〈「他の県庁所在地とは次元が違う」東海道新幹線「のぞみ」“第3の巨大ターミナル”「名古屋」には何がある?〉から続く
村、というと大都市の正反対、といったイメージがある。実のところこれはイメージなんかじゃなく、人もビルも住宅もあらゆるものが窮屈にひしめく大都会に対して、村はだいたい山、田んぼ、畑……。人はまばらで民家もぽつんぽつん。大きなビルなんてないし、鉄道だって通っていないのが当たり前。まったくそのイメージに偽りはないし、村というのはつまりは大都市の正反対なのである。
【画像】“日本でいちばんお金持ちの村”「飛島村」を写真で一気に見る
だから、村があるのは大都市から遠く離れているのがふつうだ。たとえば、東京都にもいくつかの村がある。ほとんどは小笠原とか新島とか、島嶼部だ。
ひとつだけ多摩地域にも檜原村という村がある。奥多摩の山の中の村で、都心からの所要時間は電車とバスを乗り継いで2時間以上もかかる。大阪とタメを張るくらいの遠いところに、東京の村があるのだ。ほかの全国の村々だって、だいたい似たようなものである。
ところが、すべての村が必ずしも大都市から遠いわけでもない。愛知県名古屋市。日本三大都市のひとつに数えられる、人口200万人を超える大都市のすぐ近くにも、村がある。愛知県海部郡飛島村という。“飛鳥”ではなく“飛島”。鳥ではなく島である。読み方は「とびしま」だ。なんでも、“日本一の金持ち村”などとして知られているらしい。
……といった雑談を編集氏としていたら、「じゃあ何があるのか見てきてください」と言われてしまった。いくら名古屋市の近くといっても、村は村。電車に乗っていればいつかは着くような簡単な場所ではないのではなかろうか。
あげくに編集氏は、「クルマとかタクシーじゃなくて、電車かバスで。乗り継いで行ってきてください」。あちこち旅をしながらモノを書く仕事というのは楽しそうに見えるかもしれないが、実はあんがい過酷で残酷なのである。
“日本でいちばんお金持ちの村”「飛島村」には何がある?
そんなわけで飛島村を目指した。地図で見ると、名古屋市の南西の海沿いにあるようだ。名古屋の海沿いは工業地帯であり、日本有数の大港湾が広がっている。レゴランドや水族館などの集客施設もあるにはあるが、本質的には工業都市・港湾都市としての名古屋を決定づけているエリアといっていい。
飛島村は、そんなエリアに隣接する村だ。だから、この村も村と名乗りながらも工業都市、もとい工業村なのだろうか。 飛島村には、もちろん鉄道は通っていない。別に鉄道の有無は村かそうでないかの境目でもなんでもなく、実際に鉄道が通っている村はたくさんある。が、少なくとも飛島村には鉄道がない。村に通じる公共交通は、バスだけということになる。 飛島村に通じるバスは、飛島公共交通バスという。いわばコミュニティバスのようなもので、鉄道とこのバスを乗り継いで飛島村の中心地に行くことができる。鉄道側の玄関口は、近鉄蟹江駅。名古屋駅から近鉄電車に乗って約10分ほどののどかな町の駅だ。 村を走るバスは、本数がめちゃくちゃ少ないイメージがある。往々にして住んでいる人が少なく、ひとり一台のクルマを持つ世界。なので、都市部のようにバスをバンバン走らせても乗る人がいない。 だから飛島村へのバスも少ないんじゃなかろうか。そう不安に思いながら近鉄蟹江駅にやってきた。おそるおそる時刻表を見ると……ありがたい、40分に1本ペースで走っているようだ。バスに揺られること20分。村に入ると… 飛島公共交通バスに揺られること約20分。しばらくは蟹江町や弥富市の田園地帯の中を走って飛島村に入る。入ったからといって何かが変わるわけでもなく、車窓は田園地帯が延々と続く。 飛島村の中では、主に愛知県道103号線という道を走る。道沿いには商店も建ち並んでいて、ごくごく小さな市街地が形成されているようだ。いわば、飛島村を南北に貫くメインストリート。「飛島」という村名そのままのバス停もこの道沿いにある。 飛島バス停で降りて、村の中を歩く。メインストリート(といっても2車線で歩道もない道路だが)沿いには郵便局やスーパーマーケットなどもあり、クルマで乗り付けて用事を済ます村の人たちの姿もちらほら。歩いているのは筆者だけで、つまり徹底的なクルマ社会というわけだ。 まあこのあたりは、村だからというより愛知だから、といったほうがいいかもしれない。名古屋の中心市街地でも、クルマばかりがたくさん走っていて歩道を歩く人はまばら、などという光景をよく見る。飛島村も、本質的にはそれと同じなのだろう。 メインストリートこそクルマ通りが多いが、その裏手はこの通り完全なる田園地帯である。