両親から継いだ実家を25年放置…松本明子(57)が明かす「実家じまい」失敗の顛末「1000万円以上の維持費を払った」

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両親から相続した実家を25年間も空き家状態にしたことで、総額1800万円もの維持管理費などを払うことになった、タレントの松本明子さん(57)。2017年1月にNHKの番組『クローズアップ現代+』へ出演したのを機に実家じまいを決心し、2018年1月に約600万円での売却を成功させる。
【画像多数】25年放置した結果、維持管理費だけで1000万円以上払った松本明子さんの実家を写真で見る 2022年6月には、実家を売却するまでの顛末などを綴った著書『実家じまい終わらせました! 大赤字を出した私が専門家とたどり着いた家とお墓のしまい方』(祥伝社)を上梓し、大きな反響を呼んだ。

節約家として知られる松本さんがなぜ、空き家に大金を注ぎ込むことになったのか。経緯を詳しく聞いた。(全4回の1回目/2回目に続く)松本明子さん 三宅史郎/文藝春秋◆◆◆実家は父のこだわりが詰まった伝統建築――松本さんの実家はどのような家だったのでしょうか。松本明子さん(以下、松本) 幼い頃は香川県高松市内の借家を転々としていたんですけど、昭和47年、私が6歳のときに父が念願のマイホームを建てまして。 市内から8キロくらい離れた市街地をのぞむ山の中腹に、敷地約90坪、間取り5DKの家を完成させたんです。そこで父と母、10歳上の兄と私、そして祖母の5人で暮らし始めました。――お父さまのこだわりが詰まった家だったそうですね。松本 宮大工にお願いして、総ヒノキ造りで、釘を使わない「木組み」という伝統建築で建てた平屋でした。 名石として知られる庵治石(あじいし)を使って、庭に石灯籠や石段、石垣を作ったりもして。約3000万円もかけて建てた父の「お城」でしたね。 でも当時の私にとっては、少し不便な家でした。山の中に建っていたから、市内の幼稚園に通うのに片道1時間もかかったんです。急すぎる坂道を歩いて下りるのに、30分もかかって。そこからさらに30分電車に乗って幼稚園へ行く、みたいな。――幼稚園まで片道1時間は結構な距離がありますね。松本 小学生になってからも、2~3キロ離れた小学校に片道40分くらいかけて通っていましたね。そんな家で約10年、15歳まで過ごしました。――歌手を目指して上京したのが、15歳のときですよね。当初、お父さまにはかなり反対されたとか。松本 私、父が37歳、母が36歳のときに生まれた子どもなんですよ。10歳上の兄は既に手がかからなくなっていたこともあって、ひとりっ子のように育てられまして。良い意味で言えば守られていた、悪く言えば親に監視されながら幼少期を過ごしました。 例えば、学校が休みの日も友だちと遊ばせてもらえず、親と過ごさなければいけない、みたいな。親の隙を見て近所の友だちの家に遊びに行くんですけど、夕方になると必ず母親が迎えに来ていました。――ご両親から大事に育てられていたのですね。松本 物心ついた頃には、親の敷いたレールの上を走っていた感じでしたね。だから親元を離れて、自分の力で頑張ってみたいという気持ちがありました。両親を東京に呼び寄せ、実家は空き家に――松本さんが上京してから、高松の実家が空き家になるまでの経緯を教えていただけますか。松本 17歳のときに歌手デビューしたものの、10年くらいは鳴かず飛ばずで。27歳くらいからやっと『電波少年シリーズ』や『DAISUKI!』(ともに日本テレビ)、『TVチャンピオン』(テレビ東京)などのバラエティ番組に出るようになったんです。 その時期に、「テレビ出演も増えたから、これでやっと親孝行ができる」と思って、高松にいる両親を東京に呼び寄せて、3人で東京のアパートに住み始めました。高松の実家が誰も住まない空き家になったのは、その頃からですね。――「親孝行」にもいろいろな形があると思いますが、なぜ東京でご両親と一緒に住むことを選んだのでしょう。松本 まず、60代半ばの両親が2人だけで暮らすのは、心配だったんです。 