東京都内の各区はそれぞれ、区内の特徴を歌詞にした歌を作っている。
千代田区歌では「大東京の中心地」、新宿区の大新宿区の歌には「ビジネスセンターあつめてここに」といったような具合だ。しかし23区のうち、江東区だけそのような歌がない。どのような背景があったのだろうか。(斎藤茂郎)
区の歌は「区歌」や「区民の歌」など呼び方は様々だが、多くは戦後間もない時期や、区の記念事業などで作られた。既存の歌を選定した例もあり、墨田区は滝廉太郎作曲の「花」を「区民の愛唱歌」としている。しかし、1947年に誕生した江東区には、そのような歌はない。
「戦後の復興、発展にまい進して余裕がなかったとみられ、歌を作る機会を逸してしまった」。江東区総務課の岩瀬亮太課長(51)はこのように話す。
江東区は太平洋戦争の東京大空襲で約6万3000戸が焼失し、復興に大きな力を割いた。また、隅田川と荒川に挟まれた区域には海抜ゼロメートル地帯が広がり、水害と隣り合わせという課題もあった。49年の「キティ台風」では、区内で15万人を超える被災者が出た。
区は治水や防災に注力し、「江東区史」は「水との闘い」として、「官民一体となって取り組み、水を制し、共生する環境を作りあげてきた」と記している。
復興を果たした後も、江東区には「ごみ戦争」という課題があった。区内を通って埋め立て処分場に運ばれるごみが急増し、多数のごみ運搬車が街中を走って渋滞となり、悪臭やハエの発生も問題となっていた。
都の度重なる処分場の使用期間延長や、埋め立て地拡大の要請に対し、70年代になると、大規模な反対運動が展開された。江東区では72、73年、区長が先頭に立ち、ごみ処分場設置が進まない杉並区からのごみ運搬車を阻止するほどだった。その後も協議が紛糾して問題は長期化した。
区内で生まれ育った永代2丁目町会の鈴木俊朗副会長(76)は「通学する子どもたちの横をたくさんの運搬車が通り、衛生環境も悪化して、まさに戦争だった。歌を作る余裕なんかなかっただろう」と振り返る。
江東区が様々な課題と向き合う中、90年に22区で歌が出そろった。こうして江東区は、歌のない唯一の区となった。
その後も時折、区議会で質問されたが、過去の区長からは「誰も歌わない。作る意味がない」などと否定的意見が出たこともあり、歌作りに向かわないまま現在に至る。
今後、作られる可能性はあるのだろうか。区議会では昨年9月の定例会で、6年ぶりに区歌制定の考えを問う一般質問があった。質問した鈴木綾子議員(48)は「歌は区の話題作りや区民の一体感醸成につながる」と話し、近年の成功例として中野区を挙げる。
中野区は1950年に区歌を制定したが歌われていないとして、「皆で歌える区歌の復活を」と2015年に新区歌を制定。式典などでの歌唱のほかコンテストを開いてアレンジ作品を公開するなど幅広く活用している。中野区広聴・広報課の矢沢岳課長(39)は「歌う機会は作れば色々ある。今では区民が自然に覚えてくれる」と話す。
「江東区はこれから歌を作るチャンスが色々ある」。こう話すのは、江東区観光協会の小嶋映治理事長(69)。27年に区制80周年を迎え、30年代に地下鉄8号線(有楽町線)延伸が見込まれるほか、新庁舎建設も検討されている。そうした節目が歌を作る好機だという。
下町情緒が残る深川や亀戸、高層ビルやマンションが林立する有明や豊洲など、小嶋理事長は歌詞の題材も豊富だと強調する。「今までなかったなら、令和の区歌第1号になればいいんじゃないか」と期待する。
大久保朋果区長(52)は「現時点で区歌の検討はしていないが、区民の多くの声があれば可能性はあるかも」としている。作るとすれば、「『スポーツと人情が熱いまち』を掲げる江東区らしい歌がいいと思う」との考えを示した。