ところどころには用水路とおぼしき小川が流れ、それを挟むように通りがあって家々が建ち並ぶ。都市部で見かけるようなマンション・アパートや戸建て住宅とはまったく違う種類の、立派な門扉を構える大きな邸宅ばかりだ。 そして、そうした住宅の裏側に田んぼや畑が広がっている。飛島村役場も、田畑の真ん中にぽつんと建つ。飛島村の本質は、まさにこうした田園地帯、という点にあるのだ。なぜ、この村が“日本一の金持ち村”なのか 飛島村の人口は約4600人。村としてはごく標準的だ。そして、約22平方キロメートルという村域の多くは田園地帯である。稲作のほか、麦や大豆、ほうれん草・ネギといった野菜も生産されている。また、金魚も特産のひとつだ。お隣の愛知県弥富市は、金魚の三大産地のひとつであり、それに隣接する飛島村もまた、金魚が特産なのだ。 このように特産品こそあるものの、飛島村は典型的な“村”そのものといっていい。名古屋のすぐ近くにこうした村があることが驚きだが、それにしてもなぜ、この村が“日本一の金持ち村”なのか。 答えはシンプルで、飛島村はもうひとつの顔を持っているからだ。その顔とは、名古屋港に接することからわかるとおり、工業地帯としてのそれである。 飛島村のメインストリートを南に下ってゆくと、国道23号(名四国道)に出る。村内を南北に走る県道と、東西に貫く名四国道。たくさんのトラックがひっきりなしに走る国道は、名古屋市港区、港湾部から木曽川と揖斐川を渡って三重県海沿いの工業地帯へと続いている。 そして、飛島村においては国道を東に歩いてゆくと、名古屋第二環状自動車道にぶつかる。村内にもインターチェンジがあって、続く先は埋立地の工業地帯だ。 飛島村に入った飛島公共交通バスは、近鉄蟹江駅から村内の中心地を抜け、村役場を経てさらに村の南東にある「公民館分館」というバス停を終点としている。まさにこの場所は、工業地帯としての飛島村の入り口にあたる。 工業地帯には貯木場が置かれているほか、トヨタ自動車や川崎重工などのなみいる大企業の工場が林立。いちばん海に近い南端には火力発電所まで建っている。この海沿いの工業地帯が、飛島村を“日本一の金持ち村”たらしめているのだ。全域が埋立地で構成されている「飛島村」 もともと、飛島村は工業地帯だけでなく農村地帯を含めて全域が埋立地から構成されている。ただ、農村地帯と工業地帯では、埋立された時期が大きく違っている。農村地帯の埋立は、さかのぼること約300年。17世紀末、江戸時代は元禄年間にはじまった。 江戸時代は、日本の農業生産高が飛躍的に伸びた時代として知られている。江戸時代初期の全国の石高は1800万石程度だったが、終わり頃には3000万石にまで増えていた。生産技術が向上して安定した収穫量が確保できるようになったのも理由のひとつだが、もうひとつ大きい理由は「新田開発」だ。 新田開発に成功すれば、耕す農民たちも潤うしお殿様も潤う。だから幕府から諸藩まで、こぞって新田開発にいそしんだ。新田開発は荒れ地を耕して切り開いたり、湖や潟、遠浅の海を埋め立てて行われた。そのひとつが、いまの飛島村、というわけだ。 最初に開拓されたのは大宝新田と呼ばれる現在の村域ではいちばん西端の一角だった。その後、1726年には八島新田、1801年には飛島新田・服岡新田、1802年に重宝新田、1826年に政成新田と、次々に開拓が進む。明治に入り、1889年に飛島・政成・服岡が合併して飛島村が成立し、1906年には大宝・八島・重宝が加わって現在の飛島村に続いてきた。町を歩くとなぜかやたらと寺社が… 飛島村の田園地帯を歩くと、住宅の合間合間にやたらとお寺や神社があるのが目に留まる。日本にはどの町にも寺社があるものだが、それにしても多い。 立派な神社だと思っても、5分と歩けばまた神社。その間には立派なお寺も鎮座する。メインストリートに近い神明社には、飛島新田の開拓に功を成した津金文左衛門の像が建つ。 文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。 いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。厳しい財政の村が「日本一の金持ち村」になるまで もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。 ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。 臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。 とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。 近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。 このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。(鼠入 昌史)