あと、当時は私の全盛期で、レギュラー番組を持ったりドラマに出たり、ありがたいことに忙しい日々を送っていて。でも、洗濯物が溜まったり、食事をコンビニ弁当で済ましたりしていて、生活面が乱れていました。だから生活のサポートをしてもらうために、両親を呼んだというのも正直あります。 両親は「仕方ないな」と言いながら、また娘と過ごせることを喜んでいましたね。「やっと呼ばれたか」みたいな(笑)。――お兄さまは実家を出ていたのですか?松本 兄は高校卒業後に東京の大学に進学したので、高松の実家には3年くらいしか住んでいないんですよ。 そのまま東京で就職をして、結婚したあとは都内に家を建てて、そこで家族と暮らしていました。祖母も亡くなっていたので、両親が東京に来たあとは実家が空っぽになってしまったわけです。――東京で住み始めてからも、ご両親は高松の実家に帰っていたのですか?松本 帰っていました。当初は、1年間のうち東京で過ごす時間が7割、残りの3割は高松で過ごす感じで行き来していました。でも年老いてくると、その頻度も少なくなってしまって。――そのときに、実家をどうするかという話は出なかったのですか。松本 なかったですね。両親は、いずれ地元に帰るつもりだったんだと思います。私も20代、30代の頃、実家はずっと残しておくものだと思っていたから、家を処分するとか、片付けるなんて一切考えていませんでした。 それに、両親は私のために家を残しておきたかったというのもあるんです。浮き沈みの激しい芸能界で仕事が無くなったとしても、実家さえ残しておけば明子は何とかなるだろう、と考えていたみたいで。 だから実家の家財道具はそのままにしていました。いつでも生活ができるように、電気や水道も通したままで。火事が心配なのでガスは止めていましたけど。25年間で1000万円以上の維持管理費がかかったワケ――電気代や水道代はかなりかかってしまったのでは。松本 1年で水道代が約1万2000円、電気代は母屋と離れで約8万円かかっていました。あとは固定資産税を約8万円、火災保険と地震保険を合わせて約10万円を毎年払い続けていました。 ほかにも、年に数回、お金を払って庭の雑草を駆除していました。それが年間で約10万円くらいかかっていましたね。諸々を合わせると、実家じまいをするまでの25年間で、維持管理費だけで1000万円以上かかっていたことになります。――庭の草木は、住んでいないとなかなか管理できませんよね。松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。 早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。 そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
2022年6月には、実家を売却するまでの顛末などを綴った著書『実家じまい終わらせました! 大赤字を出した私が専門家とたどり着いた家とお墓のしまい方』(祥伝社)を上梓し、大きな反響を呼んだ。
節約家として知られる松本さんがなぜ、空き家に大金を注ぎ込むことになったのか。経緯を詳しく聞いた。(全4回の1回目/2回目に続く)
松本明子さん 三宅史郎/文藝春秋
◆◆◆
――松本さんの実家はどのような家だったのでしょうか。
松本明子さん(以下、松本) 幼い頃は香川県高松市内の借家を転々としていたんですけど、昭和47年、私が6歳のときに父が念願のマイホームを建てまして。
市内から8キロくらい離れた市街地をのぞむ山の中腹に、敷地約90坪、間取り5DKの家を完成させたんです。そこで父と母、10歳上の兄と私、そして祖母の5人で暮らし始めました。
――お父さまのこだわりが詰まった家だったそうですね。
松本 宮大工にお願いして、総ヒノキ造りで、釘を使わない「木組み」という伝統建築で建てた平屋でした。
名石として知られる庵治石(あじいし)を使って、庭に石灯籠や石段、石垣を作ったりもして。約3000万円もかけて建てた父の「お城」でしたね。
