論破王として有名なひろゆきさん(西村博之氏)を夫に持つ西村ゆかさんが、2月22日に新刊『転んで起きて』を上梓した。X(旧Twitter)などで垣間見えるユーモアのセンス、小気味よい語り口、そして独自の視点にはファンも多いが、本書ではゆかさんが今まであまり語ってこなかった、自らの生い立ちについても触れられている。FRaUでは3回に渡り、作品から一部修正・抜粋し、記事にしてお届けする2回目。
「2ちゃんねる乗っ取り事件」の翌年の2015年、私たちはフランスに移住した。私たちが海外で暮らすことになったのは、ひろゆき君がいろんな人とトラブルを起こして日本に居られなくなったからだ、なんてネットに書かれることがあるけれど、それはちょっと時系列が違うと思っている。
ひろゆき君がメディアで、いろんな人と揉めるようになったのは、フランスに来てからのほうがよっぽどひどいと思われる。そうなった理由は、街で突然殴られたり、誰かが家に押しかけてきたり、やばい物を家に送り付けられるといった物理攻撃の心配が減ったからだろう。
つまり彼は、フランスだからこそ、平気でトラブルを起こしていると思われます。 現場からは以上です。
言論が自由すぎるひろゆき君のせいで私は、ネット上、主にX(旧Twitter)で、見ず知らずの人から、わけのわからないとばっちりを受けている。 「ひろゆきが間違ったことを言っているから、お前が教育しろ」とか「旦那さんのせいで傷つきました。謝罪してください」とか。
私はひろゆきくんのお母さんでも、上司でもない。どうして世間では、夫の不始末の責任を、妻が負わねばならないと思うのだろう。そう疑問に思いながらも、たいてい私は相手にせずにスルーしている。
でも、ときどき、返信をすべきだと思うクソリプが来る。だから返信をして、ぶちのめす。ひろゆきの妻になって20年で学んだことは、クソリプは定期的につぶしていかねば、無限に増殖するということだった。
何度か返信を続けると、たいてい当該ツイートが消されたりして、それ以上攻撃されなくなる。攻撃ならぬ「反撃は、最大の防御」ということである。
『だんな様はひろゆき』(朝日新聞出版)という本の出版を決めたときから、ひろゆき君の起こすトラブルに巻き込まれることを、少しは覚悟していた。タイトルのとおり「ひろゆきの妻である」ということがキモの企画だったから、この本を出すということは、「あのひろゆきの妻」として世間に認知されるようになるということ。それまでは、フォロワー数なんかぜんぜん気にせず、気楽にSNSを使っていたけれど、本を出す以上、私の発言も注目され、非難や攻撃をくらう可能性があるということは予想していた。
それでも、私がなにも関わっていないトラブルや、詳細も背景も知らないケンカにまで突然巻き込まれることになるとは思ってもいなかったけれど、それもまた仕方がないと思っている部分がある。「ひろゆきの嫁」という肩書でメディアに登場することは、自分で選んだのだから。
とはいえ、あまりにもひどい罵詈雑言に疲れ、不貞寝をしていると、さすがになにかを感じ取った(感じ取ったからといってやめもしないのだが)ひろゆき君が、コーヒーを入れて持ってくるくらいの気づかいはするようになってきた。
ちなみに、ひろゆき君にどうしていつも炎上させるのかと質問してみたら、「炎上したことなんてない」という答えが返って来て白目になった。「だって、取り返しのつかないことなんておいらなにもしてないでしょう?」と彼は言う。彼にとっての「取り返しのつかないこと」ってなんだろうと私は考え込む……。
ところで、女性は結婚すると「〇〇の嫁」とか「〇〇の奥さん」と呼ばれるようになる。そして、子どもが産まれると、今度はその呼び名が「〇〇ちゃんのママ」とか「〇〇くんのお母さん」に変わる。自分は誰かの付属品で、自分自身の存在がなくなったみたいに感じている人がいると聞いた。
その気持ちはいま、私もちょっと理解できる。
でも、肩書とか社会的立場でしか相手を見ない人はたしかに私の周りにもいるけれど、私自身を見てくれる人、私自身を大事にしてくれる人も、ちゃんといる。誰と結婚しようが、どんな仕事に就こうが、一対一で付き合ってくれる人だけを大事にしようと私は思っている。そうすれば「自分の存在がなくなった」という不安は消えていく。
ちなみにわたしが「ゆか」というひらがな表記を使うようになったのは、本を出版するときに、タイトルの「ひろゆき」の字面に雰囲気を合わせたほうがデザイン上、しっくりくるように思ったからだ。「〇〇の嫁」とか「〇〇のママ」というのを、自分のアイデンティティーとは切り離し、いわば、ただの仕事、あるいはただの任務として遂行する。そんなイメージを持つと、妻やママと呼ばれることも、楽しくなってくるかもしれない。