「僕は母に愛されなかった。だから妻との間には…」 2度の不倫・再婚を“毒親”のせいにする50歳男性の苦悩

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毒親という言葉が市民権を得たのは2010年代頃からだ。広く「子どもにとって毒になる親」を指すが、これは育てられた子ども側からの言い分だ。身体的暴力やネグレクト(育児放棄)は論外だが、「毒親」には虐待とは少し違うニュアンスがある。
親としては子どものためにできる限りのことをしたつもりであっても、それが子の望む愛情とはかけ離れているとき、子の立場で心を埋めてくれるような愛情をもらえなかったとき、子は親を「毒親」と断罪するのかもしれない。
男女問題を30年近く取材し『不倫の恋で苦しむ男たち』などの著作があるライターの亀山早苗氏が今回話を聞いた男性も、自らの不倫と再婚の原因を「毒親」だったという母に求めているのだが……。
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【写真を見る】「夫が19歳女子大生と外泊報道」で離婚した女優、離婚の際「僕の財産は全部捧げる」と財産贈与した歌手など【「熟年離婚」した芸能人11人】「僕は愛されてなかったと思う。ネグレクトだったとさえ感じる」 飲むとそんなぼやきを繰り出すのは、小峰雅史さん、(50歳・仮名=以下同)だ。2年前に3回目の結婚をしたのだが、それもあまりうまくいっていないらしい。結婚がうまくいかないのは、親の影響だと彼は考えている。自分のような子どもを作らないようにという思いが強かったため、子どもはいない。「母親はものすごく干渉してくるタイプでしたね。父にはときどき『おまえはお母さんの言いなりすぎる。もっとしっかり自分の意見をもて』と言われましたが、子どもの頃は『お父さんがお母さんを大事にしないから、僕がかばっているんだ』と思っていた。うちの両親、夫婦仲が悪かったんですよ。言い争いが絶えないほうがマシ。うちは常に冷戦でした。親同士がほとんど言葉を交わさない。母は僕を介して父と話し、父は姉を介して母と話す。そんな感じでしたね」 3歳年上の姉は、母に愛されていないと感じていたようだ。だがどこでどう気持ちを転換したのか、30歳で結婚すると4人の子の母となった。夫とも言いたいことを言い合い、今も家族6人で暮らしている。「姉の家に行くと疲れます(笑)。21歳を筆頭に、18歳の双子、15歳の子がいて、みんなが常にしゃべっている。義兄は大雑把な明るい人で、自分の子どもだけでも大変なのに、近所の子もまとめてめんどうみちゃうようなタイプ。親から継いだ商店を経営しているんですが、店の片隅に子どもの居場所みたいなものを作っていて、姉も夕飯時になるとたくさんおにぎりを作ってやって来る。姪や甥が小さいときは、そこで家族でよく簡素な夕飯をとっていましたよ。だけどにぎやかなの(笑)。僕はよく姉に『貧乏人の子だくさんって本当だな』と言ってましたが、姉は『バカね。家族ほど楽しいものはないわよ。あんたはそういう幸福を自ら捨てたんだから』と。そうかもしれないなと今になると思います」 雅史さんの記憶に残っているのは、母がよく泣いていたことだ。それも自分のことで。母を泣かせる自分が嫌いだった。とはいえ、母は雅史さんのテストの点が前学期より5点落ちたというだけで泣くのだ。「私はあなたのためだけに生きている。あなたに何かあったら私は死ぬ。それが母の口癖でした。僕は怖くて自分の足で踏み出すことができなかった。小学校4年生のとき、運動会の徒競走で僕、転んだんですよ。母は保護者席から飛び出してきて僕を抱き起こした。みんな呆然としていました。そして母はそのまま僕を抱きかかえて連れ帰ったんです。転んだだけなのに」雅史さんを支配しようとした母 翌日から彼が、クラスメートからどんな扱いを受けたかは想像に難くない。マザコンとからかわれ、友だちが別の友だちを抱きかかえる真似までされた。かっこ悪いし恥ずかしかっただろうけれど、それは「愛されていた」エピソードではないだろうか。「でもそんなことをしたら、あとで僕が周りからどう思われるか……。そこをわかっていない。だって僕、膝をすりむいただけですよ。10歳になっているのだから、僕が立ち上がって走り出すのを待つか、立てないようであれば学校側に任せるでしょう。自分が飛び出してきて、そのまま家に連れ帰るなんて、愛ではないと僕は思う。