後世にまで語り伝えられる事件にはそれぞれ理由がある。被害者の人数や犯行の手口・動機などの事件のありさま、被害者・加害者の身元や事件の背景・時代状況……。しかし、今回取り上げる「三菱ケ原のお艶殺し」は、なぜ「名を成した」のかよく分からない。
【画像】丸の内で首を絞められノドを裂かれて…明治事件史に残る“薄幸の人妻”・お艶の写真をみる
女形役者くずれの「ワル」が人妻をたらし込み、別れ話のもつれから殺したとされる単純な殺人事件。被害者の「お艶」は幼いころから養女に出されるなど、苦労を味わったあげく、結婚した相手は犯罪に手を染めて収監。のちに愛し合った男も犯罪常習者で、最後は丸の内の原っぱで男に首を絞められ、ノドを裂かれて捨てられた。相手の男の供述からは、お艶が人生に絶望していたことがうかがえる。
事件はいったん迷宮入りとなり、10年後、明治から大正に時代が変わった中で、別件で収監中の男が自供して解決した。そんな、どうしようもない男による薄幸の女の殺人がなぜ明治時代屈指の著名事件になったのか。理由の1つは、のちに文豪と呼ばれる作家・谷崎潤一郎が同名の小説『お艶殺し』を事件の数年後に発表。舞台に何度も取り上げられたことのようだ。しかし、はたしてそれだけの理由で事件が当時の人々の心を捉えたのだろうか――。
今回も当時の新聞記事は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全2回の1回目/後編を読む)
◆ ◆ ◆三菱ケ原の溝で見つかった、血に染まった若い女の遺体 事件の発覚は1910(明治43)年11月11日早朝ということになっているが、新聞各紙の中で徳富蘇峰が創刊した國民新聞だけは10日深夜としている。発見者も陸軍砲兵工廠(兵器、弾薬などを製造・修理する工場)の工員や警官とした新聞もあるが、警察の正史である『警視庁史第1(明治編)』(1959年)の表記に従って「中央郵便局の配達夫」とする。 報道は報知の11日付夕刊が最も早く、他紙は12日付朝刊。当時の新聞は書き方のセオリーがなく、表現がバラバラだが、現在の記事の形式に近い12日付東京日日(東日=現毎日新聞)を見よう。〈 三菱原に女の屍(死)体 十日深更の殺害 手掛は懐の葉書 11日午前6時ごろ、丸の内郵便局配達夫が同所の古河鉱山会社へ郵便を配達し、その足で八重洲町1の1の三菱の原に差しかかったところ、角から2間(約3.6メートル)ばかりの小さな溝の中に、年若い女が血に染まって投げ込まれているのを発見。びっくりしてすぐ和田倉門外の交番へ届けた。 日比谷分署に急報され、東京地方裁判所から前田予審判事、金山検事、警視庁からは太田第一部長、武東刑事課長、和知医師らが現場へ出張。死体を検視した。髪は銀杏返し(若い女性の髪型)に結び、着衣は瓦斯大島(火を通して滑らかにした綿織物)の大絣の羽織に黄と紺と茶の瓦斯八丈(火を通して黒八丈に似せた綿織物)の格子の袷(裏地の付いた着物)に白木綿の襦袢(和服用下着)を重ね、メリンス薄茶地に紅入り紅葉模様の帯を締め、背は低く、顔は少し面長で、美人というほどではないが、23~24歳に見え、色白。〉三菱ケ原の風景(『写真・東京の今昔』より) 着衣などの描写が非常に細かいが、まだ女性は和服が圧倒的だった時代、身元を割り出す手がかりにするつもりだったのだろう。記事は続く。〈 溝の中にうつ伏せになり、左手は後ろにねじ上げられたうえ、首に手ぬぐいを巻き付けられ、頸部に2寸(約6センチ)ほどの突き傷があった。たぶんこれが致命傷になったらしく、無残な最期を遂げていた。所持品は金入れ(財布)と葉書き3枚(使用済みのものもあり)のほかは何もなく、風体から察すると娼婦らしいが、白フランネル(太い糸を使った毛織物)の腰巻(和服の一番内側の下着)をしているのを見れば、あまり堅気ではない家の女中らしくも見える。付近には被害者の物らしい高下駄が揃えて捨ててあり、工事で地面を掘り下げた近くには、激しく格闘したらしく、雨の後の泥の中に足跡がまだらにあり、血の沁みた桜紙(再生和紙)と半紙のような物と、泥に汚れた白足袋が落ちていた。〉 手ぬぐいはハンカチの誤り。当時の新聞らしく、事実関係は新聞によって微妙に異なり、現場の表記も違う。『警視庁史第1(明治編)』と現在の新聞表記に従って以下「三菱ケ原」で統一する。記事はさらに、事件の核心に関わる遺体の状況を描写する。〈 恥ずかしめられたか男に挑まれたかの形跡があり、帯と下締め(長襦袢の帯)は鋭利な凶器で切断され、羽織の右の紐付けは引き裂かれていた。この場所で殺害され、2間ほど引きずられて溝の中に投げ込まれたようだ。手掛かりとなるほどの遺留品がないため、加害者、被害者とも何者か判然としない。傘を持っていないところからすれば、前夜11時以降の凶行であることは間違いない。現場は昼でも往来が頻繁でない寂しい場所であり、午後11時以降、女性が一人歩きなどするはずはなく、どこから見ても愛人か、彼女に思いを寄せる男におびき出され、殺害されたものだろう。〉被害者はまじめで穏やかな女性・お艶と判明 東日は初報と同じ紙面に「被害者判明」の記事を載せている。日本髪に和服の写真もある。〈 前記惨劇の被害者は、原籍滋賀県蒲生郡岡山村(現近江八幡市)、神田区(現東京都中央区)旭町8、木下忠正(23)の妻おつやと判明した。つやは秋田県雄勝郡湯澤村(現湯沢市)、土田(上田の誤り)春次郎の次女で、9歳の時、日本橋茅場町の仲買商、高井商店の番頭である神田区旭町5、渡邊惣七(63)の養女にもらわれて養育された。 昨年9月、小石川区(現文京区)小日向水道端町の子爵・谷壽衛氏方に雇われたがうまくいかず、今年1月、同家から暇をとり、2月上旬から牛込区(現新宿区)西五軒町、岩佐太熊方に雇われて真面目に勤めるうち、いい嫁入り話があるとして9月25日、同家を辞した。岩佐と近くの産婆・越野でんが仲介して9月30日、木下と夫婦になったが、性格は穏やかであまり他人とも口を利かないほど。愛人などなさそうだという。〉 名前を「ツヤ」と書いた新聞もあるが、一般に通っているうえ『警視庁史第1(明治編)』も表記している「お艶」で以後統一する。木下とは入籍はしていなかったようだが、貧しい農家の娘が養女に出され、奉公を続けているうち、嫁入り先が決まってこれからは幸せに、と思われた。「ところが、夫は放蕩者のうえ前科数犯の男」「ところが、夫木下は非常な放蕩者のうえ前科数犯の男。結婚後、間もなく監獄入りすることになるが、それは10日の本紙で詳細報道した」と東日は書く。その通り、2日前の11月10日付同紙には「不正看守の上前を跳ねる」の見出しの記事が見える。〈(木下の)実家は相当な資産家で、13歳のとき上京。浅草橋の金物商店に雇われ、昨年春、年期を勤め上げて本所区(現墨田区)原庭町に金物店を開くに至った。