雑誌『婦人公論』の連載「読みたい本」でおなじみの東えりかさんは今年3月、夫の保雄さんをがんで亡くしました。突然の腹痛の訴えから別れまで、わずか5ヵ月半。保雄さんは最期を自宅で過ごすことを望み、好きな音楽、食事、人……を心ゆくまで味わい、旅立ちました
【写真】保雄さんを偲び、葬儀場に展示したCD。どれも最後の日々に好んで聴いた音楽で、100枚以上に及んだ* * * * * * *自宅に帰る車の中で亡くなる危険性も記憶が指の間からどんどん零れ落ちていきます。あの苦しくて切なくて、必死で過ごした最期の18日間は、それなのに人生で最上に幸せな日々でした。あの日々を忘れたくなくてここに記します。

***2023年2月20日、夫・保雄は主治医から正式に抗がん剤治療の中止を宣告されました。製薬会社に勤務し、抗がん剤などの開発を担当していましたから、自分はこの薬で治ると固く信じていました。彼の絶望感はどれほどのものだったでしょう。最初から謎だらけでした。22年10月8日、突然の猛烈な腹痛で大学病院に搬送。当初、十二指腸の腸閉塞と診断されたため、鼻からチューブで胃液を排出し、点滴で栄養を取り、飲まず食わずの入院生活は、彼にとって「すぐ治る」はずのものでした。それから3ヵ月。一向に治る兆しもなく、検査漬けの日々。正しい病名もわからず、治療もされない状態に業を煮やし、1月に大学病院から彼の勤めていた都立病院に強引に転院したのも、「治りたい」一心からでした。それまで健康な人だっただけに、私は狼狽えるばかりでした。コロナ禍で面会はほとんどできず、セカンドオピニオンも数ヵ所求めましたが検査はきちんとされており、どの病院でも病名がはっきりしなかったのです。転院先でついた病名は「原発不明がん」。原発巣は不明ですが、がん細胞が見つかった場所は腹膜で、腹膜がんは希少がんのひとつとされています。すでに広範囲に広がり手遅れの可能性が高いと診断されましたが、主治医が希少がんの専門医であったことから、保険適用となったオプジーボ適応タイプとして抗がん剤投与が始まりました。しかし結果は思わしくなく、このままでは抗がん剤で命を落とす、と治療の中止が決まったのです。夫が望めば、すぐに緩和ケア病棟へ移動できることになっていましたが、彼は「治らないなら」と自宅に戻ることを選択しました。治療を中止することは夫と一緒に聞きましたが、その後私だけが呼ばれ、主治医から「最末期で、余命は最大で1ヵ月」と告げられました。帰宅を選んでも、帰る車の中で死亡する危険性も覚悟してほしい、と。そのときの私は、彼の希望を叶えたい、ただそれだけでした。自宅看護・介護のハードルの高さも、私がしなくてはならない点滴交換や痰の吸引、しもの世話、痛み止めの選択なども、考えることすらできません。病院の患者サポートセンターは、すぐに在宅看護のスタッフや介護保険、訪問医などを決めてくれました。知人から紹介されたケアマネジャーは非常に有能な方で、先に先にと手を打ってくださり、介護の準備も数日で整ったのです。私には奇跡に思えました。2月28日に退院。すでに歩くことはできませんでしたが、彼は無理をして車椅子に座り、手配した民間救急車から食い入るように窓の外を見つめていました。自宅マンションには、訪問看護センター「楓の風」の看護師3人がスタンバイ。私はとにかく生きてこの部屋に戻ってきてくれたことが嬉しくて、彼の手を取って「よかったね、よかったね」と繰り返していました。一息つくと、私には膨大な書類手続きが待っていました。マイナンバーカードを持っていようが、要介護認定を受けていようが、訪問診療、訪問看護、訪問介護、レンタル機材、ケアマネ、訪問薬局などの契約をひとつひとつ結び、印鑑を押し続ける。これをしなければこの先の生活が始まらないから、とケアマネジャーが付き添ってくれました。この励ましがありがたかった。すべての手続きが終わり、最後の看護師が家を出たのは、夫の帰宅から3時間ほど経ったころでした。帰りがけ、夫に聞こえない場所で彼女は「1週間は持たないと思います。気持ちを強く持って覚悟してくださいね。何かあったらすぐに連絡すること。遠慮してはダメですよ」と言いました。ようやく帰ってこられたのに1週間も生きられないのか、と思うと悔しくて哀しくて胸が張り裂けそうです。でも夫には見せられません。耐えました。