前編【「アナタハンの女王」と呼ばれた女性の生涯 日本兵32人に囲まれ、そのうち5人と“結婚”、4人は不審死か別の男に殺害され…異様な孤島生活とは】からのつづき
戦時中、南海の孤島「アナタハン」で夫と暮らしていた比嘉和子さん。夫が島を離れた際に米軍の爆撃で移動手段を失くし、32人の男性兵士と島に取り残された。そして始まった彼らとのジャングル暮らしは、和子さんを奪い合う「戦争」と和子さんの「処刑裁判」につながってしまう。命からがら帰国した日本もまた、彼女にとって安住の地とはならず、ひと儲けを企む輩が集まり始めた――。
(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大「猛女怪女」列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)
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【写真】喜びと緊張が混じった表情で前を見据え…アナタハンから救助された際の比嘉さん 帰国後のおだやかな表情も「処刑裁判」と「脱出」 昭和25年5月。遂に和子の「処刑裁判」が開かれた。32人いた男たちはもはや22人に減っていた。男たちは全員出席したが、和子だけには知らされなかった。田中は積極的に意見を述べた。帰国し、横浜港に降り立った時の比嘉和子さん「敵と戦って死ぬならともかく、和子を奪い合って殺し合うなど許されることではない。和子さえ居なければ争いは起きないだろう。和子には死んでもらうということでいいか」 異を唱える者は居なかった。判決が下った。比嘉和子を48時間後に公開処刑することになった。 全員が肯く中、「曙丸」の船長Kの姿がそっと消えた。小屋にいた和子に“判決”を密かに知らせたのである。驚いた和子は出奔し、それから1ヶ月もの間、ジャングルを逃げ回った。ある日、投降を呼びかけるアメリカの艦が島に近づくと、和子は海岸のヤシの木に登り、白いズロースを脱ぎ、白旗代わりに懸命に振り続けた。こうして「悪夢の島」アナタハンからの脱出に成功したのだった。風呂敷包み一つで名護に戻る「名護へ帰ってきた時は、カズちゃんは米軍から与えられたというワンピース姿で、荷物は風呂敷包み一つでした。生存していたことも無事救出されたことも事前に家族には何の連絡も無かったんです。和子たった一人でした」(歌子) 義姉・歌子の記憶では昭和25年8月の蒸し暑い日だったという。風呂敷の中にはパラシュートで作ったワンピースが一枚。それに菊一郎の爪と遺髪、印鑑が入っていた。ワンピースは菊一郎の亡骸を包んだものだと和子は後に語っている。「カズちゃんはすぐに菊一郎さんの墓前にお線香を上げたいと言ったのですが、先方から断られましてね。夫の正一さんも探したいと言ったのですが、これはうちの家族が反対しました。正一さんは和子がもう死んだものと思い、帰国後、再婚してお子さんまでおりましたからね。突然、和子が現れて、今の幸せな家庭を壊してはいけないでしょ」(歌子) しかし、他から和子の生還を知った正一は、ある日、和子が身を寄せていた長兄宅を訪ねてきた。「玄関先で正座し、『済まなかった』と深く頭を下げられました」(歌子) 一方、故郷へ帰ったのはいいが、和子の居場所はどこにも無かった。菊一郎の親族が「こんな女さえいなければ」と漏らしていると人伝てに聞くと、10日後には長兄の家を出た。欲しがる男たちが悪いんでしょ そして、和子が最初に勤めたのは料亭「南栄楼」だった。名護市の“社交街”と呼ばれた歓楽街にあった。沖縄の料亭は京都・祇園のお茶屋に似て、個室の宴会場に酒や料理を運ばせ、三線、太鼓、琉舞の芸者を呼び、歌や踊りを楽しむ社交場である。