が、心が緩んで浅草公園の白首(娼婦)を引き入れてぜいたくをしたため、すぐ家計に困り、詐欺行為をして懲役3カ月に。11月に満期出所後、現住所に転居。近くの魚商・堺某の養女・さだ(19)を嫁にもらい、アルミニウム製器具の行商をしていた。 そのうち、いとこに当たる市ケ谷監獄の看守で購買係の男が米穀店や石炭店、石油店の店主から贈賄して数千円の蓄財をし、20軒以上も貸家を持っていることを聞き知ってから、その上前をはねて不当な利益を得ていることが万世橋分署の刑事が探知。3日、関係者を引致して取り調べ、9日、検事局へ送った。〉 お艶や養父の名前が間違っているが、お艶はここで初めて夫が不正の男と知ったのだろう。所帯をたたんで養父の家に戻ったのは9日のこと。 そして、東日の12日の記事は事件当夜に至る。〈 10日夜は養父母が外出。お艶と養女(実際は惣七の妻おたねの連れ子)お清(23)の2人で留守番をしていた。午後7時半ごろ、年齢24~25歳で縞の羽織に兵児帯(柔らかい生地の帯)を締めた面長で色白の男が訪ねてきて「お艶はいるか」と鷹揚に言葉をかけ、「俺は警視庁の刑事だが、夫木下の件で取り調べる必要があるから同道しろ」と言った。お艶はいったん戸外に出たが、また家に入り、お清に「警視庁まで行ってくるから、ちり紙と手ぬぐいを出してくれ」と頼み、それを懐に入れて家を出た。錦町から2人で電車に乗り和田倉門で下車したところまでは確認されているが、それから先はどのようにして惨殺されたかは不明。〉 記事は続いて身元判明のいきさつを「加害者は偽刑事」の小見出しで書いている。〈 11日朝になってもお艶が帰宅しないため、惣七は身を案じて11日午前10時ごろ、警視庁に訪ねて行ったが「そんな者は来ない」と言われて途方に暮れた。家に帰る道すがら、神田署に立ち寄って捜索願を出したことから、さては三菱ケ原の被害者ではないかとして調べた結果、身元が判明した。犯人は被害者と何の関係もない者らしく、あるいは夫が監獄入りした新聞記事を見て、偽刑事になってお艶を呼び出し、みだらな振る舞いをして抵抗されたため無残に殺害したのではないかとの見方が最も根拠があるようだ。〉殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮” 東日の初報は「美人というほどにはあらねど」(原文のまま)としたが、12日付で國民は「三菱原に美人の屍體(死体)」、萬朝報は「三菱原の死美人」を見出しにとった。本文中にはそれに該当する記述がないが、殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮”が反映されているようだ(「美人の首なし死体」という表現もあったという)。『警視庁史第1(明治編)』も発見段階で「20歳ぐらいの美人」と記述している。この時点では被害者と加害者の関係は否定され、警視庁は偽刑事に呼び出されたことを重大視して捜査を進めた。13日付萬朝報も「お艶はおとなしい無口な女で、男の話などすると逃げるぐらいうぶでしたから、男ができて、そのために殺されたなどということはないと思います」というお艶の伯母の談話を載せている。養母・おたねが最初に疑われた 嫌疑者は次々登場した。最初に疑われたのは養母おたね(「為」「タメ」と誤記した新聞も多い)。12日発行13日付報知夕刊は「家庭の不和」の小見出しで書いている。同紙は11日朝に警視庁に行ったのはおたねだったとして、「(捜査当局は)そのまま警視庁に留め置いて帰宅させず、ひそかにおたねとお艶の関係について協議を重ねている。これは、あるいはお艶が殺害される前夜、面白くない家庭の不和に角突き合わせた揚げ句、不詳の男に誘い出されて今回の惨劇となったとの説もある」とした。うわさのたぐいのようだが、同じ報知は「冷遇せらる」の小見出しで家族関係について概要を次のように記述する。〈被害者お艶の家庭は養父、後妻、その連れ子との4人暮らしだが、とかく家庭内に風波が絶えず、お艶は前の養母と死に別れ、後妻おたねが乗り込んでからは、見るもいじらしい過酷な扱いに涙の乾くひまもなく奉公に出た。おたねはお艶が憎くてたまらず木下忠正に前科があるのも承知で無理にお艶を嫁がせた。木下が入獄したため、お艶は泣く泣く家に戻り、針のむしろの苦しさをじっと我慢していたが、当夜は何かで言い争い、お艶が機嫌の悪いおたねの顔から目をそむけていたところに怪しい男が入ってきて誘い出した。〉 つじつまの合わないところも強引に疑惑を養母に結び付けている印象だ。おたねは12日中に帰宅を許されたが、13日付萬朝報の記事で「私がお艶を虐待したとか言って疑いをかける人もあるようですが、そんなことをしてどうして夫が黙っていましょう。ものの黒白は最後には分かると思います。なさぬ仲とは言っても、親子と名の付くうえは決して憎いとは思いません」と涙ながらに語った。夫の酷評を伝える新聞も 一方、同じ日付の時事新報は「不行跡な木下忠正」という小見出しの記事で、木下は「3度まで妻を替えたほどの男で、彼を知るものは誰も快く言葉を交わすことはないという」との酷評を伝えた。 この年1910年は条約が調印されて日本が韓国を併合。明治天皇暗殺を図ったとして思想家・幸徳秋水らが検挙される「大逆事件」が発生していたが、世の中はおおむね平穏だった。「美人の殺人事件」で現場周辺は大騒ぎ。13日付東京朝日(東朝)は、不鮮明だが「現場附近の人出」の説明が付いた、人でごった返している様子の写真を掲載。 同日付時事新報は「三菱原の賑(にぎわい)」の小見出しで「三菱ケ原の現場は警視庁をはじめ、各署の刑事らが犯人捜査上の必要から、12日も入れ代わり立ち代わり出向いて検分する一方、朝からいい天気でもあり、通行人がさまざまに寄り道して見物する姿が非常に多く、夕刻まで絶えずにぎわった」と伝えた。同日付都新聞(現東京新聞)も「物見高い野次馬連がゾロゾロと見物に押し寄せ、付近は時ならぬ雑踏を極めた」と書いた。事件発生地は、現在は日本のビジネスの中心地である丸の内の原っぱ「三菱ケ原」は通称だったが、当時の人たちは皆そう呼んでいた。『東京商工会議所八十五年史上巻』(1966年)によれば、前身の東京商業會議所が麹町区有楽町1丁目1番地に本拠を置いたのは1899(明治32)年。用地が決まったのは1896(明治29)年だったが、「当時、三菱ケ原は狐狸(キツネとタヌキ)の出没するといわれた草茫々(ぼうぼう)の一帯であった」という。〈 そもそもこの地域がいつごろから三菱ケ原と呼ばれるに至ったかを考えると、明治4(1871)年の官版東京大絵図によると、和田倉門、馬場先門から日比谷辺りの堀端一帯には、兵部省のほか大名屋敷、御用邸などが櫛比(しっぴ=隙間なく並ぶ)して、広い草原のようなものは見られなかった。