2022年は南田美玖子さん(仮名・50代・中部地方在住)によって人生最大の試練の年となった。
1月、認知症の症状が進み、暴力的になった母親(85歳)はカッとなると、父親(86歳)の腕や体、時には馬乗りになって顔を殴り、足を蹴るため、父親は全身あざが絶えなくなった。
「暴力の対象は父だけです。父は母なんか簡単に押さえ込めるのですが、避けると母が転んだりして怪我をしてしまうからと、攻撃を受け続けていました」
そんなある日、父親が出かけるというので、南田さんが代わりに母親を見守ることに。
母親は家の中を静かに歩き回っていたが、突然叫び出し、父親のスリッパを玄関ドアに投げつけた。びっくりしつつも南田さんは、「これか、父が言っていたのは」と思った。
「母は、15年ほど前に父が母の身内のことを悪く言ったのがきっかけで父のことが大嫌いになり、『離婚する! 死んでやる!』と騒いでいました。それでも、一緒に散歩をしたり旅行に行ったりしていましたが、認知症になってから、『女がいる! 女が迎えに来る!』と言い出し、父に対する憎悪を爆発させるようになったのです。認知症って、その人の本質が顕著になるのかもしれませんね……」
要支援1の父親は、週に1回女性ドライバーの車に乗ってデイサービスに通っていた。南田さんは事情を話し、男性ドライバーに代わってもらった。
「一日中、オンナ、オンナ言っている母がうるさくてたまりませんでした。尿失禁したままの濡れたズボンで玄関の外に仁王立ちして見張っていたり、近所に停まっている車のナンバーを控えて回ったりする母が恥ずかしく、目が怖かったです……」
ある時は父親が外に履いていくサンダルが切り刻まれていた。またあるときは父親が使う茶碗が割られていた。割った後、しばらくすると母親は、ホウキではいて綺麗に片付けていた。
この頃、ほぼ毎日実家に通うようになっていた南田さんは、9月、朝実家に着いた途端、愕然とする。
南田さんの1番上の娘(30歳)が初任給で祖父母に買ったお揃いのマグカップが、玄関先で割られていたのだ。南田さんは破片を拾い集めると、涙が溢れてきた。
「認知症だろうが、絶対に許せないと思いました。私はこの日から、母のことが大嫌いになりました」
南田さんは、破片を見せながら母親を問い詰めたが、よく分かっていない様子の母親。割られていない母親のマグカップと照らし合わせながら、
「これは孫ちゃんが買ってくれたものなの、わかってる?」
そう言った瞬間、表情が一瞬だけ昔の母親のそれに戻った。
「認知症だから会話が成立しないのはわかっています。だけど、これだけはちゃんと言わないと私の気持ちが収まりません。理由なんて言えないのも、認知症がそうさせているのもわかっています。それでも許せないことはあります」
11月。母が慕う脳神経外科医に、「精神科に変わったほうがいいよ」と言われた。
「(コロナで)兄が亡くなり、鬱になった母には抗不安薬が出されていました。おかげで母は元気にはなりましたが、続けていたら暴力的になったのです。精神科の薬は扱いが難しいらしく、『精神薬の調整に詳しい精神科に行ったほうがいいよ』というアドバイスでした」
2023年1月。南田さんは「老年精神科」と標榜している病院に母親を連れて行った。
すると医師は、
「鬱から元気になる薬を飲み続けて、そのまま元気が過剰に体に蓄積し、暴力的になっているのかもしれません」
と言い、薬が変更に。
1カ月経つ頃には母親はかなり落ち着いてきて、南田さんも父親も心に余裕ができた。まだ時々カッとなる時があったが、頓服薬で対応することになった。
ところが薬が効きすぎたのか、今度は眠りすぎるようになってしまう。ケアマネジャーから施設に入れることを勧められたが、父親は「まだ頑張れる」と言って拒んだ。
