終戦知らされずジャングルで戦死 父の無念と平和の尊さ訴える

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太平洋戦争が終戦を迎えた直後の1945年8月26日にフィリピンで父を亡くした、福島県いわき市内郷綴(つづら)町の寺内重男さん(84)が、同市文化センターで31日に開かれる市戦没者追悼式で遺族代表として追悼の辞を述べる。「戦地に送り出しておいて、その後のことは知らないということか」と、父の無念さをしのぶ。そして今も紛争の絶えない世界を憂い、平和の尊さを訴えるつもりだ。【柿沼秀行】
【写真まとめ】がれきの中から救出される少女 ガザ地区の惨状 寺内さん方は9月の豪雨で床上浸水し、物置内に重ねていた段ボール箱は水につかって全て廃棄した。父光男さんの写真や思い出の品もあったかもしれないが、「今となっては仕方がない」と言う。残された和室の遺影を見つめながら、寺内さんは父との思い出を語った。最後に見た父の背中 寺内さんは茨城県日立市出身。父が出征した時、長男の寺内さんは4歳だった。ある夏の日、近くの海岸に2人で出かけ、抱かれて海に入った楽しい思い出がある。出征前に自宅で親類を集めた壮行会では、間もなく生まれてくる3人目の子の名前を書いた紙を掲げていたのを、父の膝の上で見ていた。近所の人たちの万歳の声を背に、汽車に乗って行った姿も覚えている。「まさかそのまま帰ってこなくなるとは」 戦後しばらくして訪ねてきた戦友の話では、激戦地のルソン島で負傷したという。終戦も知らされないままジャングルに潜み、餓死したのではないかとみられるという。33歳だった。 父の出征後、一家は母マチ子さん(2003年に86歳で死去)の郷里である現在のいわき市に移った。市内を襲った米軍の機銃掃射では、近所の人が亡くなったという。寺内さんも至近距離で飛来する戦闘機を間近で見てあわてて物陰に隠れ、命拾いした。戦後、女手一つで3人育てた母 だが、本当に厳しい時代は戦後にやってきた。マチ子さんは働いた経験もない中で、嫁入り道具や着物を売って食いつないだ。古着を仕入れて売る仕事を見つけ、女手一つで寺内さんら3人の子を育て上げた。「知り合いが多い中で、古着を売って歩くのがどれだけ恥ずかしかったか」。寺内さんは大学まで行かせてもらい、社会人になってやっと楽な暮らしを送らせてあげられたと思う。 父の思い出の品はほとんどないが、抱きかかえられたぬくもりだけは今もはっきり残っている。「市民の幸せの犠牲の上に今の平和がある」と痛感する。 今、ウクライナやパレスチナで起きている紛争のニュースでは、大国が角を突き合わせて解決の糸口が見つからないまま、市民が傷つく姿に言葉を失う。追悼式では「我が国の平和のための役割は小さくない」と日本のリーダーシップに期待を込める。そして「平和の尊さを永遠に語り継ぐことが使命だ」と訴えるつもりだ。 終戦記念日の8月15日には東京・九段の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われるため、県の追悼式は参列者の負担を考慮し時期をずらして毎年10月ごろに行われている。いわき市の追悼式もこれに合わせて時期を調整して行っている。
寺内さん方は9月の豪雨で床上浸水し、物置内に重ねていた段ボール箱は水につかって全て廃棄した。父光男さんの写真や思い出の品もあったかもしれないが、「今となっては仕方がない」と言う。残された和室の遺影を見つめながら、寺内さんは父との思い出を語った。
最後に見た父の背中
寺内さんは茨城県日立市出身。父が出征した時、長男の寺内さんは4歳だった。ある夏の日、近くの海岸に2人で出かけ、抱かれて海に入った楽しい思い出がある。出征前に自宅で親類を集めた壮行会では、間もなく生まれてくる3人目の子の名前を書いた紙を掲げていたのを、父の膝の上で見ていた。近所の人たちの万歳の声を背に、汽車に乗って行った姿も覚えている。「まさかそのまま帰ってこなくなるとは」
戦後しばらくして訪ねてきた戦友の話では、激戦地のルソン島で負傷したという。終戦も知らされないままジャングルに潜み、餓死したのではないかとみられるという。33歳だった。
父の出征後、一家は母マチ子さん(2003年に86歳で死去)の郷里である現在のいわき市に移った。市内を襲った米軍の機銃掃射では、近所の人が亡くなったという。寺内さんも至近距離で飛来する戦闘機を間近で見てあわてて物陰に隠れ、命拾いした。
戦後、女手一つで3人育てた母
だが、本当に厳しい時代は戦後にやってきた。マチ子さんは働いた経験もない中で、嫁入り道具や着物を売って食いつないだ。古着を仕入れて売る仕事を見つけ、女手一つで寺内さんら3人の子を育て上げた。「知り合いが多い中で、古着を売って歩くのがどれだけ恥ずかしかったか」。寺内さんは大学まで行かせてもらい、社会人になってやっと楽な暮らしを送らせてあげられたと思う。
父の思い出の品はほとんどないが、抱きかかえられたぬくもりだけは今もはっきり残っている。「市民の幸せの犠牲の上に今の平和がある」と痛感する。
今、ウクライナやパレスチナで起きている紛争のニュースでは、大国が角を突き合わせて解決の糸口が見つからないまま、市民が傷つく姿に言葉を失う。追悼式では「我が国の平和のための役割は小さくない」と日本のリーダーシップに期待を込める。そして「平和の尊さを永遠に語り継ぐことが使命だ」と訴えるつもりだ。
終戦記念日の8月15日には東京・九段の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われるため、県の追悼式は参列者の負担を考慮し時期をずらして毎年10月ごろに行われている。いわき市の追悼式もこれに合わせて時期を調整して行っている。

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