でも当時の私にとっては、少し不便な家でした。山の中に建っていたから、市内の幼稚園に通うのに片道1時間もかかったんです。急すぎる坂道を歩いて下りるのに、30分もかかって。そこからさらに30分電車に乗って幼稚園へ行く、みたいな。――幼稚園まで片道1時間は結構な距離がありますね。松本 小学生になってからも、2~3キロ離れた小学校に片道40分くらいかけて通っていましたね。そんな家で約10年、15歳まで過ごしました。――歌手を目指して上京したのが、15歳のときですよね。当初、お父さまにはかなり反対されたとか。松本 私、父が37歳、母が36歳のときに生まれた子どもなんですよ。10歳上の兄は既に手がかからなくなっていたこともあって、ひとりっ子のように育てられまして。良い意味で言えば守られていた、悪く言えば親に監視されながら幼少期を過ごしました。 例えば、学校が休みの日も友だちと遊ばせてもらえず、親と過ごさなければいけない、みたいな。親の隙を見て近所の友だちの家に遊びに行くんですけど、夕方になると必ず母親が迎えに来ていました。――ご両親から大事に育てられていたのですね。松本 物心ついた頃には、親の敷いたレールの上を走っていた感じでしたね。だから親元を離れて、自分の力で頑張ってみたいという気持ちがありました。両親を東京に呼び寄せ、実家は空き家に――松本さんが上京してから、高松の実家が空き家になるまでの経緯を教えていただけますか。松本 17歳のときに歌手デビューしたものの、10年くらいは鳴かず飛ばずで。27歳くらいからやっと『電波少年シリーズ』や『DAISUKI!』(ともに日本テレビ)、『TVチャンピオン』(テレビ東京)などのバラエティ番組に出るようになったんです。 その時期に、「テレビ出演も増えたから、これでやっと親孝行ができる」と思って、高松にいる両親を東京に呼び寄せて、3人で東京のアパートに住み始めました。高松の実家が誰も住まない空き家になったのは、その頃からですね。――「親孝行」にもいろいろな形があると思いますが、なぜ東京でご両親と一緒に住むことを選んだのでしょう。松本 まず、60代半ばの両親が2人だけで暮らすのは、心配だったんです。 あと、当時は私の全盛期で、レギュラー番組を持ったりドラマに出たり、ありがたいことに忙しい日々を送っていて。でも、洗濯物が溜まったり、食事をコンビニ弁当で済ましたりしていて、生活面が乱れていました。だから生活のサポートをしてもらうために、両親を呼んだというのも正直あります。 両親は「仕方ないな」と言いながら、また娘と過ごせることを喜んでいましたね。「やっと呼ばれたか」みたいな(笑)。――お兄さまは実家を出ていたのですか?松本 兄は高校卒業後に東京の大学に進学したので、高松の実家には3年くらいしか住んでいないんですよ。 そのまま東京で就職をして、結婚したあとは都内に家を建てて、そこで家族と暮らしていました。祖母も亡くなっていたので、両親が東京に来たあとは実家が空っぽになってしまったわけです。――東京で住み始めてからも、ご両親は高松の実家に帰っていたのですか?松本 帰っていました。当初は、1年間のうち東京で過ごす時間が7割、残りの3割は高松で過ごす感じで行き来していました。でも年老いてくると、その頻度も少なくなってしまって。――そのときに、実家をどうするかという話は出なかったのですか。松本 なかったですね。両親は、いずれ地元に帰るつもりだったんだと思います。私も20代、30代の頃、実家はずっと残しておくものだと思っていたから、家を処分するとか、片付けるなんて一切考えていませんでした。 それに、両親は私のために家を残しておきたかったというのもあるんです。浮き沈みの激しい芸能界で仕事が無くなったとしても、実家さえ残しておけば明子は何とかなるだろう、と考えていたみたいで。 だから実家の家財道具はそのままにしていました。いつでも生活ができるように、電気や水道も通したままで。火事が心配なのでガスは止めていましたけど。25年間で1000万円以上の維持管理費がかかったワケ――電気代や水道代はかなりかかってしまったのでは。松本 1年で水道代が約1万2000円、電気代は母屋と離れで約8万円かかっていました。あとは固定資産税を約8万円、火災保険と地震保険を合わせて約10万円を毎年払い続けていました。 ほかにも、年に数回、お金を払って庭の雑草を駆除していました。