6浪して医学部を目指した竹歳さん。親に対する想い、長い受験生活についてお話を伺いました(写真: ペイレスイメージズ1(モデル) / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は、4浪で大阪歯科大学に合格するも、医学部に合格するためにさらなる浪人を決意。その結果6浪で関西医科大学に合格し、卒業後の現在は開業に向けて準備を進めている竹歳秀人(たけとし ひでと)さんにお話を伺いました。
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親の敷いたレールに乗ることは、あまりいいイメージがないかもしれません。
今回お話を聞いた竹歳秀人さんも、親が医学部・歯学部への進学を希望し、その望みをかなえるために6浪を経験しました。
しかし彼は今、親に感謝していて、現在の自分の人生も「幸せな人生を歩めている」と語ります。
6浪して医師になった彼は、その長い浪人生活をいま、どのように人生に生かしているのでしょうか。彼の人生に迫っていきます。
竹歳さんは、大阪府・大阪市旭区に、歯科医師の父親と専業主婦の母親のもとに生まれました。
地元の小学校に通っているときの成績は普通だったそうですが、その中でも算数は9割程度の得点を取れる得意科目でした。
「地元の塾に週2回通って、勉強していた」彼は、小学4年生ごろになると中学受験を視野に入れ始め、受験用の問題集を塾で見てもらうようになります。
「進学塾でがっつり勉強をして受験をする、という感じではありませんでした。大阪の名門公立である北野高校を出ている父親の『私立よりも公立のほうがいい』という意向が大きいです。兄が通う大阪星光学院なら行かせてくれると言ったので受験したのですが、受からずに地元の公立中学校に進学しました」
旭東中学校に進学した竹歳さんは、父親含む周囲の大人から、その当時住んでいた第三学区の名門高校である大手前高等学校を目指して頑張るように言われていたそうです。
しかし、小学校から継続して、地元の塾に通い続けたものの、成績は真ん中あたりから上がらなかったそうです。
途中で大手前高等学校を断念した竹歳さんは、近畿大学付属高等学校や茨田(まった)高等学校などのラグビーに力を入れている高校への進学希望を面談で伝えていたそうですが、医師か歯科医になってほしかった父親に反対されて断念します。
最終的には、大手前高等学校と同じ学区の高校である大阪市立東高等学校(現: 大阪府立東高等学校)に進みました。
彼は過去を振り返りながら、高校までの自身の将来の目標に関しては「医師」「技術者」「ラグビー」という3つの軸があったと語ります。
「今はなんともないのですが、小さい頃から健康診断のたびに心雑音で引っかかり、いろんな病院に行っていたんです。その際に行った吹田市の国立循環器病研究センターが、とにかく立派な建物の病院だったから、そこで働くのもいいなと憧れていたんですね。
あとは飛行機や自動車が好きだったので技術者になりたいとも思っていましたし、中学からラグビーを始めていたので、アフター5でもラグビーができる会社はないだろうかと考えていました。その3つの軸のどこかのルートに進めればいいなと考えていました」
高校に進学してからの竹歳さんは、その軸の1つであるラグビー部の活動にがっつり打ち込みます。
「勉強は定期試験の1~2週間前からやっと始める感じで、成績は高校3年生までずっと下のほうから真ん中だった」と語るほど、暗くなるまで精力的に部活をしていた彼が「3つの軸」から医師に目標を絞ったのは、高校3年生の夏の三者面談がきっかけでした。
「父親が担任の先生に『この子は6年遊んでいたから、6年かかると思うんですけど、医学部に行ってほしいと思っているんです』と言ったんです。今まで将来を先送りにしていましたが、このまま親に逆らって1人で家を出るわけにもいかないので、確実に浪人するであろう現実を受け入れて医師になろうと思いました。幼少期に自分が国立循環器病研究センターで診察を受けたこともあって、医学部で心臓のことを学ぼうと決心したんです」
こうして彼は心臓血管外科がある近畿大学を第一志望に設定して頑張ります。しかし、部活漬けの日々を送っていたために、やはり現役時のセンター試験の点数は400/800点をわずかに上回る程度。