(写真はイメージ/写真提供:photo AC)覚悟が決まった夜の出来事ようやく2人きりになった部屋で、夫はとにかくほっとした様子で「もう何も遠慮することはないね」と寛いでいます。「おしっこがしたい、尿瓶で取る」というので様子を窺っていたら「見てたらできないだろう?」と言われ、ああ、この人は羞恥心も自尊心も捨てていない、と嬉しくなりました。本当に死の間際まで、尿は自分で取っていました。腸閉塞は治っていなかったので、便はほとんど出ないだろうと言われていましたが、2日目の夜「お腹が痛い」と言い出して、おむつを取り替えようとしたところ、大量の便が溢れ出ました。なすすべもなく狼狽える私に夫は、「介護の人を呼んで」と優しく言ってくれました。泣きながら24時間対応の訪問介護に助けを求めると、真夜中なのに10分ほどで駆け付けてくれた女性介護士は「大丈夫、慣れればすぐにできるから」と言ってあっという間に処理し、やり方を丁寧に説明してくれました。思えばこの夜の出来事で、私の本当の覚悟が決まったのだと思います。初日こそぐったりしていた夫ですが、2日目から生気を取り戻しました。まるで別人になったように顔色が良くなり、笑顔で過ごしました。幸いにも痛みはモルヒネの貼り薬と坐薬でコントロールできています。介護ベッドをリビングの一番良い位置に置き、身体を少し上げると外が見渡せるようにしました。思えば秋口に入院し、クリスマスも年末年始も病院で、食事をとれないから季節感もまったくなく、気が付けば冬も終わり、早春間近です。寒がりなのに風を入れて香りを楽しみ、深呼吸をして寛いでいます。うちは子どものいない2人暮らし。そのわりに広いマンションで、西日が眩しいほどの南西側のルーフテラスからは、年に数回、大パノラマのような夕焼けを見ることができます。ここで空を見上げ、星や満月を観察し、ビールを飲むのが2人の最高の楽しみでした。彼がいた間に一度だけ、ご褒美のように素晴らしい夕焼けの日がありました。少し背を起こしたベッドに2人で座り、夕焼けが暗くなるまでずっと見ていました。私は泣けて泣けて仕方なかったのですが、彼は私の頭を撫でながら「泣かなくていいじゃん、こんなにきれいなのに」とニコニコしています。その時に撮った自撮りの2ショットが最後の写真となりました。彼は窓から見える景色全部に感動していました。ここに住んで27年も経つというのに、こんなに広く気持ちのいい場所だったことに初めて気づいたようです。彼が自宅に帰りたかった一番の理由は、音楽を聴くことでした。幼いころからの唯一の趣味が音楽鑑賞で、レコードだけでも1000枚ほど、CDになると数千枚単位のコレクションがあります。若いころはアメリカのロックやブルースを聴き、大学時代はブルーグラスバンドでマンドリンやフィドル、ベースを担当。80年代はワールドミュージックにハマりました。アフリカ、南米、中米、アラブ諸国、東南アジア、ハワイ、沖縄……と興味は尽きることがなく、数人の同好の士とライブに行ったりイベントに参加したり。時には音楽を聴くためだけに海外旅行に行き、帰国時には膨大な数のCDを抱えてきました。ベッドの上で、彼は四六時中スピーカーから音を出し、音楽を聴き続けました。朝起きて、前の晩に選んでおいた1枚をプレイヤーに入れ、その間に次のCDを選ぶ。私に何十枚かずつ運ばせて、その中のお気に入りを聴き、ライナーノーツを読み込んで蘊蓄を披露してくれました。もっとこういう音源があるはずだ、と私に指示するのですが、膨大なコレクションから見つけ出すことができず、がっかりさせたことも一度や二度ではありません。それでもその姿は満足げでした。訪れる看護師や医師、様子を気遣う医療相談員やケアマネ、訪問薬剤師まで「まるでカフェみたい」と一緒に音楽を聴きました。18日間で聴いたCDは、150枚を超えたと思います。最期に好んだのは、耳にやさしいボサノバやミュゼット、静かなギターのハワイアン、穏やかな女声ボーカルの作品でした。(写真はイメージ/写真提供:photo AC)食べておきたいメニューを考えた友人や親戚にも積極的に会いました。ガリガリに痩せて面立ちが変わってしまっていても決して拒むことはなく、訪れてくれる人すべてに機嫌よく接し、死の前日まで面会を楽しんでいる。ベッドから動けず弱っていても希望を捨てていない姿に、誰もが驚いていました。