戒名は「ラグビー」 花園生んだ元慶大主将 楕円球にささげた人生

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高校ラグビーの聖地・花園での第102回大会決勝は、兵庫県勢として初の優勝を目指した報徳学園が、東福岡に敗れて幕を閉じた。大会の生みの親は、元慶応大ラグビー部主将の杉本貞一(1892~1956年)。楕円(だえん)球が織りなすゲームにのめり込み、ラグビーの普及と発展に生涯をささげ、戒名にも自ら「ラグビー(楽美)」と付けた、兵庫ゆかりの人物だった。
【第102回大会 熱戦の決勝を写真で振り返る】 貞一の生涯に光を当て、資料や証言を集めて2020年に研究仲間との連名で論文にまとめたのが、高校ラグビー部監督も務めていた元高校教諭の木應光さん(77)=兵庫県西宮市。自らもラグビーを愛し、芦屋での監督時代、花園には届かなかったが、報徳学園と県大会決勝でぶつかったこともある。貞一の孫・杉本敬依(けい)さん(57)が木さんの教え子だった巡り合わせもあり、日本ラグビー学会誌の「ラグビーフォーラム」(第13号)に掲載された論文が完成した。

社会科教諭だった木さんは、地元の歴史研究家として知られ、著書もある。2019年の初夏。敬依さんが、たまたま木さんが話す歴史講演を、神戸で聴いたことがきっかけだった。講演に登場した貞一を「私の祖父です」と伝え、木さんは「戒名をラグビーにした、あの人か」と応じたのが論文作成のきっかけになった。 資料を集め、敬依さんら親族からもじっくり話を聞いてアルバムも借り、当時の記事や文献を基に、貞一の人生を浮かび上がらせた。貞一の長男は、毎日放送アナウンサーだった隆平さん(故人)。社史によると、ラグビーには詳しいが、野球の専門知識が乏しく、野球中継で助けを求められた評論家が随所で解説したという。スポーツ中継で、実況と解説を分けたスタイル確立のきっかけになったアナウンサーだった。「三度のメシよりラグビー好き」 1970年12月の「高校ラグビー半世紀」をテーマにした連載で毎日新聞朝刊にも登場し、父貞一の思い出を語っている。「父は三度のメシよりもラグビーが好きだった。勉強しなくてもラグビーさえやれば、他のことは力を入れなくてよい、とまで言われた」。ラグビーさえしていれば、何でもフンフンということを聞いてくれたという。隆平さんと2人の弟は全員が慶応大に進学。ラグビーをやるためだった。試合が終われば「勝者も敗者もない」というノーサイドの精神。ラグビーが人格を形成する信念をたたき込まれたことを振り返っている。 貞一は大阪生まれ。論文では、慶応大ラグビー部の元主将だった経歴だけでなく、卒業後は家業だった機械工具の卸商を発展させ、神戸市東灘区で過ごした晩年まで、戦前・戦後の歴史と絡めてたっぷりと紹介している。 1917年ごろ。高校の全国大会を開催するよう、毎日新聞に働きかけた中心人物は貞一だった。当時の社会部長で、後に社長になる奥村信太郎が、慶応の大先輩だったことも知っていた。「内心期待して」の依頼が大会創設につながる。夏の甲子園の前身、全国中等学校優勝野球大会は豊中運動場(大阪府豊中市)で始まったことは比較的知られているが、ラグビーの全国大会は、同じ豊中の運動場が発祥の地になったことも取り上げている。 貞一の父・杉松が、熱海温泉の旅館の庭で福沢諭吉に声をかけられ、貞一の慶応義塾進学を勧められた逸話。神戸の外国人クラブとの対戦をきかっけに関西ラグビー倶楽部を発足させ、関西各地の学校に出向いて指導にあたったこと。倶楽部を中心に西部ラグビー蹴球協会(後の関西ラグビーフットボール協会)を発足させ、初代理事長として奔走したことなど、論文には、ラグビーに人生をかけたエピソードが満載だ。戒名「楽美(らぐびー)院釋蹴球居士」 敬依さんは、祖父を直接知らないが、アルバムや資料が多く残る。「歴史上の人物だった祖父。ラグビー一筋で、打ち込んでいた様子がよく分かり、うれしい限りです」と論文の完成を喜ぶ。木さんも貞一と面識はないが、「ラグビー界にとって偉大な恩人」と改めて尊敬の念を抱いている。 貞一の戒名は「楽美(らぐびー)院釋蹴球居士」。1月28日の命日をまもなく迎える。【石川隆宣】