その後、これらの大名屋敷を改造した(陸軍)兵営が宮城の守りとしてこの地域を占めたが、明治20(1887)年ごろから、この兵営を移転して麻布、赤坂に赤レンガのモダンな建物が造られることとなった。 ところが、当時の陸軍はこの兵営建設費150万円(現在の約95億円)の調達ができず、窮余の結果、政府は松方(正義)大蔵大臣をして三菱の(2代目)社長・岩崎彌之助を説いて、一帯の地域を190万円(同約120億円)で買い取らせた。兵営が取り払われた跡は雑草の茂るに任され、丸の内はついに一望茫々の原野と化した。人力車夫が白昼ここで賭博にふけったというので「賭博ケ原」の異名が起こったほどである。三菱ケ原の名称が始まったのは、大体国会開設(1890=明治23年)の前後とみられる。(『東京商工会議所八十五年史 上巻』)〉『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。 しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。 事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
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事件の発覚は1910(明治43)年11月11日早朝ということになっているが、新聞各紙の中で徳富蘇峰が創刊した國民新聞だけは10日深夜としている。発見者も陸軍砲兵工廠(兵器、弾薬などを製造・修理する工場)の工員や警官とした新聞もあるが、警察の正史である『警視庁史第1(明治編)』(1959年)の表記に従って「中央郵便局の配達夫」とする。
報道は報知の11日付夕刊が最も早く、他紙は12日付朝刊。当時の新聞は書き方のセオリーがなく、表現がバラバラだが、現在の記事の形式に近い12日付東京日日(東日=現毎日新聞)を見よう。
〈 三菱原に女の屍(死)体 十日深更の殺害 手掛は懐の葉書

11日午前6時ごろ、丸の内郵便局配達夫が同所の古河鉱山会社へ郵便を配達し、その足で八重洲町1の1の三菱の原に差しかかったところ、角から2間(約3.6メートル)ばかりの小さな溝の中に、年若い女が血に染まって投げ込まれているのを発見。びっくりしてすぐ和田倉門外の交番へ届けた。

日比谷分署に急報され、東京地方裁判所から前田予審判事、金山検事、警視庁からは太田第一部長、武東刑事課長、和知医師らが現場へ出張。死体を検視した。髪は銀杏返し(若い女性の髪型)に結び、着衣は瓦斯大島(火を通して滑らかにした綿織物)の大絣の羽織に黄と紺と茶の瓦斯八丈(火を通して黒八丈に似せた綿織物)の格子の袷(裏地の付いた着物)に白木綿の襦袢(和服用下着)を重ね、メリンス薄茶地に紅入り紅葉模様の帯を締め、背は低く、顔は少し面長で、美人というほどではないが、23~24歳に見え、色白。〉
三菱ケ原の風景(『写真・東京の今昔』より)
着衣などの描写が非常に細かいが、まだ女性は和服が圧倒的だった時代、身元を割り出す手がかりにするつもりだったのだろう。記事は続く。
〈 溝の中にうつ伏せになり、左手は後ろにねじ上げられたうえ、首に手ぬぐいを巻き付けられ、頸部に2寸(約6センチ)ほどの突き傷があった。たぶんこれが致命傷になったらしく、無残な最期を遂げていた。所持品は金入れ(財布)と葉書き3枚(使用済みのものもあり)のほかは何もなく、風体から察すると娼婦らしいが、白フランネル(太い糸を使った毛織物)の腰巻(和服の一番内側の下着)をしているのを見れば、あまり堅気ではない家の女中らしくも見える。付近には被害者の物らしい高下駄が揃えて捨ててあり、工事で地面を掘り下げた近くには、激しく格闘したらしく、雨の後の泥の中に足跡がまだらにあり、血の沁みた桜紙(再生和紙)と半紙のような物と、泥に汚れた白足袋が落ちていた。〉
手ぬぐいはハンカチの誤り。当時の新聞らしく、事実関係は新聞によって微妙に異なり、現場の表記も違う。『警視庁史第1(明治編)』と現在の新聞表記に従って以下「三菱ケ原」で統一する。記事はさらに、事件の核心に関わる遺体の状況を描写する。
〈 恥ずかしめられたか男に挑まれたかの形跡があり、帯と下締め(長襦袢の帯)は鋭利な凶器で切断され、羽織の右の紐付けは引き裂かれていた。この場所で殺害され、2間ほど引きずられて溝の中に投げ込まれたようだ。手掛かりとなるほどの遺留品がないため、加害者、被害者とも何者か判然としない。傘を持っていないところからすれば、前夜11時以降の凶行であることは間違いない。現場は昼でも往来が頻繁でない寂しい場所であり、午後11時以降、女性が一人歩きなどするはずはなく、どこから見ても愛人か、彼女に思いを寄せる男におびき出され、殺害されたものだろう。〉
東日は初報と同じ紙面に「被害者判明」の記事を載せている。日本髪に和服の写真もある。
〈 前記惨劇の被害者は、原籍滋賀県蒲生郡岡山村(現近江八幡市)、神田区(現東京都中央区)旭町8、木下忠正(23)の妻おつやと判明した。つやは秋田県雄勝郡湯澤村(現湯沢市)、土田(上田の誤り)春次郎の次女で、9歳の時、日本橋茅場町の仲買商、高井商店の番頭である神田区旭町5、渡邊惣七(63)の養女にもらわれて養育された。 昨年9月、小石川区(現文京区)小日向水道端町の子爵・谷壽衛氏方に雇われたがうまくいかず、今年1月、同家から暇をとり、2月上旬から牛込区(現新宿区)西五軒町、岩佐太熊方に雇われて真面目に勤めるうち、いい嫁入り話があるとして9月25日、同家を辞した。岩佐と近くの産婆・越野でんが仲介して9月30日、木下と夫婦になったが、性格は穏やかであまり他人とも口を利かないほど。愛人などなさそうだという。〉 名前を「ツヤ」と書いた新聞もあるが、一般に通っているうえ『警視庁史第1(明治編)』も表記している「お艶」で以後統一する。木下とは入籍はしていなかったようだが、貧しい農家の娘が養女に出され、奉公を続けているうち、嫁入り先が決まってこれからは幸せに、と思われた。「ところが、夫は放蕩者のうえ前科数犯の男」「ところが、夫木下は非常な放蕩者のうえ前科数犯の男。結婚後、間もなく監獄入りすることになるが、それは10日の本紙で詳細報道した」と東日は書く。その通り、2日前の11月10日付同紙には「不正看守の上前を跳ねる」の見出しの記事が見える。〈(木下の)実家は相当な資産家で、13歳のとき上京。浅草橋の金物商店に雇われ、昨年春、年期を勤め上げて本所区(現墨田区)原庭町に金物店を開くに至った。が、心が緩んで浅草公園の白首(娼婦)を引き入れてぜいたくをしたため、すぐ家計に困り、詐欺行為をして懲役3カ月に。11月に満期出所後、現住所に転居。近くの魚商・堺某の養女・さだ(19)を嫁にもらい、アルミニウム製器具の行商をしていた。 