愛に見せかけた支配でしかない」 確かにそうだろうけれど、今となれば、それは母なりの愛だったと受け止めることはできないのだろうか。「思い返すといろいろあるんですよね。中学生のころ、部活の帰りに学校近くのパン屋でみんなと一緒にパンを買い食いするのが流行ったんです。母はそれを知って学校まで迎えに来るわけ。それでみんなに自分が作ったパンを配る。でもそれがあまりおいしくないから、みんな受け取らなくなっていった。そうしたら今度はひとりに200円ずつ配りだした。意味がわからないでしょ。買い食いがいけないという信念があったのかと思ったけど、どうやらそうではない。母は結局、僕がみんなから嫌われないようにしたかったみたいなんですが、親がそんなことするほうがよほど嫌われる。『おまえのお母さん、大丈夫か?』と言われましたから。みんな気味悪がって、お金は受け取りませんでしたよ。『いいかげんにしろよ』と家で怒鳴ったこともあります」 かと思うと、母は突然、プチ家出をすることもあった。中学の修学旅行前夜、母がいなくなって大騒ぎとなった。父親が「おまえは修学旅行に行け」と言ってくれたので出かけたが、途中で家に電話をしてみると母親が出た。何やってるのと言ったら、「あら、修学旅行だったのね」と。 あとから、自分がいなくなれば雅史さんが修学旅行には行かないと思ったようだ。彼曰く「息子の愛を試したんじゃないですか。それ、親がやること?」。母は精神的に不安定だったようだ。「僕は確信犯だと思っていますけどね。僕を支配するつもりで、結局は自分の存在感を家族や周囲の人に知らしめたかったんだろう、と」 あなたが大事と言いながら、料理下手を克服しようとしなかったから家での夕食はろくなものがなかったと彼は言う。ごはんに買ってきた惣菜、インスタント味噌汁が定番。高校生になった姉の料理がおいしかったので、姉がいるときはいつも作ってもらった。そうすると母は上機嫌になって姉に甘える。姉は高校を出ると就職し、さっさと家を出て行った。「姉がいなくなると母は全力で僕によりかかってきた。依存体質なんでしょうね。父はときどきしか帰ってこなかったから寂しかったのかもしれないけど。ある夏の日、部活を終えて帰宅、汗だくだったのでお風呂に入っていたら、覗きに来たんですよ。『ねえねえ、背中流してあげようか』と。気持ちが悪いことを言うなと怒鳴りました。風呂から出ると母はふて寝していた。近所の定食屋に行ってひとりでご飯を食べました。帰ると母が、ご飯炊いたから食べようというので、もう食べてきたと言ったら今度は『あんたは冷たい』と泣く。でも反応しないとすぐ泣き止む」 父はすでに母にはかまわなくなっていたから、雅史さんは夫代わりにさせられていたのかもしれない。 雅史さんは今も、幼なじみとつきあいがある。彼にいわせれば「少し過保護だけど、雅史は愛されていると思っていた。お母さんの自慢の息子だったはず」と言う。だが雅史さんに聞く些細なエピソードは、積み重なれば確かにうっとうしいものばかり。彼の母親への複雑な感情もわからなくはない。すがりつき「捨てないで」という母 大学へ入学してから、彼はあまり家に寄りつかなくなった。友だちの家に泊めてもらったり、恋人のアパートで同棲していたりしたからだ。「たまに帰ると母親がすがりついてくるんですよ。あの頃は少し精神的におかしかったのかもしれない。父もほとんど帰ってなかったみたいですしね」 そしてあるとき出かけようとすると、またも母がすがりついてきた。母は言った。「私を捨てないで」と。「そんなお母さんは見たくない」と彼は出かけた。その日は帰宅しなかったのだが、なんだか気になって翌日、帰ってみると母がリビングで倒れていた。救急車を呼んだがすでに事切れており、警察が呼ばれた。「事件性はなくて、死因は脳溢血。僕が出かけてから1時間後くらいに突然亡くなったようですが、居間には吐いたあとがあった。苦しんだのかもしれません。表情も歪んでいたし。自分が殺したようなものなのかもしれないと思いましたね」 彼はそのことで苦しんでいたのだろう。一気にそう言うと、それまで見せたことのないようなつらそうな顔を見せた。そのことは誰も知らない。母は病気で亡くなったとしか人には言っていないとつぶやいた。 求める愛を与えてくれなかった母、息子のためと言いながら自分の存在を知らせるような行動をとる母、世間の母とは違っていたし、うっとうしいとばかり思っていた母。