飛島村は、そんなエリアに隣接する村だ。だから、この村も村と名乗りながらも工業都市、もとい工業村なのだろうか。
飛島村には、もちろん鉄道は通っていない。別に鉄道の有無は村かそうでないかの境目でもなんでもなく、実際に鉄道が通っている村はたくさんある。が、少なくとも飛島村には鉄道がない。村に通じる公共交通は、バスだけということになる。
飛島村に通じるバスは、飛島公共交通バスという。いわばコミュニティバスのようなもので、鉄道とこのバスを乗り継いで飛島村の中心地に行くことができる。鉄道側の玄関口は、近鉄蟹江駅。名古屋駅から近鉄電車に乗って約10分ほどののどかな町の駅だ。
村を走るバスは、本数がめちゃくちゃ少ないイメージがある。往々にして住んでいる人が少なく、ひとり一台のクルマを持つ世界。なので、都市部のようにバスをバンバン走らせても乗る人がいない。
だから飛島村へのバスも少ないんじゃなかろうか。そう不安に思いながら近鉄蟹江駅にやってきた。おそるおそる時刻表を見ると……ありがたい、40分に1本ペースで走っているようだ。
バスに揺られること20分。村に入ると… 飛島公共交通バスに揺られること約20分。しばらくは蟹江町や弥富市の田園地帯の中を走って飛島村に入る。入ったからといって何かが変わるわけでもなく、車窓は田園地帯が延々と続く。 飛島村の中では、主に愛知県道103号線という道を走る。道沿いには商店も建ち並んでいて、ごくごく小さな市街地が形成されているようだ。いわば、飛島村を南北に貫くメインストリート。「飛島」という村名そのままのバス停もこの道沿いにある。 飛島バス停で降りて、村の中を歩く。メインストリート(といっても2車線で歩道もない道路だが)沿いには郵便局やスーパーマーケットなどもあり、クルマで乗り付けて用事を済ます村の人たちの姿もちらほら。歩いているのは筆者だけで、つまり徹底的なクルマ社会というわけだ。 まあこのあたりは、村だからというより愛知だから、といったほうがいいかもしれない。名古屋の中心市街地でも、クルマばかりがたくさん走っていて歩道を歩く人はまばら、などという光景をよく見る。飛島村も、本質的にはそれと同じなのだろう。 メインストリートこそクルマ通りが多いが、その裏手はこの通り完全なる田園地帯である。ところどころには用水路とおぼしき小川が流れ、それを挟むように通りがあって家々が建ち並ぶ。都市部で見かけるようなマンション・アパートや戸建て住宅とはまったく違う種類の、立派な門扉を構える大きな邸宅ばかりだ。 そして、そうした住宅の裏側に田んぼや畑が広がっている。飛島村役場も、田畑の真ん中にぽつんと建つ。飛島村の本質は、まさにこうした田園地帯、という点にあるのだ。なぜ、この村が“日本一の金持ち村”なのか 飛島村の人口は約4600人。村としてはごく標準的だ。そして、約22平方キロメートルという村域の多くは田園地帯である。稲作のほか、麦や大豆、ほうれん草・ネギといった野菜も生産されている。また、金魚も特産のひとつだ。お隣の愛知県弥富市は、金魚の三大産地のひとつであり、それに隣接する飛島村もまた、金魚が特産なのだ。 このように特産品こそあるものの、飛島村は典型的な“村”そのものといっていい。名古屋のすぐ近くにこうした村があることが驚きだが、それにしてもなぜ、この村が“日本一の金持ち村”なのか。 答えはシンプルで、飛島村はもうひとつの顔を持っているからだ。その顔とは、名古屋港に接することからわかるとおり、工業地帯としてのそれである。 飛島村のメインストリートを南に下ってゆくと、国道23号(名四国道)に出る。村内を南北に走る県道と、東西に貫く名四国道。たくさんのトラックがひっきりなしに走る国道は、名古屋市港区、港湾部から木曽川と揖斐川を渡って三重県海沿いの工業地帯へと続いている。 そして、飛島村においては国道を東に歩いてゆくと、名古屋第二環状自動車道にぶつかる。村内にもインターチェンジがあって、続く先は埋立地の工業地帯だ。 飛島村に入った飛島公共交通バスは、近鉄蟹江駅から村内の中心地を抜け、村役場を経てさらに村の南東にある「公民館分館」というバス停を終点としている。まさにこの場所は、工業地帯としての飛島村の入り口にあたる。 工業地帯には貯木場が置かれているほか、トヨタ自動車や川崎重工などのなみいる大企業の工場が林立。