そのうち、いとこに当たる市ケ谷監獄の看守で購買係の男が米穀店や石炭店、石油店の店主から贈賄して数千円の蓄財をし、20軒以上も貸家を持っていることを聞き知ってから、その上前をはねて不当な利益を得ていることが万世橋分署の刑事が探知。3日、関係者を引致して取り調べ、9日、検事局へ送った。〉 お艶や養父の名前が間違っているが、お艶はここで初めて夫が不正の男と知ったのだろう。所帯をたたんで養父の家に戻ったのは9日のこと。 そして、東日の12日の記事は事件当夜に至る。〈 10日夜は養父母が外出。お艶と養女(実際は惣七の妻おたねの連れ子)お清(23)の2人で留守番をしていた。午後7時半ごろ、年齢24~25歳で縞の羽織に兵児帯(柔らかい生地の帯)を締めた面長で色白の男が訪ねてきて「お艶はいるか」と鷹揚に言葉をかけ、「俺は警視庁の刑事だが、夫木下の件で取り調べる必要があるから同道しろ」と言った。お艶はいったん戸外に出たが、また家に入り、お清に「警視庁まで行ってくるから、ちり紙と手ぬぐいを出してくれ」と頼み、それを懐に入れて家を出た。錦町から2人で電車に乗り和田倉門で下車したところまでは確認されているが、それから先はどのようにして惨殺されたかは不明。〉 記事は続いて身元判明のいきさつを「加害者は偽刑事」の小見出しで書いている。〈 11日朝になってもお艶が帰宅しないため、惣七は身を案じて11日午前10時ごろ、警視庁に訪ねて行ったが「そんな者は来ない」と言われて途方に暮れた。家に帰る道すがら、神田署に立ち寄って捜索願を出したことから、さては三菱ケ原の被害者ではないかとして調べた結果、身元が判明した。犯人は被害者と何の関係もない者らしく、あるいは夫が監獄入りした新聞記事を見て、偽刑事になってお艶を呼び出し、みだらな振る舞いをして抵抗されたため無残に殺害したのではないかとの見方が最も根拠があるようだ。〉殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮” 東日の初報は「美人というほどにはあらねど」(原文のまま)としたが、12日付で國民は「三菱原に美人の屍體(死体)」、萬朝報は「三菱原の死美人」を見出しにとった。本文中にはそれに該当する記述がないが、殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮”が反映されているようだ(「美人の首なし死体」という表現もあったという)。『警視庁史第1(明治編)』も発見段階で「20歳ぐらいの美人」と記述している。この時点では被害者と加害者の関係は否定され、警視庁は偽刑事に呼び出されたことを重大視して捜査を進めた。13日付萬朝報も「お艶はおとなしい無口な女で、男の話などすると逃げるぐらいうぶでしたから、男ができて、そのために殺されたなどということはないと思います」というお艶の伯母の談話を載せている。養母・おたねが最初に疑われた 嫌疑者は次々登場した。最初に疑われたのは養母おたね(「為」「タメ」と誤記した新聞も多い)。12日発行13日付報知夕刊は「家庭の不和」の小見出しで書いている。同紙は11日朝に警視庁に行ったのはおたねだったとして、「(捜査当局は)そのまま警視庁に留め置いて帰宅させず、ひそかにおたねとお艶の関係について協議を重ねている。これは、あるいはお艶が殺害される前夜、面白くない家庭の不和に角突き合わせた揚げ句、不詳の男に誘い出されて今回の惨劇となったとの説もある」とした。うわさのたぐいのようだが、同じ報知は「冷遇せらる」の小見出しで家族関係について概要を次のように記述する。〈被害者お艶の家庭は養父、後妻、その連れ子との4人暮らしだが、とかく家庭内に風波が絶えず、お艶は前の養母と死に別れ、後妻おたねが乗り込んでからは、見るもいじらしい過酷な扱いに涙の乾くひまもなく奉公に出た。おたねはお艶が憎くてたまらず木下忠正に前科があるのも承知で無理にお艶を嫁がせた。木下が入獄したため、お艶は泣く泣く家に戻り、針のむしろの苦しさをじっと我慢していたが、当夜は何かで言い争い、お艶が機嫌の悪いおたねの顔から目をそむけていたところに怪しい男が入ってきて誘い出した。〉 つじつまの合わないところも強引に疑惑を養母に結び付けている印象だ。おたねは12日中に帰宅を許されたが、13日付萬朝報の記事で「私がお艶を虐待したとか言って疑いをかける人もあるようですが、そんなことをしてどうして夫が黙っていましょう。ものの黒白は最後には分かると思います。なさぬ仲とは言っても、親子と名の付くうえは決して憎いとは思いません」と涙ながらに語った。夫の酷評を伝える新聞も 一方、同じ日付の時事新報は「不行跡な木下忠正」という小見出しの記事で、木下は「3度まで妻を替えたほどの男で、彼を知るものは誰も快く言葉を交わすことはないという」との酷評を伝えた。 この年1910年は条約が調印されて日本が韓国を併合。明治天皇暗殺を図ったとして思想家・幸徳秋水らが検挙される「大逆事件」が発生していたが、世の中はおおむね平穏だった。「美人の殺人事件」で現場周辺は大騒ぎ。13日付東京朝日(東朝)は、不鮮明だが「現場附近の人出」の説明が付いた、人でごった返している様子の写真を掲載。 同日付時事新報は「三菱原の賑(にぎわい)」の小見出しで「三菱ケ原の現場は警視庁をはじめ、各署の刑事らが犯人捜査上の必要から、12日も入れ代わり立ち代わり出向いて検分する一方、朝からいい天気でもあり、通行人がさまざまに寄り道して見物する姿が非常に多く、夕刻まで絶えずにぎわった」と伝えた。同日付都新聞(現東京新聞)も「物見高い野次馬連がゾロゾロと見物に押し寄せ、付近は時ならぬ雑踏を極めた」と書いた。事件発生地は、現在は日本のビジネスの中心地である丸の内の原っぱ「三菱ケ原」は通称だったが、当時の人たちは皆そう呼んでいた。『東京商工会議所八十五年史上巻』(1966年)によれば、前身の東京商業會議所が麹町区有楽町1丁目1番地に本拠を置いたのは1899(明治32)年。用地が決まったのは1896(明治29)年だったが、「当時、三菱ケ原は狐狸(キツネとタヌキ)の出没するといわれた草茫々(ぼうぼう)の一帯であった」という。〈 そもそもこの地域がいつごろから三菱ケ原と呼ばれるに至ったかを考えると、明治4(1871)年の官版東京大絵図によると、和田倉門、馬場先門から日比谷辺りの堀端一帯には、兵部省のほか大名屋敷、御用邸などが櫛比(しっぴ=隙間なく並ぶ)して、広い草原のようなものは見られなかった。その後、これらの大名屋敷を改造した(陸軍)兵営が宮城の守りとしてこの地域を占めたが、明治20(1887)年ごろから、この兵営を移転して麻布、赤坂に赤レンガのモダンな建物が造られることとなった。 ところが、当時の陸軍はこの兵営建設費150万円(現在の約95億円)の調達ができず、窮余の結果、政府は松方(正義)大蔵大臣をして三菱の(2代目)社長・岩崎彌之助を説いて、一帯の地域を190万円(同約120億円)で買い取らせた。兵営が取り払われた跡は雑草の茂るに任され、丸の内はついに一望茫々の原野と化した。人力車夫が白昼ここで賭博にふけったというので「賭博ケ原」の異名が起こったほどである。三菱ケ原の名称が始まったのは、大体国会開設(1890=明治23年)の前後とみられる。(『東京商工会議所八十五年史 上巻』)〉『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。 しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。 事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
