その日は五月晴れだった。私は東京下町にあるちっぽけな公園の中を、ヨレヨレのコートを着てひとりボソボソと呟きながら行ったり来たりしていた。来た道を振り返ると、木造一戸建て住宅の海に場違いなほどイカついコンクリート製の建物が見える。某有名医科大学附属病院。ここに来たのは今日で2度目だ。
「あなたね、ADHDとASDね」
「え。それ発達障害?」
「あぁ。しかも極めて強い傾向を示している」
担当医の精神科部長は唐突にそう告げた。
壁際の机に置かれたパソコンに向かったまま目を合わせようとしない。診察室には私と彼しかいないのに、その診断名は、なぜか他の誰かに告げられたように聞こえる。
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ADHDって、私もライターだから聞いたことくらいはあるが、それってイーロン・マスクみたいな天才が若いうちにかかる病気だと思っていた。私はアラ還にして低所得。日本の生涯未婚率上昇に貢献してる私には縁がないはずだ。
「それ。私の年齢でもあり得るんですか」
「歳は関係ない」
彼は語気が荒く、見た目は私よりも若い。しかも黒縁眼鏡がよく似合うイケオジだ。なんだか勝ち組に見下された気がしてムカついてくる。だが、待て。今はこの医者以外に頼る人はいないのだと自分を戒める。
「どうしたら、治るんですか?」
「治らない」
後で知ったのだが、ADHD=注意欠如・多動症やASD=自閉症スペクトラム症候群は、ウツなど一過性の病気と違い生まれながらの脳の特性とされる障害。彼の言う通り寛解はないのだ。
「では何か、よくなる方法とか、アドバイス的なものはありませんか?」
「これまでやったことないことをやるとか?」
「はぁ」
「では、次回は来月の○○日ね」
5分間診療じゃないかよ……。前回、つまり初診時にはかなり恥ずかしい内容も含め個人史について根掘り葉掘り質問してきた。チェック・シートへの記入も含めればゆうに1時間かけて診察したというのに、再診となると途端にぶっきらぼうになるのはなぜなのだろう。
私はそそくさと退出し病院の近くにある、公園のベンチに腰を下ろした。それにしても発達障害なんて、にわかには信じられない。というのも私は過去10年、鬱を患い近所のメンタルクリニックに通院してたのだ。 そのクリニックの先生は、私が診察室に入るといつもスマイルで「食欲はありますか?眠れていますか?」と語りかけ、抗不安剤と睡眠導入剤を処方してくれた。そして常に慈悲に満ちた笑顔を湛え「自然にお薬を呑み忘れるようになるといいですね」と励ましてくれていた。
この間、私は生活が不安定で心配事が絶えないため鬱っぽくなってるだけで、仕事が好転すればきっと治ると思い込んでいた。しかし一向に病状は改善せず、気がつけば薬の処方量は増え続けていた。一方でスマイル先生の笑顔に助けられてこの10年、なんとか乗り切ってきたのも事実だった。
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ところが、だ。ちょうどコロナのパンデミックが始まった頃、スマイル先生は突然、引退する。彼も私より若かった。聞けば病院ごと他の人に譲渡するというではないか。いわゆるファイヤーだった。寝耳に水とはこのことだ。悪いことは続くもので同時期レギュラーの仕事を失い収入も激減した。
急いでスマイル先生に代わる心の支えになってくれる医師を見つけなければならなかった。スマイル先生が南国でバカンスを楽しむ様子を想像しながら、いくつかの病院を渡り歩き、辿り着いたのがこの大学病院だった。
そして突然の発達障害宣告。あまりにも展開がキツ過ぎる。
私は発作的にスマホを取り出して通話履歴にある名前をタップした。五島さんは出版業界で唯一、個人的な悩みを相談できる相手だった。この業界、ヘタに弱みを見せるとマウントをとられるので相談相手は選ばなければならない。彼は私より少し歳上の60代半ばでやはり独身。最難関大を卒業して大手出版社に就職するも早期退職し、今は私と同じフリーランスとして活動している。
「もしもし、五島です」
「あ、今忙しいですか」
「仕事中です」
「あ、失礼。聞きたいことがあるんですが」
「手短にお願いします」
いつものことだが、五島氏は機嫌が良いのか悪いのかわからない。
「今日、私、〇〇大学病院でADHDだと言われたんですが、どう思います?」
「あきまへん。そんなのは国際金融資本の策略です」
「へ?」
「ひと昔なら職人気質と呼ばれてた、ちょっと変わった人にありもしない病名をつけて稼ぎおるんですよ。あなたは人一倍拘りが強いだけで、そんな病気じゃありません」
“ショクニンキシツ”!?
「アメリカの受け売りしてる医者、信じたらあきまへんよ。ではこのへんで失礼」
電話は突然切れた。
私は鬱という病気から発達障害という不治の障害に名前がつけかえられた。しかし、この「不治」というのは必ずしも悪いことばかりではなかったのだ。