それが年間で約10万円くらいかかっていましたね。諸々を合わせると、実家じまいをするまでの25年間で、維持管理費だけで1000万円以上かかっていたことになります。――庭の草木は、住んでいないとなかなか管理できませんよね。松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。 早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。 そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
でも当時の私にとっては、少し不便な家でした。山の中に建っていたから、市内の幼稚園に通うのに片道1時間もかかったんです。急すぎる坂道を歩いて下りるのに、30分もかかって。そこからさらに30分電車に乗って幼稚園へ行く、みたいな。
――幼稚園まで片道1時間は結構な距離がありますね。
松本 小学生になってからも、2~3キロ離れた小学校に片道40分くらいかけて通っていましたね。そんな家で約10年、15歳まで過ごしました。
――歌手を目指して上京したのが、15歳のときですよね。当初、お父さまにはかなり反対されたとか。
松本 私、父が37歳、母が36歳のときに生まれた子どもなんですよ。10歳上の兄は既に手がかからなくなっていたこともあって、ひとりっ子のように育てられまして。良い意味で言えば守られていた、悪く言えば親に監視されながら幼少期を過ごしました。
例えば、学校が休みの日も友だちと遊ばせてもらえず、親と過ごさなければいけない、みたいな。親の隙を見て近所の友だちの家に遊びに行くんですけど、夕方になると必ず母親が迎えに来ていました。
――ご両親から大事に育てられていたのですね。
松本 物心ついた頃には、親の敷いたレールの上を走っていた感じでしたね。だから親元を離れて、自分の力で頑張ってみたいという気持ちがありました。
両親を東京に呼び寄せ、実家は空き家に――松本さんが上京してから、高松の実家が空き家になるまでの経緯を教えていただけますか。松本 17歳のときに歌手デビューしたものの、10年くらいは鳴かず飛ばずで。27歳くらいからやっと『電波少年シリーズ』や『DAISUKI!』(ともに日本テレビ)、『TVチャンピオン』(テレビ東京)などのバラエティ番組に出るようになったんです。 その時期に、「テレビ出演も増えたから、これでやっと親孝行ができる」と思って、高松にいる両親を東京に呼び寄せて、3人で東京のアパートに住み始めました。高松の実家が誰も住まない空き家になったのは、その頃からですね。――「親孝行」にもいろいろな形があると思いますが、なぜ東京でご両親と一緒に住むことを選んだのでしょう。松本 まず、60代半ばの両親が2人だけで暮らすのは、心配だったんです。 あと、当時は私の全盛期で、レギュラー番組を持ったりドラマに出たり、ありがたいことに忙しい日々を送っていて。でも、洗濯物が溜まったり、食事をコンビニ弁当で済ましたりしていて、生活面が乱れていました。だから生活のサポートをしてもらうために、両親を呼んだというのも正直あります。 両親は「仕方ないな」と言いながら、また娘と過ごせることを喜んでいましたね。「やっと呼ばれたか」みたいな(笑)。――お兄さまは実家を出ていたのですか?松本 兄は高校卒業後に東京の大学に進学したので、高松の実家には3年くらいしか住んでいないんですよ。 そのまま東京で就職をして、結婚したあとは都内に家を建てて、そこで家族と暮らしていました。祖母も亡くなっていたので、両親が東京に来たあとは実家が空っぽになってしまったわけです。――東京で住み始めてからも、ご両親は高松の実家に帰っていたのですか?松本 帰っていました。当初は、1年間のうち東京で過ごす時間が7割、残りの3割は高松で過ごす感じで行き来していました。でも年老いてくると、その頻度も少なくなってしまって。――そのときに、実家をどうするかという話は出なかったのですか。松本 なかったですね。両親は、いずれ地元に帰るつもりだったんだと思います。