音楽好きな友人、入社したときから仲の良い同期、5ヵ月間伸ばしっぱなしだった髪を切りに来てくれた、長いつきあいの美容師などの見舞い客にほぼ毎日囲まれ、本人はとても嬉しそうでしたし、実際、面会のあとは元気になったのです。特に「貴ちゃん」と呼ぶ妹のような従妹とは、LINEのビデオ通話で1時間半も話し込み、見舞いに来てくれたときは足を揉んでもらい、むかし話に花を咲かせていました。とはいえ、最後の数日は意識が朦朧としていたので、会えたのは一握りの人たちです。葬儀で「会いたかったなあ」と言われるたび、申し訳なかったと、その人と夫、両方に謝っていました。夫は美食家でもあり、晩酌に合う食事が出ないと機嫌が悪くなるような人でした。それが入院以降、何も口にできなくなってしまった。耐え難いことだっただろうと思います。帰宅する際、固形物以外なら何を口にしてもいい、とお許しが出たので、彼は食べておきたいものを真剣に考えました。行きついた結論は、仲良しの鷺沼の蕎麦屋の出汁、常連だったたまプラーザの洋風居酒屋のトマトのムース。そして六本木に店を持つフレンチレストランのコンソメスープ、の3種類でした。事情を話すと、皆さんは料理の提供を快く引き受けてくださいました。蕎麦屋からは、鰹節と昆布だけでとった出汁とかけそばのつゆ、そして黒マイタケの出汁の3種をいただきましたが、彼が好んだのは、取り立てて何も味付けされていない出汁。小さなスプーンで口に運ぶと、目をつぶって香りと味を楽しんでいました。香りを楽しむだけだから、と言うので葱と柚子を刻んで人肌に温めた出汁に入れると、「本当にうまい」と目を細めていました。十何年も通った洋風居酒屋は、春先になると最高のフルーツトマトを使ったムースを作ります。3月の頭ではシェフの気に入るトマトが入らず、完成に少し時間はかかりましたが、でき立ての味は格別だったようで、直接電話をかけてお礼を伝えていました。彼の地元の神戸から六本木に移ったフレンチレストランは、彼の母親のお気に入りでもありました。なかなか連絡がなく気を揉みましたが、痛みがひどくなり、モルヒネを投与して意識レベルを落とすと医師が判断した日、満足のいく品ができた、と連絡がありました。車で運んでくれたでき立てのスープは、黄金色をした天然エゾシカのダブルコンソメ。まさに絶品でした。シカの骨の入手に手間取ったそうですが、これが今生で最後に味わえたものならば、彼は幸せだったと思います。その日、モルヒネ投与を担当する訪問看護師は、彼が十分にスープを味わい、シェフと別れの挨拶をするまで処置を待ってくれました。できることは精一杯やったけれど最期の時はあっけないものでした。痛みで寝られず、せん妄が少し出始めたので、医師がモルヒネの連続投与を決めて3日後のことです。ただうつろでも意識はあって、亡くなる前の晩まで会話ができました。横浜に桜の開花宣言が出た翌々日の3月17日、私は朝4時40分に目が覚めました。夫を見ると、大きく息をしています。「ああ、今日も生きていてくれた」と安堵し、もう一回目をつぶりました。でも寝られず、5時15分に起きてカーテンを開けようと夫を見たら、顔つきが違います。すでに息をしていませんでした。私に見つからないよう、そっと逝ってしまった。それも彼らしいと思います。亡くなってすぐ私の胸に去来したのは怒りでした。なぜ早く転院させなかったのか。なぜもっと快適に過ごさせてあげられなかったのか。なぜ死なせてしまったのか。そして、なぜ何も言い残してくれなかったのか。できることは精一杯やりました。でもなにか足りないのです。なぜなら私が不幸になったから。葬儀の連絡のため、彼のスマホを開くと、下書きトレイに書きかけの私へのメールが残っていました。全文は私の宝物として胸にしまっておきますが、最初の一文はこうでした。「えりか、病室から助け出してくれてありがとう」私は、彼に残された最後の自由を取り戻してあげたのだ、とその時わかりました。病院で死にたくはなかった。僅かな時間でも2人で好きなように過ごせたことを、彼は感謝してくれました。いまは彼の不在が寂しくて仕方ありません。2人でいた時間は過去にしかなく、もう新しく動くことはないのです。胸にぽっかり穴が開いたようなとか、体の半身をもぎ取られたような、という使い古された慣用句が、こんなにも私の気持ちを表しているものだとは思いもしませんでした。いまでも毎日一度は泣いています。突然やってくる哀しみになすすべがありません。これから過ごすおひとりさまの時間をどうしたらよいか、頭を悩ませています。
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記憶が指の間からどんどん零れ落ちていきます。あの苦しくて切なくて、必死で過ごした最期の18日間は、それなのに人生で最上に幸せな日々でした。あの日々を忘れたくなくてここに記します。