酌をする女給と意気投合すれば、場所を変えて一夜を共にすることができたという。 当時は社交街に23軒が軒を連ねていたが、現在は「八万」という店が一軒だけ残っている。その女将は「南栄楼」時代の和子を覚えていた。「住み込みの女給で、物凄い人気でしたよ。彼女が来てから予約が1ヶ月先までうまるほど繁盛しましたね。『アナタハンの女王』見たさに本土からも大勢押し寄せたほどです。彼女は酔うと客の前で全裸になり、『アナタハン踊り』を披露して、またそれが評判を呼びました。当時の女給ですから、お客さんと話がまとまれば体を売ることもあったでしょう」 和子が「帳場さん」と呼んで慕った、前述の伊波寛一は当時を振り返った。「ある時、南栄楼に売春容疑で警察の手入れがあって、11人の女給が連行されたのです。名護署の署長の前で和子は『女たちが悪いんですか。それを欲しがる男たちが悪いんでしょ』と大声で啖呵を切ったんです。名護署員15名中、10人が南栄楼の常連客でしたから、みんな和子に拍手を送りましたよ」 この時の和子の啖呵には、アナタハンで田中秀吉に「男たちの問題でしょ」と反撃した時と同じ響きを私は感じる。和子には故郷でも「性と生」の壮絶な戦争が続いたのだった。わるいやつらと「女王様」 その頃、和子の人気にあやかり、ひと儲けを企む輩が集まり始めた。交渉は主に長兄宅で行われた。一番、被害を蒙ったのは長兄の嫁・歌子だった。「ある日、沖縄の石垣市に住む伊波南哲という作家が来て、戦争の悲惨さを映画にして伝えたい、和子を東京へ連れて行くと言いましてね。学校も出ていず、教養も無い和子が騙されてはいけないと主人が付いて行ったんです。和子は2年後に戻ったのですが、主人から音沙汰が無くなり、帰って来たのは13年後でした」 和子の上京には多くの興行師がからんでいた。歌子の記憶では関西から来た「重宗」と名乗る興行師が「和子をスターにしてやる」と同行した。 昭和27年11月20日、和子ら一行は横浜港に上陸。100人を越える報道陣が取り囲み、和子は記者会見に応じた。「私が悪い女だから、沢山の男が命を失ったように言われています。それはみんな違うのです。アナタハンの真相を知ってもらうために来ました」映画フィルムを抱えて東北巡業へ 会見を終えた和子は、その足で東京に出てストリップ劇場の舞台に立っていた。銀座のコニー劇場を皮切りに、新宿フランス座、浅草ロック座、百万弗劇場と相次いで出演し、裸を晒した。派手な衣装を身に着けた和子は、その世界での「女王様」に変わっていた。人気は上々で1日3万円のギャラが支払われたと囁かれたが、実は和子の財布は興行師が握っていた。 昭和28年4月には和子自ら主演した映画「アナタハンの真相はこれだ」(=新大都映画=全7巻)が封切られた。契約金は30万円。当時はサラリーマンの月給が5000円に満たない時代。大変な金額なのだが、実はこれも和子の手には渡っていない。 そして、この映画が不出来で不評だったため「女王様」の影は薄れていく。封切りから1ヶ月後、和子ら一行は映画フィルムを抱えて東北巡業の旅に出る。背森、岩手、秋田、福島と回ったが「海鳳丸」の母港がある宮城県には立ち寄っていない。 アナタハンで「海鳳丸」の乗組員が6人も死亡した事実を和子は知らぬはずが無かった。最後の夫S(海鳳丸の水夫)は和子が島を脱出した後、2人を殺害した罪の「裁判」で斬首刑に処せられ、島での最後の犠牲者となった。その遺族たちのいる街でアナタハンの腰振りダンスを披露することは、さすがの和子も憚かられたのだろう。その後は富山、福井と回ったが、アナタハンでの犠牲者や遺族は居なかった。荒んだ生活で吐露した辛さ「カズちゃんはどんなに苦しい状況に置かれてもいつも陽気に振舞っていました。愚痴や他人の悪口を決して言わず、周囲の人に気を遣っていました。