私も20代、30代の頃、実家はずっと残しておくものだと思っていたから、家を処分するとか、片付けるなんて一切考えていませんでした。 それに、両親は私のために家を残しておきたかったというのもあるんです。浮き沈みの激しい芸能界で仕事が無くなったとしても、実家さえ残しておけば明子は何とかなるだろう、と考えていたみたいで。 だから実家の家財道具はそのままにしていました。いつでも生活ができるように、電気や水道も通したままで。火事が心配なのでガスは止めていましたけど。25年間で1000万円以上の維持管理費がかかったワケ――電気代や水道代はかなりかかってしまったのでは。松本 1年で水道代が約1万2000円、電気代は母屋と離れで約8万円かかっていました。あとは固定資産税を約8万円、火災保険と地震保険を合わせて約10万円を毎年払い続けていました。 ほかにも、年に数回、お金を払って庭の雑草を駆除していました。それが年間で約10万円くらいかかっていましたね。諸々を合わせると、実家じまいをするまでの25年間で、維持管理費だけで1000万円以上かかっていたことになります。――庭の草木は、住んでいないとなかなか管理できませんよね。松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。 早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。 そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――松本さんが上京してから、高松の実家が空き家になるまでの経緯を教えていただけますか。
松本 17歳のときに歌手デビューしたものの、10年くらいは鳴かず飛ばずで。27歳くらいからやっと『電波少年シリーズ』や『DAISUKI!』(ともに日本テレビ)、『TVチャンピオン』(テレビ東京)などのバラエティ番組に出るようになったんです。
その時期に、「テレビ出演も増えたから、これでやっと親孝行ができる」と思って、高松にいる両親を東京に呼び寄せて、3人で東京のアパートに住み始めました。高松の実家が誰も住まない空き家になったのは、その頃からですね。
――「親孝行」にもいろいろな形があると思いますが、なぜ東京でご両親と一緒に住むことを選んだのでしょう。松本 まず、60代半ばの両親が2人だけで暮らすのは、心配だったんです。 あと、当時は私の全盛期で、レギュラー番組を持ったりドラマに出たり、ありがたいことに忙しい日々を送っていて。でも、洗濯物が溜まったり、食事をコンビニ弁当で済ましたりしていて、生活面が乱れていました。だから生活のサポートをしてもらうために、両親を呼んだというのも正直あります。 両親は「仕方ないな」と言いながら、また娘と過ごせることを喜んでいましたね。「やっと呼ばれたか」みたいな(笑)。――お兄さまは実家を出ていたのですか?松本 兄は高校卒業後に東京の大学に進学したので、高松の実家には3年くらいしか住んでいないんですよ。 そのまま東京で就職をして、結婚したあとは都内に家を建てて、そこで家族と暮らしていました。祖母も亡くなっていたので、両親が東京に来たあとは実家が空っぽになってしまったわけです。――東京で住み始めてからも、ご両親は高松の実家に帰っていたのですか?松本 帰っていました。当初は、1年間のうち東京で過ごす時間が7割、残りの3割は高松で過ごす感じで行き来していました。でも年老いてくると、その頻度も少なくなってしまって。――そのときに、実家をどうするかという話は出なかったのですか。松本 なかったですね。両親は、いずれ地元に帰るつもりだったんだと思います。私も20代、30代の頃、実家はずっと残しておくものだと思っていたから、家を処分するとか、片付けるなんて一切考えていませんでした。 それに、両親は私のために家を残しておきたかったというのもあるんです。浮き沈みの激しい芸能界で仕事が無くなったとしても、実家さえ残しておけば明子は何とかなるだろう、と考えていたみたいで。 だから実家の家財道具はそのままにしていました。いつでも生活ができるように、電気や水道も通したままで。火事が心配なのでガスは止めていましたけど。