自民党を揺るがすこととなった青年局による“ハレンチパーティ”。3月15日の国会で岸田文雄首相も「極めて不適切であり、誠に遺憾だ」と述べたが、平成の世にはさらなる不適切な大スキャンダルが起こっていた。世にいう「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」である。そもそもは昭和後期に隆盛を極めたノーパンカルチャーとは。

過激な衣装の女性ダンサーが出席した男性の膝の上に座り、口移しでチップを渡し、挙句にお尻をタッチ……。
自民党の青年局幹部や若手議員が参加した “不適切にもほどがある”ハレンチパーティ。当然、世間から大バッシングを受けているが、およそ四半世紀前の1998年(平成10年)にも上級国民の品性を疑う出来事が起こった。それが大蔵省接待汚職事件だ。
官僚7名が逮捕、3名が自殺、112人の大蔵省職員が処分を受けることとなった大スキャンダル。しかし、世間の好奇心をさらに煽ったのは、その接待の舞台として、新宿歌舞伎町にあった会員制ノーパンしゃぶしゃぶ店「楼蘭(ローラン)」を頻繁に利用していたことだった。
ノーパンしゃぶしゃぶ――。名前からして卑猥さが爆発しているこの飲食店は、文字どおりノーパンの女性店員が接客するしゃぶしゃぶ店のことで、楼蘭は1990年代の大蔵官僚や幹部と、大銀行や証券会社のMOF担(モフたん。Ministry of Finance=大蔵省と癒着するエリート行員)の接待の場として使われていたのだ。
90年代前半、実際に楼蘭に足繁く通って銀行員たちを接待してきた為替ブローカーの阿藤さん(仮名・65歳)は言う。
「それまでの金融業界の接待は赤坂の料亭からの銀座のクラブという流れが主流でしたが、誰が見つけてきたのか、『楼蘭というスゴイ店があるぞ』と噂が広がった。でも、この店は2人の会員客からの紹介がないと会員になれないという厳正な入会審査があった。私も同業他社2名の名刺を持って会員登録しに行きましたね」
店の場所は西武新宿駅とコマ劇場(現在のTOHOシネマズ 新宿)をつなぐ路地にある6階建てビルの地下2階、3階。阿藤さんは目を細めながら当時に思いを馳せる。
「地下2階はついたてで区切られたホールで、地下3階は完全個室。私はいつも個室を使っていて、1室につき“ノーパン嬢”が1~2名つく。彼女たちは早稲田とか青学とか、いいとこに通ってる女子大生が多くて、みんな顔もスタイルも抜群だった」
そして、驚くのが今では考えられない卑猥なサービスの数々だ。
「女の子に5000円のチップを渡すと下着を脱いでくれるんですが、座席は掘りごたつだから脱いでるときは女の子の下半身が目の前にくるんです。
天井から逆さに吊るされたボトルで女の子が水割りを作ってくれるときはテーブルの四隅からプシューっと風が出てスカートがヒラリ。水割りを注文するたびに丸見えになるというシステムでした」
当時を思い出して興奮したのか、阿藤さんのボルテージがみるみる上がっていく。
「さらに5000円を渡すと女の子が隣に座ってくれる。実はテーブルの下にはリモコンで操作するカメラが設置されていて、その映像が卓上の小型テレビに映し出されるんです。ノーパン嬢の局部を狙ってリモコンを操作して、ロックオンしたらズーム……! ゲーム感覚で興奮しましたね。
1本2000円でペンライトも売っていて、それを手に10分以上も掘りごたつに潜って出てこない人もいましたね~」
そんな異常な空間でありながら、意外にもおさわりや撮影には厳しかったという。
「ある会社の外国人社員が箸で局部をつまんでしまい、その会社が出禁になったことも。あとは使い捨てカメラを持ち込んで盗撮しようとした人も出禁。私は超常連だったので、軽くタッチするくらいなら問題ありませんでしたけど(笑)」(同)
余談だが、阿藤さんが当時勤めていた会社では接待費の上限がなく、「接待」「贈答品」「現金の手渡し」と何でもあり。月に500万円は使っていたそうで、「これがバブル世代、不適切世代です!」と胸を張る。
一方、「楼蘭」の真横のビルでノーパン喫茶「マドンナ」を経営していた作家の影野臣直氏は言う。
「楼蘭は80年代にオープンした当初はキャバクラのような店でしたが、売上が低迷したためホステスをノーパンにさせて接客し始めた。おそらく1980年に大阪で開店した日本初のノーパン喫茶『あべのスキャンダル』をマネたのでしょう。それもマンネリ化して1982年ごろにしゃぶしゃぶの形態に変えたと記憶しています。楼蘭の隣には『テニスルックの喫茶室』という系列店のノーパン喫茶もありました」
世はまさに“ノーパン”ブーム。影野氏は当時の熱気をこう説明する。
「ノーパン喫茶、発祥の地の大阪では最盛期は140軒を超え、一足遅れた東京都内でも歌舞伎町を中心に200軒もの店が開店し、一説によれば、全国では1000軒近くのノーパン喫茶ができたと言います。サービスもどんどん過激になっていき、トップレス喫茶や前貼り喫茶なんてものまで登場しましたからね。男たちの欲望が街を大きくしたんだなと、今やなつかしい思い出ですね」
1981年4月23日発売号の「週刊明星」では、ある女性記者がノーパン喫茶に潜入した体験ルポを掲載。同記事では新宿警察署副所長が「私服警官に視察させていますが、今のところヒッカカる店はないようです。しかし、捜査費がかさみますよ、アレは」と述べており、当時の風営法では取り締まりようがないと頭を抱えていたようだ。
まさに時代を彩ったノーパンカルチャーだが、影野氏によれば、「そのブームは長く続かなかった」という。
「歌舞伎町にノーパン店が上陸してから数年後の1985年2月13日に施行された新風営法によってノーパン喫茶やのぞき部屋、個室ヌード店などが新規開業できなくなった。これによって、ノーパン店は激減することになります」
エリート金融マンたちの接待の場となった楼蘭はどんな最期を迎えたのか。前出の阿藤さんは言う。
「“ノーパンしゃぶしゃぶ事件”で大蔵省検査官2名が逮捕された翌日、楼蘭も家宅捜査され、2名のホステスが公然猥褻容疑で警視庁に逮捕。その後、ひっそりと閉店してます。その2、3年後に同じ店名で営業が再開されたので何度か行きました。システムはあまり変わっていませんでしたが、カメラやテレビは撤去されていてペンライトの販売もしていませんでした。その後、いつまで続いてたのかはわからないですね」
令和になった現在、楼蘭の入っていたビルを訪れると、地下2、3階にはホストクラブが入っていた。ホストクラブが社会問題になっている昨今、このビルにうつろいゆく歌舞伎町の一面を見た気がした。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班