あの子はそういう性格なんです。アナタハンでもそれが災いしたんでしょう」 と歌子。 だが、巡業中の和子は、次第に酒とギャンブルに溺れていった。競輪や競馬に熱中し、その日のギャラを博打で吐き出す始末だった。そんな荒んだ生活からいつ脱出できるのか、和子の心にアナタハンで味わった不安と焦燥が孕んでくる。この時の気持ちを和子は、後に伊波寛一に打ち明けていた。「私は馬鹿よね、帳場さん。東京へ行って、私は騙されている、利用されているだけと分かっても、男の言い成りになってしまうの。いくら稼いでもお金は男(興行師)がみんな持っていってしまって。でも、夫婦同然の関係になってしまったからもう仕方ないとあきらめたわ。寄ってくる男たちは私を喰い物にする人としか考えなくなってしまった。それが辛いのよね……」晩年の和子 地方巡業に出て1年2ヶ月後の昭和29年8月15日、興行師と決別した和子は“旅芸人の”道を捨て、大阪の労働者の町、西成区へ流れた。終戦から9年経ていたが、まだ大半が焼け跡で小さなBARやスタンド、居酒屋が数軒あるだけの鄙びた街だった。 4日後、和子はその一角にある場末の旅館で女中として働き始めた。女中といっても男客の“お相手”が仕事だ。夜は酒に浸る日々が続いた。 西成に来てから2ヶ月後の10月17日午前2時頃、スタンドで知り合った男に石で顔と頭を殴られるという傷害事件に見舞われた。血みどろになった和子は病院に運ばれたが、沖縄の住所や氏名から「アナタハンの女王」比嘉和子と判明してしまい、再びマスコミに注目されることになる。この時のマスコミの論調は「転落の女王」に変わっていた。 この事件を機に沖縄へ帰る決心がついた。名護に戻った和子は再び「南栄楼」に勤めた。和子の人気は以前にも増して沸騰した。地方巡業で磨いた場末のストリップは南栄楼の名物にもなった。 しかし、和子は、もはや歯止めが利かなくなっている不安と焦燥を、酒量を増やすことでごまかしている自分に気付き始めていた。これは、あのアナタハンで感じたものに似ていた。2人の連れ子の母に 堕ちていく和子を見かねた知人が一人の男性を紹介する。和子より11歳年上で2人の連れ子がいたが、腕の良い真面目な荷車職人だという。 和子は少し躊躇いの色を見せた。自分も継母に育てられ、どうしても馴染めなかった過去を思い起こしていた。その継母になり、子供たちと幸せに暮らすことが果してできるだろうか。一人で決めかねた和子は、慕っている南栄楼の「帳場さん」に相談した。「いい話じゃないか。あんたは周囲のことばかり気を遣ってきた。それで周囲が幸せになれば自分はどうなってもいいという考えだろう。それがかえって誤解を生んだんだよ。これからは自分の幸せだけを求めても罰は当たらないよ」 和子にそう助言し、再婚を勧めたと、伊波寛一は回想した。 昭和33年10月30日、めでたく結婚し、和子は新しい姓に変わり、妻となり、母となった。彼女は34歳になっていた。 結婚後まもなく、当時の名護高校(後に移転)の向かい側で和子は「たこ焼き屋」を開いた。学校の傍とあって、店は大繁盛した。夏にはかき氷が飛ぶように売れた。店の合間には夫の仕事を手伝う仲睦まじい夫婦の光景もよく見られた。愛情が足りなくて済まなかったね 和子が心配した2人の連れ子とは人も羨む仲になった。雨が降り出すと、傘を持って母親を迎えに行く子供たちの姿が近所では何度も目撃された。長女が結婚しても、家族が行き来して食事を共にすることも少なくなかったと近所の住人は言う。和子にとっては、物心ついてから初めて味わう家族団欒だった。 人並みの幸せな人生をようやく掴んでから16年後の昭和49年3月13日、和子は脳腫瘍でこの世を去った。波乱に富んだ51年の生涯だった。「義姉さんに苦労かけてしまった。許してな」 義姉の歌子に残した和子の言葉。