いちばん海に近い南端には火力発電所まで建っている。この海沿いの工業地帯が、飛島村を“日本一の金持ち村”たらしめているのだ。全域が埋立地で構成されている「飛島村」 もともと、飛島村は工業地帯だけでなく農村地帯を含めて全域が埋立地から構成されている。ただ、農村地帯と工業地帯では、埋立された時期が大きく違っている。農村地帯の埋立は、さかのぼること約300年。17世紀末、江戸時代は元禄年間にはじまった。 江戸時代は、日本の農業生産高が飛躍的に伸びた時代として知られている。江戸時代初期の全国の石高は1800万石程度だったが、終わり頃には3000万石にまで増えていた。生産技術が向上して安定した収穫量が確保できるようになったのも理由のひとつだが、もうひとつ大きい理由は「新田開発」だ。 新田開発に成功すれば、耕す農民たちも潤うしお殿様も潤う。だから幕府から諸藩まで、こぞって新田開発にいそしんだ。新田開発は荒れ地を耕して切り開いたり、湖や潟、遠浅の海を埋め立てて行われた。そのひとつが、いまの飛島村、というわけだ。 最初に開拓されたのは大宝新田と呼ばれる現在の村域ではいちばん西端の一角だった。その後、1726年には八島新田、1801年には飛島新田・服岡新田、1802年に重宝新田、1826年に政成新田と、次々に開拓が進む。明治に入り、1889年に飛島・政成・服岡が合併して飛島村が成立し、1906年には大宝・八島・重宝が加わって現在の飛島村に続いてきた。町を歩くとなぜかやたらと寺社が… 飛島村の田園地帯を歩くと、住宅の合間合間にやたらとお寺や神社があるのが目に留まる。日本にはどの町にも寺社があるものだが、それにしても多い。 立派な神社だと思っても、5分と歩けばまた神社。その間には立派なお寺も鎮座する。メインストリートに近い神明社には、飛島新田の開拓に功を成した津金文左衛門の像が建つ。 文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。 いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。厳しい財政の村が「日本一の金持ち村」になるまで もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。 ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。 臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。 とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。 近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。 このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。(鼠入 昌史)
飛島公共交通バスに揺られること約20分。しばらくは蟹江町や弥富市の田園地帯の中を走って飛島村に入る。入ったからといって何かが変わるわけでもなく、車窓は田園地帯が延々と続く。
飛島村の中では、主に愛知県道103号線という道を走る。道沿いには商店も建ち並んでいて、ごくごく小さな市街地が形成されているようだ。いわば、飛島村を南北に貫くメインストリート。「飛島」という村名そのままのバス停もこの道沿いにある。
飛島バス停で降りて、村の中を歩く。メインストリート(といっても2車線で歩道もない道路だが)沿いには郵便局やスーパーマーケットなどもあり、クルマで乗り付けて用事を済ます村の人たちの姿もちらほら。歩いているのは筆者だけで、つまり徹底的なクルマ社会というわけだ。
まあこのあたりは、村だからというより愛知だから、といったほうがいいかもしれない。名古屋の中心市街地でも、クルマばかりがたくさん走っていて歩道を歩く人はまばら、などという光景をよく見る。飛島村も、本質的にはそれと同じなのだろう。
メインストリートこそクルマ通りが多いが、その裏手はこの通り完全なる田園地帯である。ところどころには用水路とおぼしき小川が流れ、それを挟むように通りがあって家々が建ち並ぶ。都市部で見かけるようなマンション・アパートや戸建て住宅とはまったく違う種類の、立派な門扉を構える大きな邸宅ばかりだ。