25年間で1000万円以上の維持管理費がかかったワケ――電気代や水道代はかなりかかってしまったのでは。松本 1年で水道代が約1万2000円、電気代は母屋と離れで約8万円かかっていました。あとは固定資産税を約8万円、火災保険と地震保険を合わせて約10万円を毎年払い続けていました。 ほかにも、年に数回、お金を払って庭の雑草を駆除していました。それが年間で約10万円くらいかかっていましたね。諸々を合わせると、実家じまいをするまでの25年間で、維持管理費だけで1000万円以上かかっていたことになります。――庭の草木は、住んでいないとなかなか管理できませんよね。松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。 早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。 そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――「親孝行」にもいろいろな形があると思いますが、なぜ東京でご両親と一緒に住むことを選んだのでしょう。
松本 まず、60代半ばの両親が2人だけで暮らすのは、心配だったんです。
あと、当時は私の全盛期で、レギュラー番組を持ったりドラマに出たり、ありがたいことに忙しい日々を送っていて。でも、洗濯物が溜まったり、食事をコンビニ弁当で済ましたりしていて、生活面が乱れていました。だから生活のサポートをしてもらうために、両親を呼んだというのも正直あります。
両親は「仕方ないな」と言いながら、また娘と過ごせることを喜んでいましたね。「やっと呼ばれたか」みたいな(笑)。
――お兄さまは実家を出ていたのですか?
松本 兄は高校卒業後に東京の大学に進学したので、高松の実家には3年くらいしか住んでいないんですよ。
そのまま東京で就職をして、結婚したあとは都内に家を建てて、そこで家族と暮らしていました。祖母も亡くなっていたので、両親が東京に来たあとは実家が空っぽになってしまったわけです。
――東京で住み始めてからも、ご両親は高松の実家に帰っていたのですか?松本 帰っていました。当初は、1年間のうち東京で過ごす時間が7割、残りの3割は高松で過ごす感じで行き来していました。でも年老いてくると、その頻度も少なくなってしまって。――そのときに、実家をどうするかという話は出なかったのですか。松本 なかったですね。両親は、いずれ地元に帰るつもりだったんだと思います。私も20代、30代の頃、実家はずっと残しておくものだと思っていたから、家を処分するとか、片付けるなんて一切考えていませんでした。 それに、両親は私のために家を残しておきたかったというのもあるんです。浮き沈みの激しい芸能界で仕事が無くなったとしても、実家さえ残しておけば明子は何とかなるだろう、と考えていたみたいで。 だから実家の家財道具はそのままにしていました。いつでも生活ができるように、電気や水道も通したままで。火事が心配なのでガスは止めていましたけど。25年間で1000万円以上の維持管理費がかかったワケ――電気代や水道代はかなりかかってしまったのでは。松本 1年で水道代が約1万2000円、電気代は母屋と離れで約8万円かかっていました。あとは固定資産税を約8万円、火災保険と地震保険を合わせて約10万円を毎年払い続けていました。 ほかにも、年に数回、お金を払って庭の雑草を駆除していました。それが年間で約10万円くらいかかっていましたね。諸々を合わせると、実家じまいをするまでの25年間で、維持管理費だけで1000万円以上かかっていたことになります。――庭の草木は、住んでいないとなかなか管理できませんよね。松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。 早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。 そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――東京で住み始めてからも、ご両親は高松の実家に帰っていたのですか?