「継母だから、愛情が足りなくて済まなかったね」 これが和子の最期の言葉だった。 女であるが故に起きた、性と生の惨劇。生還後もその烙印に翻弄された和子の半生。「男たちが悪いんでしょ」という和子の叫び。妻として、母として、女として生の淵を辿った和子は、その数奇な「女の宿命」を最期に受け入れたのだろうか……。 今、和子は、時折米軍機が爆音を落とす、名護市内の小高い丘の墓地にひっそりと眠っている。(文中敬称略)前編【「アナタハンの女王」と呼ばれた女性の生涯 日本兵32人に囲まれ、そのうち5人と“結婚”、4人は不審死か別の男に殺害され…異様な孤島生活とは】からのつづき秋本誠デイリー新潮編集部
昭和25年5月。遂に和子の「処刑裁判」が開かれた。32人いた男たちはもはや22人に減っていた。男たちは全員出席したが、和子だけには知らされなかった。田中は積極的に意見を述べた。
「敵と戦って死ぬならともかく、和子を奪い合って殺し合うなど許されることではない。和子さえ居なければ争いは起きないだろう。和子には死んでもらうということでいいか」
異を唱える者は居なかった。判決が下った。比嘉和子を48時間後に公開処刑することになった。
全員が肯く中、「曙丸」の船長Kの姿がそっと消えた。小屋にいた和子に“判決”を密かに知らせたのである。驚いた和子は出奔し、それから1ヶ月もの間、ジャングルを逃げ回った。ある日、投降を呼びかけるアメリカの艦が島に近づくと、和子は海岸のヤシの木に登り、白いズロースを脱ぎ、白旗代わりに懸命に振り続けた。こうして「悪夢の島」アナタハンからの脱出に成功したのだった。
「名護へ帰ってきた時は、カズちゃんは米軍から与えられたというワンピース姿で、荷物は風呂敷包み一つでした。生存していたことも無事救出されたことも事前に家族には何の連絡も無かったんです。和子たった一人でした」(歌子)
義姉・歌子の記憶では昭和25年8月の蒸し暑い日だったという。風呂敷の中にはパラシュートで作ったワンピースが一枚。それに菊一郎の爪と遺髪、印鑑が入っていた。ワンピースは菊一郎の亡骸を包んだものだと和子は後に語っている。
「カズちゃんはすぐに菊一郎さんの墓前にお線香を上げたいと言ったのですが、先方から断られましてね。夫の正一さんも探したいと言ったのですが、これはうちの家族が反対しました。正一さんは和子がもう死んだものと思い、帰国後、再婚してお子さんまでおりましたからね。突然、和子が現れて、今の幸せな家庭を壊してはいけないでしょ」(歌子)
しかし、他から和子の生還を知った正一は、ある日、和子が身を寄せていた長兄宅を訪ねてきた。
「玄関先で正座し、『済まなかった』と深く頭を下げられました」(歌子)
一方、故郷へ帰ったのはいいが、和子の居場所はどこにも無かった。菊一郎の親族が「こんな女さえいなければ」と漏らしていると人伝てに聞くと、10日後には長兄の家を出た。
そして、和子が最初に勤めたのは料亭「南栄楼」だった。名護市の“社交街”と呼ばれた歓楽街にあった。沖縄の料亭は京都・祇園のお茶屋に似て、個室の宴会場に酒や料理を運ばせ、三線、太鼓、琉舞の芸者を呼び、歌や踊りを楽しむ社交場である。酌をする女給と意気投合すれば、場所を変えて一夜を共にすることができたという。
当時は社交街に23軒が軒を連ねていたが、現在は「八万」という店が一軒だけ残っている。その女将は「南栄楼」時代の和子を覚えていた。
「住み込みの女給で、物凄い人気でしたよ。彼女が来てから予約が1ヶ月先までうまるほど繁盛しましたね。『アナタハンの女王』見たさに本土からも大勢押し寄せたほどです。彼女は酔うと客の前で全裸になり、『アナタハン踊り』を披露して、またそれが評判を呼びました。当時の女給ですから、お客さんと話がまとまれば体を売ることもあったでしょう」