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2023年2月20日、夫・保雄は主治医から正式に抗がん剤治療の中止を宣告されました。製薬会社に勤務し、抗がん剤などの開発を担当していましたから、自分はこの薬で治ると固く信じていました。彼の絶望感はどれほどのものだったでしょう。
最初から謎だらけでした。22年10月8日、突然の猛烈な腹痛で大学病院に搬送。当初、十二指腸の腸閉塞と診断されたため、鼻からチューブで胃液を排出し、点滴で栄養を取り、飲まず食わずの入院生活は、彼にとって「すぐ治る」はずのものでした。
それから3ヵ月。一向に治る兆しもなく、検査漬けの日々。正しい病名もわからず、治療もされない状態に業を煮やし、1月に大学病院から彼の勤めていた都立病院に強引に転院したのも、「治りたい」一心からでした。
それまで健康な人だっただけに、私は狼狽えるばかりでした。コロナ禍で面会はほとんどできず、セカンドオピニオンも数ヵ所求めましたが検査はきちんとされており、どの病院でも病名がはっきりしなかったのです。転院先でついた病名は「原発不明がん」。
原発巣は不明ですが、がん細胞が見つかった場所は腹膜で、腹膜がんは希少がんのひとつとされています。すでに広範囲に広がり手遅れの可能性が高いと診断されましたが、主治医が希少がんの専門医であったことから、保険適用となったオプジーボ適応タイプとして抗がん剤投与が始まりました。しかし結果は思わしくなく、このままでは抗がん剤で命を落とす、と治療の中止が決まったのです。
夫が望めば、すぐに緩和ケア病棟へ移動できることになっていましたが、彼は「治らないなら」と自宅に戻ることを選択しました。
治療を中止することは夫と一緒に聞きましたが、その後私だけが呼ばれ、主治医から「最末期で、余命は最大で1ヵ月」と告げられました。帰宅を選んでも、帰る車の中で死亡する危険性も覚悟してほしい、と。そのときの私は、彼の希望を叶えたい、ただそれだけでした。自宅看護・介護のハードルの高さも、私がしなくてはならない点滴交換や痰の吸引、しもの世話、痛み止めの選択なども、考えることすらできません。
病院の患者サポートセンターは、すぐに在宅看護のスタッフや介護保険、訪問医などを決めてくれました。知人から紹介されたケアマネジャーは非常に有能な方で、先に先にと手を打ってくださり、介護の準備も数日で整ったのです。私には奇跡に思えました。
2月28日に退院。すでに歩くことはできませんでしたが、彼は無理をして車椅子に座り、手配した民間救急車から食い入るように窓の外を見つめていました。自宅マンションには、訪問看護センター「楓の風」の看護師3人がスタンバイ。私はとにかく生きてこの部屋に戻ってきてくれたことが嬉しくて、彼の手を取って「よかったね、よかったね」と繰り返していました。
一息つくと、私には膨大な書類手続きが待っていました。マイナンバーカードを持っていようが、要介護認定を受けていようが、訪問診療、訪問看護、訪問介護、レンタル機材、ケアマネ、訪問薬局などの契約をひとつひとつ結び、印鑑を押し続ける。これをしなければこの先の生活が始まらないから、とケアマネジャーが付き添ってくれました。この励ましがありがたかった。
すべての手続きが終わり、最後の看護師が家を出たのは、夫の帰宅から3時間ほど経ったころでした。帰りがけ、夫に聞こえない場所で彼女は「1週間は持たないと思います。気持ちを強く持って覚悟してくださいね。何かあったらすぐに連絡すること。遠慮してはダメですよ」と言いました。ようやく帰ってこられたのに1週間も生きられないのか、と思うと悔しくて哀しくて胸が張り裂けそうです。でも夫には見せられません。耐えました。
(写真はイメージ/写真提供:photo AC)