なのに突然、消えてしまうと、雅史さんの心にもぽっかり穴があいた。最初の結婚と不倫、再婚 その穴を埋めるように彼は女性を求めた。そして就職して3年目には学生時代からつきあっていた恋人と結婚したが、彼女が子どもをほしがるようになったとき、彼は急に心が冷めてしまったという。「子どもを作るというのが想定外でした。僕は彼女が好きで結婚したけれど、家庭を作りたいと思っていたわけではなかったと自分の本音に気づいてしまった。ずっと避妊具をつけていたのですが、あるとき彼女から『もうつけないで。子どもがほしいの』と言われて急に怖くなったんです。その後、社内の同僚と関係をもちました。この人となら一緒にやっていけるかもしれないと思ったころ、妻のほうから離婚を切り出してきました。恋人時代は楽しかったけど、あなたは家庭に向いてないと言われて。僕自身もそうだねと言うしかなかった」 不倫はバレてはいなかった。28歳ですでにバツイチとなった雅史さんは、離婚後、同僚女性である舞子さんとの関係を続けた。社内恋愛だから慎重にしなければと思っていたが、彼女は社内の友人たちに雅史さんとの関係を話していたらしい。噂が広まりかけたところで、彼女と結婚するしかないと判断、30歳で再婚した。「舞子とは、僕の精神衛生上は結婚する必要がなかったと思っています。でも社内の雰囲気で結婚するしかなかったのも事実。でも前の結婚で、僕はすでに結婚には向いてないとわかっていました。結婚すると女性は母のようになる。結婚してすぐ、舞子に『今日は私も残業になりそうだから、惣菜を買って帰るね』と言われたとき、僕、無意識にキレたんですよ。惣菜なんか買ってくるな、だったら外で食べて帰る、と。自分でもどうしてあんなにキレたのかわからなかったけど、妻が急に死んだ母に見えたんだと思う。オレを責めるのはやめてくれ、と心の中で思っていた」 妻は「どうしたの、なんか悪いこと言った?」ときょとんとしていたというが、当然だろう。彼はあわてて「いや、とにかく買った惣菜が苦手なんだ」とごまかした。母は亡くなってまでも自分を支配しようとしていると、そのときは感じたそうだ。「冷静に母との関係を考え直したりする時間が必要だったんだと思う。でもそうすることなく最初の結婚をし、その結婚について考える間もなく、二度目の結婚をしてしまいましたからね。母の亡霊から逃れるためだったとはいえ、軽率だったと思います」またも不倫 二度目の妻ともうまくいかないかもしれないという恐怖に襲われたとき、彼はまた逃げた。よりによって社内の別の部署のゆかりさんと関係を持ってしまったのだ。ゆかりさんとは同期で、たまにある同期会でも顔を合わせていたが、それほど親しいわけではなかった。ところが同期会の帰りに、ゆかりさんが「舞子とうまくいってる?」と声をかけてきたのだ。二次会を抜けてふたりでバーに行った。「ゆかりが、『舞子の秘密、教えてあげようか』と言い出した。ここでは言えない、ふたりきりの場所でなら教えられるんだけどなあと。酔っていたんでしょうね。そのまま帰る手もありましたが、なんだか僕も満たされないものがあったので、ゆかりとホテルに行ってしまったんです。舞子の秘密とは、結婚直前まで上司と不倫していたということでした。ああ、と納得がいくところがありました。舞子がやたらと結婚を急いでいたのは、上司と手を切りたかったからでしょう。『でもねえ』とゆかりはニヤッと笑うんです。『あのふたり、今も続いてるよ』って。これは衝撃でした。やっぱり女を信じたオレがバカだった、母の呪いだと思った」 なぜここで母が出てくるのかわからないが、彼の中では女性イコール母に変換されてしまうのかもしれない。それだけ母への思慕と憎悪が混濁しているのではないだろうか。「それとなくオレは知ってるよという雰囲気を醸し出したんですが、舞子は気づかない。ごく普通に振る舞っているので、なかなか神経が太いなと思っていました。結婚して半年ほどたったころ、ちょっとしたことからケンカになったんです。『あの上司とデキてるんだろ』と言ったら、舞子が泣き出した。泣かれると弱いので、僕はそのままプチ家出をし、深夜になってからそうっと帰宅しました。舞子は起きていた。そして結婚前に確かに家庭ある上司と関係があった、でも結婚後はいっさいない、と。わかった、信じるよと言いましたが、本当は信じていませんでした」 それからはゆかりさんとの関係が続く。