労務相談やハラスメント対応を主力業務として扱っている社労士である私が労務顧問として社労士として企業の皆様から受ける相談は多岐にわたります。経済や社会情勢の変化によって労働問題やハラスメントの捉え方も変わり、「明らかにアウト」「明らかにセーフ」といった線が引きにくい時代になりました。
社労士としてグレーゾーンの問題を取り扱ってきた経験では、こうした問題に対処するには労働法だけではなく、マネジメントや人事制度など幅広い知識が必要になります。
高校時代の友人Iさんに誘われて、同時期にスーパーマーケットでアルバイトを始めたSさん(28歳、仮名)。当初は腰掛のつもりでしたが、働きぶりが評価され正社員として迎え入れられます。
しかしその待遇を面白くないと思ったIさんがアルバイトたちと結託し、Sさんに反発するようになります。そんななか職場で起こった盗難さわぎで、Sさんは犯人の濡れ衣を着せられてしまい、人間関係不信に陥りました。
盗まれたのは、Tさんというアルバイトスタッフが持ち歩いていたエルメスのケースでした。なくなった前日、Tさんが更衣室でキーケースを見せながら、「パチンコで勝ったから購入したんだ」とうれしそうに話している姿をSさんも覚えています。
更衣室で着替えている最中もアルバイトスタッフたちが口々に「いいなあ」「うちの旦那も当ててくれたらなあ」と話しているのを聞きながら、Sさんはバックヤードを後にしました。
ところが、帰り際に店長から、Tさんのキーケースがなくなったらしいから、一緒に探してやってほしいと頼まれます。Tさんのキーケースには車の鍵がついていて、それがないと帰宅できないらしいのです。
女性の正社員はSさんしか残っていなかったので、SさんがTさんとともに更衣室を探すことになりました。幸い、キーケースはすぐに見つかりました。長身のSさんがロッカーの上に載せられているのを見つけて取り、Tさんに渡してあげたからです。
しかし、翌日のことです。開店準備をしていたSさんは、少し怒った表情を浮かべるTさんに呼び止められました。
「盗んだの、あんたなの?」
何のことかわからず唖然とするSさんに、Tさんは「キーケースがあんなに簡単に見つかるのは、Sさんが盗んだからだ」と言います。
Sさんは身に覚えもないことですが、隣のレジに立っていたIさんが「Sは昔からひとのものを欲しがる」と横やりを入れてきました。そんな事実はなかったのですが、十分に否定する前に開店時刻が迫り、お客様の前でそのような話をするわけにもいかずに、なんとなくその場は散会しました。
ところが、その日の午後、店長からSさんは呼び出され、事実の確認を受けたのです。Sさんはもちろん否定しましたが、店長も根拠がないこととはいえ、名指しの直訴であればいったんはTさんの主張を受け止めざるを得ず、Sさんに状況を確認したかったようでした。
しかし、これはSさんにとっては犯行を決めつけられたようでとてもつらい体験でした。さらに、店長と話しているところをアルバイトスタッフたちに見られていたことも、辛さに追い打ちを掛けました。
Sさんはその日は気力を絞って働いたもののだんだんと低下し、その出来事を堺に話しかけてもアルバイトスタッフたちが避けるようになったこともあって、1ヵ月後には初めての無断欠勤をするに至りました。
店長からは欠勤中に何度か電話もありましたが、また同じように詰められたらと思うと怖くて出られず、Sさんは結局退職の道を選びます。辞めて数か月後、Sさんはあっせんという手段で会社とアルバイトスタッフ全員の謝罪を求めたのです。
SさんとIさんのように、友人同士で応募してきたスタッフの処遇は本当に気を使うものです。特に短期のアルバイトではなく、ある程度長期雇用を前提にしている場合はなおさらです。この場合は、Sさんの正社員化が契機となってトラブルに発展してしまいました。
職場において、指揮命令の系統は非常に重要なものです。友人同士で応募してきた場合、一方を正社員に引き上げるには繊細な配慮が必要です。前述のとおり、Sさんが働いていたスーパーは、生産性がきちんと評価される会社なので、優秀な人材に良い待遇を与えたいと考えるのは自然なことです。
その一方で、同時期に入職した一方は“選ばなかった”となれば、プライドが傷つく場合もありますし、周囲からの目が気になることもあるでしょう。