ようやく2人きりになった部屋で、夫はとにかくほっとした様子で「もう何も遠慮することはないね」と寛いでいます。「おしっこがしたい、尿瓶で取る」というので様子を窺っていたら「見てたらできないだろう?」と言われ、ああ、この人は羞恥心も自尊心も捨てていない、と嬉しくなりました。本当に死の間際まで、尿は自分で取っていました。
腸閉塞は治っていなかったので、便はほとんど出ないだろうと言われていましたが、2日目の夜「お腹が痛い」と言い出して、おむつを取り替えようとしたところ、大量の便が溢れ出ました。なすすべもなく狼狽える私に夫は、「介護の人を呼んで」と優しく言ってくれました。
泣きながら24時間対応の訪問介護に助けを求めると、真夜中なのに10分ほどで駆け付けてくれた女性介護士は「大丈夫、慣れればすぐにできるから」と言ってあっという間に処理し、やり方を丁寧に説明してくれました。思えばこの夜の出来事で、私の本当の覚悟が決まったのだと思います。
初日こそぐったりしていた夫ですが、2日目から生気を取り戻しました。まるで別人になったように顔色が良くなり、笑顔で過ごしました。幸いにも痛みはモルヒネの貼り薬と坐薬でコントロールできています。
介護ベッドをリビングの一番良い位置に置き、身体を少し上げると外が見渡せるようにしました。思えば秋口に入院し、クリスマスも年末年始も病院で、食事をとれないから季節感もまったくなく、気が付けば冬も終わり、早春間近です。寒がりなのに風を入れて香りを楽しみ、深呼吸をして寛いでいます。
うちは子どものいない2人暮らし。そのわりに広いマンションで、西日が眩しいほどの南西側のルーフテラスからは、年に数回、大パノラマのような夕焼けを見ることができます。ここで空を見上げ、星や満月を観察し、ビールを飲むのが2人の最高の楽しみでした。
彼がいた間に一度だけ、ご褒美のように素晴らしい夕焼けの日がありました。少し背を起こしたベッドに2人で座り、夕焼けが暗くなるまでずっと見ていました。私は泣けて泣けて仕方なかったのですが、彼は私の頭を撫でながら「泣かなくていいじゃん、こんなにきれいなのに」とニコニコしています。その時に撮った自撮りの2ショットが最後の写真となりました。
彼は窓から見える景色全部に感動していました。ここに住んで27年も経つというのに、こんなに広く気持ちのいい場所だったことに初めて気づいたようです。
彼が自宅に帰りたかった一番の理由は、音楽を聴くことでした。幼いころからの唯一の趣味が音楽鑑賞で、レコードだけでも1000枚ほど、CDになると数千枚単位のコレクションがあります。若いころはアメリカのロックやブルースを聴き、大学時代はブルーグラスバンドでマンドリンやフィドル、ベースを担当。
80年代はワールドミュージックにハマりました。アフリカ、南米、中米、アラブ諸国、東南アジア、ハワイ、沖縄……と興味は尽きることがなく、数人の同好の士とライブに行ったりイベントに参加したり。時には音楽を聴くためだけに海外旅行に行き、帰国時には膨大な数のCDを抱えてきました。
ベッドの上で、彼は四六時中スピーカーから音を出し、音楽を聴き続けました。朝起きて、前の晩に選んでおいた1枚をプレイヤーに入れ、その間に次のCDを選ぶ。私に何十枚かずつ運ばせて、その中のお気に入りを聴き、ライナーノーツを読み込んで蘊蓄を披露してくれました。
もっとこういう音源があるはずだ、と私に指示するのですが、膨大なコレクションから見つけ出すことができず、がっかりさせたことも一度や二度ではありません。それでもその姿は満足げでした。
訪れる看護師や医師、様子を気遣う医療相談員やケアマネ、訪問薬剤師まで「まるでカフェみたい」と一緒に音楽を聴きました。18日間で聴いたCDは、150枚を超えたと思います。最期に好んだのは、耳にやさしいボサノバやミュゼット、静かなギターのハワイアン、穏やかな女声ボーカルの作品でした。
(写真はイメージ/写真提供:photo AC)
友人や親戚にも積極的に会いました。ガリガリに痩せて面立ちが変わってしまっていても決して拒むことはなく、訪れてくれる人すべてに機嫌よく接し、死の前日まで面会を楽しんでいる。ベッドから動けず弱っていても希望を捨てていない姿に、誰もが驚いていました。
