米国に帰国後もスケッチ8枚を大きな額縁に並べ入れて大切にしてきた。2015年にフェーブルさんが87歳で亡くなるなどしたことから、スケッチを飾っていた家は売却されることになった。
「家族に送ってあげたかっただろうスケッチを、何とか返還したい」
父の遺志を継ごうと考えたスーザンさんらは今夏、米軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)内の学校に勤務する知人に相談。日本の関係者の尽力もあり、福岡市に住む真武さんの三男清志さん(76)、長女ナナさん(74)らにつながった。子供たちの手元に残っていた自画像とタッチが同じだったため、真武さんのスケッチと確認された。
スケッチは24日、スーザンさんらフェーブルさんの子供たちがオンラインで見守る中、福岡市内で関係者から清志さんらに手渡された。スーザンさんは「絵を届けることは父の願い。父がとても喜んだに違いない」と語った。
ナナさんは「通信手段もない中、唯一絵を描くことが何か家族に残せるものだったのかな」と父の胸中を推し量る。清志さんは「戦後に苦悩し、父母が我々に話さなかったことをスケッチは教えてくれる。戻ってきたことは奇跡だ」と感謝した。【青木絵美】

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