和子が「帳場さん」と呼んで慕った、前述の伊波寛一は当時を振り返った。
「ある時、南栄楼に売春容疑で警察の手入れがあって、11人の女給が連行されたのです。名護署の署長の前で和子は『女たちが悪いんですか。それを欲しがる男たちが悪いんでしょ』と大声で啖呵を切ったんです。名護署員15名中、10人が南栄楼の常連客でしたから、みんな和子に拍手を送りましたよ」
この時の和子の啖呵には、アナタハンで田中秀吉に「男たちの問題でしょ」と反撃した時と同じ響きを私は感じる。和子には故郷でも「性と生」の壮絶な戦争が続いたのだった。
その頃、和子の人気にあやかり、ひと儲けを企む輩が集まり始めた。交渉は主に長兄宅で行われた。一番、被害を蒙ったのは長兄の嫁・歌子だった。
「ある日、沖縄の石垣市に住む伊波南哲という作家が来て、戦争の悲惨さを映画にして伝えたい、和子を東京へ連れて行くと言いましてね。学校も出ていず、教養も無い和子が騙されてはいけないと主人が付いて行ったんです。和子は2年後に戻ったのですが、主人から音沙汰が無くなり、帰って来たのは13年後でした」
和子の上京には多くの興行師がからんでいた。歌子の記憶では関西から来た「重宗」と名乗る興行師が「和子をスターにしてやる」と同行した。
昭和27年11月20日、和子ら一行は横浜港に上陸。100人を越える報道陣が取り囲み、和子は記者会見に応じた。
「私が悪い女だから、沢山の男が命を失ったように言われています。それはみんな違うのです。アナタハンの真相を知ってもらうために来ました」
会見を終えた和子は、その足で東京に出てストリップ劇場の舞台に立っていた。銀座のコニー劇場を皮切りに、新宿フランス座、浅草ロック座、百万弗劇場と相次いで出演し、裸を晒した。派手な衣装を身に着けた和子は、その世界での「女王様」に変わっていた。人気は上々で1日3万円のギャラが支払われたと囁かれたが、実は和子の財布は興行師が握っていた。
昭和28年4月には和子自ら主演した映画「アナタハンの真相はこれだ」(=新大都映画=全7巻)が封切られた。契約金は30万円。当時はサラリーマンの月給が5000円に満たない時代。大変な金額なのだが、実はこれも和子の手には渡っていない。
そして、この映画が不出来で不評だったため「女王様」の影は薄れていく。封切りから1ヶ月後、和子ら一行は映画フィルムを抱えて東北巡業の旅に出る。背森、岩手、秋田、福島と回ったが「海鳳丸」の母港がある宮城県には立ち寄っていない。
アナタハンで「海鳳丸」の乗組員が6人も死亡した事実を和子は知らぬはずが無かった。最後の夫S(海鳳丸の水夫)は和子が島を脱出した後、2人を殺害した罪の「裁判」で斬首刑に処せられ、島での最後の犠牲者となった。その遺族たちのいる街でアナタハンの腰振りダンスを披露することは、さすがの和子も憚かられたのだろう。その後は富山、福井と回ったが、アナタハンでの犠牲者や遺族は居なかった。
「カズちゃんはどんなに苦しい状況に置かれてもいつも陽気に振舞っていました。愚痴や他人の悪口を決して言わず、周囲の人に気を遣っていました。あの子はそういう性格なんです。アナタハンでもそれが災いしたんでしょう」
と歌子。
だが、巡業中の和子は、次第に酒とギャンブルに溺れていった。競輪や競馬に熱中し、その日のギャラを博打で吐き出す始末だった。そんな荒んだ生活からいつ脱出できるのか、和子の心にアナタハンで味わった不安と焦燥が孕んでくる。この時の気持ちを和子は、後に伊波寛一に打ち明けていた。
「私は馬鹿よね、帳場さん。東京へ行って、私は騙されている、利用されているだけと分かっても、男の言い成りになってしまうの。いくら稼いでもお金は男(興行師)がみんな持っていってしまって。でも、夫婦同然の関係になってしまったからもう仕方ないとあきらめたわ。寄ってくる男たちは私を喰い物にする人としか考えなくなってしまった。それが辛いのよね……」