貞一の生涯に光を当て、資料や証言を集めて2020年に研究仲間との連名で論文にまとめたのが、高校ラグビー部監督も務めていた元高校教諭の木應光さん(77)=兵庫県西宮市。自らもラグビーを愛し、芦屋での監督時代、花園には届かなかったが、報徳学園と県大会決勝でぶつかったこともある。貞一の孫・杉本敬依(けい)さん(57)が木さんの教え子だった巡り合わせもあり、日本ラグビー学会誌の「ラグビーフォーラム」(第13号)に掲載された論文が完成した。
社会科教諭だった木さんは、地元の歴史研究家として知られ、著書もある。2019年の初夏。敬依さんが、たまたま木さんが話す歴史講演を、神戸で聴いたことがきっかけだった。講演に登場した貞一を「私の祖父です」と伝え、木さんは「戒名をラグビーにした、あの人か」と応じたのが論文作成のきっかけになった。
資料を集め、敬依さんら親族からもじっくり話を聞いてアルバムも借り、当時の記事や文献を基に、貞一の人生を浮かび上がらせた。貞一の長男は、毎日放送アナウンサーだった隆平さん(故人)。社史によると、ラグビーには詳しいが、野球の専門知識が乏しく、野球中継で助けを求められた評論家が随所で解説したという。スポーツ中継で、実況と解説を分けたスタイル確立のきっかけになったアナウンサーだった。
「三度のメシよりラグビー好き」
1970年12月の「高校ラグビー半世紀」をテーマにした連載で毎日新聞朝刊にも登場し、父貞一の思い出を語っている。「父は三度のメシよりもラグビーが好きだった。勉強しなくてもラグビーさえやれば、他のことは力を入れなくてよい、とまで言われた」。ラグビーさえしていれば、何でもフンフンということを聞いてくれたという。隆平さんと2人の弟は全員が慶応大に進学。ラグビーをやるためだった。試合が終われば「勝者も敗者もない」というノーサイドの精神。ラグビーが人格を形成する信念をたたき込まれたことを振り返っている。
貞一は大阪生まれ。論文では、慶応大ラグビー部の元主将だった経歴だけでなく、卒業後は家業だった機械工具の卸商を発展させ、神戸市東灘区で過ごした晩年まで、戦前・戦後の歴史と絡めてたっぷりと紹介している。
1917年ごろ。高校の全国大会を開催するよう、毎日新聞に働きかけた中心人物は貞一だった。当時の社会部長で、後に社長になる奥村信太郎が、慶応の大先輩だったことも知っていた。「内心期待して」の依頼が大会創設につながる。夏の甲子園の前身、全国中等学校優勝野球大会は豊中運動場(大阪府豊中市)で始まったことは比較的知られているが、ラグビーの全国大会は、同じ豊中の運動場が発祥の地になったことも取り上げている。
貞一の父・杉松が、熱海温泉の旅館の庭で福沢諭吉に声をかけられ、貞一の慶応義塾進学を勧められた逸話。神戸の外国人クラブとの対戦をきかっけに関西ラグビー倶楽部を発足させ、関西各地の学校に出向いて指導にあたったこと。倶楽部を中心に西部ラグビー蹴球協会(後の関西ラグビーフットボール協会)を発足させ、初代理事長として奔走したことなど、論文には、ラグビーに人生をかけたエピソードが満載だ。
戒名「楽美(らぐびー)院釋蹴球居士」
敬依さんは、祖父を直接知らないが、アルバムや資料が多く残る。「歴史上の人物だった祖父。ラグビー一筋で、打ち込んでいた様子がよく分かり、うれしい限りです」と論文の完成を喜ぶ。木さんも貞一と面識はないが、「ラグビー界にとって偉大な恩人」と改めて尊敬の念を抱いている。
貞一の戒名は「楽美(らぐびー)院釋蹴球居士」。1月28日の命日をまもなく迎える。【石川隆宣】

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