「そこは頑張るところじゃないでしょうに……と何度思ったかしれません。父が頑張るから私の負担もひどいものになっていました。母の介護疲れで父は午前中は立ちあがることができないほどになっていたため、私が母の面倒と、母の汚した布団、パジャマなどの洗濯を、キツイ匂いでオエオエ言いながらやっていたのですから……」
父親は、「病気でこんなことになっているだけなんだから。かわいそうに……」と言って、まだ時々暴力的になる母親の攻撃や口撃を受け続けていた。ケアマネやデイサービスのスタッフたちも、「よく耐えていらっしゃいますよね。普通だったら怒って施設に入れちゃいますよ」と言って感心していた。
「父の老人ホームのイメージは、半分病院みたいで、姥捨て山的な、昭和のままだったのです。狭い個室に入れられて、何の自由も与えられず、『あんなところにいたら余計に病んでしまう』ぐらいに思っていたのです。『そんなところじゃないよ』と言い聞かせていましたが、見ていないうちは自分のイメージしか信じていませんでした」
2023年2月。「右目が見えていないことに気付いたから、救急車を呼びたい。母さんをどうしよう?」。南田さんは父親からの突然の連絡を受け、実家へ急いだ。
その日、父親は「なんだか視界がぼやけて見えるな」と、思い、片目ずつ手で隠して見たら、右が真っ暗で見えていないことに気付く。そこでかかりつけの眼科医に電話すると、
「眼だけでなく、脳の可能性もあるので救急車を要請してください」
と助言される。次に救急の医療相談に問い合わせると、やはり「救急で診てもらうべき」と言われたらしい。
南田さんが駆けつけた時、まだ救急車は家の前に止まっており、母親は家の中だと言うので急いで向かう。すると驚いたことに、母親は友だちと固定電話で談笑中。携帯電話は少し前に操作の仕方がわからなくなっていた。
南田さんが呆れていると、救急隊員に「搬送先が決まりました」と告げられる。父親に「後から母さんを連れて向かうから」と伝えると、救急車は出発した。
南田さんは母親を車に乗せ、父親がどんな状態なのか、どこへ向かうのかを説明すると、どうやら何か大変なことになったということはわかっている様子の母親。「お父さん、死んじゃったの?」と聞いてくる。
病院に着くと、一刻も早く処置室に向かいたい南田さんに反して、母親はフラフラした足取りで遅く、思わずイラついてしまう。母親はもう、父親が救急搬送されたことも、何のために病院へ来たのかも忘れてしまっていた。
父親は、「右目の網膜動脈分枝閉塞症」と診断された。網膜動脈の枝の血管が閉塞して、視野が半分になってしまったという。医師からの説明の間も母親は、「死んじゃったの?」と何度も聞いてきた。
父親は通院治療が決定。南田さんは、父親の通院やケアに専念するため、ケアマネの勧めで、母親を初めて1週間のショートステイに預けることに。
母親は、知らない施設で知らない職員に世話されることになり、不安もあったのかもしれない。個室でなく共同部屋だったため、他人の荷物も置いてある。他人の荷物を触ろうとして職員から注意を受けたとき、母親は職員を平手打ちしてしまった。
「自分で支度をしていないので、どれが自分の荷物なのかなんてわかるはずないですよね……。あの頃の母は落ち着いてきていたとはいえ、まだまだ怒っていることが多かったので、職員や他の入居者さんにとって怖い人だと思われたのかもしれません」
母親は、当初予定していた1週間を待たずに施設から追い出され、別のショートステイに移った。1週間が終わり、南田さんが迎えに行くと母親は、「私をこんなところに預けて、お葬式でもやっているのかと思った」と平然と言った。
南田さんは、「わからなくなるとはこういうことなんだ」と思い知り、悲しくなった。
3月に入ると、母親の暴力はすっかり鳴りをひそめた。その代わり、ほとんど寝たきりになってしまう。
一日中眠っていた日の寝具はひどい状態だった。南田さんは汚れて重くなった寝具全てを車で自宅に持ち帰り、お風呂場で下洗いをする。その間、卒倒しそうなほど臭く、洗っても洗っても臭いが取れなかった。
