《本当にあった恐ろしい話》被差別部落出身の若者が、女子高生「殺人犯」にされるまで…「狭山事件」石川一雄さんの独占告白【事件から60年】

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袴田巌さんの再審開始が認められ、検察の特別抗告が棄却されたことは記憶に新しい。無罪を勝ち取るであろう袴田さんに続くのは自分だと再審を求め続けているのが、狭山事件の犯人とされた石川一雄さんだ。今日5月23日、事件から60年を迎え、石川さんは信頼する反骨の記者に存念のすべてを語った。差別と冤罪の構造を暴く全4回をお届けする。「自白しなければ、兄を逮捕する」「見えない手錠がかかったままなんです」すでに老境にある男性は、仮出所から29年近くに及ぶ日々を、声を震わせながら語った。同世代の中でも小柄な方だろう。かつて部落解放同盟の子どもたちから「石川のお兄ちゃん」と呼ばれていた面影はない。

埼玉県狭山市で1963年に女子高校生が殺害された「狭山事件」で、無期懲役囚として服役、罪に問われた石川一雄さん(84歳)。事件発生と逮捕から60年がたついまも「部落差別が生んだ冤罪事件」と訴え、裁判のやり直しを求めている。94年12月21日に千葉刑務所を仮出所。31年7ヵ月振りに狭山に戻った。「家に戻って仏壇の前を通るわけです。兄貴は『親父もお袋も泣いているから手をあわせろ』と怒った。言い返しました。『俺は無実だ。まだ手錠がかかっているんだ』と。その手で、仏壇に手を合わせるわけにいかないでしょう」その決意は今も変わらない。「見えない手錠がかかったままなんです」と話す石川一雄さん=狭山市で2022年6月1日新緑の季節であるはずの5月が嫌いだ、とも。「悔しくてね。逮捕されたあと、もうそれこそ厳しい取り調べだったから、それを思い出しちゃうんですね。眠れないんですよ、悔しくて。自分のバカさ加減に」事件は、最初の東京オリンピックを1年後に控えた63年5月1日に起きた。女子高校生(当時16歳)が行方不明になり、自宅に身代金を要求する脅迫状が届けられた。金の受け取り場所に、埼玉県警は数十人の警戒網を敷きながら、現れた犯人を取り逃がした。その後、女子高生は遺体となって発見。1カ月ほど前に都内で幼児が誘拐され身代金が奪われた「吉展ちゃん事件」が未解決のままだったこともあり、警察の大失態として批判が巻き起こり、警察庁長官が辞任に追い込まれた。生きた犯人を捕らえることが、警察の至上命題になっていた。脅迫状を写させる取り調べ被害者宅の関係者がなぞの自殺を遂げるなか、捜査の目は遺体発見現場近くの被差別部落に注がれ、そこに住む者たちが徹底して調べられた。そして、24歳の石川さんが単純暴行などの軽微な容疑で逮捕された。同23日早朝のことだ。明かな別件逮捕だった。女子高生殺害については否認を貫いた。6月17日にいったん釈放された。自由になったかと思わせたその刹那、女子高生殺しなどの容疑で再逮捕された。弁護士との接見は制限された。心は折れ、「自白」を余儀なくされた。当時の記憶は今も脳髄の奥に焼き付いている。「夜中まで取り調べをやって、朝は8時半から始まる。それなのに夜になると、わざと留置所前で椅子をバタン、バタンさせて寝かせない。眠くて眠くてしようがなかった。それがつらかったです。取り調べもきつく、『知らない』と言っているのに、『やっただろう』と。その繰り返しでした」石川さんは字の読み書きがほとんどできなかった。当時書かれた「上申書」の署名は「一雄」ではなく、「一夫」と書かれている。自分の名前の「雄」の名前を書けなかった。こんなこともさせられたという。「取り調べも1時間から2時間やって、休んでもいいよと、となる。何をするかといえば、脅迫状の写しをさせられたんです。それも毎日のように。わら半紙に書かされる。検事がくると、書いているのを途中でやめさせて閉じてしまう。検事がいなくなると、また脅迫状を写す。100枚以上書きましたね」取り調べで書いた文字には、「学校」を「がこを」、「封筒」を「ふんとを」と表記されていた。促音も長音も正しく書けず、「う」と「ん」の区別ができなかった。「字はよく書けない」「脅迫状は書いていない」と訴える石川さんに、証拠開示された取り調べの録音テープには、「石川君が書いたこと、こりゃ間違いねえんだ」と繰り返し「自白」を迫る取調官の声が記録されている。脅迫状の漢字は、自宅にあった少女雑誌の文字を拾い出して書いたとされたが、肝心の雑誌は見つかっていない。