もちろん、たとえ妻が今も上司とつきあっているとしても、自分だって不倫しているのだから何も言えないとわかっていた。ゆかりさんとの関係も、今思えば真剣だったわけではない。むしろ、どこにも居場所がないような思いの中、少しでも心の渇きを癒やそうと漂っていたのではないだろうか。「女から離れたい」 結婚1周年を迎えたころ、舞子さんが「私たち、結婚している意味があるのかしら」と言い出した。結婚に意味があるなんて思っていなかった、と彼は言った。そうなんだ、と舞子さんはポツリとつぶやいた。「このままあなたと一緒にいても、結婚生活がいいものだとは思えない。あなた、ゆかりと関係があるでしょといきなり言われました。『おそらくゆかりが、私と上司のことを言ったんでしょ。しかも続いているって言ったでしょ。でもね、今、あの上司と関係を持っているのはゆかりなのよ』と。これにはぶっ飛びました。女性たちの間で何が起こっているんだとまで思った。その後、ゆかりに尋ねたら、『バレたか』と。彼女たちが何を考えているのか、僕にはさっぱりわかりませんでした。でも少なくとも僕は舞子を誤解していた。それについては謝るしかありませんでした」 女から離れたい。そのときは痛切にそう思ったと彼は言う。そして二度目の離婚をしたのは33歳のとき。社内結婚ですぐ離婚ではかっこ悪いからという理由で、別居していたものの3年間は結婚が続いているように振る舞っていた。三度目の結婚生活は幸せだけれども それ以降、彼は女性との関係に「諦めをつけて」仕事に打ち込んだ。30代から40代にかけては仕事優先の日々を送ったという。役員への道が見えるほどだったが、彼は出世にはこだわりがなかった。「仕事が純粋に楽しいと思うようになったし、自分がしていることが社会に少しでも役立っていると思えるのが重要だと感じていました。仕事によってちょっとだけ成長できたのかもしれない」 ところがコロナ禍に入って、思うように仕事ができなくなった。自宅でパソコン画面を睨み続ける日々は、彼には非常につらかったという。そこで彼はマッチングアプリに手を出す。孤独感が、誰かと知り合いたい、一から関係を育んでみたい思いにさせたらしい。 「2020年の秋に知り合った女性とメッセージのやりとりをするようになり、その年の暮れに初めて会いました。穏やかな感じのいい女性で、そこからつきあいが始まって。お互いにコロナ禍で心細かったのかな。一緒に住みたいねという話になって、昨年夏に結婚したんです」 三度目の結婚である。相手は一回り下の里香さんだ。結婚前に子どもは希望しないと伝えていたのだが、最近、里香さんは「やっぱり産みたい」と言うようになった。「里香は本当に穏やかな女性で、一緒にいると心がなごむ。僕の中のトゲトゲした感覚がなくなりつつあるのは里香のおかげだと思う。でもやはり僕は子どもはほしくない。自分の遺伝子を残したくない。母の遺伝子を断ち切りたいということでもある。それを里香に話したほうがいいのかどうか、なかなか決断ができなくて……。このままだとまたうまくいかなくなるのではないかと不安もあるし、でも全部白状したら里香に嫌われるのではないかとも思う」 結果、彼が抱えている母への複雑な感情を話せないままだ。子どもの話をすると雅史さんが異様な反応をするからなのか、里香さんはその話をしなくなった。だが、雅史さんがどうしたら子どもをもってもいいと思えるようになるのか、考えを巡らせているのではないかと彼は邪推している。「もしかしたら里香でも満たされることはないのかもしれない。何があれば自分の心が満たされるのかも、もうわからなくなってきました」 自分の気持ちに区切りをつけたくて、彼は何年ぶりかで母の墓を訪れてみた。長い間、誰も来ていないのだろう。墓が寂しそうに見えたという。「オレはまだまだダメだと思いました。何がダメなのかわからないけど、半世紀生きてきてもまっとうな男にはなれていない。漠然とそんなふうに思いましたね」 *** 親の子育ては過去のことだから変えられない。子としては、自身の育てられ方、愛情のかけられ方をどう肯定的に受け止めるか、もしくはネガティブな印象をどう変えていけるかが重要なのかもしれない。生まれ育ちを変えるのは無理でも、「親は親なりに、彼(ら)の方法で自分を愛したのだろう」と思えるかどうか。それによって自身の恋愛観や結婚観も少しは変化が訪れるかもしれない。 亡くなった親からは、何をどう考えても反応は得られないのだから、お互いにとって都合のよい距離感を生き残った者が作り出すしかないのではないか。些細なエピソードを検証するより、ざっくり漠然と「とりあえず親子の縁があっただけの関係」と落とし込むことはできないのだろうか。 何もかも完璧にすっきりさせなければいけないわけではない。何かをごまかしながら生きていってもいいはずだ。人を欺くわけではないのだから。自分にも親にも配偶者にも、「甘くゆるく、つきつめない」ことも必要なのではないだろうか。亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。デイリー新潮編集部