松本 帰っていました。当初は、1年間のうち東京で過ごす時間が7割、残りの3割は高松で過ごす感じで行き来していました。でも年老いてくると、その頻度も少なくなってしまって。
――そのときに、実家をどうするかという話は出なかったのですか。
松本 なかったですね。両親は、いずれ地元に帰るつもりだったんだと思います。私も20代、30代の頃、実家はずっと残しておくものだと思っていたから、家を処分するとか、片付けるなんて一切考えていませんでした。
それに、両親は私のために家を残しておきたかったというのもあるんです。浮き沈みの激しい芸能界で仕事が無くなったとしても、実家さえ残しておけば明子は何とかなるだろう、と考えていたみたいで。
だから実家の家財道具はそのままにしていました。いつでも生活ができるように、電気や水道も通したままで。火事が心配なのでガスは止めていましたけど。
25年間で1000万円以上の維持管理費がかかったワケ――電気代や水道代はかなりかかってしまったのでは。松本 1年で水道代が約1万2000円、電気代は母屋と離れで約8万円かかっていました。あとは固定資産税を約8万円、火災保険と地震保険を合わせて約10万円を毎年払い続けていました。 ほかにも、年に数回、お金を払って庭の雑草を駆除していました。それが年間で約10万円くらいかかっていましたね。諸々を合わせると、実家じまいをするまでの25年間で、維持管理費だけで1000万円以上かかっていたことになります。――庭の草木は、住んでいないとなかなか管理できませんよね。松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。 早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。 そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――電気代や水道代はかなりかかってしまったのでは。
松本 1年で水道代が約1万2000円、電気代は母屋と離れで約8万円かかっていました。あとは固定資産税を約8万円、火災保険と地震保険を合わせて約10万円を毎年払い続けていました。
ほかにも、年に数回、お金を払って庭の雑草を駆除していました。それが年間で約10万円くらいかかっていましたね。諸々を合わせると、実家じまいをするまでの25年間で、維持管理費だけで1000万円以上かかっていたことになります。
――庭の草木は、住んでいないとなかなか管理できませんよね。
松本 最初は両親が高松に帰ったときに父が庭の草木を剪定したり、雑草を抜いたりしていたんです。でもだんだんと帰る頻度が減ってしまって。父が亡くなってからは、私が実家に戻ったときに草木を手入れしていたのですが、父のようにはできませんでした。
早めに休みの予定を組めればいいんですけど、こういう仕事をしているものだから、そういうわけにもいかなくて。仕事で関西に行ったときとか、年に2回くらい高松に行ければいいほうだったので、次第に雑草が伸び放題になってしまった。
そしたらある日、高松市役所から「庭の草木を手入れしてください。ご近所からクレームが入っていますし、衛生的にも防犯的にも良くないので」と連絡が来てしまって。とはいえ、年に何度も実家に行けないので、地域のシルバー人材センターに有料で手入れをしてもらうことになったんです。
「実家を頼む」と父に言われて正式に継いだものの…――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。 父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。 ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――お父さまが亡くなられたのは、いつ頃だったのですか。
松本 私が37歳のとき、2003年の8月末ですね。最後は癌を患って、東京の病院で息を引き取りました。相続については、父の生前から家族で話し合っていて、「高松の家は明子に継いでほしい」と言われていたんです。私が家を継ぐかわりに、兄は実家の価値の半分にあたる金額を受け取っていました。
父には、亡くなる直前にも「明子、実家を頼む」と伝えられました。父が他界したあと、実家は母が相続して母名義の家になるのですが、兄にも了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成して、正式に私が高松の実家を継ぐことになったのです。
――「実家を頼む」という言葉が、お父さまの遺言になったのですね。
松本 あの言葉は重かったですね。きっと父は、やっとの思いで建てたこだわりの家が処分されるのは、寂しかったのだと思います。
ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。 でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。 ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
ただ私は、いつまで管理するべきなのか、私の子どもたちにまで受け継いでほしいのか、そういう具体的なところまでは聞いていなくて。父が他界したあとは、ただ漠然と管理していましたね。
――遺産分割をする際に、実家の管理について話さなかったのですか?