付言すれば、第2審の段階で、国語学の権威、大野晋や、筆跡の専門家は《脅迫状は石川さんの筆跡でなく、当時の石川さんの国語能力では書けなかった》とする鑑定書をまとめている。結局、石川さんは「自白しなければ、兄を逮捕する」「認めれば、10年で出してやる。男の約束だ」という、取調官の脅しと甘言を信じてしまった。「投票所整理券」に押された赤いスタンプ「石川の無念は、教育が受けられなかったことにあるんです」と、妻の早智子さん(76歳)は言う。生家は貧しかった。いわゆる「土方仕事」をしていた父親が子だくさんの一家の生活を支えた。白米ではなくうどんが主食で、それさえ事欠いたことがあったという。「当時のことを思い出すと情けなくなります。やっぱり自分が……。飲まず食わずの生活をしていた。明日、食うことが精いっぱいでしたから。だから学校に通えなかった」ノートなどの文房具はなく、小学校も満足に行かなかった。中学校にはまともに通った記憶はない。小学生のころから子守奉公に出された。以降、靴店での住み込み奉公など、おとなたちにまじって働いた。19歳のころに製菓会社に就職した。一生懸命真面目に働いた。認められ、工程の管理を任された。原料の使用量を伝票に書かなくてはならなかったが、漢字が読めないため同僚に頼んだ。ところが、ある日のこと、その同僚が休んだため、切羽詰まって前日の数字をそのまま書き写した。だが、生産量と合わない、と問題になり、事務所に呼び出された。大勢の職員が見ている前で、非識字者であることがさらされた。いたたまれなかった。屈辱だった。通わなくなり、誇りと感じていた職を失った。「字が読めず、社会的に無知だったから、『自白』させられこんな目にあった」と、自身の生育環境を呪う。「一番腹が立つのは親父。学校に行かしてくれなかったからね。だから社会的に無知になってしまった。それが事件に巻き込まれるきっかけになってしまった。親父と、お袋が拘置所に面会に来たときに私は怒ったんですよ。『土方仕事しかできないのに、なんで子供を5人も6人もつくったのか』と。親父は『しようがなかったんだ』と謝ったんですけどね」石川さんの声はかすれていた。真意は裏腹である。人前に出るのが苦手だった父母が「息子、石川一雄を助けて下さい」と訴え、救援運動の先頭に立っていたことは十分に分かっている。それでも、親のせいではないことがわかっていても教育を受けられなかった悔しさは、激しい言葉に変じていく。60年経っても許せない父富造さんは85年に、母リイさんは87年に亡くなった。それぞれの享年は87と81。石川さんは獄中で、両親の訃報に接した。母の死を知らされた時は、房内で倒れてしまった。「3日間寝込んだ。母ちゃん子だったから」骨の髄に染み込んでいるのは、自分を、そして家族を苦しめる原因となった警察当局への憤怒である。2020年1月、石川さんは支援者に向けたメッセージの中に、こんな一文を盛り込んだ。《振り返れば、私を犯人にデッチ上げ、辛苦の拘禁生活を余儀なくした三人の取調官を断じて許せないと仮出獄の当初まで不倶戴天の敵との強い意志を持ち、復讐しようと考えていたのは事実であります。しかし、そうなれば、支援者皆様方が何のために社会復帰に尽力してくださったのか、再び刑務所に戻されてしまうことを考え、思いとどまったのでした》94年時点の気持ちであろうが、60年がたってもその気持ちはいささかも変わるまい。分厚い「再審の壁」を思うに付け、自身を「殺人者」の恥辱に追い込んだ原点は、埼玉県警のゆがんだ捜査にあるからだ。《愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。しるして『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり》「新約聖書」の有名な一節である。だが、神は当時の取調官を罰しただろうか。否である。石川さんは思う。人生にとって大切な青年、壮年期を奪われたどころか、「死の恐怖」の日々に追い込み、いまもって人間としての名誉は蹂躙されたままである。「これほどの不条理はあるか」と。選挙のたびに自宅に届く「投票所入場整理券」には、自身の名前の上に「投票できません」という赤いスタンプが押されている。狭山の地で呼吸しているのに、己は「いない存在」になっていることを思い知らされる。「見えない手錠」は何も観念的なものではなく、リアルなものとして存在する。84歳を迎え、視力はめっきり落ちてきた。昨年できたことが、今年になってできないこともある。「このままでは死にきれない。倒れても、はってでも冤罪であることを証明しなければ」石川さんの悲痛な叫びだ。連載第2回 60年前に被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった につづく