「僕は愛されてなかったと思う。ネグレクトだったとさえ感じる」
飲むとそんなぼやきを繰り出すのは、小峰雅史さん、(50歳・仮名=以下同)だ。2年前に3回目の結婚をしたのだが、それもあまりうまくいっていないらしい。結婚がうまくいかないのは、親の影響だと彼は考えている。自分のような子どもを作らないようにという思いが強かったため、子どもはいない。
「母親はものすごく干渉してくるタイプでしたね。父にはときどき『おまえはお母さんの言いなりすぎる。もっとしっかり自分の意見をもて』と言われましたが、子どもの頃は『お父さんがお母さんを大事にしないから、僕がかばっているんだ』と思っていた。うちの両親、夫婦仲が悪かったんですよ。言い争いが絶えないほうがマシ。うちは常に冷戦でした。親同士がほとんど言葉を交わさない。母は僕を介して父と話し、父は姉を介して母と話す。そんな感じでしたね」
3歳年上の姉は、母に愛されていないと感じていたようだ。だがどこでどう気持ちを転換したのか、30歳で結婚すると4人の子の母となった。夫とも言いたいことを言い合い、今も家族6人で暮らしている。
「姉の家に行くと疲れます(笑)。21歳を筆頭に、18歳の双子、15歳の子がいて、みんなが常にしゃべっている。義兄は大雑把な明るい人で、自分の子どもだけでも大変なのに、近所の子もまとめてめんどうみちゃうようなタイプ。親から継いだ商店を経営しているんですが、店の片隅に子どもの居場所みたいなものを作っていて、姉も夕飯時になるとたくさんおにぎりを作ってやって来る。姪や甥が小さいときは、そこで家族でよく簡素な夕飯をとっていましたよ。だけどにぎやかなの(笑)。僕はよく姉に『貧乏人の子だくさんって本当だな』と言ってましたが、姉は『バカね。家族ほど楽しいものはないわよ。あんたはそういう幸福を自ら捨てたんだから』と。そうかもしれないなと今になると思います」
雅史さんの記憶に残っているのは、母がよく泣いていたことだ。それも自分のことで。母を泣かせる自分が嫌いだった。とはいえ、母は雅史さんのテストの点が前学期より5点落ちたというだけで泣くのだ。
「私はあなたのためだけに生きている。あなたに何かあったら私は死ぬ。それが母の口癖でした。僕は怖くて自分の足で踏み出すことができなかった。小学校4年生のとき、運動会の徒競走で僕、転んだんですよ。母は保護者席から飛び出してきて僕を抱き起こした。みんな呆然としていました。そして母はそのまま僕を抱きかかえて連れ帰ったんです。転んだだけなのに」
翌日から彼が、クラスメートからどんな扱いを受けたかは想像に難くない。マザコンとからかわれ、友だちが別の友だちを抱きかかえる真似までされた。かっこ悪いし恥ずかしかっただろうけれど、それは「愛されていた」エピソードではないだろうか。
「でもそんなことをしたら、あとで僕が周りからどう思われるか……。そこをわかっていない。だって僕、膝をすりむいただけですよ。10歳になっているのだから、僕が立ち上がって走り出すのを待つか、立てないようであれば学校側に任せるでしょう。自分が飛び出してきて、そのまま家に連れ帰るなんて、愛ではないと僕は思う。愛に見せかけた支配でしかない」
確かにそうだろうけれど、今となれば、それは母なりの愛だったと受け止めることはできないのだろうか。
「思い返すといろいろあるんですよね。中学生のころ、部活の帰りに学校近くのパン屋でみんなと一緒にパンを買い食いするのが流行ったんです。母はそれを知って学校まで迎えに来るわけ。それでみんなに自分が作ったパンを配る。でもそれがあまりおいしくないから、みんな受け取らなくなっていった。そうしたら今度はひとりに200円ずつ配りだした。意味がわからないでしょ。買い食いがいけないという信念があったのかと思ったけど、どうやらそうではない。母は結局、僕がみんなから嫌われないようにしたかったみたいなんですが、親がそんなことするほうがよほど嫌われる。『おまえのお母さん、大丈夫か?』と言われましたから。みんな気味悪がって、お金は受け取りませんでしたよ。『いいかげんにしろよ』と家で怒鳴ったこともあります」