〈 前記惨劇の被害者は、原籍滋賀県蒲生郡岡山村(現近江八幡市)、神田区(現東京都中央区)旭町8、木下忠正(23)の妻おつやと判明した。つやは秋田県雄勝郡湯澤村(現湯沢市)、土田(上田の誤り)春次郎の次女で、9歳の時、日本橋茅場町の仲買商、高井商店の番頭である神田区旭町5、渡邊惣七(63)の養女にもらわれて養育された。

昨年9月、小石川区(現文京区)小日向水道端町の子爵・谷壽衛氏方に雇われたがうまくいかず、今年1月、同家から暇をとり、2月上旬から牛込区(現新宿区)西五軒町、岩佐太熊方に雇われて真面目に勤めるうち、いい嫁入り話があるとして9月25日、同家を辞した。岩佐と近くの産婆・越野でんが仲介して9月30日、木下と夫婦になったが、性格は穏やかであまり他人とも口を利かないほど。愛人などなさそうだという。〉
名前を「ツヤ」と書いた新聞もあるが、一般に通っているうえ『警視庁史第1(明治編)』も表記している「お艶」で以後統一する。木下とは入籍はしていなかったようだが、貧しい農家の娘が養女に出され、奉公を続けているうち、嫁入り先が決まってこれからは幸せに、と思われた。
「ところが、夫木下は非常な放蕩者のうえ前科数犯の男。結婚後、間もなく監獄入りすることになるが、それは10日の本紙で詳細報道した」と東日は書く。その通り、2日前の11月10日付同紙には「不正看守の上前を跳ねる」の見出しの記事が見える。
〈(木下の)実家は相当な資産家で、13歳のとき上京。浅草橋の金物商店に雇われ、昨年春、年期を勤め上げて本所区(現墨田区)原庭町に金物店を開くに至った。が、心が緩んで浅草公園の白首(娼婦)を引き入れてぜいたくをしたため、すぐ家計に困り、詐欺行為をして懲役3カ月に。11月に満期出所後、現住所に転居。近くの魚商・堺某の養女・さだ(19)を嫁にもらい、アルミニウム製器具の行商をしていた。

そのうち、いとこに当たる市ケ谷監獄の看守で購買係の男が米穀店や石炭店、石油店の店主から贈賄して数千円の蓄財をし、20軒以上も貸家を持っていることを聞き知ってから、その上前をはねて不当な利益を得ていることが万世橋分署の刑事が探知。3日、関係者を引致して取り調べ、9日、検事局へ送った。〉
お艶や養父の名前が間違っているが、お艶はここで初めて夫が不正の男と知ったのだろう。所帯をたたんで養父の家に戻ったのは9日のこと。
そして、東日の12日の記事は事件当夜に至る。〈 10日夜は養父母が外出。お艶と養女(実際は惣七の妻おたねの連れ子)お清(23)の2人で留守番をしていた。午後7時半ごろ、年齢24~25歳で縞の羽織に兵児帯(柔らかい生地の帯)を締めた面長で色白の男が訪ねてきて「お艶はいるか」と鷹揚に言葉をかけ、「俺は警視庁の刑事だが、夫木下の件で取り調べる必要があるから同道しろ」と言った。お艶はいったん戸外に出たが、また家に入り、お清に「警視庁まで行ってくるから、ちり紙と手ぬぐいを出してくれ」と頼み、それを懐に入れて家を出た。錦町から2人で電車に乗り和田倉門で下車したところまでは確認されているが、それから先はどのようにして惨殺されたかは不明。〉 記事は続いて身元判明のいきさつを「加害者は偽刑事」の小見出しで書いている。〈 11日朝になってもお艶が帰宅しないため、惣七は身を案じて11日午前10時ごろ、警視庁に訪ねて行ったが「そんな者は来ない」と言われて途方に暮れた。家に帰る道すがら、神田署に立ち寄って捜索願を出したことから、さては三菱ケ原の被害者ではないかとして調べた結果、身元が判明した。犯人は被害者と何の関係もない者らしく、あるいは夫が監獄入りした新聞記事を見て、偽刑事になってお艶を呼び出し、みだらな振る舞いをして抵抗されたため無残に殺害したのではないかとの見方が最も根拠があるようだ。〉殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮” 東日の初報は「美人というほどにはあらねど」(原文のまま)としたが、12日付で國民は「三菱原に美人の屍體(死体)」、萬朝報は「三菱原の死美人」を見出しにとった。本文中にはそれに該当する記述がないが、殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮”が反映されているようだ(「美人の首なし死体」という表現もあったという)。『警視庁史第1(明治編)』も発見段階で「20歳ぐらいの美人」と記述している。この時点では被害者と加害者の関係は否定され、警視庁は偽刑事に呼び出されたことを重大視して捜査を進めた。13日付萬朝報も「お艶はおとなしい無口な女で、男の話などすると逃げるぐらいうぶでしたから、男ができて、そのために殺されたなどということはないと思います」というお艶の伯母の談話を載せている。養母・おたねが最初に疑われた 嫌疑者は次々登場した。最初に疑われたのは養母おたね(「為」「タメ」と誤記した新聞も多い)。12日発行13日付報知夕刊は「家庭の不和」の小見出しで書いている。同紙は11日朝に警視庁に行ったのはおたねだったとして、「(捜査当局は)そのまま警視庁に留め置いて帰宅させず、ひそかにおたねとお艶の関係について協議を重ねている。これは、あるいはお艶が殺害される前夜、面白くない家庭の不和に角突き合わせた揚げ句、不詳の男に誘い出されて今回の惨劇となったとの説もある」とした。うわさのたぐいのようだが、同じ報知は「冷遇せらる」の小見出しで家族関係について概要を次のように記述する。〈被害者お艶の家庭は養父、後妻、その連れ子との4人暮らしだが、とかく家庭内に風波が絶えず、お艶は前の養母と死に別れ、後妻おたねが乗り込んでからは、見るもいじらしい過酷な扱いに涙の乾くひまもなく奉公に出た。おたねはお艶が憎くてたまらず木下忠正に前科があるのも承知で無理にお艶を嫁がせた。