4月には減薬し、少量でも母親の気性は安定してきたが、怒りのスイッチが入った時用の頓服はまだ手放せなかった。
しかし減薬しても、数日経つと薬が体内に蓄積するせいか、やはり眠ってばかりになる。南田さんは、その都度病院に行って、医師から薬の減量の指示を仰いだ。
そんな5月のGWの真只中、母親の顔がひどくむくんでいた。
かかりつけの病院は休みに入っている。休日診療所に行こうにも、眠っているため南田さんと父親の力では全く動かせない。その上、例によって寝具も服も汚れて濡れているため、着替えさせないといけない。
困り果てた南田さんは、救急相談に電話。すると、そのまま救急につないでくれたため、着替えさせられない件を話すと、救急隊員が着替えもやってくれると言われた。
救急隊員たちは、4人がかりで母親を持ち上げ、着替えをし、搬送してくれた。搬送先の病院では様々な検査を受けたが、むくみの原因は分からず、自宅に帰ることに。
「『入院してもいいですよ』と言われましたが、入院したら完全に寝たきりになってしまうと思い、入院してもらったほうが楽なのはわかっていましたが、連れて帰ることにしました。この頃の母は自分でできることはほとんどなく、もう着替えもオムツ交換も私一人ではできなくなり、いつも父と2人がかりでやっていました。この時父はやっと限界を感じたのか、『施設に入れよう』と言ってくれました」
南田さんは1年ほど前から施設の下見を始めていたので、すぐに目星をつけていた施設の見学に父親を連れて行った。最近の有料老人ホームは父親のイメージとずいぶん違ったようで、前向きに考えてくれるようになった。
今後の資金繰りや、遺産相続の話し合いを始める。
「今の資産状況を教えてほしい」と南田さんが切り出すと、父親は「まとめてあるよ」と言って分厚い冊子を持ってきた。父親直筆の難読な冊子には、自宅と、両親が所有している小さなマンション、株券、定期預金などの資産が書かれていた。それを基に南田さんは、司法書士兼行政書士の無料相談を受けた。
母親を入所させれば、父親のひとり暮らしが始まる。だが、死ぬまでひとり暮らしを続けるのは現実的ではない。父親は遠慮して、南田さんの家での同居はしないと言う。
「なら、その時は施設に入ってもらいたい」と南田さんは伝えた。
「母の入所後、父はしばらく一人で羽を伸ばし、独居生活が大変になってきたら、母と同じ施設に入るという道筋を立て、父もそれに納得しました。また、老人ホームは思ったよりお金がかかります。父は、施設代捻出のため、将来家を売却することも賛成してくれました」
母親は、当初南田さんが目をつけていたグループホームには入所できなかった。状態が悪化しすぎてしまったためだ。
「以前、精神科医から、『グループホームでは、状態がひどすぎると他の入居者さんと共同で生活するのが難しいと判断されて、入居を断られる場合がありますよ』と言われたのですが、その時はピンときませんでした。でもようやく言われた意味がわかりました」
父親が入ってもいいと思える施設が見つかり、「夫婦2人で入所しても資金繰りは大丈夫」という算段がついたため、申し込みをすると、すぐに母親は入所することができた。
南田さんのケアは両親だけではなかった。義実家にもまめに通っていた。
2021年2月に精神病院を退院した認知症の義母(84歳)は、以前いた施設に戻った。暴力性は鳴りをひそめ、誰かに支えてもらわないと歩けなくなっていた。
南田さんと義弟夫婦は、「あの電話攻撃から解放された!」と顔を見合わせ、心が軽くなった。5月に夫が帰国したが、コロナ禍だったためすぐには義母に会えず、面会が許されたのは帰国から1カ月後だった。
そして2023年9月。義母は誤嚥性肺炎を起こし、入院。