かと思うと、母は突然、プチ家出をすることもあった。中学の修学旅行前夜、母がいなくなって大騒ぎとなった。父親が「おまえは修学旅行に行け」と言ってくれたので出かけたが、途中で家に電話をしてみると母親が出た。何やってるのと言ったら、「あら、修学旅行だったのね」と。 あとから、自分がいなくなれば雅史さんが修学旅行には行かないと思ったようだ。彼曰く「息子の愛を試したんじゃないですか。それ、親がやること?」。母は精神的に不安定だったようだ。
「僕は確信犯だと思っていますけどね。僕を支配するつもりで、結局は自分の存在感を家族や周囲の人に知らしめたかったんだろう、と」
あなたが大事と言いながら、料理下手を克服しようとしなかったから家での夕食はろくなものがなかったと彼は言う。ごはんに買ってきた惣菜、インスタント味噌汁が定番。高校生になった姉の料理がおいしかったので、姉がいるときはいつも作ってもらった。そうすると母は上機嫌になって姉に甘える。姉は高校を出ると就職し、さっさと家を出て行った。
「姉がいなくなると母は全力で僕によりかかってきた。依存体質なんでしょうね。父はときどきしか帰ってこなかったから寂しかったのかもしれないけど。ある夏の日、部活を終えて帰宅、汗だくだったのでお風呂に入っていたら、覗きに来たんですよ。『ねえねえ、背中流してあげようか』と。気持ちが悪いことを言うなと怒鳴りました。風呂から出ると母はふて寝していた。近所の定食屋に行ってひとりでご飯を食べました。帰ると母が、ご飯炊いたから食べようというので、もう食べてきたと言ったら今度は『あんたは冷たい』と泣く。でも反応しないとすぐ泣き止む」
父はすでに母にはかまわなくなっていたから、雅史さんは夫代わりにさせられていたのかもしれない。
雅史さんは今も、幼なじみとつきあいがある。彼にいわせれば「少し過保護だけど、雅史は愛されていると思っていた。お母さんの自慢の息子だったはず」と言う。だが雅史さんに聞く些細なエピソードは、積み重なれば確かにうっとうしいものばかり。彼の母親への複雑な感情もわからなくはない。
大学へ入学してから、彼はあまり家に寄りつかなくなった。友だちの家に泊めてもらったり、恋人のアパートで同棲していたりしたからだ。
「たまに帰ると母親がすがりついてくるんですよ。あの頃は少し精神的におかしかったのかもしれない。父もほとんど帰ってなかったみたいですしね」
そしてあるとき出かけようとすると、またも母がすがりついてきた。母は言った。「私を捨てないで」と。「そんなお母さんは見たくない」と彼は出かけた。その日は帰宅しなかったのだが、なんだか気になって翌日、帰ってみると母がリビングで倒れていた。救急車を呼んだがすでに事切れており、警察が呼ばれた。
「事件性はなくて、死因は脳溢血。僕が出かけてから1時間後くらいに突然亡くなったようですが、居間には吐いたあとがあった。苦しんだのかもしれません。表情も歪んでいたし。自分が殺したようなものなのかもしれないと思いましたね」
彼はそのことで苦しんでいたのだろう。一気にそう言うと、それまで見せたことのないようなつらそうな顔を見せた。そのことは誰も知らない。母は病気で亡くなったとしか人には言っていないとつぶやいた。
求める愛を与えてくれなかった母、息子のためと言いながら自分の存在を知らせるような行動をとる母、世間の母とは違っていたし、うっとうしいとばかり思っていた母。なのに突然、消えてしまうと、雅史さんの心にもぽっかり穴があいた。
その穴を埋めるように彼は女性を求めた。そして就職して3年目には学生時代からつきあっていた恋人と結婚したが、彼女が子どもをほしがるようになったとき、彼は急に心が冷めてしまったという。
「子どもを作るというのが想定外でした。僕は彼女が好きで結婚したけれど、家庭を作りたいと思っていたわけではなかったと自分の本音に気づいてしまった。ずっと避妊具をつけていたのですが、あるとき彼女から『もうつけないで。子どもがほしいの』と言われて急に怖くなったんです。その後、社内の同僚と関係をもちました。この人となら一緒にやっていけるかもしれないと思ったころ、妻のほうから離婚を切り出してきました。恋人時代は楽しかったけど、あなたは家庭に向いてないと言われて。僕自身もそうだねと言うしかなかった」