木下が入獄したため、お艶は泣く泣く家に戻り、針のむしろの苦しさをじっと我慢していたが、当夜は何かで言い争い、お艶が機嫌の悪いおたねの顔から目をそむけていたところに怪しい男が入ってきて誘い出した。〉 つじつまの合わないところも強引に疑惑を養母に結び付けている印象だ。おたねは12日中に帰宅を許されたが、13日付萬朝報の記事で「私がお艶を虐待したとか言って疑いをかける人もあるようですが、そんなことをしてどうして夫が黙っていましょう。ものの黒白は最後には分かると思います。なさぬ仲とは言っても、親子と名の付くうえは決して憎いとは思いません」と涙ながらに語った。夫の酷評を伝える新聞も 一方、同じ日付の時事新報は「不行跡な木下忠正」という小見出しの記事で、木下は「3度まで妻を替えたほどの男で、彼を知るものは誰も快く言葉を交わすことはないという」との酷評を伝えた。 この年1910年は条約が調印されて日本が韓国を併合。明治天皇暗殺を図ったとして思想家・幸徳秋水らが検挙される「大逆事件」が発生していたが、世の中はおおむね平穏だった。「美人の殺人事件」で現場周辺は大騒ぎ。13日付東京朝日(東朝)は、不鮮明だが「現場附近の人出」の説明が付いた、人でごった返している様子の写真を掲載。 同日付時事新報は「三菱原の賑(にぎわい)」の小見出しで「三菱ケ原の現場は警視庁をはじめ、各署の刑事らが犯人捜査上の必要から、12日も入れ代わり立ち代わり出向いて検分する一方、朝からいい天気でもあり、通行人がさまざまに寄り道して見物する姿が非常に多く、夕刻まで絶えずにぎわった」と伝えた。同日付都新聞(現東京新聞)も「物見高い野次馬連がゾロゾロと見物に押し寄せ、付近は時ならぬ雑踏を極めた」と書いた。事件発生地は、現在は日本のビジネスの中心地である丸の内の原っぱ「三菱ケ原」は通称だったが、当時の人たちは皆そう呼んでいた。『東京商工会議所八十五年史上巻』(1966年)によれば、前身の東京商業會議所が麹町区有楽町1丁目1番地に本拠を置いたのは1899(明治32)年。用地が決まったのは1896(明治29)年だったが、「当時、三菱ケ原は狐狸(キツネとタヌキ)の出没するといわれた草茫々(ぼうぼう)の一帯であった」という。〈 そもそもこの地域がいつごろから三菱ケ原と呼ばれるに至ったかを考えると、明治4(1871)年の官版東京大絵図によると、和田倉門、馬場先門から日比谷辺りの堀端一帯には、兵部省のほか大名屋敷、御用邸などが櫛比(しっぴ=隙間なく並ぶ)して、広い草原のようなものは見られなかった。その後、これらの大名屋敷を改造した(陸軍)兵営が宮城の守りとしてこの地域を占めたが、明治20(1887)年ごろから、この兵営を移転して麻布、赤坂に赤レンガのモダンな建物が造られることとなった。 ところが、当時の陸軍はこの兵営建設費150万円(現在の約95億円)の調達ができず、窮余の結果、政府は松方(正義)大蔵大臣をして三菱の(2代目)社長・岩崎彌之助を説いて、一帯の地域を190万円(同約120億円)で買い取らせた。兵営が取り払われた跡は雑草の茂るに任され、丸の内はついに一望茫々の原野と化した。人力車夫が白昼ここで賭博にふけったというので「賭博ケ原」の異名が起こったほどである。三菱ケ原の名称が始まったのは、大体国会開設(1890=明治23年)の前後とみられる。(『東京商工会議所八十五年史 上巻』)〉『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。 しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。 事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
そして、東日の12日の記事は事件当夜に至る。
〈 10日夜は養父母が外出。お艶と養女(実際は惣七の妻おたねの連れ子)お清(23)の2人で留守番をしていた。午後7時半ごろ、年齢24~25歳で縞の羽織に兵児帯(柔らかい生地の帯)を締めた面長で色白の男が訪ねてきて「お艶はいるか」と鷹揚に言葉をかけ、「俺は警視庁の刑事だが、夫木下の件で取り調べる必要があるから同道しろ」と言った。お艶はいったん戸外に出たが、また家に入り、お清に「警視庁まで行ってくるから、ちり紙と手ぬぐいを出してくれ」と頼み、それを懐に入れて家を出た。錦町から2人で電車に乗り和田倉門で下車したところまでは確認されているが、それから先はどのようにして惨殺されたかは不明。〉
記事は続いて身元判明のいきさつを「加害者は偽刑事」の小見出しで書いている。
〈 11日朝になってもお艶が帰宅しないため、惣七は身を案じて11日午前10時ごろ、警視庁に訪ねて行ったが「そんな者は来ない」と言われて途方に暮れた。家に帰る道すがら、神田署に立ち寄って捜索願を出したことから、さては三菱ケ原の被害者ではないかとして調べた結果、身元が判明した。犯人は被害者と何の関係もない者らしく、あるいは夫が監獄入りした新聞記事を見て、偽刑事になってお艶を呼び出し、みだらな振る舞いをして抵抗されたため無残に殺害したのではないかとの見方が最も根拠があるようだ。〉
東日の初報は「美人というほどにはあらねど」(原文のまま)としたが、12日付で國民は「三菱原に美人の屍體(死体)」、萬朝報は「三菱原の死美人」を見出しにとった。本文中にはそれに該当する記述がないが、殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮”が反映されているようだ(「美人の首なし死体」という表現もあったという)。
『警視庁史第1(明治編)』も発見段階で「20歳ぐらいの美人」と記述している。この時点では被害者と加害者の関係は否定され、警視庁は偽刑事に呼び出されたことを重大視して捜査を進めた。13日付萬朝報も「お艶はおとなしい無口な女で、男の話などすると逃げるぐらいうぶでしたから、男ができて、そのために殺されたなどということはないと思います」というお艶の伯母の談話を載せている。養母・おたねが最初に疑われた 嫌疑者は次々登場した。最初に疑われたのは養母おたね(「為」「タメ」と誤記した新聞も多い)。12日発行13日付報知夕刊は「家庭の不和」の小見出しで書いている。同紙は11日朝に警視庁に行ったのはおたねだったとして、「(捜査当局は)そのまま警視庁に留め置いて帰宅させず、ひそかにおたねとお艶の関係について協議を重ねている。これは、あるいはお艶が殺害される前夜、面白くない家庭の不和に角突き合わせた揚げ句、不詳の男に誘い出されて今回の惨劇となったとの説もある」とした。うわさのたぐいのようだが、同じ報知は「冷遇せらる」の小見出しで家族関係について概要を次のように記述する。