スーパーの店舗はアルバイトで働く人が多数を占めます。そんななか、ひとりだけ「選ばれる人」が出てくれば、これまで同じ立場だった“仲間”が、急に指揮命令系統のポジションに変わるので、反感を持ってしまう人もなかには出てきます。
私は事態が起こってから介入しましたが、あっせんの実情調査書を受け取った店長は顔面蒼白でした。「先生、Sとはとてもいい関係だったんです。まさかこんなことになるなんて……」というのが店長の第一声でした。
あっせんとは、労働者と事業主との間で起こる労働関係の事項に関する争い(個別労働紛争)を、第三者であるあっせん員が仲立ちをして、解決を目指すという制度です。
当事者の一方だけで申し立てをすることができ、費用はかかりません。審議も1日だけで終わりますので、裁判と異なり申立てをする側の経済的・時間的な負担が少ないことが特徴です。
実情調査とはこのあっせんが申し立てられたとき、相手方に送られる書類です。今回はSさんが申立人になるので、その主張が真正なものであるかどうか、スーパー側の主張を確認しようとする意図で送られます。
私はまず、あっせんの特徴を伝えたうえで、応じるかどうかの判断は会社にあること、また、会社がSさんと直接交渉しても構わないことをお話ししました。しかし、店長はSさんが電話をとってくれず退職届も郵送だったことから当事者間の交渉は難しいと考えてあっせんを受ける道を選びました。
まず、あっせんにおいてSさんの主張は、「自分はアルバイトスタッフからの集団パワハラを受け、信頼している店長からも盗難の疑いを掛けられたことで辞めざるを得なかった。
ついては店長・アルバイトスタッフ全員の謝罪と、辞めなければ貰えている賃金を払ってほしい。また、離職票の離職理由は自己都合とされているが、ここを会社都合にしてほしい」というものでした。
この主張に対し、店長は「集団パワハラがあった事実は把握できていなかった。また疑っていたわけではないが、疑っていると受け取られるような質問の仕方があったことについては謝罪したい。
Sさんは自分で無断欠勤をして当方からの連絡には応じず、そのうえで郵送で退職届を送ってきているので、会社としては解雇ではなく自己都合退職にしているのは相当だと考えている」と往信しました。
またあっせん当日に向け、社内でもアルバイトスタッフからのヒアリングを進めました。ヒアリングによりSさんに対して、一部無視する態度があったことは事実だったとわかったため、再発防止のためパワハラ防止のポスターの掲示、パワハラ防止のための研修を当年度内に実施することを決めました。
また、仕事に不要な高価な私物は持ち込まない、というルールを新たに設けました。
あっせん当日は、上記をあっせん員を介してSさんに伝えてもらい、店長の謝罪の意志もあったことで、Sさんに対しては給与1か月分を和解金として支払うことになりました。
これは「アルバイトスタッフ全員の謝罪」というSさんの要求どおりではありませんでしたが、Sさんの退職の仕方に非があることも伝え、処置については納得してもらいました。
この解決は双方が望んだものではありませんが、対話ができたよい例だと思います。何より、店長が前向きに自分の過失を認め、再発防止の態度を示したことが本当に素晴らしいことでした。しかし、そもそも論でいえばこうした争いが起こらないほうがよいに決まっています。
今回のケースでは、パワハラの防止に務めることはもちろんですが、マネジメントの手法についても課題があります。例えばSさんとIさんの感情に配慮し、Sさんの意向を確認して勤務店舗を変更する、シフトの時間を調整するなどの方法も検討することはできたのではないかと思います。
また、Tさんから訴えがあった時の店長の対応も失策でした。他のアルバイトスタッフの目のあるところでSさんに質問すれば、犯人だと決めつけているようだと受け取られかねません。また、店舗内のこととはいえ、Tさんに対して盗難なのか紛失なのか、または勘違いだったのかという客観的な審議もなく、Sさんを呼びつけたのは早計でした。
このように、マネジメントの不備は事態の悪化につながります。企業においてはこうした職場環境のリスク低下のために、適切な社内ルールを設定・運用する必要があるのです。