そして、そうした住宅の裏側に田んぼや畑が広がっている。飛島村役場も、田畑の真ん中にぽつんと建つ。飛島村の本質は、まさにこうした田園地帯、という点にあるのだ。なぜ、この村が“日本一の金持ち村”なのか 飛島村の人口は約4600人。村としてはごく標準的だ。そして、約22平方キロメートルという村域の多くは田園地帯である。稲作のほか、麦や大豆、ほうれん草・ネギといった野菜も生産されている。また、金魚も特産のひとつだ。お隣の愛知県弥富市は、金魚の三大産地のひとつであり、それに隣接する飛島村もまた、金魚が特産なのだ。 このように特産品こそあるものの、飛島村は典型的な“村”そのものといっていい。名古屋のすぐ近くにこうした村があることが驚きだが、それにしてもなぜ、この村が“日本一の金持ち村”なのか。 答えはシンプルで、飛島村はもうひとつの顔を持っているからだ。その顔とは、名古屋港に接することからわかるとおり、工業地帯としてのそれである。 飛島村のメインストリートを南に下ってゆくと、国道23号(名四国道)に出る。村内を南北に走る県道と、東西に貫く名四国道。たくさんのトラックがひっきりなしに走る国道は、名古屋市港区、港湾部から木曽川と揖斐川を渡って三重県海沿いの工業地帯へと続いている。 そして、飛島村においては国道を東に歩いてゆくと、名古屋第二環状自動車道にぶつかる。村内にもインターチェンジがあって、続く先は埋立地の工業地帯だ。 飛島村に入った飛島公共交通バスは、近鉄蟹江駅から村内の中心地を抜け、村役場を経てさらに村の南東にある「公民館分館」というバス停を終点としている。まさにこの場所は、工業地帯としての飛島村の入り口にあたる。 工業地帯には貯木場が置かれているほか、トヨタ自動車や川崎重工などのなみいる大企業の工場が林立。いちばん海に近い南端には火力発電所まで建っている。この海沿いの工業地帯が、飛島村を“日本一の金持ち村”たらしめているのだ。全域が埋立地で構成されている「飛島村」 もともと、飛島村は工業地帯だけでなく農村地帯を含めて全域が埋立地から構成されている。ただ、農村地帯と工業地帯では、埋立された時期が大きく違っている。農村地帯の埋立は、さかのぼること約300年。17世紀末、江戸時代は元禄年間にはじまった。 江戸時代は、日本の農業生産高が飛躍的に伸びた時代として知られている。江戸時代初期の全国の石高は1800万石程度だったが、終わり頃には3000万石にまで増えていた。生産技術が向上して安定した収穫量が確保できるようになったのも理由のひとつだが、もうひとつ大きい理由は「新田開発」だ。 新田開発に成功すれば、耕す農民たちも潤うしお殿様も潤う。だから幕府から諸藩まで、こぞって新田開発にいそしんだ。新田開発は荒れ地を耕して切り開いたり、湖や潟、遠浅の海を埋め立てて行われた。そのひとつが、いまの飛島村、というわけだ。 最初に開拓されたのは大宝新田と呼ばれる現在の村域ではいちばん西端の一角だった。その後、1726年には八島新田、1801年には飛島新田・服岡新田、1802年に重宝新田、1826年に政成新田と、次々に開拓が進む。明治に入り、1889年に飛島・政成・服岡が合併して飛島村が成立し、1906年には大宝・八島・重宝が加わって現在の飛島村に続いてきた。町を歩くとなぜかやたらと寺社が… 飛島村の田園地帯を歩くと、住宅の合間合間にやたらとお寺や神社があるのが目に留まる。日本にはどの町にも寺社があるものだが、それにしても多い。 立派な神社だと思っても、5分と歩けばまた神社。その間には立派なお寺も鎮座する。メインストリートに近い神明社には、飛島新田の開拓に功を成した津金文左衛門の像が建つ。 文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。 いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。厳しい財政の村が「日本一の金持ち村」になるまで もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。 ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。 臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。 とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。 近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。 このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。(鼠入 昌史)
そして、そうした住宅の裏側に田んぼや畑が広がっている。飛島村役場も、田畑の真ん中にぽつんと建つ。飛島村の本質は、まさにこうした田園地帯、という点にあるのだ。