結局、近畿大学の公募推薦と一般入試、大阪医科大学(現:大阪医科薬科大学)、関西医科大学、兵庫医科大学、大阪歯科大学を受けて全滅しました。「医師になると覚悟を決めた」彼は、浪人を決断します。
1浪目での逆転合格を目指した彼は両国予備校の大阪校に寮生として入りました。彼は予備校で、9時から16時ごろまで60分授業6コマをこなす日々を送ります。しかし、それで勉強は終わりではなく、むしろ寮に帰ってからが本番でした。
「現役時から生活が一変しました。日中の授業が終わって寮に帰りご飯を食べてからは、寮長さんが定期的に巡回に来るので、みんな18時~24時までずっと勉強していましたね」
しかし、予備校という環境で生活習慣を見直したことと、優秀な仲間に出会えたことで彼はこの1年で飛躍的な成長を遂げます。
「うちの高校からは医学部を受験する子がいなかったのですが、予備校には各都道府県の進学校に通っていた子がたくさんいました。そこで、彼らの意識の高さにすごく驚いたんです。本気で医学部受験をしようとしている人たちと初めて知り合って、あぁ、自分は今までの18年間、人生を舐めていたなと気づいたんです」
それからは毎回、復習テストのための勉強を徹底するようにし、毎日10時間をゆうに超える猛勉強をこなした竹歳さん。
ストレスで過食し、63キロだった体重が85キロに増えるほどの過酷な生活を送りました。それでも、今まで勉強しなかった分を1年では取り戻せず、この年も前年より成績は伸びたものの、関西の私立大学の医学部・歯学部を5つ受けて全滅しました。
寮生活はこの年で断念し、2浪目からは寮をやめて、YMCA予備校の土佐堀校に移った竹歳さん。1浪目でレベルの高い仲間に囲まれて猛勉強した経験は、彼の意識を劇的に変えました。
YMCA予備校に行ってからは、物理の名物講師・服部嗣雄先生の指導方法が彼にぴったり合い、物理の成績がとても伸びたそうです。そうした理由からも、彼はこの予備校で、しばらく勉強を重ねることに決めました。
「2浪から4浪までは、朝の8時前後に予備校に着いてから自習室で21時までずっと勉強を続けていました。毎年少しずつセンター試験の成績が伸びたものの、3浪まではずっと400/800点台で、医学部4校と大阪歯科大を受け続けてずっと落ち続けていたんです。
しかし、地道に勉強を続けていたので、4浪の1月に突如成績がポーンと上がり始めたんです。4浪で受けた5回目のセンター試験で、初めて500/800点台を突破しました」
4年間の我慢の勉強が身を結んだ竹歳さんは、この年も複数の医学部と歯学部を受けます。その結果、模試でC判定が出るようになっていた大阪歯科大学についに合格しました。
父も兄も大阪歯科大学の出身だったこともあり、家族も安心し、この合格の報せに肩の荷を下ろしたようです。しかし、彼の中での挑戦はまだ終わっていませんでした。
「大阪で歯科医をやるならこの大学だと思っていましたが、この結果で自信がついて、もう1年やったら医学部もいけるんじゃないと思ったんです。自分の目標はやっぱり医学部に行き、心臓について学ぶことでしたから。そこで家族に相談して、父には反対されたのですが、兄貴がやりたいことをやったほうがいいと言ってくれて、浪人を続けることができました」
金銭面を心配する親には、「できれば国公立に行ってくれ」という条件で、次の年の挑戦を許してもらいました。
不退転の覚悟で挑んだ5浪目は、真面目に授業に出て勉強を続けたこともあり、ついにセンター試験で600/800点台を獲得します。彼はこの結果を受けて、前期試験で山形大学、B日程(現:後期日程)で秋田大学の医学部、滑り止めで関西医科大学と大阪医科大学を受験しました。しかし、結果は全落ち。この結果にはさすがに彼も堪えたようです。
「でも、自分で選んだ道なんだから、突き進まないといけないと思っていました」
毎年着実に物理の偏差値を伸ばし、70にまで到達していた彼は、ほかの科目に勉強時間をさくため、6浪目に突入するにあたって大きな決断をします。それは、予備校を変えることでした。
YMCA予備校から駿台に学ぶ場所を変えた竹歳さん。4年間通い続けた勉強場所を変えたことも大きな決断ですが、この年、彼は何としても医学部に合格するため、勉強のやり方も脳に定着させることに重点を置いた勉強法に変更しました。