袴田巌さんの再審開始が認められ、検察の特別抗告が棄却されたことは記憶に新しい。無罪を勝ち取るであろう袴田さんに続くのは自分だと再審を求め続けているのが、狭山事件の犯人とされた石川一雄さんだ。
「見えない手錠がかかったままなんです」
すでに老境にある男性は、仮出所から29年近くに及ぶ日々を、声を震わせながら語った。同世代の中でも小柄な方だろう。かつて部落解放同盟の子どもたちから「石川のお兄ちゃん」と呼ばれていた面影はない。
埼玉県狭山市で1963年に女子高校生が殺害された「狭山事件」で、無期懲役囚として服役、罪に問われた石川一雄さん(84歳)。事件発生と逮捕から60年がたついまも「部落差別が生んだ冤罪事件」と訴え、裁判のやり直しを求めている。
94年12月21日に千葉刑務所を仮出所。31年7ヵ月振りに狭山に戻った。「家に戻って仏壇の前を通るわけです。兄貴は『親父もお袋も泣いているから手をあわせろ』と怒った。言い返しました。『俺は無実だ。まだ手錠がかかっているんだ』と。その手で、仏壇に手を合わせるわけにいかないでしょう」
その決意は今も変わらない。
「見えない手錠がかかったままなんです」と話す石川一雄さん=狭山市で2022年6月1日
新緑の季節であるはずの5月が嫌いだ、とも。
「悔しくてね。逮捕されたあと、もうそれこそ厳しい取り調べだったから、それを思い出しちゃうんですね。眠れないんですよ、悔しくて。自分のバカさ加減に」
事件は、最初の東京オリンピックを1年後に控えた63年5月1日に起きた。女子高校生(当時16歳)が行方不明になり、自宅に身代金を要求する脅迫状が届けられた。金の受け取り場所に、埼玉県警は数十人の警戒網を敷きながら、現れた犯人を取り逃がした。その後、女子高生は遺体となって発見。1カ月ほど前に都内で幼児が誘拐され身代金が奪われた「吉展ちゃん事件」が未解決のままだったこともあり、警察の大失態として批判が巻き起こり、警察庁長官が辞任に追い込まれた。生きた犯人を捕らえることが、警察の至上命題になっていた。
被害者宅の関係者がなぞの自殺を遂げるなか、捜査の目は遺体発見現場近くの被差別部落に注がれ、そこに住む者たちが徹底して調べられた。そして、24歳の石川さんが単純暴行などの軽微な容疑で逮捕された。同23日早朝のことだ。
明かな別件逮捕だった。女子高生殺害については否認を貫いた。6月17日にいったん釈放された。自由になったかと思わせたその刹那、女子高生殺しなどの容疑で再逮捕された。弁護士との接見は制限された。心は折れ、「自白」を余儀なくされた。
当時の記憶は今も脳髄の奥に焼き付いている。
「夜中まで取り調べをやって、朝は8時半から始まる。それなのに夜になると、わざと留置所前で椅子をバタン、バタンさせて寝かせない。眠くて眠くてしようがなかった。それがつらかったです。取り調べもきつく、『知らない』と言っているのに、『やっただろう』と。その繰り返しでした」
石川さんは字の読み書きがほとんどできなかった。当時書かれた「上申書」の署名は「一雄」ではなく、「一夫」と書かれている。自分の名前の「雄」の名前を書けなかった。
こんなこともさせられたという。
「取り調べも1時間から2時間やって、休んでもいいよと、となる。何をするかといえば、脅迫状の写しをさせられたんです。それも毎日のように。わら半紙に書かされる。検事がくると、書いているのを途中でやめさせて閉じてしまう。検事がいなくなると、また脅迫状を写す。100枚以上書きましたね」
取り調べで書いた文字には、「学校」を「がこを」、「封筒」を「ふんとを」と表記されていた。促音も長音も正しく書けず、「う」と「ん」の区別ができなかった。
「字はよく書けない」「脅迫状は書いていない」と訴える石川さんに、証拠開示された取り調べの録音テープには、「石川君が書いたこと、こりゃ間違いねえんだ」と繰り返し「自白」を迫る取調官の声が記録されている。
脅迫状の漢字は、自宅にあった少女雑誌の文字を拾い出して書いたとされたが、肝心の雑誌は見つかっていない。付言すれば、第2審の段階で、国語学の権威、大野晋や、筆跡の専門家は《脅迫状は石川さんの筆跡でなく、当時の石川さんの国語能力では書けなかった》とする鑑定書をまとめている。
結局、石川さんは「自白しなければ、兄を逮捕する」「認めれば、10年で出してやる。男の約束だ」という、取調官の脅しと甘言を信じてしまった。