〈被害者お艶の家庭は養父、後妻、その連れ子との4人暮らしだが、とかく家庭内に風波が絶えず、お艶は前の養母と死に別れ、後妻おたねが乗り込んでからは、見るもいじらしい過酷な扱いに涙の乾くひまもなく奉公に出た。おたねはお艶が憎くてたまらず木下忠正に前科があるのも承知で無理にお艶を嫁がせた。木下が入獄したため、お艶は泣く泣く家に戻り、針のむしろの苦しさをじっと我慢していたが、当夜は何かで言い争い、お艶が機嫌の悪いおたねの顔から目をそむけていたところに怪しい男が入ってきて誘い出した。〉 つじつまの合わないところも強引に疑惑を養母に結び付けている印象だ。おたねは12日中に帰宅を許されたが、13日付萬朝報の記事で「私がお艶を虐待したとか言って疑いをかける人もあるようですが、そんなことをしてどうして夫が黙っていましょう。ものの黒白は最後には分かると思います。なさぬ仲とは言っても、親子と名の付くうえは決して憎いとは思いません」と涙ながらに語った。夫の酷評を伝える新聞も 一方、同じ日付の時事新報は「不行跡な木下忠正」という小見出しの記事で、木下は「3度まで妻を替えたほどの男で、彼を知るものは誰も快く言葉を交わすことはないという」との酷評を伝えた。 この年1910年は条約が調印されて日本が韓国を併合。明治天皇暗殺を図ったとして思想家・幸徳秋水らが検挙される「大逆事件」が発生していたが、世の中はおおむね平穏だった。「美人の殺人事件」で現場周辺は大騒ぎ。13日付東京朝日(東朝)は、不鮮明だが「現場附近の人出」の説明が付いた、人でごった返している様子の写真を掲載。 同日付時事新報は「三菱原の賑(にぎわい)」の小見出しで「三菱ケ原の現場は警視庁をはじめ、各署の刑事らが犯人捜査上の必要から、12日も入れ代わり立ち代わり出向いて検分する一方、朝からいい天気でもあり、通行人がさまざまに寄り道して見物する姿が非常に多く、夕刻まで絶えずにぎわった」と伝えた。同日付都新聞(現東京新聞)も「物見高い野次馬連がゾロゾロと見物に押し寄せ、付近は時ならぬ雑踏を極めた」と書いた。事件発生地は、現在は日本のビジネスの中心地である丸の内の原っぱ「三菱ケ原」は通称だったが、当時の人たちは皆そう呼んでいた。『東京商工会議所八十五年史上巻』(1966年)によれば、前身の東京商業會議所が麹町区有楽町1丁目1番地に本拠を置いたのは1899(明治32)年。用地が決まったのは1896(明治29)年だったが、「当時、三菱ケ原は狐狸(キツネとタヌキ)の出没するといわれた草茫々(ぼうぼう)の一帯であった」という。〈 そもそもこの地域がいつごろから三菱ケ原と呼ばれるに至ったかを考えると、明治4(1871)年の官版東京大絵図によると、和田倉門、馬場先門から日比谷辺りの堀端一帯には、兵部省のほか大名屋敷、御用邸などが櫛比(しっぴ=隙間なく並ぶ)して、広い草原のようなものは見られなかった。その後、これらの大名屋敷を改造した(陸軍)兵営が宮城の守りとしてこの地域を占めたが、明治20(1887)年ごろから、この兵営を移転して麻布、赤坂に赤レンガのモダンな建物が造られることとなった。 ところが、当時の陸軍はこの兵営建設費150万円(現在の約95億円)の調達ができず、窮余の結果、政府は松方(正義)大蔵大臣をして三菱の(2代目)社長・岩崎彌之助を説いて、一帯の地域を190万円(同約120億円)で買い取らせた。兵営が取り払われた跡は雑草の茂るに任され、丸の内はついに一望茫々の原野と化した。人力車夫が白昼ここで賭博にふけったというので「賭博ケ原」の異名が起こったほどである。三菱ケ原の名称が始まったのは、大体国会開設(1890=明治23年)の前後とみられる。(『東京商工会議所八十五年史 上巻』)〉『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。 しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。 事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
『警視庁史第1(明治編)』も発見段階で「20歳ぐらいの美人」と記述している。この時点では被害者と加害者の関係は否定され、警視庁は偽刑事に呼び出されたことを重大視して捜査を進めた。13日付萬朝報も「お艶はおとなしい無口な女で、男の話などすると逃げるぐらいうぶでしたから、男ができて、そのために殺されたなどということはないと思います」というお艶の伯母の談話を載せている。
嫌疑者は次々登場した。最初に疑われたのは養母おたね(「為」「タメ」と誤記した新聞も多い)。12日発行13日付報知夕刊は「家庭の不和」の小見出しで書いている。同紙は11日朝に警視庁に行ったのはおたねだったとして、「(捜査当局は)そのまま警視庁に留め置いて帰宅させず、ひそかにおたねとお艶の関係について協議を重ねている。これは、あるいはお艶が殺害される前夜、面白くない家庭の不和に角突き合わせた揚げ句、不詳の男に誘い出されて今回の惨劇となったとの説もある」とした。うわさのたぐいのようだが、同じ報知は「冷遇せらる」の小見出しで家族関係について概要を次のように記述する。
〈被害者お艶の家庭は養父、後妻、その連れ子との4人暮らしだが、とかく家庭内に風波が絶えず、お艶は前の養母と死に別れ、後妻おたねが乗り込んでからは、見るもいじらしい過酷な扱いに涙の乾くひまもなく奉公に出た。おたねはお艶が憎くてたまらず木下忠正に前科があるのも承知で無理にお艶を嫁がせた。木下が入獄したため、お艶は泣く泣く家に戻り、針のむしろの苦しさをじっと我慢していたが、当夜は何かで言い争い、お艶が機嫌の悪いおたねの顔から目をそむけていたところに怪しい男が入ってきて誘い出した。〉
つじつまの合わないところも強引に疑惑を養母に結び付けている印象だ。おたねは12日中に帰宅を許されたが、13日付萬朝報の記事で「私がお艶を虐待したとか言って疑いをかける人もあるようですが、そんなことをしてどうして夫が黙っていましょう。ものの黒白は最後には分かると思います。なさぬ仲とは言っても、親子と名の付くうえは決して憎いとは思いません」と涙ながらに語った。
一方、同じ日付の時事新報は「不行跡な木下忠正」という小見出しの記事で、木下は「3度まで妻を替えたほどの男で、彼を知るものは誰も快く言葉を交わすことはないという」との酷評を伝えた。
この年1910年は条約が調印されて日本が韓国を併合。明治天皇暗殺を図ったとして思想家・幸徳秋水らが検挙される「大逆事件」が発生していたが、世の中はおおむね平穏だった。「美人の殺人事件」で現場周辺は大騒ぎ。13日付東京朝日(東朝)は、不鮮明だが「現場附近の人出」の説明が付いた、人でごった返している様子の写真を掲載。