不倫はバレてはいなかった。28歳ですでにバツイチとなった雅史さんは、離婚後、同僚女性である舞子さんとの関係を続けた。社内恋愛だから慎重にしなければと思っていたが、彼女は社内の友人たちに雅史さんとの関係を話していたらしい。噂が広まりかけたところで、彼女と結婚するしかないと判断、30歳で再婚した。
「舞子とは、僕の精神衛生上は結婚する必要がなかったと思っています。でも社内の雰囲気で結婚するしかなかったのも事実。でも前の結婚で、僕はすでに結婚には向いてないとわかっていました。結婚すると女性は母のようになる。結婚してすぐ、舞子に『今日は私も残業になりそうだから、惣菜を買って帰るね』と言われたとき、僕、無意識にキレたんですよ。惣菜なんか買ってくるな、だったら外で食べて帰る、と。自分でもどうしてあんなにキレたのかわからなかったけど、妻が急に死んだ母に見えたんだと思う。オレを責めるのはやめてくれ、と心の中で思っていた」
妻は「どうしたの、なんか悪いこと言った?」ときょとんとしていたというが、当然だろう。彼はあわてて「いや、とにかく買った惣菜が苦手なんだ」とごまかした。母は亡くなってまでも自分を支配しようとしていると、そのときは感じたそうだ。
「冷静に母との関係を考え直したりする時間が必要だったんだと思う。でもそうすることなく最初の結婚をし、その結婚について考える間もなく、二度目の結婚をしてしまいましたからね。母の亡霊から逃れるためだったとはいえ、軽率だったと思います」
二度目の妻ともうまくいかないかもしれないという恐怖に襲われたとき、彼はまた逃げた。よりによって社内の別の部署のゆかりさんと関係を持ってしまったのだ。ゆかりさんとは同期で、たまにある同期会でも顔を合わせていたが、それほど親しいわけではなかった。ところが同期会の帰りに、ゆかりさんが「舞子とうまくいってる?」と声をかけてきたのだ。二次会を抜けてふたりでバーに行った。
「ゆかりが、『舞子の秘密、教えてあげようか』と言い出した。ここでは言えない、ふたりきりの場所でなら教えられるんだけどなあと。酔っていたんでしょうね。そのまま帰る手もありましたが、なんだか僕も満たされないものがあったので、ゆかりとホテルに行ってしまったんです。舞子の秘密とは、結婚直前まで上司と不倫していたということでした。ああ、と納得がいくところがありました。舞子がやたらと結婚を急いでいたのは、上司と手を切りたかったからでしょう。『でもねえ』とゆかりはニヤッと笑うんです。『あのふたり、今も続いてるよ』って。これは衝撃でした。やっぱり女を信じたオレがバカだった、母の呪いだと思った」
なぜここで母が出てくるのかわからないが、彼の中では女性イコール母に変換されてしまうのかもしれない。それだけ母への思慕と憎悪が混濁しているのではないだろうか。
「それとなくオレは知ってるよという雰囲気を醸し出したんですが、舞子は気づかない。ごく普通に振る舞っているので、なかなか神経が太いなと思っていました。結婚して半年ほどたったころ、ちょっとしたことからケンカになったんです。『あの上司とデキてるんだろ』と言ったら、舞子が泣き出した。泣かれると弱いので、僕はそのままプチ家出をし、深夜になってからそうっと帰宅しました。舞子は起きていた。そして結婚前に確かに家庭ある上司と関係があった、でも結婚後はいっさいない、と。わかった、信じるよと言いましたが、本当は信じていませんでした」
それからはゆかりさんとの関係が続く。もちろん、たとえ妻が今も上司とつきあっているとしても、自分だって不倫しているのだから何も言えないとわかっていた。ゆかりさんとの関係も、今思えば真剣だったわけではない。むしろ、どこにも居場所がないような思いの中、少しでも心の渇きを癒やそうと漂っていたのではないだろうか。
結婚1周年を迎えたころ、舞子さんが「私たち、結婚している意味があるのかしら」と言い出した。結婚に意味があるなんて思っていなかった、と彼は言った。そうなんだ、と舞子さんはポツリとつぶやいた。