地方巡業に出て1年2ヶ月後の昭和29年8月15日、興行師と決別した和子は“旅芸人の”道を捨て、大阪の労働者の町、西成区へ流れた。終戦から9年経ていたが、まだ大半が焼け跡で小さなBARやスタンド、居酒屋が数軒あるだけの鄙びた街だった。
4日後、和子はその一角にある場末の旅館で女中として働き始めた。女中といっても男客の“お相手”が仕事だ。夜は酒に浸る日々が続いた。
西成に来てから2ヶ月後の10月17日午前2時頃、スタンドで知り合った男に石で顔と頭を殴られるという傷害事件に見舞われた。血みどろになった和子は病院に運ばれたが、沖縄の住所や氏名から「アナタハンの女王」比嘉和子と判明してしまい、再びマスコミに注目されることになる。この時のマスコミの論調は「転落の女王」に変わっていた。
この事件を機に沖縄へ帰る決心がついた。名護に戻った和子は再び「南栄楼」に勤めた。和子の人気は以前にも増して沸騰した。地方巡業で磨いた場末のストリップは南栄楼の名物にもなった。
しかし、和子は、もはや歯止めが利かなくなっている不安と焦燥を、酒量を増やすことでごまかしている自分に気付き始めていた。これは、あのアナタハンで感じたものに似ていた。
堕ちていく和子を見かねた知人が一人の男性を紹介する。和子より11歳年上で2人の連れ子がいたが、腕の良い真面目な荷車職人だという。
和子は少し躊躇いの色を見せた。自分も継母に育てられ、どうしても馴染めなかった過去を思い起こしていた。その継母になり、子供たちと幸せに暮らすことが果してできるだろうか。一人で決めかねた和子は、慕っている南栄楼の「帳場さん」に相談した。
「いい話じゃないか。あんたは周囲のことばかり気を遣ってきた。それで周囲が幸せになれば自分はどうなってもいいという考えだろう。それがかえって誤解を生んだんだよ。これからは自分の幸せだけを求めても罰は当たらないよ」
和子にそう助言し、再婚を勧めたと、伊波寛一は回想した。
昭和33年10月30日、めでたく結婚し、和子は新しい姓に変わり、妻となり、母となった。彼女は34歳になっていた。
結婚後まもなく、当時の名護高校(後に移転)の向かい側で和子は「たこ焼き屋」を開いた。学校の傍とあって、店は大繁盛した。夏にはかき氷が飛ぶように売れた。店の合間には夫の仕事を手伝う仲睦まじい夫婦の光景もよく見られた。
和子が心配した2人の連れ子とは人も羨む仲になった。雨が降り出すと、傘を持って母親を迎えに行く子供たちの姿が近所では何度も目撃された。長女が結婚しても、家族が行き来して食事を共にすることも少なくなかったと近所の住人は言う。和子にとっては、物心ついてから初めて味わう家族団欒だった。
人並みの幸せな人生をようやく掴んでから16年後の昭和49年3月13日、和子は脳腫瘍でこの世を去った。波乱に富んだ51年の生涯だった。
「義姉さんに苦労かけてしまった。許してな」
義姉の歌子に残した和子の言葉。
「継母だから、愛情が足りなくて済まなかったね」
これが和子の最期の言葉だった。
女であるが故に起きた、性と生の惨劇。生還後もその烙印に翻弄された和子の半生。「男たちが悪いんでしょ」という和子の叫び。妻として、母として、女として生の淵を辿った和子は、その数奇な「女の宿命」を最期に受け入れたのだろうか……。
今、和子は、時折米軍機が爆音を落とす、名護市内の小高い丘の墓地にひっそりと眠っている。
(文中敬称略)
前編【「アナタハンの女王」と呼ばれた女性の生涯 日本兵32人に囲まれ、そのうち5人と“結婚”、4人は不審死か別の男に殺害され…異様な孤島生活とは】からのつづき
秋本誠
デイリー新潮編集部