飛島村の人口は約4600人。村としてはごく標準的だ。そして、約22平方キロメートルという村域の多くは田園地帯である。稲作のほか、麦や大豆、ほうれん草・ネギといった野菜も生産されている。また、金魚も特産のひとつだ。お隣の愛知県弥富市は、金魚の三大産地のひとつであり、それに隣接する飛島村もまた、金魚が特産なのだ。
このように特産品こそあるものの、飛島村は典型的な“村”そのものといっていい。名古屋のすぐ近くにこうした村があることが驚きだが、それにしてもなぜ、この村が“日本一の金持ち村”なのか。
答えはシンプルで、飛島村はもうひとつの顔を持っているからだ。その顔とは、名古屋港に接することからわかるとおり、工業地帯としてのそれである。
飛島村のメインストリートを南に下ってゆくと、国道23号(名四国道)に出る。村内を南北に走る県道と、東西に貫く名四国道。たくさんのトラックがひっきりなしに走る国道は、名古屋市港区、港湾部から木曽川と揖斐川を渡って三重県海沿いの工業地帯へと続いている。
そして、飛島村においては国道を東に歩いてゆくと、名古屋第二環状自動車道にぶつかる。村内にもインターチェンジがあって、続く先は埋立地の工業地帯だ。 飛島村に入った飛島公共交通バスは、近鉄蟹江駅から村内の中心地を抜け、村役場を経てさらに村の南東にある「公民館分館」というバス停を終点としている。まさにこの場所は、工業地帯としての飛島村の入り口にあたる。 工業地帯には貯木場が置かれているほか、トヨタ自動車や川崎重工などのなみいる大企業の工場が林立。いちばん海に近い南端には火力発電所まで建っている。この海沿いの工業地帯が、飛島村を“日本一の金持ち村”たらしめているのだ。全域が埋立地で構成されている「飛島村」 もともと、飛島村は工業地帯だけでなく農村地帯を含めて全域が埋立地から構成されている。ただ、農村地帯と工業地帯では、埋立された時期が大きく違っている。農村地帯の埋立は、さかのぼること約300年。17世紀末、江戸時代は元禄年間にはじまった。 江戸時代は、日本の農業生産高が飛躍的に伸びた時代として知られている。江戸時代初期の全国の石高は1800万石程度だったが、終わり頃には3000万石にまで増えていた。生産技術が向上して安定した収穫量が確保できるようになったのも理由のひとつだが、もうひとつ大きい理由は「新田開発」だ。 新田開発に成功すれば、耕す農民たちも潤うしお殿様も潤う。だから幕府から諸藩まで、こぞって新田開発にいそしんだ。新田開発は荒れ地を耕して切り開いたり、湖や潟、遠浅の海を埋め立てて行われた。そのひとつが、いまの飛島村、というわけだ。 最初に開拓されたのは大宝新田と呼ばれる現在の村域ではいちばん西端の一角だった。その後、1726年には八島新田、1801年には飛島新田・服岡新田、1802年に重宝新田、1826年に政成新田と、次々に開拓が進む。明治に入り、1889年に飛島・政成・服岡が合併して飛島村が成立し、1906年には大宝・八島・重宝が加わって現在の飛島村に続いてきた。町を歩くとなぜかやたらと寺社が… 飛島村の田園地帯を歩くと、住宅の合間合間にやたらとお寺や神社があるのが目に留まる。日本にはどの町にも寺社があるものだが、それにしても多い。 立派な神社だと思っても、5分と歩けばまた神社。その間には立派なお寺も鎮座する。メインストリートに近い神明社には、飛島新田の開拓に功を成した津金文左衛門の像が建つ。 文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。 いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。厳しい財政の村が「日本一の金持ち村」になるまで もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。 ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。 臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。 とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。 近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。 このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。(鼠入 昌史)