音楽好きな友人、入社したときから仲の良い同期、5ヵ月間伸ばしっぱなしだった髪を切りに来てくれた、長いつきあいの美容師などの見舞い客にほぼ毎日囲まれ、本人はとても嬉しそうでしたし、実際、面会のあとは元気になったのです。特に「貴ちゃん」と呼ぶ妹のような従妹とは、LINEのビデオ通話で1時間半も話し込み、見舞いに来てくれたときは足を揉んでもらい、むかし話に花を咲かせていました。
とはいえ、最後の数日は意識が朦朧としていたので、会えたのは一握りの人たちです。葬儀で「会いたかったなあ」と言われるたび、申し訳なかったと、その人と夫、両方に謝っていました。
夫は美食家でもあり、晩酌に合う食事が出ないと機嫌が悪くなるような人でした。それが入院以降、何も口にできなくなってしまった。耐え難いことだっただろうと思います。帰宅する際、固形物以外なら何を口にしてもいい、とお許しが出たので、彼は食べておきたいものを真剣に考えました。
行きついた結論は、仲良しの鷺沼の蕎麦屋の出汁、常連だったたまプラーザの洋風居酒屋のトマトのムース。そして六本木に店を持つフレンチレストランのコンソメスープ、の3種類でした。
事情を話すと、皆さんは料理の提供を快く引き受けてくださいました。蕎麦屋からは、鰹節と昆布だけでとった出汁とかけそばのつゆ、そして黒マイタケの出汁の3種をいただきましたが、彼が好んだのは、取り立てて何も味付けされていない出汁。小さなスプーンで口に運ぶと、目をつぶって香りと味を楽しんでいました。香りを楽しむだけだから、と言うので葱と柚子を刻んで人肌に温めた出汁に入れると、「本当にうまい」と目を細めていました。
十何年も通った洋風居酒屋は、春先になると最高のフルーツトマトを使ったムースを作ります。3月の頭ではシェフの気に入るトマトが入らず、完成に少し時間はかかりましたが、でき立ての味は格別だったようで、直接電話をかけてお礼を伝えていました。
彼の地元の神戸から六本木に移ったフレンチレストランは、彼の母親のお気に入りでもありました。なかなか連絡がなく気を揉みましたが、痛みがひどくなり、モルヒネを投与して意識レベルを落とすと医師が判断した日、満足のいく品ができた、と連絡がありました。
車で運んでくれたでき立てのスープは、黄金色をした天然エゾシカのダブルコンソメ。まさに絶品でした。シカの骨の入手に手間取ったそうですが、これが今生で最後に味わえたものならば、彼は幸せだったと思います。その日、モルヒネ投与を担当する訪問看護師は、彼が十分にスープを味わい、シェフと別れの挨拶をするまで処置を待ってくれました。
最期の時はあっけないものでした。痛みで寝られず、せん妄が少し出始めたので、医師がモルヒネの連続投与を決めて3日後のことです。ただうつろでも意識はあって、亡くなる前の晩まで会話ができました。
横浜に桜の開花宣言が出た翌々日の3月17日、私は朝4時40分に目が覚めました。夫を見ると、大きく息をしています。「ああ、今日も生きていてくれた」と安堵し、もう一回目をつぶりました。でも寝られず、5時15分に起きてカーテンを開けようと夫を見たら、顔つきが違います。すでに息をしていませんでした。私に見つからないよう、そっと逝ってしまった。それも彼らしいと思います。
亡くなってすぐ私の胸に去来したのは怒りでした。なぜ早く転院させなかったのか。なぜもっと快適に過ごさせてあげられなかったのか。なぜ死なせてしまったのか。そして、なぜ何も言い残してくれなかったのか。できることは精一杯やりました。でもなにか足りないのです。なぜなら私が不幸になったから。
葬儀の連絡のため、彼のスマホを開くと、下書きトレイに書きかけの私へのメールが残っていました。全文は私の宝物として胸にしまっておきますが、最初の一文はこうでした。
「えりか、病室から助け出してくれてありがとう」
私は、彼に残された最後の自由を取り戻してあげたのだ、とその時わかりました。病院で死にたくはなかった。僅かな時間でも2人で好きなように過ごせたことを、彼は感謝してくれました。
いまは彼の不在が寂しくて仕方ありません。2人でいた時間は過去にしかなく、もう新しく動くことはないのです。胸にぽっかり穴が開いたようなとか、体の半身をもぎ取られたような、という使い古された慣用句が、こんなにも私の気持ちを表しているものだとは思いもしませんでした。
いまでも毎日一度は泣いています。突然やってくる哀しみになすすべがありません。これから過ごすおひとりさまの時間をどうしたらよいか、頭を悩ませています。