「このままあなたと一緒にいても、結婚生活がいいものだとは思えない。あなた、ゆかりと関係があるでしょといきなり言われました。『おそらくゆかりが、私と上司のことを言ったんでしょ。しかも続いているって言ったでしょ。でもね、今、あの上司と関係を持っているのはゆかりなのよ』と。これにはぶっ飛びました。女性たちの間で何が起こっているんだとまで思った。その後、ゆかりに尋ねたら、『バレたか』と。彼女たちが何を考えているのか、僕にはさっぱりわかりませんでした。でも少なくとも僕は舞子を誤解していた。それについては謝るしかありませんでした」
女から離れたい。そのときは痛切にそう思ったと彼は言う。そして二度目の離婚をしたのは33歳のとき。社内結婚ですぐ離婚ではかっこ悪いからという理由で、別居していたものの3年間は結婚が続いているように振る舞っていた。
それ以降、彼は女性との関係に「諦めをつけて」仕事に打ち込んだ。30代から40代にかけては仕事優先の日々を送ったという。役員への道が見えるほどだったが、彼は出世にはこだわりがなかった。
「仕事が純粋に楽しいと思うようになったし、自分がしていることが社会に少しでも役立っていると思えるのが重要だと感じていました。仕事によってちょっとだけ成長できたのかもしれない」
ところがコロナ禍に入って、思うように仕事ができなくなった。自宅でパソコン画面を睨み続ける日々は、彼には非常につらかったという。そこで彼はマッチングアプリに手を出す。孤独感が、誰かと知り合いたい、一から関係を育んでみたい思いにさせたらしい。
「2020年の秋に知り合った女性とメッセージのやりとりをするようになり、その年の暮れに初めて会いました。穏やかな感じのいい女性で、そこからつきあいが始まって。お互いにコロナ禍で心細かったのかな。一緒に住みたいねという話になって、昨年夏に結婚したんです」
三度目の結婚である。相手は一回り下の里香さんだ。結婚前に子どもは希望しないと伝えていたのだが、最近、里香さんは「やっぱり産みたい」と言うようになった。
「里香は本当に穏やかな女性で、一緒にいると心がなごむ。僕の中のトゲトゲした感覚がなくなりつつあるのは里香のおかげだと思う。でもやはり僕は子どもはほしくない。自分の遺伝子を残したくない。母の遺伝子を断ち切りたいということでもある。それを里香に話したほうがいいのかどうか、なかなか決断ができなくて……。このままだとまたうまくいかなくなるのではないかと不安もあるし、でも全部白状したら里香に嫌われるのではないかとも思う」
結果、彼が抱えている母への複雑な感情を話せないままだ。子どもの話をすると雅史さんが異様な反応をするからなのか、里香さんはその話をしなくなった。だが、雅史さんがどうしたら子どもをもってもいいと思えるようになるのか、考えを巡らせているのではないかと彼は邪推している。
「もしかしたら里香でも満たされることはないのかもしれない。何があれば自分の心が満たされるのかも、もうわからなくなってきました」
自分の気持ちに区切りをつけたくて、彼は何年ぶりかで母の墓を訪れてみた。長い間、誰も来ていないのだろう。墓が寂しそうに見えたという。
「オレはまだまだダメだと思いました。何がダメなのかわからないけど、半世紀生きてきてもまっとうな男にはなれていない。漠然とそんなふうに思いましたね」
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親の子育ては過去のことだから変えられない。子としては、自身の育てられ方、愛情のかけられ方をどう肯定的に受け止めるか、もしくはネガティブな印象をどう変えていけるかが重要なのかもしれない。生まれ育ちを変えるのは無理でも、「親は親なりに、彼(ら)の方法で自分を愛したのだろう」と思えるかどうか。それによって自身の恋愛観や結婚観も少しは変化が訪れるかもしれない。
亡くなった親からは、何をどう考えても反応は得られないのだから、お互いにとって都合のよい距離感を生き残った者が作り出すしかないのではないか。些細なエピソードを検証するより、ざっくり漠然と「とりあえず親子の縁があっただけの関係」と落とし込むことはできないのだろうか。
何もかも完璧にすっきりさせなければいけないわけではない。何かをごまかしながら生きていってもいいはずだ。人を欺くわけではないのだから。自分にも親にも配偶者にも、「甘くゆるく、つきつめない」ことも必要なのではないだろうか。
亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部

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