そして、飛島村においては国道を東に歩いてゆくと、名古屋第二環状自動車道にぶつかる。村内にもインターチェンジがあって、続く先は埋立地の工業地帯だ。
飛島村に入った飛島公共交通バスは、近鉄蟹江駅から村内の中心地を抜け、村役場を経てさらに村の南東にある「公民館分館」というバス停を終点としている。まさにこの場所は、工業地帯としての飛島村の入り口にあたる。
工業地帯には貯木場が置かれているほか、トヨタ自動車や川崎重工などのなみいる大企業の工場が林立。いちばん海に近い南端には火力発電所まで建っている。この海沿いの工業地帯が、飛島村を“日本一の金持ち村”たらしめているのだ。全域が埋立地で構成されている「飛島村」 もともと、飛島村は工業地帯だけでなく農村地帯を含めて全域が埋立地から構成されている。ただ、農村地帯と工業地帯では、埋立された時期が大きく違っている。農村地帯の埋立は、さかのぼること約300年。17世紀末、江戸時代は元禄年間にはじまった。 江戸時代は、日本の農業生産高が飛躍的に伸びた時代として知られている。江戸時代初期の全国の石高は1800万石程度だったが、終わり頃には3000万石にまで増えていた。生産技術が向上して安定した収穫量が確保できるようになったのも理由のひとつだが、もうひとつ大きい理由は「新田開発」だ。 新田開発に成功すれば、耕す農民たちも潤うしお殿様も潤う。だから幕府から諸藩まで、こぞって新田開発にいそしんだ。新田開発は荒れ地を耕して切り開いたり、湖や潟、遠浅の海を埋め立てて行われた。そのひとつが、いまの飛島村、というわけだ。 最初に開拓されたのは大宝新田と呼ばれる現在の村域ではいちばん西端の一角だった。その後、1726年には八島新田、1801年には飛島新田・服岡新田、1802年に重宝新田、1826年に政成新田と、次々に開拓が進む。明治に入り、1889年に飛島・政成・服岡が合併して飛島村が成立し、1906年には大宝・八島・重宝が加わって現在の飛島村に続いてきた。町を歩くとなぜかやたらと寺社が… 飛島村の田園地帯を歩くと、住宅の合間合間にやたらとお寺や神社があるのが目に留まる。日本にはどの町にも寺社があるものだが、それにしても多い。 立派な神社だと思っても、5分と歩けばまた神社。その間には立派なお寺も鎮座する。メインストリートに近い神明社には、飛島新田の開拓に功を成した津金文左衛門の像が建つ。 文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。 いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。厳しい財政の村が「日本一の金持ち村」になるまで もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。 ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。 臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。 とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。 近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。 このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。(鼠入 昌史)
工業地帯には貯木場が置かれているほか、トヨタ自動車や川崎重工などのなみいる大企業の工場が林立。いちばん海に近い南端には火力発電所まで建っている。この海沿いの工業地帯が、飛島村を“日本一の金持ち村”たらしめているのだ。
もともと、飛島村は工業地帯だけでなく農村地帯を含めて全域が埋立地から構成されている。ただ、農村地帯と工業地帯では、埋立された時期が大きく違っている。農村地帯の埋立は、さかのぼること約300年。17世紀末、江戸時代は元禄年間にはじまった。
江戸時代は、日本の農業生産高が飛躍的に伸びた時代として知られている。江戸時代初期の全国の石高は1800万石程度だったが、終わり頃には3000万石にまで増えていた。生産技術が向上して安定した収穫量が確保できるようになったのも理由のひとつだが、もうひとつ大きい理由は「新田開発」だ。
新田開発に成功すれば、耕す農民たちも潤うしお殿様も潤う。だから幕府から諸藩まで、こぞって新田開発にいそしんだ。新田開発は荒れ地を耕して切り開いたり、湖や潟、遠浅の海を埋め立てて行われた。そのひとつが、いまの飛島村、というわけだ。