彼は自分が前年まで落ち続けた理由を「講義で聞いた内容を脳に定着させる時間が足りてなかった」ことと考えます。
「自分は講義型の授業に無駄を感じ始めていました。60分6コマの授業に40週間毎回出ても、試験でアウトプットできないと意味がないということに気づけませんでした。3浪目くらいからは授業を切って、脳に定着させる時間をもっと取るべきだったと思いました」
5浪目までのやり方を反省した竹歳さんは、朝早く予備校に行って、夜遅くまで勉強を続ける生活リズムこそ変えませんでしたが、勇気を出して授業をバンバン切ったそうです。
「授業に出ずに食堂で、YMCAでもらった4年分のテキストをひたすら解いていました。物理はもう、全統模試で70を切ることはなかったので、その勉強時間を前年より減らして、英語、数学、化学の勉強時間を増やしました。そうすると、愛媛大や山形大などの医学部では、B判定が出るようになりましたね」
ついにこの年こそ、自分に合った勉強法で合格をつかめるはずだと思った竹歳さん。しかし、肝心のセンター試験では難化した数II・Bでつまずいてしまい、638/800点と、8割を切ってしまいました。
「690/800点はないと医学部は厳しいので、前期で愛媛大、後期で山梨大の医学部を出したのですがダメでした。山梨大に至っては足切りを食らってしまいましたね」
絶望の7浪目突入か……とも思われたのですが、竹歳さんはセンター試験が終わってすぐ、赤本を買いに行って、次の日から関西医科大学の対策に一点集中する決断をくだします。
関西医科大学(写真:公式サイトより)
「毎日やっているうちに問題の傾向が読めてたので、引っかかるかなと思っていた」と思った彼は、ついに6浪にして、初めて医学部に合格します。この結果を受けての反応は「やっと終わった……」という安堵だったようです。
「後から生物の先生に言われて知ったのですが、合格者の中でも20番以内という成績優秀者だったそうで、驚きました。『6年かかってもいいから医学部に行かせてやりたい』と父親が言ってましたが、まさか本当に6浪するとは思いませんでした……(笑)」
6年間努力し続けて、成績を伸ばし続けた竹歳さん。浪人してよかったことについて聞くと、「予備校で違う世界を知れたこと」、頑張れた理由については、「家庭環境のおかげ」と答えてくれました。
「高校生活では部活を真面目にしていたので、勉強面では定期テストに全振りしていました。でも、浪人して環境が変わって、初めて医学部を受ける集団の熱量に触れられたことが、自分の人生にとってすごくよかったと思います。
大学のレベルを下げてでも現役で受かりに行くくらいなら、1年間勉強に全振りすることも人生においてそんなに悪いことではないと思います。1浪くらいはしたほうがいいと自分の子どもたちにも伝えています」
大学に入ってからも彼は勉学に励み、関西医科大学から出る奨学金で学費を賄いながら、留年せずに大学を卒業します。
国家試験では1浪してしまったものの、試験に受かってからは大学に残って初期研修をしつつ、医師になって各地の救急病院を転々とする生活を続けました。医師になって20年が経った2024年の1月に開業予定とのことです。
「私は親が敷いたレールを歩んできましたが、今のところ幸せな生活を送れていると思います。かつて医学部・歯学部しか行かせないように言っていた父に、時には悩み、反発しようともしました。ですが、いまは悔しいけど、半分は親の言うとおりだったなと思います。医師になるのを悩んでいる人や、医学部を目指して浪人をしている自分と同じような境遇の人には、そんなに悪い仕事ではないよと伝えたいですね。
もちろん、病気や出血、肉眼で見ることができる臓器に関わるのが怖くて耐えられないという個人の適性に立ち向かうのは難しいかもしれませんが、医師という仕事はいろんな人の人生と関わるので、いつの間にか自分の人生も豊かになる仕事だと思います」
親のレールに乗ったうえで、現在までずっと努力を積み重ねてきた竹歳さんだからこそ、今、自分の人生を自分の力で切り拓けているのだと感じました。
竹歳さんの浪人生活の教訓:「たとえ将来に悩み選択を不安に思っても、目の前のことにがむしゃらに取り組めば、結果的に満足する人生になる」
(濱井 正吾 : 教育系ライター)