同日付時事新報は「三菱原の賑(にぎわい)」の小見出しで「三菱ケ原の現場は警視庁をはじめ、各署の刑事らが犯人捜査上の必要から、12日も入れ代わり立ち代わり出向いて検分する一方、朝からいい天気でもあり、通行人がさまざまに寄り道して見物する姿が非常に多く、夕刻まで絶えずにぎわった」と伝えた。同日付都新聞(現東京新聞)も「物見高い野次馬連がゾロゾロと見物に押し寄せ、付近は時ならぬ雑踏を極めた」と書いた。事件発生地は、現在は日本のビジネスの中心地である丸の内の原っぱ「三菱ケ原」は通称だったが、当時の人たちは皆そう呼んでいた。『東京商工会議所八十五年史上巻』(1966年)によれば、前身の東京商業會議所が麹町区有楽町1丁目1番地に本拠を置いたのは1899(明治32)年。用地が決まったのは1896(明治29)年だったが、「当時、三菱ケ原は狐狸(キツネとタヌキ)の出没するといわれた草茫々(ぼうぼう)の一帯であった」という。〈 そもそもこの地域がいつごろから三菱ケ原と呼ばれるに至ったかを考えると、明治4(1871)年の官版東京大絵図によると、和田倉門、馬場先門から日比谷辺りの堀端一帯には、兵部省のほか大名屋敷、御用邸などが櫛比(しっぴ=隙間なく並ぶ)して、広い草原のようなものは見られなかった。その後、これらの大名屋敷を改造した(陸軍)兵営が宮城の守りとしてこの地域を占めたが、明治20(1887)年ごろから、この兵営を移転して麻布、赤坂に赤レンガのモダンな建物が造られることとなった。 ところが、当時の陸軍はこの兵営建設費150万円(現在の約95億円)の調達ができず、窮余の結果、政府は松方(正義)大蔵大臣をして三菱の(2代目)社長・岩崎彌之助を説いて、一帯の地域を190万円(同約120億円)で買い取らせた。兵営が取り払われた跡は雑草の茂るに任され、丸の内はついに一望茫々の原野と化した。人力車夫が白昼ここで賭博にふけったというので「賭博ケ原」の異名が起こったほどである。三菱ケ原の名称が始まったのは、大体国会開設(1890=明治23年)の前後とみられる。(『東京商工会議所八十五年史 上巻』)〉『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。 しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。 事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
同日付時事新報は「三菱原の賑(にぎわい)」の小見出しで「三菱ケ原の現場は警視庁をはじめ、各署の刑事らが犯人捜査上の必要から、12日も入れ代わり立ち代わり出向いて検分する一方、朝からいい天気でもあり、通行人がさまざまに寄り道して見物する姿が非常に多く、夕刻まで絶えずにぎわった」と伝えた。同日付都新聞(現東京新聞)も「物見高い野次馬連がゾロゾロと見物に押し寄せ、付近は時ならぬ雑踏を極めた」と書いた。
「三菱ケ原」は通称だったが、当時の人たちは皆そう呼んでいた。『東京商工会議所八十五年史上巻』(1966年)によれば、前身の東京商業會議所が麹町区有楽町1丁目1番地に本拠を置いたのは1899(明治32)年。用地が決まったのは1896(明治29)年だったが、「当時、三菱ケ原は狐狸(キツネとタヌキ)の出没するといわれた草茫々(ぼうぼう)の一帯であった」という。
〈 そもそもこの地域がいつごろから三菱ケ原と呼ばれるに至ったかを考えると、明治4(1871)年の官版東京大絵図によると、和田倉門、馬場先門から日比谷辺りの堀端一帯には、兵部省のほか大名屋敷、御用邸などが櫛比(しっぴ=隙間なく並ぶ)して、広い草原のようなものは見られなかった。その後、これらの大名屋敷を改造した(陸軍)兵営が宮城の守りとしてこの地域を占めたが、明治20(1887)年ごろから、この兵営を移転して麻布、赤坂に赤レンガのモダンな建物が造られることとなった。

ところが、当時の陸軍はこの兵営建設費150万円(現在の約95億円)の調達ができず、窮余の結果、政府は松方(正義)大蔵大臣をして三菱の(2代目)社長・岩崎彌之助を説いて、一帯の地域を190万円(同約120億円)で買い取らせた。兵営が取り払われた跡は雑草の茂るに任され、丸の内はついに一望茫々の原野と化した。人力車夫が白昼ここで賭博にふけったというので「賭博ケ原」の異名が起こったほどである。三菱ケ原の名称が始まったのは、大体国会開設(1890=明治23年)の前後とみられる。(『東京商工会議所八十五年史 上巻』)〉
『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。 しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。 事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。
しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。 事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。
事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。
遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。
13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。
〈1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物2.家庭不和に関係した人物3.単なる暴行目的4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた〉
素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。
17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。
「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。
森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く(小池 新)
森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。
事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。
〈首を絞められ、ノドを切り裂かれて、血まみれのまま溝に捨てられ…愛した男に惨殺された“色白で薄幸の女”「お艶」とは何者だったのか?〉へ続く
(小池 新)