松本 高松の実家を今後どうするかまでは、家族で話し合っていませんでした。当時はそこまで考えられなかった。私を含めた家族みんなが「まあ誰かが住むんだろう」と思っていました。
でも、父が亡くなった4年後の2007年、私が41歳のときに母も癌を患って他界するんです。そこでいよいよ、「両親がいなくなった。さて、高松の実家をどうしたものか」という問題が自分の中で浮かんできて。
ただ、そのときは母が亡くなって間もなかったので気持ちを切り替えられなかったし、家をどうするか考えが定まらなかったですね。
――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。総額600万円かけて空き家をリフォームした理由――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。 でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――ご両親を亡くした喪失感もありますよね。
松本 喪失感もありましたし、母を長年介護していた介護疲れもあった。それに当時は息子が7歳くらいだったので、まだ子育ても大変で。育児と仕事と今の生活の忙しさにかまけて、なかなか実家のことまで考える余裕はなかったです。
――ご自身の頭の片隅には、実家をどうしたいというイメージはあったのでしょうか。
松本 もし息子が四国の会社に就職したりして、高松に住むようなことがあるかもしれない、という淡い期待がありました。だからとりあえず、実家は残しておいたほうがいいんじゃないかなと。
でも月日が経ち、息子が成長していくなかで将来のことを本人に確認したら、 東京で就職したいと言っていて。そうなるとやはり、私が実家をどうにかしなきゃいけないと真剣に考え始めましたね。
――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。――当然リフォーム費もかかりますよね。松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。 屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――その時点で、「実家じまい」をしようという意識は?
松本 なかったです。2011年に東日本大震災があったとき、東京でもあと30年以内に大きな地震が起こるかもしれない、という情報を見聞きして。もしそうなったら、高松の実家に避難してすぐ住めるようにしておかなければいけないと思ったんです。だから震災後にリフォームをしたんですよ。
――当然リフォーム費もかかりますよね。
松本 一気にリフォーム出来なかったので、2回に分けて行ったんですよね。1回目が約350万円、2回目が約250万円で、総額600万円くらいかかりました。
屋根や壁、水回りを直すだけでなく、和室の畳を板の間に替えたりもして。そのときは、「ここが自分の第2の家になるんだ」と住む気満々でした。でもやっぱり東京で仕事をしていると、高松に何度も帰るのは難しくて。
なぜ東京と高松の2拠点生活をしなかったのか?――2拠点生活は考えなかったんですか?松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。 誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――2拠点生活は考えなかったんですか?
松本 考えたこともありましたけど、東京から高松はなかなか遠いので、実現しませんでした。もし週に1度でも、地元の近くに行くようなレギュラー番組とかがあれば、また違ったんでしょうけど。基本的に仕事は東京なので。最終的には、年に1回行くかどうかになってしまって。
誰か住んでくれる人がいないか、地元の親戚や知り合いに声をかけてみたりもしたんですけど、みんな持ち家があるから、丁重にお断りされてしまって。飲食店として使ってもらえないかとか、自治体の集まりに活用してもらえないかとか、いろいろ考えて各方面にお声がけをしたんですけど、ことごとく断られてしまいました。
――実家をどうするか決まらないまま、維持管理費だけが発生している状態になってしまったと。
松本 そうです。結局、25年間も空き家状態にしてしまいました。その間に、先ほどお話しした維持管理費が約1000万円、リフォーム費と合わせたら、総額で約1600万円も費やしてしまったんです。
――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――節約家として知られる松本さんが、空き家にそれだけのお金を費やしていたのは意外でした。
松本 月々の出費はそれほど大きくないから、生活費を節約すれば大丈夫かなと思って、ズルズルと払い続けてしまったんですよね。でも息子が大きくなって、予備校や塾などの教育費が増えていくにつれて「これは実家に毎月お金をかけている場合じゃない」という思いが大きくなっていったんです。
撮影=三宅史郎/文藝春秋「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く(「文春オンライン」編集部)
「家の価値はゼロと言われた」実家を600万円で売却、20トンのゴミ処分…松本明子(57)が語る「実家じまい」の苦労 へ続く
(「文春オンライン」編集部)

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