「僕は死刑囚の息子として生きてきた」大山寛人さんが語る壮絶半生【広島連続保険金殺人事件】

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「父が逮捕された日の感情は、なかなか言葉では表現できません。しばらくは何も考えられず、ただ泣きながら床を殴り続ける日もありました。そこから徐々に父に対する憎しみが生まれて、最終的にはこの手で殺してやりたいと思うほどに怒りが大きくなったんです」
そう話すのは、大山清隆死刑囚(62)の息子・大山寛人(ひろと)さん(35)だ。’98年10月、清隆死刑囚は自身の養父(当時66)の頭を鈍器で殴り、殺害。交通事故を装って養父にかけられていた保険金約6000万円を手に入れた。さらに’00年3月、今度は妻であり寛人さんの母親でもある博美さん(当時38)を同じく保険金目的で殺害。母親が遺棄された一日について、寛人さんは淡々と語り始めた。
「当時僕は小学校6年生で、家に帰るとまず1時間は勉強するよう母から言われていて、その日も同じように勉強していました。それからいつも通りご飯を食べて、お風呂に入ったんです」
その数時間後、夫婦での晩酌中に睡眠導入剤を飲まされた博美さんは、夫によって風呂場の浴槽で溺死させられる。その夜、清隆死刑囚は寝ていた寛人さんを家族3人での夜釣りに誘い、車で冬の広島港へ連れ出した。その際、助手席に座っていた博美さんはすでに息絶えていたものの、寛人さんは母親が酔って眠っているものと思っていたという。
「車から離れたところで釣りをしており、父が母の遺体を海に落としたことに気付かなかった。父が逮捕されるまでの2年間、母は夜釣りの時に溺死したという父の筋書きを信じ込んでいたんです」
14歳のときに父親が逮捕され、親戚の家に引き取られた寛人さんは、自分を少しでも強く見せ、いじめの対象にならないよう、中学に入ると窃盗や無免許運転などの非行に走るようになったという。「悪いことをやっている時は、頭を空っぽにして父親の呪縛から解放されていた」と話す寛人さんだが、非行グループの中でも孤独を感じていたという。
「みんな同じように悪さをしているはずなのに、自分にだけ安らげる場所がないことに気付いたんです。他の奴らには帰る家があって、温かいご飯と布団がある。みんなに用意されているものが自分にだけない。自分と周りを比べてしまい、風邪薬を過剰摂取したりして、自殺未遂を繰り返しました」
孤独を抱えながらも非行に明け暮れた寛人さんは、いつの間にかグループの中心的な存在に。しかし、父親の一言をきっかけに、きっぱり非行を止めたという。
「ある時、僕がバイクの無免許運転で白バイに追われて、交差点に突っ込んで大怪我をしたんです。両腕を脱臼して顎を数針縫いました。その姿で広島拘置所へ父の面会に行ったら、父が『頼むからムチャはせんでくれ』と泣きながら言ってきたんです。そのとき、逮捕されて以降初めて、父に対し親としての愛情を実感できました。父を恨んだり憎んだりする気持ちに見切りをつけられると思った。僕自身が前に進むためにも、非行を止めて家族の絆に向き合おうと切り替えられたんです」
父親に「生きて罪を償(つぐな)ってほしい」と思うようになった寛人さんだが、今も母親に対しては、罪悪感を持ち続けている。
「母は殺される直前、1階の風呂場で『ヒロくん!』と僕の名前を叫んでいたようなんです。そのとき僕は2階の寝室で眠っていて、その叫びに気付けなかった。母に対しては育ててくれた感謝の気持ちよりも、助けられなくてごめんねという罪悪感のほうが大きい。16歳から2年くらいは、自分に罰を与えたくて手首を切り刻んでいました。昔は殺したかった父のことも、今は許してしまっている。父と母に対し相反する二つの思いがあるから、両親のどちらにも片寄らずに心のバランスがとれているんです」
寛人さんは高校を3日で辞めた後、17歳から精肉店やパチンコ店など職場を転々とするも、自らの生い立ちが原因で何度も職場をクビになってきた。今年7月頃からは理解のある社長の下、名古屋の風俗店でボーイとして働き始めた。17年ぶりに恋人もできたという。
「彼女とは遠距離なので毎日電話をするぐらいしかできませんが、それでも楽しいです。20年以上かかってようやく、自分が今まで手に入れられなかった幸せに触れることができたなと感じています」
父と母への思いを交錯させながら、寛人さんは少しずつ、当たり前の日常を取り戻している。
『FRIDAY』2023年10月6日号より

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