この時義弟一人の判断で、「中心静脈栄養カテーテル」を入れてしまう。「中心静脈栄養カテーテル」は、上大静脈など心臓近くの太い血管にカテーテルを留置し、高濃度の栄養剤を投与する生命維持法。つまり延命治療の一つだ。義母の回復を信じていた義弟は、回復のために行う医療行為だと思い、中心静脈栄養カテーテルに同意してしまったのだ。
「カテーテルは一度入れると抜いてくれる病院はほとんどないそうです。そしてカテーテルを入れていると、医療行為が必要になるので施設には戻れません。しかしカテーテルで入れるものを水分だけにしてフェードアウトしてくれる終末期病院が見つかり、10月に移りました」
転院先の病院での面談で義弟が、「施設なら面会時間に制限がないから、本当は施設で看取りたい」と相談したところ、「それならカテーテルを抜きましょう」と主治医から提案された。施設に戻すことを諦めていた南田さんたちは喜んだ。
11月24日。カテーテルを抜き、元の施設に戻った。その11日目に義母は亡くなった。18日に85歳の誕生日を迎えたばかりだった。
「義母も実母も認知症だったので、歳を取るとみんな認知症になるのかと思っていましたが、2024年現在、65歳以上人口の20%程度だそうです。私は勝手に認知症になるとみんなが暴力的になるのだと思っていました。介護にやりがいは感じられず、認知症は家族みんなの共通認識になるまでが本当に大変だと思いました……」
義母が狂人化した頃、南田さんの夫は海外に行っていた。だから施設での義母の問題行動について報告しても、実際に見ていないことと認知症に関する知識不足から、理解されず話が噛み合わないことがもどかしかった。
「義母のケアは主に義弟夫婦がしてくれたので、私は介護らしい介護はしていません。でも母の介護は、母が喜ぶなら何でもしてあげようと思っていましたが、母を嫌いになってからは、実家に行くことがつらくなりました。どうしても苦しい時は、1人で車を運転中、声に出して大泣きしたり、お風呂でシャワーを顔にかけながら、好きなだけ泣きました」
一方、父親は歳のわりには元気だが、すでに90歳、母親はまもなく90歳になる。
「認知症は家族など、周りの人を不幸にしていく場合が少なくありませんが、認知症の実体を知ることで、この不幸は軽減されるように感じます。認知症の具体的な症状や関わり方、薬のことなど、理解を広めることで、認知症で悲しい思いをする人を減らせるといいなあと思います。また、介護者の体力や気力に余裕がなければ、温かい介護はできません。無理はせず、大変な時は助けてもらうことも大切だと思います」
南田さんは「認知症には社会の理解が必要である」と感じ、「Minami」という名前で認知症介護の経験をブログに綴っている。
筆者には認知症で施設に入っている100歳の祖母と、緑内障と白内障が悪化して視覚障害者になり、認知症も始まり独居が難しくなったため、4月から老健に入所した79歳の義母がいる。100歳の祖母は、孫である私はもちろん、娘である私の母のことさえもうわからない。義母はまだ、息子である夫のことも私のことも、その娘である孫のこともわかるが、自身の年齢を間違えることが増えた。
認知症はその人らしさを覆い隠し、別人のようにしてしまうこともある恐ろしい病気だ。南田さんも経験しているように、発症前は尊敬し、大好きだった人も、発症後、怒りや呆れ、嫌悪感を抱いてしまうケースは少なくない。
大好きだった家族は、最期まで大好きなままで見送りたいと思うのは、自然なことではないだろうか。それを実現させるためにも、認知症の介護は、安心してプロに任せられる世の中であってほしいと願ってやまない。
———-旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。———-
(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)