「石川の無念は、教育が受けられなかったことにあるんです」と、妻の早智子さん(76歳)は言う。
生家は貧しかった。いわゆる「土方仕事」をしていた父親が子だくさんの一家の生活を支えた。白米ではなくうどんが主食で、それさえ事欠いたことがあったという。「当時のことを思い出すと情けなくなります。やっぱり自分が……。飲まず食わずの生活をしていた。明日、食うことが精いっぱいでしたから。だから学校に通えなかった」
ノートなどの文房具はなく、小学校も満足に行かなかった。中学校にはまともに通った記憶はない。小学生のころから子守奉公に出された。以降、靴店での住み込み奉公など、おとなたちにまじって働いた。
19歳のころに製菓会社に就職した。一生懸命真面目に働いた。認められ、工程の管理を任された。原料の使用量を伝票に書かなくてはならなかったが、漢字が読めないため同僚に頼んだ。ところが、ある日のこと、その同僚が休んだため、切羽詰まって前日の数字をそのまま書き写した。だが、生産量と合わない、と問題になり、事務所に呼び出された。大勢の職員が見ている前で、非識字者であることがさらされた。いたたまれなかった。屈辱だった。通わなくなり、誇りと感じていた職を失った。
「字が読めず、社会的に無知だったから、『自白』させられこんな目にあった」と、自身の生育環境を呪う。
「一番腹が立つのは親父。学校に行かしてくれなかったからね。だから社会的に無知になってしまった。それが事件に巻き込まれるきっかけになってしまった。
親父と、お袋が拘置所に面会に来たときに私は怒ったんですよ。『土方仕事しかできないのに、なんで子供を5人も6人もつくったのか』と。親父は『しようがなかったんだ』と謝ったんですけどね」
石川さんの声はかすれていた。真意は裏腹である。人前に出るのが苦手だった父母が「息子、石川一雄を助けて下さい」と訴え、救援運動の先頭に立っていたことは十分に分かっている。それでも、親のせいではないことがわかっていても教育を受けられなかった悔しさは、激しい言葉に変じていく。
父富造さんは85年に、母リイさんは87年に亡くなった。それぞれの享年は87と81。石川さんは獄中で、両親の訃報に接した。母の死を知らされた時は、房内で倒れてしまった。「3日間寝込んだ。母ちゃん子だったから」
骨の髄に染み込んでいるのは、自分を、そして家族を苦しめる原因となった警察当局への憤怒である。
2020年1月、石川さんは支援者に向けたメッセージの中に、こんな一文を盛り込んだ。
《振り返れば、私を犯人にデッチ上げ、辛苦の拘禁生活を余儀なくした三人の取調官を断じて許せないと仮出獄の当初まで不倶戴天の敵との強い意志を持ち、復讐しようと考えていたのは事実であります。しかし、そうなれば、支援者皆様方が何のために社会復帰に尽力してくださったのか、再び刑務所に戻されてしまうことを考え、思いとどまったのでした》
94年時点の気持ちであろうが、60年がたってもその気持ちはいささかも変わるまい。分厚い「再審の壁」を思うに付け、自身を「殺人者」の恥辱に追い込んだ原点は、埼玉県警のゆがんだ捜査にあるからだ。
《愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。しるして『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり》
「新約聖書」の有名な一節である。だが、神は当時の取調官を罰しただろうか。否である。
石川さんは思う。人生にとって大切な青年、壮年期を奪われたどころか、「死の恐怖」の日々に追い込み、いまもって人間としての名誉は蹂躙されたままである。「これほどの不条理はあるか」と。
選挙のたびに自宅に届く「投票所入場整理券」には、自身の名前の上に「投票できません」という赤いスタンプが押されている。狭山の地で呼吸しているのに、己は「いない存在」になっていることを思い知らされる。「見えない手錠」は何も観念的なものではなく、リアルなものとして存在する。
84歳を迎え、視力はめっきり落ちてきた。昨年できたことが、今年になってできないこともある。
「このままでは死にきれない。倒れても、はってでも冤罪であることを証明しなければ」
石川さんの悲痛な叫びだ。
連載第2回 60年前に被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった につづく

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