最初に開拓されたのは大宝新田と呼ばれる現在の村域ではいちばん西端の一角だった。その後、1726年には八島新田、1801年には飛島新田・服岡新田、1802年に重宝新田、1826年に政成新田と、次々に開拓が進む。明治に入り、1889年に飛島・政成・服岡が合併して飛島村が成立し、1906年には大宝・八島・重宝が加わって現在の飛島村に続いてきた。
飛島村の田園地帯を歩くと、住宅の合間合間にやたらとお寺や神社があるのが目に留まる。日本にはどの町にも寺社があるものだが、それにしても多い。
立派な神社だと思っても、5分と歩けばまた神社。その間には立派なお寺も鎮座する。メインストリートに近い神明社には、飛島新田の開拓に功を成した津金文左衛門の像が建つ。
文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。 いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。厳しい財政の村が「日本一の金持ち村」になるまで もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。 ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。 臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。 とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。 近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。 このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。(鼠入 昌史)
文左衛門さんは尾張藩の奉行として熱田などでも新田開発に従事している。このときには瀬戸から赴いていた陶工を重用して中国南京焼の技法を研究させた。愛知県は窯業が盛んだが、その礎を築いたのも文左衛門さん、というわけだ。
いずれにしても、すでに江戸時代にはいまの飛島村の農村地帯としての形は完成していた。明治、大正、そして昭和と、名古屋港周辺が工業地帯へと変貌してゆくなかでも、変わらずに農村地帯であり続けていた。
もとより木曽三川の河口付近に広がるゼロメートル地帯の村。1959年の伊勢湾台風では極めて甚大な被害を受けている。このときには、2か月間も村内から水が引かなかったという。純粋な農村地帯の飛島村は、その頃まで財政的にも極めて厳しい状況にあったようだ。
ところが、状況が変わったのは伊勢湾台風以後。1963年に名四国道が開通し、沖合には貯木場を備えた木材港が誕生。次いでさまざまな工場が新たな埋立地にできて、急速に工業都市としての一面を強めていったのだ。
臨海部の工業地帯が正式に飛島村に含まれたのは1972年のこと。これによって現在の飛島村が完成。臨海部の工場から莫大な固定資産税をはじめとする税収入が得られるようになり、“金持ち村”になったのである。
とはいえ、本質的には農村であるということは昔から変わっていない。農村地帯が工業地帯に変貌して潤ったのではなく、新しく埋め立てられた沖合に工業地帯が生まれただけのことだ。だから、江戸時代以来の開拓地という面影はいまもしっかりと残り、農村と工業地帯の両立という、実に不思議な村になっている。これが実現したのも、名古屋という大都市のすぐ近くだから、なのだろう。
近鉄蟹江駅から農村地帯を抜けて走る飛島公共交通バスの終点、公民館分館バス停。そこは工業地帯の入り口である。そして、工業地帯の中をぐるりと走り、伊勢湾岸自動車道の名港西大橋を通るもうひとつのアクセスバス路線との結節点になっている。
このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。 近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。(鼠入 昌史)
このバスは、橋を渡って名古屋市内に入ると、レゴランドの脇を抜けてあおなみ線の稲永駅、そして名古屋市営地下鉄名港線の名古屋港駅までを結ぶ。工業地帯で働く人たちの通勤の足、というわけだ。
近鉄蟹江から農村地帯を走るルートと、名古屋港から工業地帯に向かうルート。飛島村は、ふたつの充実した路線バスによって、村外と結ばれている。それを乗り継いで、ふたつの性質を持つ大都市近郊の村を旅する。最初は村歩きなど過酷だと思っていたが、あんがい悪くないものである。
(鼠入 昌史)